8 企みと失敗とやるべきこと
「暗いからって、周囲から見えないからって、そんなことしちゃ……」
乱れたソプラノの声は慎ましくも、床の木目に跳ね返った。教室のフロアと蕩けた音はやけに相性がよくて、残響がはっきりと聞こえ、耳に残る気がした。
あとスマホの通知が止まらない。
鬼のように、幽霊からのメッセージがぼく相手に送られ――ふと、止んだ。
『制限かかったので別アカです。カノジョです。のじゃ』
一息ついたところに、すぐに他アカウントからの連絡が来た。作成から復帰までがやけに手慣れすぎている。
混乱。
再開された通知音の連続が、恐怖心を掻き立てる。隣席から聞こえる気まずい声も相まって、思考は一瞬で破裂した。
「いったん待って! 後輩は何やってるの⁉ それにえっと――」
カノジョに対して落ち着いてと、言いたかった。
だがカノジョのことをどう呼ぶべきか。幽霊と直球に呼ぶのは、後輩のことを考えてもよくないだろうし、ええと、この場を収める方が先だ。
「カノも落ち着いて! ぼくは無罪だから!」
けたたましい電子音が途絶える。同時に後輩の声も元通りに戻った。
「なるほど、映像も音も相手側に筒抜け、と。ふむ、相当厄介なストーカー。技術力は別に生かしたほうがいい」
ぼくのスマホで灯りをとると、少女の顔が肝試しで脅かす側のように浮かび上がる。ぼくには肝試しの経験はないから、これはイメージだけど。
「にしても、先輩はこの流れに乗ってはくれないのか。いけない遊びに制服のまま溺れたいという欲望は?」
「ないよ。悪質すぎる。停学まったなしだし」
「わたしは少々学が止まったところで構わないけれど、どうか? おやすみになるのだしデートもできる」
「前向きすぎる……」
考え方の違いに引いていると、かちりという音を合図に部屋が明るくなった。カノジョが勝手に照明のスイッチを操作したのだろう。
ぼくは理解できるが、普通に怪奇現象だ。
「…………なに?」
その証拠に、後輩はキレイに固まってしまった。人によっては家に持って帰りたくなる形で、ぴたりと硬直していた。唯一動いているのは瞼で、ぱちぱちとした動作だけで盛んに感情を伝えている。
もうちょっとぼくも驚いたほうが、自然だったかもしれない。どうにか巻き返す方法はあるものか。
「えっと、停電……かな?」
「逆。消したのはわたし。勝手に点いた。つまり……えっと」
未唯後輩は言いよどんで、自分の身を静かに抱き寄せた。そして肩をわずかに震わせた。
「こわい? 後輩」
「なっ、そんなことはない。確かにこの学校には『出る』という噂もあるし、この校舎棟では自殺者が出たなんていう噂も聞こえるし、先輩の学年には『視えてしまった』人もいるらしいが――そんな戯言にわたしは恐怖しない。時間の無駄だから、これ以上その話出さないで。お願い」
やけに詳しかった。該当箇所を語る際に彼女の体はより縮こまって、頬も引きつっていたような。
それはそれで貴重な表情だけど、あまり見たい顔つきでもない。
「大丈夫、ただの不具合だよ。霊なんて居るわけないって」
「わたしだって居ないと思っている。だが、どれだけ頑張っても完全に『ない』と証明することはできないから、だから、そのわたしは……」
ガタン‼ と椅子が鳴る。何の音だ。異音のした方に振り向けば、そこには。
「これはじゃの、ちょっとしたいたずらというか、その、出来心で……の」
色の薄い少女が、並ぶ椅子に手をかけていた。
木目の背に指を引っかけて持ち上げ、重力に任せると、自然の摂理として音がする。
霊的な存在と無縁な人からすれば、奇怪な響きが学び舎を席巻した。
ガガン‼
「ひぅ……‼ 先輩……」
「うわ⁉ ミスったのう……わ、わざとじゃないのじゃ、此度は……反省します……もうやりません……」
なぜかポルターガイストの犯人まで驚いていた。椅子は盛大に倒れているから、力加減を誤ったのか?
