4 近かわいい後輩とテストと相合傘
「先輩、今日はわたしと相合傘をして帰ろう。仲良しの証だ」
「――過剰だ、後輩。いきなりそんなこと言われても、返答に困る」
「なぜ拒む? クラスの久原さんと久方さんは、いつもそうして帰っているが」
「それは女子同士だか――いや、毎日傘差してるの? 連日相合傘なの? 嘘でしょ?」
「虚偽でなく、ほんとだ。なぜかというところに気づければ、乙女心検定五級相当になる。がんばって」
小学生でも普通に取れそうな級数を、ぼくが取れないわけにはいかない。ここはひとつ思案のしどころか。
「……だいたい今日は快晴だし、窓の外を見れば雲一つない青空だ。そもそも最近は好天候ばかりで、傘を差すような天気じゃ……」
「ふむ、おしい。近づいている。至近から観察するに、先輩はやればできる子の片鱗を見せつつある。がんばれ、がんばれ」
やたら至近距離から、エールが飛んでくる。広々とした空き教室なのに、すぐ隣にもうひとつ椅子があった。身じろぎすればぶつかる距離感だ。
というか席は積まれた机で巧妙に囲われており、一度入れば抜け出せない、ペットボトル製の簡素な罠のよう。
どうも、出題者に思考を乱されている気がしないでもないが――
「聡明な頭脳、動いてきた?」
迫られて全てはうやむやに。
「え、ぜんぜんわかんない……」
「ヒント、いる?」
「くれるなら欲しい。貰えるものは何であれ貰っておきなさいって、おばあちゃんが言ってたから」
「よきおばあ様だ、いずれわたしの曾祖母となるのだから、さらに喜ばしい」
とちょっと理解できないことを口にして、熱量がぐいと近寄ってくる。他者の体温がぼくの腕から肩、首筋を辿って耳元まで這った。問いの手掛かりは、妙にくすぐったく届けられるらしい。
「天気がいいということは、つまり陽射しが強い。以上だ、先輩。がんばって」
神経に浸透し、全てを蕩かす囁きだった。耳朶をくすぐる甘い吐息が、思考の間に侵入してバラバラにしていく。
確かにヒントはヒントだが、なんにも入ってこない。
熱とか音とか匂いとか、色んな情報が大量に体内に入ってきて破裂しそうだ。不思議なことに、真っ先に壊れそうなのは脳でなく心臓らしい。心音はうるさい上に、緊張して口を堅く閉じているからか音が身体の中で反射している。
高鳴りが減らず、無限に増幅していた。
「三十秒~にじゅうびょ~」
耳元でいきなり秒読みが始まる。伝わってくる諸々は、声や言葉よりも柔らかな呼気が主だった。湿度と粘度が異様に高く、このコミュニケーションは未知すぎた。
未唯後輩は未知だ。
別の星とか未確認生命体とか、そういうの。
「じゅうびょ~、ご~、よん~、さん~、に~、いち~」
何もかもが近づいてくる。秒数が無くなるにつれて、彼我の距離も消えていく。ますますウィスパーボイスは甘ったるい粘性を帯び、なにかしらの重力を放っていそうだった。
動けない。色んな意味で身動き取れない。
精神的にも社会的にもだが、周囲に積み上げられた机にぶつかって崩してしまうかもしれないから――物理的にも。
「時間は無くなったけど、ギブアップするかい? ヒントもっと欲しい?」
「いやギブ。色んな意味でギブギブ!」
「じゃ、『負けました』て言って」
「ま、負けました……?」
「よし、勝ち。これは偉大な勝利」
一度離れ、謎のガッツポーズをキメる未唯後輩。
えっと、ぼくらは何の勝負をしていたんだっけ?
たかが数分のうちに色々ありすぎて、一体なにがなんだか。
「答えは日傘。とっても簡単。幼稚園児でもわかる。わたしの先輩なのに園児以下、赤ちゃん――なんだか禁断の香りがして、これはこれであり」
「後輩、ちょっと勝手に盛り上がらないで。ぼくも混ぜて。いや混ざらなくても良さそうだけどいったん止まって」
答え、日傘……そうだ。そういえば、なぜこの好天候でわざわざ傘を差すのかという話だった。こしょこしょと耳打ちされたのに、ぼくの頭には何も入っていない。
「えと、日傘の話だったっけ? ぼくには無縁で思い浮かばなかったな」
「そうそう。色々知ってもらいたかったり発想を広げたり、教育的な動機でのクイズだった気もしてきた」
試みは徒労に終わったにも関わらず、後輩は気分良く弁舌を振るう。
「今日はわりかし熱く、お日様は憎らしいほど輝いている。これはわたしに、十分な理があるはず。先輩も素直に頷くこと間違いなし、よし、よし……さあ先輩、先の提案に『はい』と言って首肯して」
「あの、何に頷けば?」
「とにかく、はいと言って先輩。首を縦に振ればそれで済む。押しに弱いと何かとお得」
怪しさ以外の何もない。
いやとびきりの愛らしさはあるが、それすらも怪しさを構成する一部だ。
その振る舞いでOKを出す人はさすがにいないだろう、後輩……とツッコみたい気持ちは飲み込んでおく。
嚥下して一拍置いて、深呼吸。異常な接近で狂っていた心肺を落ち着かせ、目を瞑って一、二、三と数える。
後輩の提案を思い出して瞼を再び開けると、周りが少し暗かった。
後輩とぼくに影が落ちている。
天井を見上げれば――代わりには傘。
「なに、してるの?」
「最近の照明は眩しい。先輩の目が傷つかないようにしておいた」
「ものは言いようだね」
「あと、断られる前にやっておけばイイのでは? と」
「今までのやり取りなんだったの」
「ん……囁き癒しサービス?」
何やら違法っぽい響きだった。
「わたしは違法ではなく合法。法に則った手段でお願いや提案をしている。相合傘もそう」
「日傘の相合傘は限りなく違法に近いけどね……。ていうか、どうせぼくと未唯後輩は陽が落ちるまでここでのんびり過ごすんだから、やっぱ意味ないような気もするけど」
反論するが、なにも返ってこない。気まずくなって相手の方をチラ見すると、予想以上の近くに後輩の顔があった。
「――先輩、そういうとこだ。そういうとこ、よいが悪い。他の悪い女を引き寄せる。だから――」
彼女の瞳が危ない色を帯びる。背筋に冷たいものが走って、身体が固まりかけたところで――
「ん、スマホの通知……?」
ぼくのポケットが震えた。
反射でアプリを開くと、画面にはこうある。
『#カノジョより距離近かわいい後輩を拒絶しないと嫉妬されてまずいから助けて』の下。
『そいつと付き合ってると呪われるから、早く逃げるんじゃぞ』
とのリプライがあった。『じゃぞ』なんて語尾を使うのは、カノジョしかいない。
最近の幽霊は、どうやらSNSができるらしい。