3. ギフト(第一章第一節第三話)
ジョゼフはヴァルトのために簡易な寝床を作ってくれた。ヴァルトは横になったが、眠れそうもない。改めて自分の身に起きたことを考えてしまうのだ。
この地で目覚める前、何者かの『声』が聞こえていた。内容も覚えている。夢を見ているのでなければ、その『声』の主が自分になにかしたのだろうことは間違いなさそうであった。
しかし、思考はそこで途切れてしまう。その声が誰の声なのか、どこで聞いたのかすらわからない。一切の情報がないのだ。それ以上考えても得られるものはなかったが、何より自分の身に起きたことだ。無為を悟りつつも、考えないことは難しかった。
(あ、そうだ)
何度目かの思考の循環ののち、ヴァルトはふと思い立って立ち上がり、そっと外に出た。ローズとジョゼフは眠っているようだ。
(僕は人間なのか?)
熊に殴られて無傷というのは、どう考えてもおかしかった。それに、気になることはまだある。山の中で、子供を抱えたまま、人が走って熊から逃げられるはずがない。
ローズを持ち上げたときの不自然な軽さも気になった。いくら子供とはいえ、まるで枯れ草の束でも持ち上げるかのようだったのだ。しかしローズはどう見てもふつうの少女だ。太ってはいないが、骨と皮だけというわけでもない。
(ローズが軽いのではなく、僕の力がおかしいのか?)
ヴァルトは近くに立っていた樹の幹に手を当てた。一抱えもありそうな太い幹だ。ヴァルトはしばし考えを巡らせたのち、その掌を閉じた。
めしめしと音がする。ヴァルトの掌はスポンジでも摑むかのように握り締められ、太い樹の幹をむしり取った。指や爪に異変もない。樹は生々しい傷跡を見せている。実は枯れていたなどということもなさそうであった。
(僕は、何なんだ?)
どうやら自分には人とは思えないような力が宿っているらしい。あの「声」や、記憶がないこと、この山に突然立っていたことと無関係とは思えなかった。
(力は、あって困るものではないだろうが…………)
いつまでもジョゼフやローズの世話になるわけにはいかない。自分が誰だかわかるまで、少なくとも当面の間は『ヴァルト』として一人で生きていくことを考えねばならなかった。そのためには、確かに力はないよりあったほうがよい。しかし、由来も正体もわからない大きすぎる力はやはり不気味であった。
(森か。――森?!)
そのとき、ヴァルトはおかしなことに気づいた。この地の言葉では、《森》は《ヴァルト》ではない!
しかし、ヴァルトは他の言語を知らない。今は、思考もこの地の言語で行っている。
(《ヴァルト》とは、何の言葉だ?)
その時は確かに、《森》から《ヴァルト》と名付けたのである。ならば、自分は《森》を《ヴァルト》と呼ぶ言語を知っているはずだった。が、思い出せない。
(消えていない記憶もあるのか…?)
記憶は消えておらず、ものの弾みで断片的に蘇ってきたのかもしれない。ならば、いつかすべての記憶が戻る日が来てもおかしくはない。それを微かな希望にして、ヴァルトはそれ以上考えるのをやめた。
ようやく、眠れそうだ。
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翌日、朝食後。
「お世話になりました」
「うむ。何もしてやれんが、気をつけてな」
「いえ、とんでもない」
ヴァルトは昨日の粗末な服ではなかった。熊に破かれた服のままではまずいだろうということで、ジョゼフが自分の服をくれたのだ。少し小さいが、着られないほどではない。
服だけでなく、ジョゼフは近くの街までの簡単な地図も書いてくれた。紙にインクではなく手頃な木の板に炭で書いたものなので、取り扱いに気をつけないと消えてしまいそうだ。
「では、お元気で」
そう言ってヴァルトが外に出て歩き出すと、そこに背後から飛びかかってきた者がいる。
「ヴァルトーーー!」
「朝から元気いっぱいですね、ローズ」
「どこ行くのーーー!」
「町に行くんですよ」
「いつ帰ってくるのーーー?」
「いや…………」
「帰ってこないの?」
ローズの声が不安げなものになる。
「いつまでもお世話になれませんし…………」
「なんでーー? ずっとここにいればいいのにー!」
「ローズ、そう我儘を言うものではない」
「やだーーーー!!」
