雪うさぎ
銀灰色の雲からうまれた雪は、すでに白く覆われた大地へと風まかせの軌道で降り立った。
玄関から一歩外に出るなり、淑子は小さく身体を震わせた。細い肩からずり落ちた臙脂色のマフラーをつまみ上げ、冷気を塞ぐようにぐるりと首もとに巻きつける。
あ、手袋……。
かじかむ手に、淑子は部屋に置きっぱなしの手袋の存在を思い出したけれど、戻るのは面倒だという気持ちが勝ち、冷えた両手を勢いよくコートのポケットに突っ込んだ。
父が早朝、シャベル片手に雪を掻き分けた私道を、つるりとした長靴でサクサクと踏み均す。すると、まだ柔らかな雪が気持ちよいほどくっきりと淑子の足跡を残した。
のんびりとした雰囲気の漂う、日曜の朝。散歩という名目で家を飛び出したのは、窓の外にちらつく雪に何とも言えぬ焦燥を覚えたからだ。高校を卒業してから、実家近くの小さな工場で事務員をしている淑子にとって、貴重な休日の朝は決して散歩から始まるようなものではなかった。
ああ、もう! 顔半分をマフラーに埋めながら淑子は歩きつづける。喉元には、まだそれがじりじりと熱く燻っていた。
ため息混じりの白い息を吐き、うつむき加減の顔をのろのろと上げる。目の前に広がる見慣れた田んぼは、白い平原となり延々と続き、地平線のあたりには悠々と連なる山々が、すっかり雪化粧をして取り囲んでいる。あの先の世界を、淑子はいつもうまく思い浮かべられなかった。
『春になったら東京へ行く』
意を決し、真っ直ぐな瞳で見つめながらそう言った晃彦の顔が、淑子の脳裏に何度も甦る。それはこの二週間の間、何度も再現された光景だった。
青天の霹靂とはきっとこういうことを言うのだろう。二週間前のあの日、鈍行の電車に揺られ隣町まで出てデートをし、駅前の喫茶店で珈琲を啜りながら、晃彦が観たばかりの映画の感想を蘊蓄交じりに語る、そこまではまったくいつも通りだったのだから。息を殺し見つめてくる晃彦から目を逸らし、淑子は数分押し黙ったあと、『そう』とだけ呟いた。珈琲カップを包む手のひらが震えないように、ぎゅっと力を込める。その温もりだけがひどく現実的だった。
見渡す限り田畑の続く田舎で育った淑子にとって、家と学校とその周囲だけが世界のすべてだった。それなのに、同じ場所で同じように育った晃彦は、テレビドラマの中でしか知らない、東京という漠然とした場所に行くのだという。手伝っていた家業を辞めて。恋人である淑子を置いて。淑子は二週間経った今も、それが信じられなかった。
古い寺の前まで来ると、その先にある商店が目に入った。沢田という無口な老女が一人で切り盛りしている、この近辺で唯一の店だ。駅前のスーパーは遠いので、切らした日用品など細々としたものを、ここで揃えるという住民は多い。
ペンキが剥がれ落ちた看板に、かろうじて「さわだ商店」と書かれた文字が見えてくると、淑子はシャッターの下りた店の前で立ち止まった。店先に置いてある、ガラス張りのキャビネットに収められた公衆電話にふと目が留まる。淑子はズボンの後ろポケットに手を伸ばし、小銭入れが入っていることをその膨らみで確認した。
晃彦の家の電話番号は、そらで言えるくらい何度もかけた。たとえ晃彦以外の家族が電話を取っても、晃彦の幼なじみで恋人でもある淑子からの電話なら、すぐに取り次いでもらえるだろう。あの日以来、こちらから連絡を取っていなかったから、喧嘩でもしたのかと勘繰られているかもしれないが。
九時半、か。起きてるか微妙な時間ね。
寝穢い恋人の顔を思い浮かべながら、若草色の受話器を取る。ダイヤルをごろごろとまわす音が、細雪の中に落ちていった。
『はい、田野です』
「……おはようございます、内山です。みっちゃん、かな?」
『あ、としちゃん? おはよう! なんか久しぶりだね。ちょっと待ってて、兄貴に代わるね』
晃彦の妹の光枝が慣れたようにテキパキとした口調でそう告げた後、コトリと受話器が置かれる音がした。
淑子は慌てて小銭入れから十円玉を三枚取り出し、投入口に追加する。晃彦に代わる前に電話が切れてしまっては意味がない。だけれど、そんな淑子の心配をよそに、存外早く晃彦は受話器口に出た。
