3 聖女?
真っ白でフワフワした大きなベッド。
ふと視線を上げると、幾重にも織り重なる美しい天蓋が目に入った。透けるほど淡いペールピンクの生地には小さな宝石がたくさん散りばめられている。
素敵ね。絵本に出てくるお姫様の部屋みたい。
肌に触れるシーツも滑らかで気持ちがいい。
色とりどりの可愛い花が飾られた出窓から、雲ひとつない澄み切った空が見えた。
えーと、ここは何処かしら……?
そうだわ! 結婚式!
私は、ロイド様と教会で結婚式を挙げていた。
呪いのような誓いの言葉を思い出して鳥肌が立つ。
確かあの時、ロイド様がベールに手を伸ばした瞬間、急に教会の空間が歪んで魔王様が現れたのだ。
一瞬、神様が助けに来てくれたのかと思った。
まるで大切な宝物を見つけたみたいに、魔王様は私を見つめて嬉しそうに微笑んでくれた。
まだ耳に残る低音の甘い声。
「聖女よ、残念だったな。結婚式は中止だ」
ん? あれ? ……ちょっと待って? 聖女って言った?
聖女? 聖女って何?
聖女様と言ったら世界に一人しか存在しない。
神殿で平和を祈り続けて下さっている尊き女性。
確か今年で90歳になったと聞いた。
5ヶ月ほど前だろうか、王都で開催された『聖女様誕生祭』に参列したとロイド様が言っていたのだ。
もしかして私、聖女様と間違えられたの………?
お会いした事がないからよく分からないけど、背格好が似てるのかしら?
聖女様は背中もピンと伸びていて、とても90歳とは思えないほど若々しいお姿だそうだし、私の銀髪は光の加減によっては白髪にも見える。
お義母様もよく「貴女の髪の色って老婆みたいね」と言って笑っていたもの。
きっと何か手違いがあって、私を聖女だと勘違いしてしまったんだわ!
でも、私は聖女じゃない。
どうしよう………どうしたらいいの?
聖女じゃないって知られたら、放り出される?
それとも、元の場所に帰されてしまう?
それは嫌! それだけは絶対に嫌っ!
ロイド様の顔を思い浮かべて背筋がゾッとした。
あんな場所に戻るくらいなら、いっそのこと獣の餌にでもなった方がマシだ。
トン トン トン
ドアをノックする音にビクリと肩が跳ね上がる。
「は、はい!」
「入ってもよろしいですか?」
「ど、ど、どうぞ」
ゆっくりとドアが開き、ガラガラとワゴンを押す音が部屋の中に響く。
「お目覚めになった気配を感じましたので、お飲み物をお持ちしました」
「あ、ありがとうございます」
心臓がバクバクと早鐘を打つ。言わなくては。本当の事を言わなくては……!
顔を上げた私は、思わず悲鳴を上げそうになった。
て、て、て、手首っ!?
「聖女様、体調はどうですか? 少しの間、気を失っておられましたけど、ご気分は悪くないですか? 急な空間移動でしたものね、お体が驚いたのかもしれませんわ」
手首はワゴンに飛び乗ると器用に紅茶を入れ始めた。
白くて滑らかな細い指と艶やかで形の良い爪。
これはたぶん、女性の手首だろう。
手首から上は黒いモヤがかかっていて、腕どころか体も顔も足もない。
どこからどう見ても右手と左手の手首だけだ。
私の視線に気付いた手首は、動きを止めて少し恥ずかしそうに言った。
「こんな姿で申し訳ございません。今、他の部位は別の仕事をしておりまして。……そう言えば、まだご挨拶をしておりませんでしたわね。私は、魔王軍諜報部隊長のエマと申します。近いうちに他の部位を呼び集めますので、改めてまたご挨拶させて下さいね」
「ほ、他の部位……」
「さぁ、紅茶をどうぞ。よろしければ、焼き菓子も召し上がって下さいね? フィナンシェをご用意しましたの。これ、とっても美味しいんですよ」
手首のエマさんはワゴンをベッドの近くまで運ぶと、カサカサと蜘蛛のような動きで「では、ちょっと失礼して、お風呂の準備をして参ります〜」と言って隣の部屋へ行ってしまった。
あ、あまりにも驚き過ぎて、聖女じゃないって事を言えなかったわ……。
ベッドの隣には、良い香りの紅茶がホワホワと湯気を立てている。
頂いてもいいのかしら?
喉はカラカラだし、お菓子なんて本当に久しぶり。
エルギン伯爵家では食事すらまともに出してもらえなかったもの。
カップに口を付けると、柑橘系の爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
温かくてとても美味しいわ。
なんだか……涙が出そう。
潤んだ瞳を慌てて手のひらで擦り、次はフィナンシェを一口かじってみる。
あぁ……なんて美味しいのかしら!
中はしっとりしているのに表面はサクサク!
焦がしバターとアーモンドの濃厚な香ばしさが口の中いっぱいに広がった。
「聖女様、お湯の準備が整いました。バラ風呂かミルク風呂でしたらすぐにご用意出来ますけど、どちらがよろしいですか?」
「お、お風呂……ですか?」
「えぇ、お疲れでしょうから、ゆっくりと湯に浸かりましょう? お手伝いさせていただきます」
「で、でも、私、足が…………その……」
「足がどうしたんですか?」
「き、汚いのです……お見せ出来ないくらいに……」
「汚ければ洗えばいいのでは? お手伝い致しますわ」
手首のエマさんは背後に回り、ギチギチに締め上げられたドレスの留め具を手早く外す。
「ま、待って! ダメ!」
開放感と共に、ドレスはするりと足元に滑り落ちた。
そして手首のエマさんは動きを止めた。
「ご、ごめんなさい! 汚いものを見せてしまって…」
私は慌てて両手で足を隠す。
カビの生えたパンのようだとロイド様は言っていた。
お義母様の躾は、結婚できる年齢になっても終わる事はなかったのだ。
私の足は、古いアザと新しいアザが変色してミミズ腫れになって、おまけに怪しい枷まで付いている。
ズゾゾゾゾゾゾ………
地響きのような音がした。
部屋の空気がビリビリ揺れて、エマさんの手首の上のモヤモヤが一段と黒く深い闇をまとった。
「汚くなんてありませんわ。でも、このまま湯に浸かるのは痛いでしょうから、保護魔法をかけますわね? 本当は治癒魔法をかけて差し上げたいのですけど、私は破壊の魔女ですから、治すのは苦手なのです」
エマさんは申し訳なさそうにそう言うと、紫色の霧を出して私の足を包んだ。
紫色の霧はほんのり温かくて、ミルクとバラのお風呂に浸かっても全然染みなかった。
次回は、ロイド視点です。