御相席様 ~臆病者、カレーを食べる~
この世にとんかつ屋は大小含めて星の数。けれど『かつ丼のないとんかつ屋』はどれだけあるのでしょう。
そして相席を勧められたら、あなたはどうしますか? 不幸が続いているなら、よした方が良いかもしれません。だって相席の相手はどんな人かわかりませんし、もしかしたら奇妙な出来事に巻き込まれるかもしれませんから。
覗き込んでいたスマホの画面から視線を上げ、小さく溜息をついた。
15畳程の広さの空間には、4人掛けのテーブルが3つ。そこにはそれぞれ椅子が4脚用意されている。
そのうちの1つ、一番入口から遠いテーブルに着いているのは俺。それと先程から新聞紙をこちらへ衝立の様に広げている男。俺と彼は向かい合わせに座らされている。2人以外この空間に人の姿はない。
時折男が揺らす新聞紙の擦れる音と、どちらかが動くことで生じる小さな物音以外は何も聞こえなかった。あまりに音がないためか、耳の奥で小さく耳鳴りがしている。
突如向かいの男が大きく咳払いをし、俺はそれに驚いて身を縮めた。男は咳払いの後小さく喉の奥で咳を小さく数回繰り返し、新聞を1面捲った。俺はつられて喉の奥に違和感を覚え、ある筈のない塊を排出するように、しかし相手に聞こえない様に用心をしながら小さく咳をした。
咳の音はすぐにこの空間に融けてしまい、後には何も残らなかった。
再びしんと静まり返った空間に居てもたってもいられなくなった俺は、男が広げている新聞のこちら側の記事へ視線を移した。記事はサッカーチームの新監督について書かれている。男の持ち方が特殊だったのですべては読めないものの、それを眺めている方が気はまぎれる気がした。しかしその方法も男が新聞を持ち直したことであっけなく終わってしまった。ニュース記事は俺に10分の1も読ませる事もなく退散し、目の前には囲碁のコーナーが現れたのだ。
少々がっかりした俺はキョロキョロと辺りを見回した。
窓のないこの部屋は、蛍光灯のぼんやりとした白い明りで照らされている。かつて白かったであろう壁は、少し淡いクリーム色だ。
格子のついた白い窓の向こうは外の景色など見えない。見えても困る。
ここは地下1階。小さな部屋なのだ。元よりお天道様など関係ない空間だ。
見える範囲は目の前にあるものだけ。後ろは柱に遮られており、俺が下りてきた階段もここからは見えずにいる。
男が新聞を折り直しながら、先程よりも抑え気味に再び咳をこぼした。俺は男の方を見る。そのほんの一瞬だけ新聞紙の天辺から男の表情が見えた。
その眼は細く、しかし眼光は鋭く見えた。
俺はそんな彼の視線から逃げるように再びスマホを取り出すと、画面のロックを外した。
向かい合わせで座っている男は、俺の友人でも親でもない。会社の上司でも、学生時代の恩師等でも断じてない。先程顔を合わせたばかりの赤の他人だ。名前も、何処から来たのかも、どんな職に就いているのかも全く分からない。それは向こうも同じ筈だが、やけに緊張する。
暖房が強いわけでもないのに俺は手に汗をかき、鼻息は妙に大きく聞こえ、顔の筋肉が固まっていく。
何故俺達がこの様に向かいあって座っているのか。
それはほんの少し前にさかのぼる。
*
不幸なことはいつも列をなしてやってくる。
3千円ほど入っていたICカードをなくし、仕方なしに切符を買って移動すれば切符を落とし、何とか改札を出たものの時すでに遅し。待ち合わせの時間を大幅に過ぎてしまっていた為に一緒に行動する筈の女子は呆れ返り、俺を罵りもせず行ってしまった。
それでも今日は待ちに待ったアイドルコンサート。こんなところで情熱を絶やせるはずがない。
俺はどこかへ消えてしまった彼女を探しながら物販列へ向かったが、そこはもう長蛇の列。
朝6時前なのに目の前に何千何百という人だかりである。
最後尾を探してもたついているうちに列は長くなり、ようやくついた列の最後で、隣の男に始終独り言を呟かれ続け、寒空の下待つ事5時間。ようやくレジ前までたどり着いたところで目当てにしていた商品は軒並み売り切れてしまっており、申し訳程度に「買っても買わなくてもいいもの」だけ買ってしょんぼりと会場を出たのが11時過ぎ。
あの子はまだ怒っているだろうかとメッセージを送ってみたが、既読すらつかない。物販で買い物を終えた群衆の中にいるのだろうか、あるいはもう帰ってしまったのか。何度も踵を踏まれもみくちゃにされながら探すも、彼女の姿はとうとう見つからなかった。いつの間にか手に提げていた袋は人波に押されて皺だらけになり、みすぼらしい姿をさらしている。北から吹く強い寒気が上から煽り吹く度、余計に俺を心細くさせた。
こうなったら一旦リセットだ。なにか食べて落ち着こう。
何を食べようか。ここはやはり好きなカレーでも食べよう。
