十二 勝利の女神は笑う
「残念です。信太郎殿。あなたならば分かってくださると考えていました」
騒々しい山の中であっても、落ち着いた声が不思議な程明瞭に聞こえる。寂しげな表情と声音からすると楼奥は本気で言っているようだった。
交渉は決裂。
確かに蛇と百足、双方の長に罪はある。しかし楼奥の手段は、信太郎の思想とは相容れない。望むのはより被害の少ない平穏だ。
それでも信太郎は丁寧に応える。
「……私としても残念です。じっくり話をしたいところですが、今は時間が惜しい」
「あれを収めるつもりならば、どうぞご自由に。犬死となってしまうでしょうが」
「いいえ。止めます」
決意を持って宣言。
楼奥は薄く笑うばかり。そのまま黙って姿を消したが、その笑みは彼の揺るがぬ執念を雄弁に語っていた。
未だ要注意の相手。しかし一旦意識から外し、振り返る。
頭上の大き過ぎる争いを見据えて戦意を高め、おかめ面の妻に問う。
「永。おれが加わっても難しいか」
「じゃろうな。幾ら愚か者であろうと、力は本物じゃ」
「何か手はあるか?」
「ふむ。では贄を捧げてもらおうかの」
贄。
唐突なその提案に、しかし信太郎はあくまで冷静に受け止める。
「具体的にどうする」
「そうじゃな。宝……などは無く、鳥獣を見つけるには時間が惜しい。やはり血肉が良いかの」
「人食いの性を呼び覚ますという事か?」
「それじゃと退治される化け物じゃろう。あれらには只の化け物じゃと格が劣る。必要なのは人の信心じゃ」
「成る程。分かった」
短く答えると、即時行動。
太紋との戦いのよる負傷は打撲が多いが、細かい無数の切り傷があった。
永は血が滲む頰に優しく手を添える。
「この程度でよいのか?」
「ほ。量の問題ではないからの。わしを信じるかどうかじゃ」
永の可笑しそう声は面に隠れた表情を容易に想像させた。珍しいくらいに機嫌が良い。
「山の女神に捧げまする」
信太郎が唱えれば、永は面をずらし、美しく化けた顔で舌なめずり。傷口の血を舐め、贄を受けとった。
吐息と舐められる感触にぞわりとするが顔には出さない。口元に浮かんだ妖しい色気に見惚れかけ、そんな場合ではないと気を引き締める。
簡易とはいえこれは儀式。神と妖怪の曖昧な境界を、信太郎の信心で乗り越えさせたのだ。
来歴を遡れば神にも連なる、らしい永。よってこれで、永は化け物でなく神の格を取り戻せただろうか。どちらかと言えば鬼神荒神の類になるだろうが。
とはいえ、供物だけでは信仰には足りないか。
「それと、他の神に祈るでないぞ」
「分かっている。全ては主に捧げよう」
理解し、実践。意識を切り替える。
八幡神への信仰は、今は忘れなければならない。
永に対し姿勢を低く。妻でなく、罪人仲間でなく、妖怪でなく、女神として真摯に礼を尽くす。
「山の女神に祈る。どうか私に、この争いを止める力を」
「その願い、聞き届けようぞ」
神秘的で荘厳な言葉。人ならざる蠱惑的な微笑み。
自然と畏敬を抱きたくような永は、正しく女神であった。
大蛇が尾を振り回し、百足を強かに打つ。反撃の牙が食い込み、血が流れ落ちた。
大百足が体を伸ばし、蛇を締めつける。牙を突き立てられ、甲殻が砕けて地へ降った。
激流が轟き、土砂が唸る。毒が、呪詛が、敵を蝕まんと溢れている。
力と力。誇りと誇り。全てをかけたぶつかり合い。
故に、苦悶の声はあがらない。互いに傷を負っても、血が流れても堪え忍ぶ。ひたすらに殺意が追い求められた。
であるからこそ、戦いは山を恐怖で包む。動物も妖怪も怯えて逃げ惑う。人里の人間も無視出来ない。一帯の生き物が絶望に打ち震える。祈り願うのは、災害の終結。
されど叶えるモノは、天にはいない。
双方の牙が、相手の体を狙う。
互いを害する為に、全霊。数え切れない応酬に、新たな一撃がまた増える。
しかし此度は標的には届かなかった。突如現れた第三者が突進の軌道を変え、逸らしたのだ。
戦争に割り込んだ二つの影は不敵に笑う。
「そろそろよさんか馬鹿者共が。わしとて我慢の限界はあるのじゃぞ」
「この戦い、我々が止めさせて頂きます。あなた方の立場を、そして力の大きさをお考えください」
夫婦の乱入。巨大な影にも気迫は劣らず、堂々と見上げて啖呵を切った。
