第01話 黎明①
──10年前、パリ、クリスマスイブ。雪の降る夜。
「母さん! わたし母さんみたいに、探検家になるっ!」
まだ8才の少女セナ・オーブリーがそう言うと、母アイラは道具磨きの手を止めた。
顔をあげて瞳をきらきらさせる娘を見て、アイラはため息をついてから微笑んだ。
「じゃあ、どうしても欲しいものの為に、命を捨てられる?」
それは難しい問いだった。だからセナはちゃんと悩んだ。そして真っ直ぐに答える。
「……できないです。命は、なにより大切だもの」
少女の自信なさげの答えは、弱気だったが間違いのない彼女の真実だった。母は笑った。
「セナ。だったらあなたは、きっといい探検家になるよ。あたしの勘はよく当たるんだ」
アイラはセナを撫でると、手入れしていた道具を渡す。まだ幼いセナには少し大きい。
「《導く羅針盤》。これを持つ者にとって、本当に必要なものを指し示す遺物だよ」
「きらきらしてる……。かっこいい!」
「あなたが旅に出るとき、それをあげる。だから、それまで待てる?」
セナは頬にある母の大きな手をきゅっと握ってこくんと頷く。
「まてるっ!」
アイラは優しく微笑んで、立ち上がった。
「──シャンバラを見つけるのは、案外あなたみたいな子かもね」
「え?」呆けたセナに、アイラは微笑んだ。
「あなたの旅は無限だよ」
その言葉は弾丸となってセナの心臓を打ち抜いた。どくどくと血が体中をめぐる。瞳孔が開き、一陣の風が彼女を揺らした。セナはいつか旅に出ると、決意した。
「時間か」
アイラは壁の時計を見てから、セナにコンパスを返してもらうとそれを覗いた。彼女の持つ羅針盤のその針は一体何をさしていたのだろうか。
──それだけが、ずっとわからない。
***
予兆なく起きた「大断裂」という未曾有の災害で、旧世界の文明を失った世界。
世界各地にはその余波で生じた歪みが「極地」という形で現れる。
ある人々は叡智とロマン、世界の神秘を求め、その悪魔の遺跡へと潜っていった。
それが探検家という仕事。探検家という生き方。探検家という在り方。
探検家たちは目指す。すべての祈りが叶う場所、理想郷を。
これはひとりの少女が、最高の探検家になるまでの物語──。
***
ピピピ、ピピピ、ピピピ、ボゥッ、ビビィッ……──。
──10年後、祈暦1084年7月16日、アマハラ自由領、秋葉原中央。午前3時55分。
電子音を響かせていた目覚まし時計は、セナの扱う──正確には扱いきれていない──火炎によって燃やされる。寝ぼけた状態で炎が出るのは彼女の悪癖のひとつだ。
黎明旅団第9支部、3等級、学生級。探検家見習い、18歳、セナ・オーブリー。
「ゔ……、あ、朝ですか、朝ですね……」うわごとを言いながら起きるセナ。
重だるい身体を持ち上げ、ベッドをそのままに洗面台へ。昨晩のうちに用意しておいたスポーツウェアに着替えると、顔を水でバシャバシャと雑に洗う。右手から出した炎をドライヤーとアイロン代わりにすると、ある程度整えてよしとする。若干の火傷はいつものこと。
サイドテーブルに置いていた《導く羅針盤》を首からさげる。今日も針は狂ったままだ。
セナは冷蔵庫からバナナをひったくると、咥えて部屋を飛び出した。
「いっへひまふっ!」
まだ外は暗く、信号機も明滅していた。たったったった。綺麗なリズム。早朝からセナが行っているのは日課のランニングである。
「はっ、はっ、はっ、はっ──」
セナは努力の人だと仲間は言う。幼少期から論文を読み、古シナル祖語も少々。勉学には余念がなく、探検家には欠かせない体力作りも決して──寝坊した日を除き──怠らない。
今日はアマハラの南東部、鎌倉樹海と七里ヶ浜の近くを走ろうと考えていた。
──気持ちがいいな。何かいいことが起こりそう。
そんなことを考えながら、富士山と七里ヶ浜を横目に走る。気持ちがいい。ふくらはぎに炎を出して軽く跳んでみたりもする。これがせいぜいだ。
ポパピペッ。通信が入った。セナはチョーカー──通信用のデバイス──を二度叩く。通話に出たのはサリンジャーだ。
「ふぁ~あ~。お前、朝早すぎんだろぉ」少しハスキーな女性の、腑抜けた寝起き声。
サリンジャーは黎明旅団の階級で言えば指揮級、探検家としての経験年数で言ってもセナのずっと先輩で、彼女の指導教官でもあった。
「サリンジャーが遅いんですよ。私は普通です。どうせ二日酔いでしょう」
セナは走りながら、全く息を切らさないで文句を言う。
「まだ寝小便垂らしてる子どもが何言ってんだ」
「ゆっ、指先から炎がちょっとでちゃうだけです。その言い方は不服です。誤解を招きます」
んなもん一緒だろうが、と面倒くさそうに答えるサリンジャー。
「あー、シリウスのおっさんが滅茶苦茶怒ってたぞ。極地潜行許可証、偽造しただろ」
「ぎくりっ」
「ぎくりっじゃねえよ。公文書偽造は重いぞ~。今回はアタシの面に免じて見逃すそうだ」
「ご、ごご、ご迷惑をおかけしました……」
「もうすんなよ~」
サリンジャーは非常に優秀な探検家だが、法規的なことに頓着がなく適当であった。そういう所は見習うべきではないが、セナはそういうところを見習った。
「まあ、気持ちはわかんなくないよ。お前のお母さん──《荒濫》のアイラはバケモノだった。焦りも、執念も、きっと誰より深くて重い。だから……」
セナは前を向いた。
「それを力に変えるんだ。その荒ぶる炎を、制御してみせろ。それで、堂々とシリウスのおっさんに許可印をもらおうぜ。できるよな?」
セナは、サリンジャーが通話の向こうで試すように笑ったように思った。
「ええ、できますとも」
返事をしたセナは足を止めて、気が付けばぎゅっと羅針盤を握っていた。羅針盤の首ひもをつけなおしてくれたのはサリンジャーだということをふと思い出す。
──できる、はずなんです。
「……」サリンジャーはすぐには返事をしなかった。
サリンジャーは理解している。「極地」が生半可な場所ではないことを、今のセナでは力不足であることを。
それでも彼女ならきっと乗り越えるだろうということ。──しかし、セナの中に滞留している不安はそう簡単には拭えない。
母に憧れ、母になろうとして、なれなかったセナ。いつか彼女が、それを吹き飛ばしてくれる何かに、出会えたのなら──。
「なあ、セ」
ZI、ZIZIZI……ツーツーツー。
通信が乱れて、サリンジャーが最後に言ったことが聞こえなかった。名前を呼ばれたような気がしていたが、セナにはそれよりも通信障害が起きたことの方が気になった。
黎明旅団の情報通信は一括でLegionというシステムにより管理されている。Legionの通信システムは卓越したものであり、かなり強力な電磁波でもないと障害を起こさない。
「何が起きて……」
その時だった。今までずっと狂っていた羅針盤が、海を差した。
否、それは空だ。
破暁の空をころころと水銀の粒が転がる。セナは流れ星を見つめた。
──あれはなんだろう。
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