こう見えて俺は三度の飯よりカレーライスが好きなのだ。落ち込んだり疲れた時に、喫煙者がたばこを吸うように、呑兵衛が酒を水の様に飲むのと同じく、カレーライスを食べる。すると幾分か胸の内がすっきりするのだ。
そうだ、やはりカレーを、こういう時こそ好きなものを食べよう。
そう考えるが早いか、新宿まで足早に戻ってお気に入りの店をあたるも、時は既にランチタイム。どこも長蛇の列だ。公衆の往来が激しいこの道端でビビッドな色をあしらったコンサート物販のビニール袋を片手に提げ、疲れきった顔の男がカップルや家族連れに紛れて並べる筈もなかった。
しかしそんな弱気さえも空腹に負けてしまい、あちこち歩いた末に新宿東口から数分の距離にある旧マルイの前までたどり着いた。ここに来ると、強いスパイスの香りが一方向から匂ってくる。そこにつられて路地裏に入ったところにあるのは、細い階段。
空腹と1月の寒さも相まって、もうその匂いの発生源となっている階段上のカレー屋しか俺には考えられなかった。あの輪切りトマトの入ったスペアリブカレーを食べれば今朝からの不幸も一気に消し飛ぶはずだと信じて疑わなかった。
俄然やる気がわいてきた俺は、匂いに自ら突進するように歩行者天国と化した新宿通りを横切り路地へ足を踏み入れた。勇み足で路地入口から数メートル。階段の前にたどり着き見上げたところで俺は脱力した。
ここにも列だ。
酷過ぎる。いくら日曜昼時でも、こんなに並ばなくてもいいんじゃないか。
何でお前ら普段来ないような店に並んでいるんだ。
俺は心の中で地団駄を踏みながら迷った。
ここで並ぶか、それとも別のところへ移動するか。
俺は階段の前を熊のようにうろうろしながら考えた。空腹と寒さは執拗に俺に選択を迫る。いやこの場合責め立てると言った方が正しいのだろうか。
兎に角ここらで限界が近づいてきているのを感じた俺は、今来た道と反対を見た。
――あった。
視線の先には小さなT字路があり、その向かって右に小さな看板を出した店を俺は思い出した。
殆ど足を運ばないが、ここでもカレーライスはある。
細長い階段に別れを告げ、俺はT字路の角へと向かった。
店の入り口は角を曲がってすぐにある。暖簾のかかったガラス張りの格子戸はどこか懐かしい造りだ。
学生時代に近所にあった定食屋の様な懐かしさとでもいうのか。実際は友人がおらず誰かと遭遇するのが怖くて、定食屋なんてそんなに懐かしさを感じる程行かなかった事を思い出しながら、俺は格子戸を引いた。
1歩店内へ踏み入れるが早いか、油の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
それもそうだ。ここはカレー専門店でも、街の定食屋でもない。とんかつ屋だ。
入って向かいのカウンター席。奥では親父と他数名が黙々とカツを揚げている。白い衣をまとわせた肉を油の中へ突っ込む度に、ジュワッとはじける音が耳に入ってくる。そこから揚げたてのきつね色に姿を変えたカツを取り出し、カリッと油きりに乗せる音。それだけでも腹の虫が騒ぎ立てる。
「いらっしゃい」
カウンターの外にいた恰幅のいい中年の女性店員がこちらに言った。
俺は、視線をカウンターからその女性に移した。
「おひとり? 」
店員は俺に聞いた。俺は相手に「はい」と頷いたつもりだった
「おひとりでいいのね? 」
どうも喉の奥で声は留まったまま、相手に届いていなかったようだ。相手は俺の相槌だけをみて確認をとってきた。俺は聞こえてなかったことが急に恥ずかしくなり、すぐにでもその場から逃げ出したい気持ちだった。
「あ、はい」
ようやく俺の口から出た声はそんな恥ずかしさと、相手に対しての罪悪感と妙な焦りを混じらせ、カウンターの向こうで跳ねている油の音と、他の客の発する食器の音、会話の声にかき消されそうなほど小さかった。
「ひとりなら……今混んでるから」
成程。数席ほどある小さなテーブルは確かに食事をする客で並んでこそいないものの、すべて埋まっている。時間も昼時真っ只中だ。
これでは結局他の店と変わりなく、いくらか待たねばならないようだ。現にそのカウンターの向こうで調理されて出てきたものが、今まさに運ばれてきているテーブルもある。カウンター席は兎も角、テーブル席は複数名で座って談笑しながら食事をしている。
しかし「あ、待つならいいです」と別の店を探す気力も起きず、寧ろ並んでいないだけいいじゃないかと、腹の虫が俺をこの場に引き留めた。
「お兄さん、相席でいいなら直ぐ座れますけど」
女性店員は続けて俺に言った。
相席かあ……相席って苦手だ。
何故知らない人に交じって飯を食わなければいけないのだろうか。
俺は小さい頃からずっと相席というシステムに疑問を感じ、これまでも出来る限り避けてきた。
しかし腹も我慢も限界に達した今、ここから離れるのは嫌だ。ここは彼女のいう事に従った方が早く飯にありつけるだろう。
それにしても、相席?