ローズは涙を浮かべてヴァルトを引き止める。
「うちに人が来るなんて初めてで、あたし、あんなに楽しいことったら無かったわ。今日も一緒にごはん食べて、いっぱいお話したいのよ。ね、いいでしょう?」
結局、ジョゼフもヴァルトもローズの駄々には勝てなかった。ヴァルトはもとより急ぐ用もないし、ジョゼフにしても山奥のふたり暮らしで寂しい思いをさせているという負い目があるのだろう。
今日のローズはジョゼフとの約束があるので野草摘みには行けない。ジョゼフと共に炭焼小屋に向かうことになった。
同行してジョゼフの仕事の邪魔になってはいけない。ヴァルトは昨日置いてきてしまった籠を回収してこようと思った。熊に出くわすかもしれないが、昨日の経験からすると一人ならばどうにでもなりそうであった。籠の中身が無くなっていたら、ローズの教えを生かして改めて野草を摘んでもよい。
「ヴァルト、ちゃんと帰ってくる? いなくなったらだめよ」
「大丈夫です。いなくなったりしませんよ」
不安そうなローズの頭を撫でる。それも不可能ではなかったが、いたいけな少女を騙してその心を傷つけてまで行かねばならぬ事情もなかった。
「それなら、これを持っていくとええ。ここにはこんなもんしかないが、ないよりはましだろう。炭焼き小屋のほうには、もうちょっとましなもんもあるんだが」
そう言いながらジョゼフが差し出したのは一挺の刃の小さい楔形の斧―――いわゆる薪割りである。熊に対してはいかにも心もとないものでしかなかったが、確かにないよりはましである。ヴァルトは薪割りを受け取ると炭焼小屋に向かうふたりを見送り、それから歩き出した。
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迷わないよう目印などつけつつ、記憶を頼りに歩いていると、昨日熊から逃げてきた広い場所に出た。昨日は夢中で逃げていたので、ここから籠があるはずのところまでの道はわからない。
ヴァルトは立ち止まり、昨日の記憶を辿りはじめたが、やはりよく思い出せない。こうなったら手探りに探すしかないか―――ヴァルトがそのように考え始めたとき、前方から物音がして、黒っぽい塊が走り出てきた。
(またか)
昨日の熊と同一個体か、それともそうでないのか。ヴァルトには熊を個体識別する自信はなかったが、どうも大きさなどから同じ個体のように思われた。
熊は猛然と突っ込んでくるが、ヴァルトはそれに背を向けることなく薪割りを構えた。
(こいつをどうにかしないと、ローズたちが)
ここは、おそらく昨日熊に襲われた場所よりもジョゼフの小屋に近い。放っておけばジョゼフやローズに危険が及ぶかもしれない。
恐怖は感じなかった。昨日ローズを助けに飛び込んだときもそうだったが、どこか生命への執着が麻痺しているような感覚がある。記憶もなく見知らぬ地に放り出され、生きている実感が薄いのかもしれなかった。
(昨日の通りなら、何とかなるはずだ)
素人が薪割り一挺で熊と戦うなど、普通なら自殺行為である。しかしヴァルトには自分が何者なのか確かめてみたい思いもあった。熊に殴られて無傷な体、人を抱えて熊を振り切れる脚力、樹を毟り取れる握力。それらの身体能力がなにかの間違いなのでなければ、熊と戦うこともできるはずだった。
(――――?)
そのとき、熊の様子がおかしいことにヴァルトは気づいた。ヴァルトを餌や外敵と見なして襲ってくるという感じではない。何やら恐慌を来しているようだった。熊の表情はよくわからないが、何かに怯えているようにも見える。
考えているうちに、熊が眼前に迫ってきた。事情はわからないが、熊が自分を攻撃しようとしていることは明白である。迎撃しなければいけない。ヴァルトは薪割りを振り上げ、飛びかかってくる熊の頭に振り下ろした。
普通ならば、薪割りごと弾き飛ばされておしまいである。
しかし、熊はその一撃で地面に叩きつけられて動かなくなった。頭部は原型を留めぬほどに破壊され、薪割りの刃は胸のあたりまで深々と刺さっている。衝撃に耐えきれなかった薪割りの柄も折れてしまい、ヴァルトの手には短い棒きれだけが残った。
(何なんだ、僕は)
しかし、余韻に浸っている暇はなかった。熊が現れた方向から、再び草をかき分けるような音がしたのだ。
(もう一匹いたのか?)
