第08話 敵意②
その唐突な鋭い声で一瞬にして空気が張り詰めたのをロアは感じた。
サリンジャーの目の色が変わる。
彼女から発せられる圧力は先ほどまでにはなかったものだ。人格が変わったように。
「えっ、でも」
「セナが来て油断しただろ、バケモノが」
セナはその急激な温度変化に戸惑った。そして、対応が後手に回った。
サリンジャーは既に定義を書き終えていた。
「──定義構築。空間支配94%」
サリンジャーがそう呟いた途端、辺りが暗闇につつまれる。ロアは見回す。
セナはその言葉の意味を知っていた。
サリンジャーのアーツ《定義》は身体にコードを書き、続く詠唱の言葉を具現化するもの。彼女が空間を94%支配すると言えば、それは実行される。
ここはセナが何度も訓練で閉じ込められた、サリンジャーの絶対支配空間だ。
「空から降ってきた男の子か。アタシ、アンタの師匠なのに、ちったぁ教えてくれてもいいじゃないか、いけずだなぁ」
楽し気な口調だが、目は全く笑っていない。
セナは反論できない。口が動かない。
できるのは自発呼吸だけだ。サリンジャーの《定義》は絶対。03等級と50等級オーバーじゃ比べ物にならない。
「お前は気付かなかったのか」サリンジャーがセナに言う。
ロアもやはり身体が動かない。意図的に動かせるのは目と呼吸器だけ。残りの6%だ。
「このバケモノはどこで拾ったんだ。なんだこれは」
バケモノ? いったい何の話かセナにはわからなかった。
サリンジャーは空から落ちてきたことを論題にしている様子ではなかった。問題はロアの性質にあった。サリンジャーだけが気付いていた。
「こいつの中にある莫大な──敵意。……まるで極地の深部にいるみたいだ」
ロアには何がなんなのかわからなかった。それはセナも同じで、彼と彼女はロアの中に在る「何か」について正しく認知できていなかった。だが、極地という悪夢を経験しているサリンジャーからすれば、ロアの中にある「何か」は、その悪夢そのものだ。
極地は単に踏破困難区域としての意味合いを持つ。屹立する山や深い渓谷、洞窟や海洋遺跡と様々だ。危険な極地生物もいる。
だがそれ以外に、極地には明確な敵意がある。極地を極地たらしめる莫大な害意やエネルギー。それをサリンジャーは悪夢と呼んでいる。
サリンジャーは思った。これはダメだ、人間じゃない、と。ロアの中には何かが居る。
支配空間はある一定まで広がると停止した。それでも、そのバケモノと正面から戦って殺すことができる広さはある。サリンジャーはセナを無事に返すことだけを考えた。
「──定義構築。発話許可」
サリンジャーが言うとロアは咳き込んだ。
「バケモノ。お前の強襲作戦は失敗だ。大人しくここで死ね」
「僕は、誰も、傷つけない」ロアは必要最低限言うべきことを言った。
しかしサリンジャーはロアの内にいる何かを見て続ける。
「口ではそう言うが、お前から莫大なエネルギーの集積を感じる。敵意以外の何物でもない」
サリンジャーは正しい。幾度も戦ってきた極地の怪物らを思い出す。
「定義構築。自己強化、大鎌使用」サリンジャーはそう言ってどこからか鎌を取り出す。
それを携え、一歩一歩慎重にロアへと近づく。セナは何も口に出来ない。もがいてもがくが、それでも定義されたものは絶対だ。
「僕は誰も──傷つけない」
「……セナの前でよくそんな面ができるな。もういい、黙れ」
くるくると自在に、体長ほどある大鎌を振り回したサリンジャーは、その勢いでロアの身体を切り裂こうと鎌を振った。セナはぎゅっと目をつむる。
ロアはそれが振り下ろされるとき、自分の中に何かが突沸したのを感じた。
──がんっ。
刃がとまり、大鎌が跳ね返る。セナは目を疑った。
