6 私は聖女じゃありません!
部屋を出ると、長い廊下がどこまでも続いていた。
エマさんに言われた通りに、目の前を浮遊する毛玉の後をついて歩く。
この白くてフワフワしてるのって生き物よね?
空気中を漂うみたいに移動しているが、こちらの様子を把握しているらしく、歩くペースに合わせて進んでくれている。
も、も、もしかしてこれって、絵本や伝承に登場するケサランパサランではないかしら?
見つけると幸せになれると言われている謎の生物。
空想上の存在だと思っていたけれど、実在したのね!
ケサランパサラン?は、大きな扉の前で止まると、頭の上で数回飛び跳ねてから肩の上に乗った。
すると大きな扉は、まるで客が来るのを分かっていたかのように、ギギギギっと音を立ててひとりでに開く。
「お待ちしておりました、聖女様。こちらへどうぞ」
部屋の中から、深緑色の髪の男性が顔を出す。
穏やかに微笑んでいるが、感情の読めない目が怖い。
彼は確か、魔王様と一緒に教会に来た魔族だ。
恐る恐る部屋に入ると、男性は「それでは、ごゆっくりお楽しみ下さいませ」と言って頭を下げて煙のように消えてしまった。
ギギギギと音を立てて扉が閉まる。
肩に乗ってモゾモゾ動いていたケサランパサラン?もいつの間にか消えてしまった。
通された部屋は、穏やかな灯りに満ちていて、心地の良い音楽が流れている。
壁一面に咲き乱れる水色の薔薇と光り輝く美しい床。
そこはまるで、お伽話の世界に入り込んでしまったと錯覚してしまうほど美しくて幻想的な空間だった。
「聖女よ、こちらへ」
魔王様の発した甘く優しい声に、ハッと我に返る。
「あ、ありがとう……ございます」
促されるまま引いてもらった椅子に腰を掛ける。
「体調は大丈夫だろうか?」
月の輝きのような、美しい黄金の瞳が私を捉えた。
「は、はい……大丈夫です」
緊張と憧憬が入り混じり、心臓がドクドクと脈打つ。
まるで絵画から抜け出たような美しい魔王様。
長い手足と白く滑らかな肌、怖いくらい完璧に整った中性的な顔、黒曜石のような艶やかな黒髪、そして甘く優しく響く魅惑的な声。
この方がほしいと私の中の本能がささやく。
今まで感じた事のない甘美な渇望。
はしたないと罵られても抑える事なんて出来ない。
もし生け贄になるのなら、この方の手で逝きたい。
最後に目に映るのが、この美しい魔王様だったなら、それはどんなに幸せな終焉だろうか?
私を聖女と呼ぶあの優しい声に、甘い熱を含んだその美しい瞳に、返事をしてみたかった。
ごめんなさい魔王様。
私は聖女じゃないんです。
「あ、あの………ま、魔王様に、お伝えしなければいけない事があるのです」
「…………ん?」
「あ、あの………わ、私は聖女じゃありません!」
「……………?」
「あの、だから、私は聖女じゃないんです」
「………………聖女じゃない?」
「は、はい。私は聖女じゃありません」
「え、いや、でも、匂いが………」
「…………匂い?」
「ち、違う! ま、魔力が、その、貴女からは強大な魔力を感じるのだ!」
「魔力?………ですか?」
「そう、だから俺はその魔力が……いや、違うな。魔力がほしい訳ではない。俺は、貴女がほしいのだ」
「わ、私が………ほしい?」
「あ……ちが……くはない……が、その……」
「ま、魔王様! 差し上げます!」
「……………え?」
「もらっていただけるのでしたら、私を捧げます!」
「……………そ、それは、その、俺の………妻になるという意味だが…………わ、分かっているのか?」
「…………えっ! つ、妻にしていただけるのですか?」
「…………あ、あぁ、つ、妻に……なってほしい」
「は、はい! わ、私、妻になります!」
え? ほ、本当に?
私、魔王様の妻になれるの?
生け贄ではなくて?
この美しい方の、つ、つ、妻に?
ど、ど、ど、どうしよう!
口から心臓が飛び出そうだわ。
「…………き、君の名前を教えてほしい」
「あ、わ、私の名前は、アリスです」
「アリス……可愛い名だ。その、出来れば俺の事も名前で、タナトスと呼んでほしい」
「タ、タナトス様……」
「………………ア、アリス……そ、そうだ! しょ、食事をしよう! 料理長が君のためにと張り切って用意したんだ。食べやすくて美味しい物を作るのだと、それはもう張り切っていた」
タナトス様がパチンと指を鳴らすと、まるで手品のようにテーブルの上に料理が並んだ。
パン、スープ、リゾット、サラダ、フルーツ。
良かった。これなら難しいテーブルマナーを知らない私でも食べる事が出来そうだわ。
まるで二人を祝福するように、シャンデリアの灯りは輝きを増し、部屋に流れる音楽は明るくて軽やかな曲調に変わった。
「もう、いいのか?」
「は、はい。たくさん残してしまってごめんなさい」
「いや、無理して食べる必要はない」
せっかく用意してもらったお料理なのに、半分以上も残してしまったわ。
あまりの申し訳なさに下を向いていると、タナトス様は私の手を取って立ち上がった。
そして、フワフワの毛皮が敷いてある大きなソファーに座るようにと促された。
信じられないくらい肌触りの良いフワフワの毛皮は、惜しげもなく床にも敷いてある。
きっと目を閉じて寝転がったら、雲の上にいるのかと勘違いしてしまうだろう。
「アリス、その、足の傷を………見せてくれないか?」
タナトス様が、言いにくそうに発した言葉に、私の体は硬直した。
足の傷を見せてほしい?
そう言ったの?
こんな汚い足を貴方に見せるの?
アザだらけで歪に腫れ上がった足を?
薄気味悪い枷のついた、カビの生えた腐ったパンみたいな足を?
もし不快にさせてしまったら、汚くて嫌だと思われてしまったら、私はまともでいられるだろうか?
でも私には嫌だと言う資格はない。
汚いものを全部隠して、貴方の妻になるなんて許されない事だもの。
俯いて頷くと、タナトス様は私の前に跪いて静かに靴を脱がせた。
美しい指先が私の足に触れる。
そして、エマさんが着せてくれた煌びやかなドレスをゆっくりとたくし上げた。
次回は、魔王タナトス視点です。