32.生きるということ
人間を跡形もなく消してしまう『黒い風』。
人々はそれに怯えながら暮らしていた。
『黒い風』と少年少女。
ついにその決着がついた……。
「経過は順調ですよ」
相対した医師は圭吾にそう告げた。
「そうですか」
「ええ、今回の薬は前回の進化版です。多剤耐性を持つ菌に対しても非常に効果的に働いていますね。そして体内に必要な他の菌には影響を及ぼしていません」
圭吾は自分の腹をさすった。
「もう少し経過を見て、順調であれば退院できる日も近いでしょう」
圭吾は病室に置いた荷物をまとめた。桃葉の持ってきた手提げ袋に目をやる。推理小説の文庫には様々な外国の作者名が記されていた。
「アガサ、エラリー……。なるほどな……」
圭吾はそう呟いて、ひとり文庫本達を指でなぞった。
病院を出て、両親の車で自宅へ帰ってきた。
玄関の前に桃葉が立っていた。
「退院おめでとう」
「あぁ、ありがとう。見舞いにも来てくれて」
「いいって、そんなこと」
両親に荷物を任せ、二人は街並みを歩いた。陽射しも弱まり、過ごしやすい寒露の時節を肌で感じる。
二人は公園のベンチへ座った。野球のボールを追い掛ける子供の声がシャボン玉のように弾け飛んでいる。
先程から口数の少ない圭吾に桃葉は声を掛けた。
「どうしたの?」
浮かない顔をしている圭吾が桃葉には気掛かりだった。
「嬉しくないの?」
「いや、そんなことないよ」
圭吾はずっと思い詰めた表情をしている。
「あの夢の……こと?」
桃葉が尋ねると、圭吾は素直に頷いた。
「ああ」
「まだ見るの?」
圭吾は前屈みになって両手を組んだ。
「いや、もう見ない……」
桃葉はどう声を掛けていいか迷ったが、それでもベンチの縁に手を添えて無理に声を張り上げた。
「良かったじゃない。薬が効いたってことなんだから」
明るい桃葉の声に圭吾は軽く相槌を打った。
「……そうだな」
折角こうして外へ出られたのに暗い表情のままの圭吾に桃葉は少し腹を立てた。
「それとも自分が負けるほうが良かったの?」
意地悪な言い方だったが、桃葉にとっては本音だった。圭吾が退院出来たことが桃葉にとって何よりも嬉しいことであり、互いにその幸せを共有し手放しで喜び合いたかった。
「もっと元気になれば、野球だってまた出来るようになるよ」
冷たさを帯びた風に吹かれて、圭吾は前髪が靡くのを感じた。風に秋のしおらしさが混じっている。
桃葉の言葉が圭吾の心に鈍く圧し掛かっていた。心に渦巻くモヤモヤは掴み所がなくやるせなさが募っている。
「……俺はずっと体に巣食う病を恨んできた」
素直な気持ちを伝えることは勇気がいる。圭吾は特に桃葉には弱さを見せたくなかった。しかし今、こうしてここに居られるのは他でもなく桃葉のおかげだと実感している。
「どうして俺なんだ、なんで俺だけ、不公平だろ、って憎んだものだ」
桃葉があの荒唐無稽な物語を聞いてくれ、信じ受け入れてくれたからこそ、ここに居られる。
「あの夢を見たことで、懸命に生きようとする者を応援した。絶望に立ち向かう姿に励まされたんだ」
圭吾は吸い込まれそうなほど青い空を見上げた。鱗雲が行く宛もなく棚引いている。
「結局あの世界は俺の意識と絡み合った世界だった。きっと俺は俺自身に問うていたんだ。何がなんでも生きたいか、って。どんな犠牲を払ってでも生きたいか、って」
圭吾は組んだ拳を強く握り締めた。
「俺はそれでも、生きたいって思った」
桃葉は圭吾の肩に手を添えた。
「正しい選択だったと思うよ」
そよ風がキンモクセイを揺らした。仄かな香りが鼻腔をかすめていった。外の空気を感じ、生きている実感を圭吾は目一杯吸い込んだ。
「何者も悪気があるわけじゃない。必死で生きることだけを考えている。そう思うと……」
圭吾は桃葉に顔を向けた。
「漸く病とちゃんと向き合うことが出来たと思うんだ」
「圭吾……」
「『彼ら』を犠牲にした分まで、生きていることを喜びたい」
桃葉は済んだ瞳の圭吾に微笑んだ。
「うん」
二人は立ち上がり、互いを見合った。そして、どちらともなく手を繋いだ。
伝わる人の温もり。生きている喜び。
生きることとは、如何なる生物の犠牲を払ってでも自分の生命に縋る強い執着があるか、ということ。
圭吾はそれを今、手にしている。
微笑み合い、二人は寄り添って陽の向かう西の小径を歩いていった。
「じゃ、早速なんだけど」
「は?」
「ストーリーをまとめさせて」
「はぁ!?」
「当たり前でしょ。来年の文化祭までに仕上げないと」
「相当先の話だな」
「何言ってるのよ! 光陰矢の如し、時間は有限なのよ」
「ったく」
桃葉は圭吾に肩を寄せた。
「きっと大丈夫」
「ん?」
「私達の背中を未来へ押してくれる」
桃葉は黒い髪を指で掻き上げた。
「黒い風の神様が」
木々を揺らして風が物寂しく吹いた。川は流れることをやめず、サラサラと音を立てて下っていく。
河川敷の隅に設けた土の墓に手向けられたキンモクセイがオレンジの花弁を振っていた。
「これ、なぁに?」
「お墓よ」
「お墓って?」
「この下で眠っている人がいるの」
「誰?」
「ルルーっていう人」
「ふーん」
「そして、もう一人は、あなたのパパ」
「へぇ。どんな人?」
「そうね、とっても……偉大な人」
「そうなんだぁ」
「そう、最後まで私を庇って盾になってくれたの」
「たて?」
「そうよ、守ってくれたの。息絶えることを知ってても、体に『黒い風』を吸収して」
「ふーん」
「だからママはこうしてここにいられるの。左腕は消えてしまったけれど」
「痛い?」
「大丈夫。優しい子ね。
都も村もみんな消えちゃったけど、あなたは産むことが出来てよかった」
「ほんと?」
「本当よ。ほら、手を合わせて。お祈りしましょ」
「うん」
お祈りを終えて空を見上げた。
鱗雲が行く宛もなく棚引いている。
「あなたは特別な存在よ」
「とくべつ?」
「そう、特別。すごいってことよ」
「ボク、すごいの?」
「ええ、とっても」
「へへっ」
「きっと次の『天使』にも負けない」
彼女は小さい手を握った。
「さぁ、行きましょ、エラリー」(完)
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>>次回「あとがき&裏設定」