その大鎌は極地で見つかった特殊な遺物《逆理遺物》だ。「絶対に壊れない」という性質から、斬れないものはないとされていた。だが、斬れなかった。サリンジャーも動揺した。いままでに経験したどれにも当てはまらないことだ。
その衝撃がトリガーとなった。ロアの内側の何かが顔を出す──。
「──キ……──……」
ロアの口から声にもならない音が鳴った。彼の碧眼と黒髪は共に白銀に変色していた。刃が当たったところからは何かが染み出していて、それは漆黒だ。黒い液体はロアの腕から染み出しやがて、彼の身体を動かした。彼にもう意識はない。
ぼたぼたと黒い液体が落ちる、それに操られるよう、白いロアは動き出す。空間を本来支配するサリンジャーは身体に痛みを感じた。支配空間が逆に侵食されている。そして、それが極地よりも恐ろしい何かからできていると直感で理解し後ずさる。
──ロア? セナはその光景を呆然と見つめていた。
『嗚呼、空気が淀んでいる』
ロアの口を使い誰かが喋る。低音の、悪魔のような声。
「ロアに一体何が──」
「何者かがその子を媒介して接触してきたんだよ……」
ロアの内側にいたのは、害意ある第三者だ。
『はは。何者、か。何者でしょうね。まあいい、私はこの身体さえ手に入ればそれでいいのです。これは急務ですから、無駄な人死にはあなただけにしておきましょう』
憑かれた白いロアは腕を伸ばす。禍々しい何かが腕を取り巻く。黒が集光する。
腕に集まったその黒い何かは渦を巻き、球になり、質量を持ち、サリンジャーに向く。
そしてそれは今まさにこの空間ごと、サリンジャーを破壊しようとした──。
「──落ち着けよ少年。せっかくのいい天気が台無しだ」
セナとサリンジャーは目を疑った。ロアの隣に、平然と、そしていつの間にかラウラが立っていた。ラウラはいつも人に問われる、どこから? いつ? といった質問には答えない。それには何の意味もないからだ。ラウラにとって、座標など、あまり意味のないことだ。
『──《破戒》のラウラ?』
「少年が『窓』にされたのか。こら、サリンジャー。お前が少年を刺激するからだぞ。まったく若いやつはどいつもこいつもせっかちだなぁ。──あ、サリンジャー。お前の部屋の梨補充しておいてくれよ。ないと寂しい気持ちになる」
白いロアの莫大な力を擁した腕は危機を察知したのかラウラの方へと旋回した。だが、ラウラは動かない。
「ラウラ逃げろッ! それは尋常じゃない! これは冗談じゃないん──」
ラウラは一度だけ手を叩いた。
ぱん。
──GRAAAAAAAAAASH!!!!
次の瞬間、ロアは全身の骨が粉砕する勢いで壁に激突した。
その一瞬は、人間が認識できる一瞬などではなかった。
勢いで支配領域は粉々に砕け、風圧でサリンジャーの私室はめちゃくちゃになった。サリンジャーは立っているのがやっとで、セナは風圧で反対の壁に吹き飛んだ。
「──で、何が冗談じゃないって?」
ラウラは微笑んでそう言った。
吹き飛ばされた白いロアの黒い物質は体内に帰還していく。まるでそれがあるべき場所かのように。代わりに彼の黒髪と碧眼は元に戻る。
そして死に体のロアは血を吐き出しながら、止めてくれて助かった、とそう気持ちを込めてラウラを見上げた。もう、そこに居るのは第三者ではなかった。ロア自身だ。
「どういたしまして」
ラウラはいつの間にか手に持っていた梨を食べながら軽く笑った。
「ちょっと面白そう」と思っていただけましたら……!
──下にある☆☆☆☆☆からご評価頂けますと嬉しいです(*^-^*)
ご意見・ご感想も大歓迎です! → 原動力になります!
毎日投稿もしていますので、ブックマークでの応援がとても励みになります!