カウンターもテーブルも埋まっているのに相席なんてできるのか。どう見ても見た限りでは相席などできる椅子は見当たらない。それともどこかのテーブルに椅子を持ってきて座らされるのだろうか。
俺はそんな下らない勘繰りを頭でこねまわしたが、そんなことを考えても無駄だと考え、その店員の発する「相席」という提案に乗り、再び「あ、はい」と答えた。
「じゃあそこに階段あるので……ご案内します」
階段? 俺は彼女の差す方を見る。
成程、入り口から左奥。壁で隠れて見えないものの、更に奥まった空間が見える。
何度か来ている筈なのに階段には気が付かなかった。
いや、何度もと言ったが、そもそもこの店に来るのは何か月、いや何年振りなのだろうか。建物は2階建てだから階段があっても不思議ではない。ならば上に座敷でもあってそこに通されるのだろうか。俺はそんな事を考えながら左の奥へ歩きだした店員の後をいそいそと追った。
階段は上へは伸びておらず、地下へ向かっていた。
細い幅の階段を壁すれすれの幅で塞ぎ、下りていく女性店員の後をついていくと、すぐに地下階へとついた。
そこは上の階の騒がしさが嘘のように聞こえて来ず、殆ど無音に近かった。
それほど大きな空間ではなく、上の階よりもこじんまりとした場所だったが、その静けさのせいで2人が歩く度に、ほんの秒前まで聞こえなかった靴が床を擦る音すら大きく聞こえる。
空間には4人掛けのテーブルが3つ。1つには難しそうな顔をした男が新聞をテーブルに広げ置いて読んでいる。顔に皺の刻まれた男の髪は白髪交じりで、綺麗に七三分けがされており、表情も相まって神経質な人なのだろうな等と勝手に考えていた。ああいうタイプは苦手だ。几帳面すぎて俺とそりが合わない。数少ない友人にもああいった風貌の男はいない。
職場の上司に1人いるが、どうも苦手だ。無理だ。
しかし人の風貌をどうこう考えていても仕方がない。俺もあの男も飯を食いに来ているだけでこれから一緒に遊びに行くわけでも、会話をするわけでもない。
テーブルは空いているわけだから、席を同じくして飯を食う訳でもないのだから興味を持たずともいいだろう。それよりも今は腹の虫を満たす方が最優先だ。
「お客様、すみません。こちらの方と御相席でかまいませんか」
店員は事もあろうに、その男に相席を持ちかけた。
俺は驚いて、男の座るテーブルとその反対方向を交互に見た。そこにはまだ誰も座っていない4人掛けのテーブルが2つ空いている。それなのに、それでも相席をしなければいけないのか。
俺は店員に「空いてる席があるじゃないですか」と言いたくなったが、確かに先程この店員は相席ならと言った。こちらがそんな要望を出したところで「相席ならといいましたよね?」等と言い返されるかもしれないと思い、俺は言いたいことを胸の中へ仕舞い込んだ。
だが、世の中には俺の様に相席が苦手な人間もいる。七三の男が断れば相席もなくここに据えられた空いてるうちのどちらかに座れるのではないか。俺は男が首を横に振り「いや、相席はちょっと……」等と断ってくれることを願った。
「ああ、構わんよ」
何という事だ、男は俺の希望に沿ったこたえを発さず、首を縦に振り広げていた新聞を小さくたたんで持ち直すと、容易く店員の言葉を承諾した。
神も仏もいないのか。いなくてもいい。俺に1人で飯を食わせてくれ。
そうした胸中の小さなお願いは勿論店員と男に届くはずもなく、俺は「こちらにどうぞ」と椅子を引く店員に促されるまま男の真向いに座らされた。
「今、お茶をお持ちしますね」
それだけ言い残して、店員は元来た階段を上って行った。
店員が去った後、音はなくなり沈黙が訪れた。こうなると非常に気まずい。これが友人なら何か話そうという気にもなるが、相手は今会ったばかりの赤の他人だ。いきなりこちらから話しかける訳にもいかない。しかもどちらかが口を開いても、とても話が合うとは思えない。それに今、俺は座った時「すみません」の一言も、小さく頭を下げることもしなかった。気軽に話しかける以前になにか話しかけようものならそれについて言及でもされるのではないか。俺はひとりで恐怖していた。