しかし荒ぶる土地神は気にも留めない。互いの敵を睨んだまま、大妖達は凄む。
「退け。余所者と遊んでやる暇はない」
「一度の無礼は許してやろう。二度は無い」
そして再び牙を剥く。
殺意が溢れ、ぶつかる。邪魔が入ろうと止まる気はない。
ならばこちらも問答無用。目配せ一つで意志疎通し、夫婦は跳ぶ。
高速で割り込む、小さな影。永は蛇の頭を上から叩いて落とし、信太郎は正面から百足の頭に一刀を繰り出し勢いを緩めた。
蛇も百足も宙を噛む。
殺気がじろり。流石に両者は闖入者をわずらわしげに見た。
「警告が聞こえなんだか、山姥」
「先に始末されたいようだな、人間」
「ほ。それはお互い様じゃろうに。そちらがわしの警告を聞いて大人しくすればよかろう」
「私は元より、誰も始末させるつもりはありませんとも」
威圧に負けず、夫婦は応じる。
見つめ返すその瞳は熱く、実体的な圧力さえ宿して、巨大な殺気と互角に衝突していた。
そして戦いの様相が変化する。
災害めいた一対一の決闘から、乱戦でもない、妨害により成立しない戦いへと。
蛇身が空を切り、木肌を滑る。百足の体躯が柔らかい土に沈み込む。
攻撃を予測し的確に対処。あくまで攻撃を逸らし、弱め、足を引っ張るだけの行動を繰り返す。
戦いを挑むのではなく、敬意もないこの行いでは侮辱されたようなものか。目に見えて大妖達は怒り狂った。
「この戦を何と心得る! 長き因縁の決着を果たす悲願の戦なのだぞ!」
「判断を間違えていた。やはり人間に信を置くなどすべきでなかったのだ!」
「ほ。何が悲願か。この喧嘩は愚か者の馬鹿騒ぎよ。無意味で無価値で、下らん喧嘩じゃ。早う止めんか畜生共」
「長殿。あなた様にそう言わせてしまい、心苦しく思います。しかし信はまだ捨てないで頂きたい」
夫婦の狙いは勝利ではない。目標は疲労、あるいは根負けによる停戦だ。
相手は土地神、無論肉体も精神も化け物。いつまでかかるか、そもそも可能なのかは不明である。
だがこちら側も、存在として並外れている。
永。山の女神としての性質を表に出した彼女は、これまでより強い。
力は拮抗。速く重く殺意を打ち払い、防御に専念すれば蛇と百足の両者を相手に回しても負ける事はないだろう。
そして信太郎も劣らない。
八幡神の加護はなくとも、山の女神となった妻の加護があると信じる。それさえあれば、人の域を超えられる。
確かな自信を持って剛力を振るう。動きを見切り、流れを読み、的確に対処していく。
地面や木々への被害も極力抑えようと気を配る。山と川を今以上に崩させまいと受け止める。
攻撃の出だしを潰し、足場を崩し、意識を分散させていく。嫌がらせのような立ち回り。
そのおかげで周囲の衝撃も轟音も減少していた。静かな山を取り戻しつつあった。
が、代償は大きい。
額の汗はとめどなく。血が流れて体が冷える。目が霞んでくる。
歯を食い縛って自身に渇を入れた。
侮辱する信太郎達への怒りは、因縁の敵とはまた異なる怒り。直情的で動きは分かりやすいが、しかしその分容赦がなく豪快。
下手をすれば数日間に及ぶか。到底人間の手に負えるものではない。
それでも背負う。守る使命があると言えば傲慢だが、救えるのなら救いたい。
落ちる体力や精度は気迫で補い、奮闘する。
ところが。
突然背後に新たな気配を感じ、咄嗟に構え直した。
「っ……!」
重い一撃を刀で受ける。
殺意の瞳と目が合った。長でない、新たな乱入者。しかし長にも匹敵する強大な力。
気付いた永と目配せし、力強く頷く。難行を安心して任せられる妻に、託した。
そして力を込めて敵を弾き、反対側へ駆け出す。相手もしっかり付いてきた。
三つ巴の戦場から離れて、信太郎は新たな相手──楼奥と相対する。
「気が変わりましたか」
「はい。確かに私はあなた方を侮っていました。謝罪します。その強さと執念を認めましょう」
敵意を向け本性を表す彼は、既に只の大百足ではない。血のように赤い色と禍々しい角。鬼、荒神としての性質が見える。正に憎悪の化身。
ただし態度は今までに見てきた楼奥と変わらない。その情念は内に秘め、あくまで静かに穏やかに、淡々と告げる。
「まずは一人。あなたを、殺します」
「いいえ。私は、あなたを受け止めます」




