第42話 偽典②
『映画館ではお静かに。マナーですよ、ミスターロア』
そこには男が座っていた。純白のスーツに身を包んだ男が脚を組んで座っている。
天使の様な汚れなき白の翼を携えて、頭には歪な光を放つ光輪を頂いて。
そして、顔にはガウスがかけられたように霧が立ち込め、ぼやけている。顔だけが見えない。
ロアが目を見開いたのは、その異形の存在がが紛うことなきファントムだったからだった──。
その頃には、ロアはもう乖離等級を肌感である程度は測れるようになっていた。今なら灰塵ローレライがどれほど危険だったのかがわかる。
そして、隣に座る男が灰塵ローレライなど比にならないほど凶悪な何かを孕んでいるということも。
だがロアは冷静さを欠くことなく叫びはしなかった。万が一ここで戦闘が起きれば、市民が行き交うこの街が戦場になる。極地とは違う。危険なのは自分だけじゃない。
『その冷静さをとても高く評価しますよ。ここで動かないのは臆病ではなく正しさだ』
深く谷底から響くような声。形容しがたい、それは「遠い」としか言えない。
「誰なんだ」
『勘違いをしては危ない。問えば答が返ってくるのはいつも真ではありません』
そのファントムからは直接的敵意は見られない。それが余計にロアを慄かせた。男はロアを脅威には感じていない。男は心の底からリラックスしていた。
『ですが……、話が進まないのは問題ですね。答えましょう』
男は手に何かを持っていた。腕だ。それは、肩口から切り落とされた、誰かの左腕だった。生温い血液が滴る。
──ぽたっ、ぽたぽたっ。
かわいらしいうさぎのモチーフがついたブレスレットを巻いた、見覚えのある誰かの左腕だった。
『私はネグエル。またの名を《偽典》。──運命を司る天使です』
ゴトリと落ちた腕から跳ねた血液が偽典ネグエルの白いスーツをピシッと汚した。
男は気に留めはしなかった。ロアは感情が真っ白になり、それを理解するまでに少し時間を要した。
「あ、あ──」
『ご安心を。命を取ったわけではありません。あくまで対等ではなくこちらが、力においても情報においてもこちらが上の立場にあるということを示すために行ったことです。お土産ですよ』
「なんで……、お前たちは、命というものをそこまで、軽んじることができるんだ──」
ロアは力なく言った。
『あなたはローレライに銃口を向けたとき、あるいはサリンジャーという娘がローレライを殺した時、なにかひとつでも感じましたか? むしろ安堵すら覚えたはずです』
ロアはネグエルの言うことを無視して、今ここで《虚心》を全開放し、こいつを直ちに殺そうと思った。
だが、彼の理性はそれを許さなかった。ここは街中だ。ロアが旅団に来た初日のように暴れれば、たとえラウラが鎮圧したとて、それまでに何人が死ぬかわからな──。
だが、彼の破壊的で暴力的な激怒がそんな理性など喰らってしまった。
そしてロアの《虚心》を本来抑制するはずの理性機構は吹っ飛んだ。
《虚心》はノルニルを操作する。それは彼の内に微小量存在するノルニルを莫大な量に増加させることもできるのだ。だが、それには相当の感情が必要になる。
そして今の彼にはそれが在った。
「──Inflation」
ロアの内側からビキビキと高エネルギーの黒い液体が流れだす。それらは真っ直ぐ偽典ネグエルを狙いズタズタに引き裂こうと飛んでいく……。
──STUN。
しかしその高密度のエネルギー体は偽典ネグエルに触れることさえできなかった。
『闇は光には勝てない、そういうただ一つの事実です』
《虚心》はネグエルに触れる前に蒸発させられる。ロアは何が起きたかわからない。
偽典ネグエルはすっと手を伸ばす。映写機からスクリーンに向かって伸びる「光」を掴んで、手でなぞり槍に成形すると、それを思い切り、ロアの太ももに突き刺した。
「──がッ!」絶叫する。
ロアはソファに文字通り釘付けにされた。激痛で動けなくなる。
光がロアの傷口を絶え間なく滅茶苦茶にする。ネグエルは見えない口からふうと息を吐き、乱れたスーツを整える。
『残念ながら、実像は虚像を大切に思うことができない。同様に、影は実像を大切に思えないのです。わかっていただけましたか。それと、人の心配をしている場合ではないということも、ご理解いただけましたでしょうか』
「……──僕の大切な友人が今も生きていると、神に、誓え。誓えッ!!!」
ロアは自分の中に充満する痛みから目を覚まし、友人のことを思った。
『神などいません。ですがあなたには誓いましょう』
偽典ネグエルの丁寧な言葉は、ロアの持つ価値観とは相容れない。
「僕はいい、彼女は──」
『何か勘違いされているかもしれませんが、あなたが私を説得することは無理なことです。それはあなたの持つ正義という名前の心臓と、私のそれは違うものだからです。私はローレライが先走ってしまったことを謝罪こそすれ、あなたをもう一度勧誘しようなどとは思っていません』
偽典ネグエルの見えない目が冷たい。ロアはただ痛みに耐える事しかできなかった。
『はっきりさせましょう。私は人類の敵ですよ、ミスターロア。勘違いなさらぬよう』
それは明確なる宣戦布告だった。
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