そんな俺の胸中を知らない男は、俺から顔を隠すように折りたたんだ新聞を正面に立てて読み始めた。その文字の壁で隔たりがあるものの、俺の心が平静を取り戻すことはなく、寧ろ緊張の度合いは高まるばかりだった。
俺は通路を挟んで反対側にある誰も座っていないテーブル2つを見た。誰も座っていないなら、どこに座ってもいいじゃないか。なぜこの見知らぬ男と席を共にして飯を食わなければいけないんだと心の中で憤っていた俺は、次に店員が水か茶を持って来た時、席を移動したいことを伝える決心をした。
しかしその固い筈の決心は、軽く揺らいでしまった。
湯呑とおしぼりを持って来たのが先程の店員ではなく、ガタイのいい若い男の店員だったのだ。
「ご注文お決まりの頃、また伺います」
仏頂面の男の店員は、俺の前に湯呑と袋に入ったおしぼりを置くと軽く頭を下げ、階段を上がって行ってしまった。相手のペースに飲まれ、完全に言うタイミングを失した俺は、少しだけうなだれた。
そこで向かいに座った男が、新聞を大きく振りながら1面ほど捲った。新聞が俺に当たることはなかったが俺は不快だった。
「あのすみません。新聞もう少し小さく振れませんか。仮にも相席ですよね? 確かにあなたの方が先に座っていて、俺は相席を許してもらった身ですけどね。それにしたってその振り方はないでしょう」
そう言いたかった。
しかしここで言って何か言い返されるのも面倒だし、ほんの数分……飯を食うだけで二度と会う事もないこの目の前の男との間に波風を立たせることもないだろう。もっと言えば、この男が激昂しやすい人間だったらどうだろうか。暴力沙汰になってしまえば、飯にありつくどころか今日この後向かう予定のコンサートに行けなくなってしまう。今日ここまでに不幸なことが続いていることから考えると、ありえないとは言いきれない。
そうならないためにも俺は言葉をしまい、深呼吸を1つだけして辺りを見回した。
就いているテーブルの壁側には小さなメニュープレートがあり、品書きはそこにすべて書かれていた。俺が今日ここで食べたいものはそのプレートの裏に書かれていた。
湯呑を置いて数分。再び男の店員が下りてきた。
俺は注文を伝える時に、席を替わる申し出をしようと決意した。何しろ今度は先程の店員だ。意表を突かれることはない。ちょっと「すみません、空いてるならそっちの席でいいですか」というだけだ。
「お決まりですか」
こんな寒い時期なのに日焼けをした店員が、太く低い声で聞いてきた。
目の前の店員の風貌とその声で、俺は再びの決意をそっと横に置き、視線を彼から逸らすようにメニューを見た。本当は決まっている。けれど席を移りたいという一言が、どうしてもすぐに口から出てこない。
俺は1回呼吸を整えて、店員に言った。
「あ、あの。じゃあ……とん丼」
「後は大丈夫ですか?」
意を決していった俺の言葉に、店員は反射的に聞き返してきた。
「あ、はい。大丈夫です」
俺はかしこまってしまった。
「お待ちください」
店員はそれだけ言い残し上へあがって行った。
店員の足音が小さくなるのを耳にしながら、俺はまた席の移動を言えなかった事を思い出し、自分自身を責めた。
反対のテーブルまで1メートル程度。
そんな短い距離しかない筈なのに、今ではそこがどんな川の幅よりも遠く感じられた。
男は相変わらず新聞を眺めている。注文も終えてしまいすることがなくなった俺は、ポケットからスマホを取り出して画面ロックを外した。
画面の右上にあるバッテリー残量は半分をきっていた。
しかしここにきて何もすることがないとなると、こうしてスマホをいじるくらいしか考えられなかった。
横に置いたヨレヨレの手提げバッグの中に入った「戦利品」という名の先程購入したグッズを眺めてもいいが、それはこんな相席ですることではないと思いそれに踏み切れなかった。
時間はその歩みを緩め、ただただ過ぎていく。ほんの1分が異常に長く感じられた。
時折男が新聞紙を揺らすことで、その空間の時間が止まっていないことを証明していたが、時間の速度に変化はなかった。
居た堪れない気持ちが胸を満たし、胃袋までじわじわと侵攻を開始している。