『もしもし』
いつもより少し掠れた声は、まだ彼が起きてから時間が経っていないからだろう。久しぶりに聞いた晃彦の声に、淑子の胸はぐっとつまった。
「もしもし、朝からごめん……あの、これから会えない?」
『……なぁ、お前さ、俺がお前んちにかけた時はことごとく居留守使ってたくせに、いきなりなんなんだよ』
苛立ちと呆れが入り交じった声で、晃彦は淑子を責めた。
「いきなりあんなこと言ったのはあんたの方じゃない。こっちは二週間ずっと悩んでたのよ!」
『だからって電話ぐらい出ろよな! ったく。今どこにいるんだよ、家か?』
「……さわだ商店の前」
『分かった。すぐ行くから、お前は寺んとこで待ってろ』
ツーツー、と鳴る電子音と同時に、淑子の目に涙が溢れる。晃彦とはもう駄目かもしれない。それは淑子にとって恐怖以外のなにものでもなかった。
来た道を戻り、寺の境内の欅の大木の前に立つ。どっしりとした幹から先を見上げれば、葉が落ち箒状になった枝々が薄曇りの空を指していた。欅に背を預け、ずるずるとしゃがみ込む。息をするごとに肺が冷やされていく感覚が、今はただ心地よかった。
ポケットから手を出して、淑子はいたずらに積もった雪に触れる。近所のほとんどが檀家で『お寺さん』と呼ばれ親しまれるこの寺の境内は、淑子にとっても晃彦にとっても子どもの頃から馴染み深い場所だった。
この季節にはよくみんなで雪合戦をしたっけ。淑子は雪を手のひらいっぱいにすくい、きゅっと丸めた。二つ上の晃彦は妹もいるせいか、近所の子らが集まる時はよく淑子の面倒もみてくれた。晃彦の実妹の光枝は小さい時分身体が弱く、なかなか外に遊びに行くことが出来なかったから、雪合戦をして帰る頃合いになると、晃彦はいつも雪うさぎを作ってそれを土産として持ち帰っていた。淑子は晃彦を手伝いながら、そんな晃彦の優しさをとても好ましく思っていた。自分の年の離れた兄は、淑子に全くというほど関心を持たなかったから、尚更そう感じたのかもしれない。
楕円形に雪を整えそれを地面にそっと置くと、淑子は寺務所のそばに植えてある南天の木を目指して歩いた。真っ白な雪の中でいっそう映えて見える赤い実に手を伸ばす。実と葉を必要な分だけ摘み持ち帰ると、先ほど作った雪玉に慎重に取り付けた。
『置く場所で顔が全然変わっちゃうんだ』
鼻の頭と、ふくふくとした頬を真っ赤にしてそう言った在りし日の晃彦の声を思い出す。最初は病弱な妹への手土産だったそれも、年月が経ち光枝もすっかり丈夫な身体になった後は、二人だけの秘密の儀式の体を成していた。
感傷めいた思い出に淑子が浸っていると、ザッと雪を掻き分ける音がした。淑子がしゃがんだまま見上げると、いつかの面影を微かに残した青年が、少し慌てた面持ちで立っていた。
「何してるんだよ」
晃彦がぶっきらぼうな口調で問いかける。
「別に。雪うさぎ、作ってただけよ」
淑子は二週間ぶりの晃彦の姿を見て、また少し泣きそうになった。慌てて視線を下げると、晃彦が近づいてくる気配がした。
「……いつも目が離れすぎなんだよ。置く場所で全然顔が変わっちまうんだから」
淑子の記憶と同じような台詞を吐き、そして記憶よりもずっと精悍な顔立ちになった晃彦は、淑子の向かいに来てしゃがむと、南天の実を太い指先で摘まみ、位置をずらして取り付けた。
「ほら、いい顔になっただろ」
晃彦は満足げに頷いたあと、淑子の手を取って立たせた。冷えた淑子の手を温めるように、晃彦は力強くその大きな手のひらで握りしめる。
「急に、あんなこと言って悪かった」
淑子の頭の上で、晃彦の低い声が響く。淑子はまだ顔をあげることが出来なかった。
「従兄弟の兄ちゃんが向こうで働いていて、人手が足りないって言ってんだ。東京ならここよりもうんと稼げるし、社員寮もあるようだからきっと金も貯められる」
晃彦の従兄弟が東京で建設業に携わっていることは、何度か晃彦の口から聞いたことがある。随分忙しくしているとも。
