十六 山に女神ありて人は捧げる
「う、ぐあ……」
信太郎は脂汗にまみれて苦痛に呻く。
一度まともに金棒を食らってから、更に三度は受けていた。その間にこちらが与えた傷は浅い裂傷が五つ程。まるで割に合わない。
一対一で向かい合い、痛感したのは力の差。遊び気分で致命的な暴虐が振るわれるのだ。避けるのも至難の技。かすっただけで肉が抉れる。加護がなければ肉体が跡形もなくなっていた。
辛喰童子に打ち据えられ、転がされ、岩に叩きつけられ、全身に傷。骨も折れているし内臓も危ない。極限の集中に神経もかなりすり減らした。
だが動けない怪我ではない。顔には闘志が十分。祈りで痛みを打ち消し、素早く顔を上げる。
目前には辛喰童子。その背中だ。こちらに興味や警戒は欠片もない。
向かいには、潜んでいたはずの永。
両者はひりつく空気の中、薄い笑みを浮かべて睨み合う。
「どうした? 呪いは止めたのか」
「ああ、止めてやった。感謝すると良い」
「ぎはっ。惚けるか。これを見かねて、だろう?」
「まあ、良妻ならば旦那の窮地は放ってはおけんの」
「残念だな。弱い旦那では辛かろう。山姥としては食ってやるべきではないか?」
「ほ。確かに不満はあるが、強さ弱さが理由ではないの。愚直に過ぎるからじゃ」
言い合いの最中、永は今までしていなかったおかめの面をつける。
そして妖怪としての本性を顕した。
辛喰童子を押し退けるように圧が広がる。山と語らい、唄い、永の格は大いに高まっていた。いや、鬼が支配していた山を支配下に置いて、本領を発揮出来る場を整えたのか。ともかく時間稼ぎの役目はなんとか果たせていたようだ。
凶相は面の下に。仕草は着物から肌が出ないようたおやかに。恐ろしい見た目をひた隠し、凛と対峙する。
一方の辛喰童子は心底可笑しそうに高笑い。
「ぎははははっ。山姥が顔を隠してどうする。堂々と出来んのなら引っ込んでおれ」
「女じゃからの。見た目にも気を遣う。それが分からんとは情けないものよの」
「己なら気にせんぞ。存分に顔を晒すが良い」
「阿呆。主が気にするかしないかなどで判断するでない。女心を気にせんか」
「打ち倒す相手の心など気にしてどうする」
「ふむ、それもそうじゃの。わしも主の心になど興味ないわい」
「考えは一致したようだな?」
口が裂けたように、鬼らしい凶悪な笑みを浮かべる。永も面の下では同じような表情だろうか。妖怪同士の肝が冷える対峙。
そして、空気が爆ぜた。
人外の衝突は目に姿を残さない。ただ音と衝撃が辺りに跡を残す。
ただ、それは常人の目における話。信太郎は逸らさずにじっと見つめ続ける。
まずは鬼の金棒。重く、容易く山を砕くそれを、永が平手で叩く。下から掬うような軌道で迎え撃つも、しかし力を殺しきれず、腕が逆に曲がった。それだけでなく回転しながら吹き飛んでしまった。
と思った次の瞬間には辛喰童子の背後に出現。無傷の状態で爪を光らせる。
それは金棒を背後に回し防がれた。頑丈なはずの金棒にも深い爪痕を刻む。そのままの勢いを使い回り込んで追撃。今度は鬼に血を流させたが、永もまた蹴りを食らった。
一旦距離が空けば、爆発したかのような土煙をあげて姿が消える。
永は頭上から出現。大きく振りかぶった腕に合わせ、鬼の頭が振られる。爪と角がぶつかり、鈍く重い振動が辺りにも響く。ガラガラと音を立てて岩が転がり落ちていった。
永の軽やかな着地。それと同時に足をめがけて爪を突き込む。
それより豪快な金棒が一歩早かった。
攻撃を諦め、永はまたも消える。既に標的はいない。しかし金棒の空振りはそれだけでも嵐を巻き起こし、土と石を崩して高く舞わせた。
その中でも永は微動だにせず受け流し、揺らめく砂煙の中から敵の隣へ。爪を眼へ。淡々と鬼の命を狙う。
対する手は、頭突き。逆に石頭で爪と指を折り砕く。が、永はそれしきで怯まない。壊れかけた手で顔面を鷲掴みすると、崖へと横向きに叩きつけた。穴が空いて、崩れ、土砂が降り注ぐ中を一足速く離脱。
それからすぐに辛喰童子も土砂を豪快に散らしながら出てきた。声で粉塵を吹き飛ばそうとするように、また大口を開けて笑う。
両者は軽傷にもかかわらず、辺りの地形は大きく変貌していく。
これこそが化け物達の、真っ向からの戦い。
それを間近にしても尚、人は無力ではないと信太郎は信じる。強がりでなく、確かに信じている。
刀を地面に突き刺し、膝をついて、目は戦いを追いながら、祈っていた。
「麗しき山の女神よ。気紛れなれど義理堅き女神よ。わが生を捧げます」
ただ真摯に祈る。
集中し、気力を注ぎ込んでまで、溢れる血肉を捧げてまで、彼の女神を讃える。