兎に角この緊張した状態から一刻も早く抜け出したい気分だった。。
*
あれからどの位経っただろうか。
俺はなかなか変わらないスマホの画面に表示された時刻を気にしながら、早くここから出たいという事しか考えていなかった。思い付きではあるものの、ここにフラッと入ったのは正解だったのかわからない。寧ろ長い列で並んで待ち、1人分の席があいた時にのんびり飯を食う方が正しかったのではないかと自分を疑う事に夢中になっていた。
注文した品はまだ来ない。
目の前に座って新聞を広げる男の下にも何か届けられる様子はなかった。
ただしんと静まり返ったこの空間で男が二人、お互いを見ずに、思い思いの行動をしている。それだけなのに、俺は緊張していた。
そもそも俺は人と何かをすることが苦手で、常時一人で行動している。
友人達や気になる女の子といる時でも心が休まらない事もあるのに、今間の前にいるのは全く関係のない初老の男だ。ここに座ってから手汗も背中の冷や汗も止まらない。
せめて注文したものが来るまで、何かで気分を紛らわせなければ。
そう思っていた矢先だった。
「遅い」
俺の向かいからぽつりと聞こえた。
俺は驚いてスマホから顔を上げた。
向かいの男は新聞を折ながら顔をやや下に向け、続けた。
「どれだけ待たせるんだろうな」
大きな独り言だ。
「俺は今日、とんかつを食べたかっただけなんだ。それがどうだ。こんなに待っているのに、何も運ばれて来やしない」
男は顔を上げて俺を見た。眼光は鋭く、彼の口から発せられるそれは俺を叱しているような気がしてならず、男から視線をずらせなかった。
「はぁ……」
俺の口はそれだけこぼした。
「この新聞だってもう何回……いや何十回も読み直している」
男は新聞をさらに小さく畳み、テーブルの隅に置くと腕を組んだ。
「注文したのがいつだったか、確か昼前に入って既に満席だったのでこの地下に通された。店員が注文を取りに来て、ぽつりと答えて、あとはそれっきりだ」
男は俺を見ながら、しかしそれは誰に向かって話しかけているのか分からないものだった。
「ここは静かだ。下りてきた時、ここは上の階とそんなに離れていなかった筈なのにあんなに騒がしかった音が1つも聞こえてきやしない。なあ君。おかしいと思わないかね? あれだけ込み合っているのに、これだけ席も空いているのに、客を通す声すら聞こえない。昼時ならすぐにここも埋まろうというものだが、君が席に就いてからこっち、店員がまったく他の客を連れて下りてくる気配はない」
「あの……」
俺はやっとの勇気を振り絞り、男に言った。しかし男は気にせず続けた。
「それに君が来たのも、俺がこの席に着いて随分経ってからだった。そこまで長い時間だった。腕に巻いた時計を見ても一向に時間は進まない。たまたま手持ちの新聞と――」
男は体を折り、下でガサガサと音を立てると、両の手で何かを抱え、体を元に戻した。
男の手には城が抱えられていた。天守閣に金色の鯱をそえたそれは勿論実物ではなく、城の模型だ。ただ組んだだけではなく、植込み、芝、壁、石垣の質感すべてに加工が加えられている。俺はすこし身を乗り出してその造形を眺めた。
「帰宅してから作ろうと思っていたのだが、どうにも退屈でね。箱を見るだけ、すこし組んでみるだけと続けていたら、結局ここまで完成してしまっていた」
これは俺を笑わせようとしているのか。それとも本当なのか。
もしかするとこの男は変人、電波さんの類で、俺はそれに絡まれているのではないだろうか。
「で、どう思うね」
男がテーブルの上で手を組んで言った。
余程自分が取り出した模型に自信があるらしい。こうなると何も答えないわけにもいかなかった。
「はぁ……いや、俺あの……プラモとかあまり得意じゃないんで分からないんですが、やっぱりこういうのってここまで作りこむって経験というかそういうのがないとできないですよね」
「模型の話をしているんじゃない」
男が俺の言葉を切った。
「あ、すみません」
俺は伸ばしていた首を引っ込めた。