顔を上げたヴァルトの目に、黒い影が映る。ただし、その「黒い」は、熊のそれとは全く異なっている。ただ闇で塗りつぶしたような、光のない漆黒の影なのである。喩えるならば、あたりは昼間なのにその部分だけが闇夜であるような、そんな「黒い」であった。全身がその黒で塗りつぶされており、表情はおろか、目や鼻や口が存在するのかどうかも判然としない。
(モンスター?)
もちろんヴァルトは初めて見る――少なくとも記憶にはない――のだが、「最低限の常識」によってその存在自体は知っていた。と言っても、詳しいことはわからない。ただ、人にとっての脅威とされ、真っ黒い人や獣の姿をしていることと、人を襲うという知識だけはあった。
(熊より強いのかな?)
目の前のモンスターの大きさ自体は中型犬くらいである。熊よりは小さいが、相手は正体不明の生物である。見た目通りの強さかどうかはわからない。しかも、薪割りは折れてしまい、ヴァルトの手にあるのはかつては薪割りの柄だった折れた棒きれだけだ。
(やるしかない)
モンスターが人を襲う以上、ジョゼフやローズにとっての脅威であることに違いはなかった。モンスターがにじり寄ってくる。ヴァルトは腰を落として棒を構えた。
モンスターが飛びかかってくる。熊よりも迅く、鋭い。
しかし、ヴァルトの棒の一撃も迅く、鋭かった。モンスターは脳天をしたたかに打ちすえられ、熊と同様に地面に叩きつけられた。
が、そこから先が熊と異なっていた。モンスターの体が消滅したのである。
(―――??)
ヴァルトはあたりを見回したが、黒い影はどこにも見当たらない。ただ、モンスターの体があったところに、鈍く光る拳大の黒い石のようなものが落ちているのが目に入った。その黒さはモンスターの体色と同様だったが、わずかに発光しているように見えるところが異なっている。ヴァルトは更に折れて棒というよりも破片になてしまった薪割りの柄を捨て、その石を拾い上げた。
(なんだこれは?)
もともと落ちていたものとは考えづらい。姿の消えたモンスターがこの石に変化したのだと考えれば辻褄が合ったが、その場合またモンスターの姿に戻らないとも限らない。対処に困ったが、ヴァルトはひとまずそれを持っていくことにした。目の届くところにある方がまだよいだろうとの判断だ。
(で、これをどうしよう)
困ったのは熊の亡骸である。薪割りの刃が刺さったままのそれは見るも無惨な有様であり、破壊された頭部は特にひどかった。ジョゼフはともかく、ローズには見せたくない。
ただ、ヴァルト自身はあまり何も感じなかった。やはり、どこか感情が麻痺しているのかもしれない。
(これ、食えるよな)
熊肉は貴重な食材だろう。殺した以上は食うべきだという思いもあった。
(血抜きをするんだよな)
「最低限の常識」は獣肉の解体についても僅かな知識しかなかったが、狩った獲物を川に沈めて血抜きをするとよいらしいという知識があった。
(川か)
昨日ローズは魚を焼くと言っていた。ならば、近くに川があるはずだ。耳を澄ますと、微かな水の流れが聞こえる。
ヴァルトは謎の石と、熊から引き抜いた薪割りの刃を腰の革袋――これもジョゼフがくれたものだった――に入れると、熊を担いで音のする方へと歩き出した。
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モンスターや熊などに再び出会うこともなくしばらく歩くと、川が見えてきた。さほど広くはないが、熊一頭を沈めることくらいはできそうだ。
ヴァルトは川に降り、流れに熊の死骸をつける。そして薪割りの刃を使って熊の下腹部を裂き、そこではたと手が止まった。
(内臓はどうしよう)
食肉としての適切な処理まではわからない。ヴァルトはひとまず内蔵を一部取り出し、開いた腹腔内に石を詰めて重しにした。そして血と脂に塗れた手を丁寧に洗うと、立ち上がって来た道を戻り始めた。
ジョゼフならば、処理の仕方を知っているかもしれない。