「この山を、人を守るべく、悪逆の鬼を打ち払う事を願います」
信仰を捧げる。
神と妖怪の差は曖昧。分ける要因の一つは、恐れられるか、敬われるか。その敬意を表して永という存在の格を押し上げ、勝利を願う。
「私が討ち果たすが故、立ち向かう力をお貸しください」
同時に信太郎にもまた、加護。傷ついた体に熱い力が満ちていく。神と人の繋がりは確かな武器となる。
戦況にも変化があった。
永の攻撃が、金棒の重さにも負けなくなった。勢いを打ち消し、弾く。鬼の肌にも裂傷が増えている。
互角でなく、永が優勢か。
それでも辛喰童子は余裕の笑みを浮かべて喋る。
「ほおう? 人間の祈りか」
「羨ましかろう? 主にはないのじゃからな」
「ぎはっ。確かに。そこでは負けるしかない」
辛喰童子は嘲笑う。凶悪に、醜悪に。
精神に直接届くような不思議な響きの声で、告げる。
「だが、違うな。真の神は、人間など必要としない」
永も何か警戒したように立ち止まる。
「気紛れに食い、奪い、踏み潰す。それこそが鬼神の在り方よ!」
突如、辛喰童子の気配が膨れ上がる。
山が鳴動。見た目は変わらず、しかし確かに力が増している。本性を呼び起こす呪いの一種か。
鬼神。荒神。
山の歴史、鬼の血脈を継ぐ首魁。それらを身の内に取り込み活かしている。
単なる鬼ではなく、妖怪ではなく、神との境界をも踏み越え得る強者だった。
「下らんの。そんなものでは荒くれの頭目じゃわい」
「ならば試すか。己が何に相応しいのか」
永は涼しく流し、辛喰童子も軽い調子で笑う。互いに力みも凄みもない自然体で向かい合う。強者の余裕。
信太郎も腹に気合いを入れ、刀を構える。
神々の戦い。微力ながらも参陣出来る。してみせると、恐れを呑み込み前を睨んで機を窺う。
「いいや。わしが手本を見せてやると言っておるんじゃ」
「変わらんだろう。力を示すには争うしかない」
「じゃから主は下らん化け物なんじゃ」
会話を打ち切り、永は唱えた。
祝福の祝詞を。山の女神の唄を。
まず応えたのは一帯からの重なり連なる声。
獣の群れだ。とうに逃げ出したはずの動物達が戦場を見下ろす崖の上に集まってくる。
更には辺りの崩れた岩肌に木が伸び、草が生え、花が咲く。時期外れの恵みが山に溢れた。
鳥獣と語らい、豊穣を約束する。山の女神の力である。
「だからどうした? んん? 己に食い物を差し出してくれたのか」
「ほ。情けないの。もうちいと頭を使わんか」
「言わなかったか? それは人間に必要なものだ。鬼の生き様では、ない」
奇跡めいた恵みも見下し、挑戦的な笑みで辛喰童子は得物を構え直す。
そして金棒の一撃。
地面が割れる。木々は倒れ、斜面は崩れ、集まった獣も再び逃げる。豊穣に対するは、破壊。
止まない音。分厚い土煙。目も耳も役立たず。世界が破壊の跡に覆われた。君臨するは鬼の首魁。
災害の跡地で高笑いし、鬼は堂々と存在感を示す。
そこに、白刃。
目にも留まらぬ速度で飛び込んだ信太郎が辛喰童子の肩口を切り裂いた。神に近き化け物であろうと、刃は確かに届く。
「不意打ちの隠れ蓑。派手に見せておいてそれだけか!」
「いいえ。違います」
深い傷も嘲笑われ、豪快な金棒が信太郎に振り下ろされる。
致死の暴虐にも不動の構え。剛力を柔らかい太刀筋で逸らし、脇に流す。返して袈裟斬りを放つが後退して避けられた。更なる反撃が来る。
となれば即座に横にずれ、永の為に場所を空ける。
「ここはもう、わしの領域じゃ」
平手の一撃。
迫っていた金棒を砕き、そのまま返した手の甲で辛喰童子を吹き飛ばす。
崖に激突し、衝撃で崩れた岩に埋まる。積み重なった重量は山の重み。
それを軽々と吹き飛ばして、鬼神は出てきた。
そして大口を開けて高らかに笑う。
「ぎっはははっははぁ! 良い! この格ならば己の敵と認めてやろう!」
「ほ。その様では負け犬の遠吠えに聞こえるがよいのかの」
「勝利を認めて頂きましょう」
この山に恵みをもたらした事で、永は女神として君臨する資格を得た。存在の格が高まれば扱う力の質も変わる。祈り信仰する信太郎に与えられる加護もまた強くなったのだ。
両者の力と格は拮抗している。信太郎も割り込める余地がある。
殺気と闘志の対峙。緊張が高まる。
常識から外れた者達がぶつかり、戦の音が山を賑わす。笑い、睨み、争う。血と肉片と荒い息遣いが空気にも混ざっていく。
だが、しかし。
またも戦場には異変。
「む?」
「……これは」
「ぎははっ」
三者はそれぞれに構える。
頭上から、新たに強大な気配が突如として出現したのだ。
それは、辛喰童子にも匹敵するような荒々しく禍々しい殺気を伴っていた。
明日、日曜の朝にも投稿します