「この場所の話をしているんだ。音だけの話じゃない。とんかつ屋の筈なのに、揚げ物を扱う店独特のあの油の臭いもない。あれだけ上で人が食べているのにだ。これを作りながら私は考えた。ここと上の階は別なんじゃあないかと」
「別ですか」
俺はいよいよこの男が、少し頭をやられた者だと疑い始めた。そうなると困った。そういうのと関わりたくはないので、店員を呼んで注文を取消し、すぐに店を出なければ。
「別だ。店が違うという事はないが、ここは空間というか……世界が別。時間の流れがどうにもおかしい。君ね、その……手に持ってるそれは何かね? 」
男が俺のスマホを指差す。それは何かねということは、この男スマホを知らないのか。
「はぁ。携帯ですけど」
「携帯。携帯電話? ならその時計を見てみるといい」
俺は男に促されるまま、画面を表示させた。時計は13時に達するどころか、さっきから一向に時間が進んでいないように見える。
「文字盤を眺め続けるとある程度は時間が進むんだ。ゆっくりとね。だが少し目を離すと、ある一定の時間へ戻っている。これを私は何度も確かめた」
「それは、時計が狂っているからじゃないんですか? 」
「昨日手巻きしたばかりだ。そうそう壊れる安物でもない。おかしい事はもう一つある」
男は俺の後ろを指差した。
「あの階段。上には上がれないのだ」
駄目だ。この人、やはりおかしい人だ。
これ以上相手をしていたらこちらが何かしら被害をこうむることになる。
「私は何度も上がろうと試みたが駄目だった。店員は行き来しているし、実際私たちが下りてきた階段である筈なのに、上にはいけないんだ」
「冗談はよしてください。よし、何なら俺が上がってみますよ。それでこない注文も言ってきてみましょう」
いうが早いか、俺は荷物を手に提げると階段へ向かった。このまま上に上がり、注文をキャンセルして店から出ていこうと考えたのだ。
階段は狭くU字に曲がっている。そのカーブを2つ曲がりながら上がれば1階に出る。やはりあの男は狂人だ。頭のおかしい壊れた人だ。そんなことがある筈ない。
まったく、今日は最悪な日だ。
そう思っていたのはほんの一瞬だった。
俺は彼を狂人だと思う事を止め、次に自分の感覚を疑った。
確か1階へはU字のカーブを2回曲がりながら上がれば着くはずだった。しかし今俺は『4つ目のU字』を曲がろうとしていた。俺は恐怖を感じつつも足を止めずに先へ進んだ。その先はどこかの空間へ続いておらず目の前には更に階段が続いているのだ。
俺は先程とは違う冷や汗を背中に感じ、慌てる様に階段を下りながら恐怖した。
あれだけ何度も曲がった筈のU字カーブは1つしかなく、すぐに地下のあの空間へと戻ってこれたのだ。
空間の奥では男が俺の様子を見ながらにやりと笑った。
俺は気まずくなったが、そこに居ても仕方なく思い、再び自分が元いた席に着いた。
「君は私をキチガイか何かだと思っていなようだね。残念ながら、私は正常だよ。階段の先が何処に続いているのか歩いてもみたが、そこには階段しかなかった。『1階なんてここには存在しない』んだよ、ここは。私が考えるに君ね、ここはこの空間だけで完結してしまっているんだ。どういう理屈でここに入ってこれるのか、そこまではまだ理解はできないがね」
「完結ですか」
「そう、完結。だから1階と別の世界であれば、1階と同じ時間の流れをしていなくてもそういう可能性があることは否定できないんじゃないかな。私はそれを考え、考える事に疲れたら読み飽きた新聞を読み、買ったばかりの模型と工具を取り出して作り、時間を持て余してこない注文を待っているのだよ」
老人はヤニで黄色くなった歯を微かに見せて笑いながらテーブルの上に置きっぱなしになっていた城の模型を下に置かれているであろう袋へとしまった。
「どれくらい待ったのだろうか。待って待ちつづけて……ここに座った時、私はそうだな、君と同じくらいの年の頃だったんだが、いつの間にかこんなに年老いてしまった。それでも注文したとんかつは未だにくる気配もない。軽微な空腹以外、眠気も排泄欲もないのが唯一救いだ」
全身に悪寒が走る。
この男は今幾つなんだ。俺と同じ年齢でここから入って未だ出られず、ただひたすら、少なくとも俺が来るまで1人でずっと待ち続けていたというのか。
