十 大蛇は呑み込み押し流す
太紋はその時を、今でも鮮明に覚えている。
初めての出会いは、彼女が目の前で派手に転んだ事が切っ掛けだった。
「あの、大丈夫ですか? 軽い怪我なら手当てしましょうか」
「済みません。歩く事には慣れていなくて……」
怪我したところを助けた。そんな些細な出来事も、彼女の存在によって特別な思い出として切り取られたのだ。
そして、特別な思い出は、その後も続いていく。
初めは恩返しだと言って、豪華な食事を振る舞ってくれた。だが豪華なあまり、これでは割に合わないと、次は太紋がお返しをすると約束をした。
そうして何度も会うようになった。芝居を見に行ったり、語り合ったり、景色を見たり、楽しく素晴らしい日々。彼女を愛おしく思うのにそう時間はかからなかった。
愛しい日々に大きな変化があったのは、彼女が苦手ななめくじを間近で見てしまった時だ。
驚きによって表れた彼女の正体は、蛇だった。
人より大きい、尋常の獣ならざる大蛇。この土地の守護神である、蛇神の娘。しかし、語る様は優しげで愛らしくて、なにも変わっていなかった。だから変わらず、気安く対応した。
「驚かせてしまいましたね」
「薄々人じゃない気はしていたんだ」
「あら。やはり人については勉強不足でしたか」
「いや、あまりに綺麗だったから」
「まあ。ふふふ」
「それより、もう会えないのか?」
「正体が露見した化け物は姿を消すものです。ただ、帰る場所は父の領域。すなわちこの町ですね」
「ならば会いに行けるな?」
「わたしは蛇ですよ? あなたは人です」
「構わない」
「……でしたら追いかけてきてくださいね」
目を見て、強く断言。決して離さないと気持ちを伝えた。
少しの驚き顔の後に笑って受け入れてくれて、心の底から嬉しかった。
父である蛇神の下に一度帰った彼女を追いかけ、一族を説き伏せるのに手間取ったものの、そうして二人は夫婦となったのだ。
しかし、別れの時は訪れる。
きっかけは、太紋の失態だった。
十が好きな山鳥を求めて山奥へ入り過ぎて、百足の領域に踏み入ってしまったのだ。大百足が現れ、蛇の住人が縄張りを冒したと喰われそうになった。
そこを救ったのが十。美しい白蛇は百足に絡んで食いつき、追い散らした。
だがその晩、彼女は倒れた。
病かとも思ったが、呪いだと言われた。蛇と百足の不戦の約定を破った報いだと。つまり太紋のせいで、彼女は倒れたのだ。
人の医者も蛇の一族も手は尽くしたが、治る見込みはない。真っ暗な絶望にうちひしがれた。
見るからに辛そうな病床で、しかし彼女は気高さを損なっていなかった。
「そんな顔をなさらないで下さい。あなたが前を向いてくだされば、私も戦う力が湧いてきます」
強い彼女に対し、太紋はただただ無力を噛み締めるばかり。
悔しく、情けなく、恥ずかしい。力になれない事が、ひたすらに無念だった。
だから決意が生まれる。
「必ず、必ず助けるから!」
山を登り、百足の里へ。
蛇が無理ならと、もう一つの力ある神を頼ろうとした。
今後は踏み入らないよう、領域の境で叫ぶ。
自分の全てをも犠牲にする覚悟を持っての行動だったが、親切な上に百足とも縁がある男に助けられた。手を尽くしてくれ、太い針のような、呪いを払う道具は手に入った。確実に効くとは言い切れないとの事だが、何もないよりは良い。喜び勇んで帰る。
しかし、悪夢に嗅ぎつけられた。
町へ入ろうとしたところで、蛇の長が待ち構えていたのだ。
「百足の匂いがする。小僧、それを持ち込むな」
「あんたの娘を救う為だ! さっさと通してくれ!」
「ならば尚更! 百足の手を借りて生き永らるなど、言語道断!」
問答無用。尾の一撃。
強かに食らった太紋は軽々と飛ばされ、呪具も砕かれてしまった。それと同時に希望も消える。
「……あ、うああああっ!」
地面に這いすがって泣き喚き、怒りに血が頭に上った。
その後はいまいち覚えていない。殴りかかって返り討ちにされたらしいと、後から推測した。
目を覚ました後に、それより重大な事があったからだ。
帰った時、彼女は既に息を引き取っていた。それが全てだ。全て、失った。
三日月の薄明かりに、影は色濃く伸びる。
彼女と見た心中物の芝居が頭をよぎる。それもまた幸せなのだと囁く声が聞こえた。
それでも後追いをしなかったのは、憎悪が熱く激しく燃え上がっていたからだ。
一族を裏切り名誉を捨てたと、死後に追放された蛇女房が眠る、墓場。
その旦那は姿を変え、憤怒に染まった赤い顔で吼えた。