「……いつ帰って来るの?」
行かないで。その言葉をどうにか飲み込み、淑子が小さな声で尋ねる。
「最低三年は向こうにいる。でも休みが取れるようになったら、必ずその都度帰る」
そう強く言い切る晃彦に、淑子は恐る恐る顔を上げた。
「泣くなよ」
そう言って困ったように眉を下げた晃彦は、目を真っ赤にした淑子の目元を指先で優しく拭った。短い嗚咽がシン、と静まり返った境内に鳴り響く。
「帰る時はお前の好きな流行りのもん買って来るから。菓子でも服でも、なんでも。電話も毎日必ずかけるって約束する」
不意に腕を引っ張られ、淑子は晃彦の胸にすっぽりと収まった。
「だから、待っててくれ」
勝手だ。晃彦は勝手だ。勝手に決めて勝手に淑子のそばを離れていくのに、待っていろだなんて虫のいいことを言う。淑子は湧き上がる怒りと悲しみでどうにかなってしまいそうだった。
「嫌よ、待たない! 勝手なこと言わないでよ!」
叫びながら身をよじり晃彦から離れようとしたけれど、がっしりと抱え込んだ晃彦の腕がそれを阻む。淑子の頭の中はめちゃくちゃで、押し付けられた晃彦の胸でただすすり泣くことしか出来なかった。
二人に降る雪は静かで、とても静かで、寂しかった。雨なら良かった、淑子は泣きながら、ふとそう思った。
「……なんで、置いていくのよ」
「ごめん」
「行かないでよ……!」
「……ごめん」
弱々しく縋る淑子の言葉に、晃彦はただ謝ることしか出来ない。これは覆らない現実なのだということが、淑子を一層悲しくさせた。
どれくらいの時間抱き合っていたのだろう。晃彦の胸から顔を離すと、いつのまにか雪は止み、濃い青空が広がっていた。淑子は鼻をすすり、手の甲で顔を拭った。足下には、一体の雪うさぎがじっと二人を見守っている。それに勇気付けられた淑子は、晃彦の切れ長の目に自分の視線を合わせた。
「毎日電話なんていらない。毎回休みの日に帰って来なくたっていい」
淑子がきっぱりとそう言うと、晃彦の体が強張った。何か言おうと開きかけた口は、何の音も発さず閉じられる。
「……約束事を作るのは嫌なの。守られなかった時、辛くなるから」
休みが出来たとて、毎回帰れるとは限らないだろう。毎日電話だなんてもっと無理だ。今ですら毎日電話をしていたわけではないのだから。淑子はその度に傷つきたくなんてなかった。
「流行りのものなんて、流行に疎いくせによく言うわよ」
淑子がそう言って小さく笑うと、晃彦も気まずげに唇の端をあげる。
「私のこと、忘れたら嫌。ぜったい許さない」
「……何年一緒にいると思ってんだよ。忘れるわけないだろ」
晃彦の顔が淑子の肩に埋まり、耳元にくぐもった声が聞こえた。
「雪うさぎ……」
「ん?」
「お土産はいらないから、もし冬に帰ったらまた一緒に雪うさぎを作って。昔みたいに」
そう、約束なら、こんなままごとみたいなものでいい。ささやかなお守りのようなものでいいのだ。
「ああ」
自分たちがどのような未来にいるのか分からない。淑子はそれでも今、晃彦に身を委ね、晃彦と緩やかな指切りを交わす。結局、淑子は晃彦のことが好きなのだ。どうしようもない程に。
「帰らなくていいなんて、言うなよ。俺が……おまえに会いたいんだ」
迷子のような晃彦の言葉に、淑子はふと笑みを漏らした。
不安がないと言えば、嘘になる。寂しくないかと言えば、嘘になる。この不安や寂しさが降り積もることを淑子に否定などできない。
「うん」
自分と晃彦に出来ることは、言葉にしてそれを交わすことくらいだ。雪解けを促す陽の光のように、不安や寂しさを照らすのだ。
明るい日差しに、少しばかり形を崩した雪うさぎが佇む。子ども心にはそれがとても悲しかったけれど。
それでいい、と淑子はゆっくりと自分に言い聞かせた。それで、いいのだ。とけてはまた、つくり続けるしかないのだから。
晃彦が淑子の肩から顔を上げ、コツンと額と額をくっつける。欅の枝に止まっていた鳥が飛び立つ音がすると同時に、枝に積もった雪がきらきらと輝きながら降る。
晃彦の影が落ちる気配に、淑子はそっと、瞼を伏せた。