時間が流れ、元に戻る。しかし確実に老いていく奇妙な空間で、ずっと、ずっと……
俺は机に腕を突き両手で顔を覆った。
「そんな莫迦なことがあってたまるもんですか。出られないというのは確かですが、そんな年を取っても出られないというのは冗談ですよね」
「そう思いたければ思うがいい。何、時間はたっぷりあるんだ。我々の注文したものがいつ来るか分からないが。まあ気長にいこうじゃないか」
男がまたにやりと笑った。
俺は上の階に届くのではないかとあらん限りの声を振り絞り声を上げた。しかし、声か空間に染み込み。誰ひとり気づいて下りてくる気配などなかった。
*
「お客様。あの、お客様」
店員の声で俺は目を覚ました。
どうやら眠っていたらしい。涎が口元からこぼれかけていたので、左手で拭いながら俺は声のする方を見た。そこには盆を持った店員が立っていた。
「大丈夫ですか?」
店員が俺に言う。
俺は辺りを見回した。そこは先程と変わらない地下1階のテーブル席。俺はその1つに座っており、向かいには七三分けの男が相変わらず険しい顔で新聞を眺めている。
夢を見ていたようだ。夢にしては妙に妙に生々しい感触があった。
「あ、大丈夫です」
俺は店員の顔を見ずに返した。
その直後、俺の目の前に鈍い音と共に1杯の丼が置かれた。
それは紛れもない俺の注文した「とん丼」だった。
とんかつ屋で丼ものと言えば、平たい肉に衣をつけて揚げ、出汁、ネギや玉ねぎを卵でとじた「カツ丼」が一般的だ。しかし、この店にはカツ丼がない。メニューにある「とん丼」というのは見た目からして違う。
まず、カツの切り口が丸い。一般的なカツ丼のカツの様に平たくはなく、フォルムは全体的に円柱のそれだ。それを斜めに切ったものが3きれ、丼の中で互いを支えるように、文字通り立っている。それらをまとめているのは卵ではない。白飯には明るい色をしたカレールーだ。
カツとルーで飯を多い、更にその上からカツめがけてほんのわずかにソースがかけられている。カレーのあの食欲をそそる匂いに、揚げたてカツの香ばしさとソースの酸味ある匂いが混ざり、食べる前からおかわりを要求してしまいそうだ。
丼はこれで完結しており、そのほかには何もない。
とんかつのセットではないのでとん汁やみそ汁もつかない。香の物が小さく傍らに小鉢で着くだけのそれは、ただただ丼に集中できる。
俺は目の前の丼に早速手を伸ばそうとしたが、途中でやめてしまった。
それは俺より先に座っていたであろう、目の前の男の注文より、後からきて相席している俺の方が先に来てしまった気まずさからくるものだった。
店員は何食わぬ顔をして俺の丼だけ置くと、上階へ戻って行ってしまった。
俺は丼から顔を上げ、男を見た。
彼は相変わらず新聞で壁を作り、その表情を見せないでいた。
もしかしてこの男は何も頼んでいないのだろうかとも考えたが、とんかつ屋に来て何も頼まず座っているなどありえない。俺はその答えを飲み込んだ。
そもそも俺のとん丼が来た時点で「こっちの注文したものが来てないんだけど」と聞いてみるものではないだろうか。
そこで俺の中でひとつの答えが浮かび上がった。
――この人、実はもう食べ終わってるのではないだろうか。と。
そう考えると、もはや何も気にすることもない。
「あの、もう食べ終わった後ですか?」等と野暮なことを聞くこともない。
俺はいつまでも新聞紙を広げている男に軽く頭を下げ、改めて丼に手を伸ばした。
このとん丼、まずどこから手を付けて良いかわからない。
分からないのでまずは斜めにカットされた円柱状のカツを1つ箸で掴み、口へ運ぶ。
口に入ったそれは揚げたてた衣のとげとげしい触感と共に、それを身にまとった肉の柔らかさが飛び出てる様に主張してくる。肉の面にかかったソースの酸味が肉自体の甘さを引き立たせていた。
カツは小さく見えてその実大振りであり、1口で飲み込めるものではない。程よいところで噛み切れば、サクッと衣が切れ、カツの中に収められていた肉汁が口の中にじんわりと広がる。軽くもなく、重すぎもしないそのカツを3口で食べ、俺は次に丼の中にぽっかり空いたスペースへ侵攻を開始した。