「せ、先輩 これは偶然? 偶然だよね?」
「う、うん。多分、さっきぼくが机の下に潜りこんだ時に、色々ぶつかってバランスが危うくなったんじゃないかなー、って……」
ムリ気味だが、主張を押し通す。路無未唯はこれで安堵してくれるだろうか。自信は皆無だけど、ぼくは精いっぱいの笑顔で貫いた。
「なんか変なとこあるかもしれないし、ぼくがちょっと見て――」
「ダメ。いかないで」
ぼくの右袖に深く皺が刻まれる。折れそうな親指と人差し指なのに、引き留める力は強かった。物理的にではなく、精神的に。
潤んだ瞳と弱気に傾く眉が、鎖になってぼくを縛る。
「――先輩、恥を忍んで、ひとつ頼んでも?」
「なにかな後輩」
「少し人の熱で落ち着きたいのだけど――」
その先を二度三度と紡ごうとし、そのたびに飲み込み、目を十分に泳がせてから――後輩はそっと零した。
「近くにいっても、いい?」
「今だって、近いけど」
「これより、もっと」
答えかねて黙る、ことも許されない。
メッセージの通知が黒い画面を跳ねていく。
『また地雷女の言うとおりになってはいかんじゃろ。相談に乗ってくれた陽ギャル娘の提案、無駄にするでないぞ』
カノジョは一猫さんとぼくの会話を知っていたのか。
伝授されたことは、とりあえず距離をとってその様子を教える、だったか。
「もちろん、先輩には直接触れない。慣れないことはしない。完全な合意が取れてからでないと、意味がないから」
真剣な申し出に心が揺らぐ。それで路無未唯が安心できるのならと、首を縦に振ってしまいたくなる。
一日前のぼくなら迷うこともなかった。唯一といえる友人だし、一も二もなく頷いていたはずだ。
でもカノジョの言い分もある程度理解できて、なにより後輩とぼくの関係は不健全を濃縮しつつあって――ああもう、考える時間が足りない。見つめあう時間に思考を溶かされ、心情は絆される。
カノジョは後輩まで呪うか? そんな存在か?
考え込んで姿勢が悪くなり、ぼくの腰かけている椅子が軋みをあげた。
「――ひゃっ、ぁう……」
不快な軋みに後輩は声を上げ、恥ずかしさに肩を落とす。
「後輩が安心できるなら、そうしたいなら――近くにいてもぼくは構わない」
つらつらと考えたことを飛び越して、ぼくは本心を口にしていた。失敗だとは思わなかった。取り消そうという気にもならない。
だけど、これは失敗だった。
未唯後輩が、涙を一粒流したから。
返事を受け取ると、彼女は落涙が床に落ちる前に顔を背けたから。
やってしまった。焦る。なにをやらかしたのか? その発想自体に焦る。
「あの、ぼく、ごめ」
「先輩は、ぜんぶ受け入れるのが悪くて、良くて、優しくて、ずるいとこだ。それでいてなにもしてくれないなんて、とっても卑怯」
感情を決壊させる手前、ひびだらけの答え。
「今だって先輩は悪くないのに、謝ろうとして、いきなり泣き出したわたしを心配してくれて、それを期待してしまうわたしは自分が嫌で、先輩を卑怯って言ってしまうわたしが嫌いで、えっと、ごめん、言いたいことがバラバラで、言いたくないことまで言っちゃいそうで――」
表情は見えないけれど、言葉はとぎれとぎれだけど、彼女の後姿が全てを補っていた。
「ごめん、先輩。今日は、ダメかも。明日には元通りになるから、先輩から近づいてもらえるようになるから――今は、さよなら」
そう告げて、未唯後輩は空き教室を去った。
「残酷じゃの、おぬしも」
カノジョの幽かな一言が、変わりない教室に響いている気がした。