「お、おおおっ!」
大木が根元から引き抜かれ、腕力のみで持ち上がる。人の身では成し得ない、鬼の所業。
そのまま槍のように速く突き出された。
信太郎は落ち着いて横っ跳びでかわす。
しかし強引な軌道修正で横に振られ、再び迫る。今度は真上に跳び、追ってきた大木の槍に着地し、幹を疾走。
一歩、二歩、瞬く間に太紋まで到達すると、素早い峰打ちを肩口に叩き込んだ。
が、相手はびくともしない。血走った目で睨み付けられる。
「手加減か。随分舐めた態度だな。それで俺を止められると思っているのか!」
「これは失礼。止めたいだけで、殺したい訳ではないのです」
「ふんっ。蛇と百足を殺すと決めた時から、死ぬ覚悟ならしている!」
「重ねて失礼。しかし、みすみす死なせてはあなたの父上殿に合わせる顔がありませぬ」
やはり身内思いなのか。
父。その言葉に、怒りの空気が、少し緩む。
「父はなんと?」
「ただただあなたの身を案じていましたよ。蛇に直談判する程に」
「……そうか」
弱まった勢いに、淡い期待を込めて声をかける。
「止まるので?」
「いいや。止めるつもりは、ない」
言い聞かせるような返答により、切り替わる。改めて瞳に戦意の火が灯ると、拳を振るってきた。
その手には、短く鋭い凶器。
毒牙。恐らく共犯者から受け取った、蛇と百足を死に至らしめた物だろう。
反応し、避けていても剛腕の風圧で叩かれる。どちらにしてもまともに食らえば致命傷だ。
至近距離では分が悪い。
それでも、正々堂々向き合わねばならない。そうでなければ、この憎悪は晴れずに淀んでいくばかりだ。鬼と化しても、最後まで人としての道を行かせたい。
わがままな思いを胸に、信太郎は死線に挑む。
「またか山姥。なんのつもりだ」
蛇の長の行く先を、おかめの面を被った永が塞いでいた。
町から離れた、静かな河原。紅葉の美しい、本来なら穏やかな環境。
巻き込む人も建物もない自然の只中で、対峙する両者の間に激しく火花が散る。
「無論主を止めるのよ。分からず屋は力で叩き伏せるしかあるまいて」
「笑止。山姥如きが我に敵うと思うてか」
今度は本気で相手取る。
永の意思を受け取ったか。大地が、鳴動する。
狂暴な大蛇の本性が剥き出しに。場に在るだけで他を圧する威容は、流石神として扱われる大妖。
そして凶悪な牙を剥いた。殺意を伴い、小さな山姥へと飛びかかる。
轟音、衝撃。河の水が舞い上がり、石が暴れ弾け飛ぶ。たった一つの行動で景色が一変。見るも無惨な荒れ地と化した。
それが、幾度も。蛇行しながら獲物を追う蛇は、人の手には余る激流のよう。自らが治める土地を乱しながら流れるその様は、最早土地神の姿ではなかった。
ただし永はその流れに呑み込まれない。子供が遊ぶような軽やかさで、駆け回り跳び跳ね、機敏に避け続けている。
「どうした! 口だけか山姥!」
「わしが口だけ、とは見る目がない男じゃの。強く、賢く、その上気も利く、非の打ち所のない女じゃろ?」
「惚けるでない!」
慣れていない侮蔑的な発言に刺激され血が上ったか。邪魔者の排除から、怒らせた敵の殺害へと意識が変わった。
更に激しく、更に荒々しく。音も衝撃も容赦なく撒き散らされる。
しかし代わりに単調な突撃ばかり。永ならば容易く読め、かわせる。幾ら力が強くとも負ける気はしない。百足の里へ向かわないよう誘導していく。
荒れ狂う風と水の中でも、そよ風と小雨を浴びるが如く。
やはり畜生かと永は内心で嗤った。
このまま時間を稼いでいれば、目的は達せられる。
要は蛇と百足の戦争になりさえしなければいいのだ。激情を発散させ、力を使い尽くさせれば、いずれは否が応でも止まる。
優雅に舞うように避け、あしらう。牙も尾も当たらない。面を被っていても分かるよう、高らかに笑い声をあげる。
しかし風向きは、急に狂った。
新たに近づいてきた、強大なる気配。山姥と大蛇は同時に動きを止め、とある方向を見つめた。
永は苦々しく毒づく。
「全く、間抜けな畜生ばかりじゃの……っ!」
「殊勝な心がけだ。貴様の顔に免じて、配下は見逃してやっても良いぞ」
蛇が永から目標を移した。ぎらぎらと不穏に輝く瞳で敵視する。
現れたのは、大百足。その長。
もう片方の、神として扱われる大妖。そして会わせてはいけなかった仇敵同士である。
「蛇。その必要は無い。約定は破られた。望み通り、全面戦争を始めようではないか」
災害が、二つ。互いに激しさを増して巻き起こる。