飯の上にかかっているカレーは、色こそ薄く明るい。が、曲者である。
最初こそまったりとした舌触りが給食のカレーを彷彿とされるが、そのスパイスの効能か、食べるにつれじわじわとカレーの辛みが口内に蓄積されていくのだ。それは激辛の主張というものではなく、本当に、まごう事なき中辛。ここでもカツに乗り損ねたソースが威力を発揮している。このカレーの上にある「乗り遅れたソース」は酸味よりも甘味が主となっており、カレー自体の味とうまく融合を果たしている。それはその下に眠る重たい米飯を主役にするための役割を充分に全うしていた。
2つ目のカツに箸を伸ばす。今度は肉の面をカレーにつけて口に運ぶ。
これもまた先に食べ終わったとんかつと同じもののはずなのに、違うものと錯覚させるほどの変わり様だ。肉のうまみと衣の香ばしさに、カレーの程よい辛さがそろい踏み。
それぞれが個々のうまさを持っているのに、バラバラではなく、横一列で走り抜けるが如き調和だ。それを無言で咀嚼し、気が付けばそれらはあっという間に喉の奥へと消えていった。
ここで一息つき、小鉢に入れられた漬物に手をのばす。
漬物は大根に人参、そしてピーマンである。漬物らしからぬピーマンという存在がほんの僅かに、見えるか見えないか程度に、糸のように細く入っている。これが大根と人参にはない苦みを発揮し、カレーとカツでまとまった口の中に一陣の風の様な爽やかさを残すのに一役買っている。
そこへ飯とカレー。さらなる追い討ちだ。
丼も気が付けば残り半分。後半はカツを小さくかじり、そのままカレーと飯を同時にかきこむ。行儀が悪いと昔よく叱られた食べ方だが、これが一番うまく感じられる食べ方だと俺は思っている。カツをかじり、飯、またカツを小さくかじりカレー。交互に交じり合わせることで先程の2つの食べ方をも凌駕するうまさがそこに生まれている。勿論、先の食べ方をした上での事だ。どれも間違いじゃない。
とん丼も残り僅か。あとは丼の中身が空っぽになるまでひたすらに食べ続ける。そうしているうちに俺は、今朝からあった小さな不幸が気にも留めない位ちっぽけなことだと思い始めていた。
最後の米粒を残しておいた漬物のダイコンでとり、完食するころ、俺は目の前で咳払いをしながら新聞を広げている男の存在も忘れていたことに気付いた。
とうとう彼の前に品物が来る事は、俺が食べ終わってもなかった。
今こうして丼を置いても、誰かが下りてくる気配もない。
白髪交じりの男と俺の2人から増えることはなかった。
食べ終わった以上、ここに留まる理由などない。
俺は両手を合わせて小さく「ごちそうさま」と呟くと荷物をまとめて席を立った。
この地下は本当に静かだ。活気のある店内だ。客の声くらいしてもいい筈の上階からの音が、何も聞こえない。相席は少し癪ではあったが、静かに美味い物を食えるというのは実に満たされる。だからこれはこれで好機好日だったと俺は思う事にした。
階段を上り、1つ目のU字にさしかかった頃だ。
「食えてよかったな」
確かにそう聞こえた。俺は後ろを振り返りそっと地下を覗き込んだ。
奥の席で顔こそよく見えなかったが、あの広げられた新聞と1人分の脚が、テーブルの間から確かに階段を上がるこちらを見ていた。俺は聞き間違いだと思い込むと同時に、小さな恐怖をバネに駆け足で階段を上った。
上りきった時、あんなに混雑していた1階に客の姿は1人も見えなかった。
時間は13時をとうに過ぎており、店員が先程出て行ったのであろう客の座っていた席の片づけをしていた。
「相席にしてしまってごめんなさいね。あの後席が空いたけど、また上がってもらうのもお客さんが忙しくなると思って」
最初に相席を案内した女の店員が俺に頭を下げた。
俺はなんだか判らない恥ずかしさでつられて頭を下げ、爽やかに返そうとしていた「ごちそうさま。又来ます」という言葉も口の中でもごもごと小さくどもって発した。
引き戸の外は乾いた寒風が待っている。
俺は羽織った上着を確認するように正し、乾いた寒風を吸い込むと一歩踏み出し、店を後にした。
気分はそれほど悪いものではなかった
〈了〉