ホシ一家
オレンジ色に染まった天井が見える。……今は夕方か、なんだかデジャヴだな。
血液の代わりに汚泥が体内を巡っているかのように、体は重く乾いていた。
目やにで固まった瞼を緩慢にこする。
ここはどこだろうな、あの病院でないことは確かだけど。
気を失っている間に誰かが運んでくれたのだろうか。まだアンデッドが残るあの病院で、誰が?
とりあえず今はどうでもいい。そう思えるくらいに気怠く、考えるのが煩わしい。
「あ、起きた?」
急に話しかけられて初めて、そこに人がいることに気が付いた。
肘をついてのっそりと上半身を起こす。腹に痛みはない。
声がした足の方を見遣ると、女性が壁際の椅子に足を組んで腰掛けていた。
大きな瞳は優しやと意志の強さを感じさせ、夕陽に燃えるワンレンの銀髪は、とても綺麗だった。
そういえば、一番遠くまで届く光色がオレンジ色だから、朝日も夕日も同じ色なんだよな。冷えた地表に真っ先に差して、最後の最後まで太陽が送り続けてくれる光、優しいオレンジ色。
なぜかそんなことを思い出しながら、ぼんやりと女性の銀髪を眺めていた。
「……大丈夫?」
怪訝そうに尋ねられて我に返る。
「ここってどこ? ……あんたは?」
「私はゴミョウ・カーラ。体には大丈夫? ホシ・マガテ君」
どうやら俺の名を知っているようだ。
そっと腹に手をやると、皮膚は突っ張っていたが刺された傷はほぼ塞がっていた。
「大丈夫そうね。セツの話してた通り」
心臓を外気に晒すような心細さと不安が込み上げる。セツ、兄ちゃんの名だ。
「兄ちゃんを知ってるの?」
「私、セツの職場の同期なの」
「土建屋の?」
目の前の女性、改めゴミョウさんが建設業者で働いているという絵はとてもじゃないが想像できなかった。事務方でもイメージできない。
「土建屋の? マガテ君の前ではセツは土建屋さんだったわけね」
「俺の前では?」
「あとでね。水、飲むといいよ。ずっと寝てたから、口の中気持ち悪いでしょ?」
確かに喉はからからで口の中もなにやらまずい。ベッド脇にある棚の上にコップを見つけると、一気に飲み干した。
無味無臭の水が美味かった。体に水分が染み渡り、血液の循環が円滑になった気がした。
俺の体がそれほど水分を欲していたのだろう。
もう一杯水をもらって、ようやくひと息ついた。
「もういい? それじゃ、とりあえずこれ着て。付いて来て」
ゴミョウさんは立ち上がり、俺に黒いコートを差し出した。
依然として体は怠い。目覚めたばかりだというのにどこに連れて行くのかと不快に思ったが、ひとまず言われた通り入院着の上からコートを着込み、ベッドから降りる。多少ふらつくが、歩くことに支障はなさそうだ。
「そこ、スリッパあるから」
ゴミョウさんはそう言うと病室のドアに鍵を差し込んだ。
ドアを開けるとそこはもう外で、室内の暖気を押しのけるように冷たい空気が入ってくる。
「……ここって」
目の前に広がる平地には、西日に照らされ影を伸ばす石板が無数に生えていた。起き抜けに連れ出された不快感はどんどん薄れていった。
代わりに焦燥と、おそらくはそうであろうという悲哀が胸を占めていく。石板はどれも同じ形で薄く、俺の知っている墓石とは違っていた。
「こっちよ」
静かに林立する墓石を縫うように歩く。
「ごめんね、マガテ君が目覚めるまで待っていたかったんだけど」
案内された墓石に視線を落とすと、そこには兄ちゃんの名前が刻まれていた。
「やっぱり、綺麗なまま送ってあげようって」
なんとなく覚悟はしていた。お前は生きないけん、見ちょんけんなと俺を優しく叱咤して果てた兄ちゃんの声がよみがえる。
「……いや。最後にそばにいれたから」
作法はわからないが、しゃがんで手を合わせた。油断すると後悔の底なし沼に沈みそうになる。
――自殺なんてしなければ巻き込まなかったのに、都会なんかに出ずに田舎で兄ちゃんと暮らせばよかった、転職という選択肢だってあったのではないか、なんの恩返しもできないまま死なせた。
今は無理矢理そんな気持ちに蓋をする。兄ちゃんの前で、みっともない姿は晒せない。
「セツはね、ここで働いてたの」
頭上から声が降ってくる。
「万聖円環機構、悪魔の脅威から物質界の秩序を守ることを目的とする組織よ。みんなサークルって呼んでる」
万聖円環機構、サークル。平たく言えば正義の味方ということか。まさかこの世にそんな組織があって、しかも兄ちゃんが働いていたなんて。
でも、確かにあってもおかしくないよな。ダスター然り、ムールムール然り、アヌースを宿してから続けざまに悪魔に遭遇した。俺が知らなかっただけで、悪魔は日常に存在するわけだから、それに関わる組織があるのは自然なことなのかもしれない。
「いつから働いてたん?」
「私がここに来たのが12歳のときだから、セツは19歳になる年かしらね」
兄ちゃんが高校を卒業してすぐだ。ずっと建設会社で働いていたと信じていたが、おそらくそんな事実はなかったのだろう。
「セツ、年上のくせにひょろっちかったんだけど、俺が弟を守るってすごく頑張って」
どちらかと言えば細身で、肉体を使うよりむしろ机が似合う兄ちゃんだった。それが「建設会社への就職」を機にマッチョ化が進み色黒になっていった。兄ちゃんの変貌ぶりを見ながら建設現場の過酷さを感じていたが、まさか悪魔との戦いを通じてのものだったのか。
「ここに通うのにもキミのためにひと騒動起こしたみたいよ。サークル本部は都心にあるんだけどね、マガテ君達の故郷から離れてるでしょ? 本部から通えるところに引っ越すようにうちの事務方に言われたらしいんだけど、弟を転校させたくない、俺はあの家から離れないってきかなかったんだって」
そう、兄ちゃんがあの家を守ってくれた。俺達家族の想い出の場所。
「セツって、キミのことは嬉しそうに話してくれるんだけどね。自分のことはあんまり教えてくれなかったんだ」
「兄ちゃんは、多分ずっと兄ちゃんのまんまだよ」
俺は墓石と対話するようにその場にぺたんと座り込む。
「そう。キミ達はどんな家族だったの?」
俺が思春期真っ盛りの中学二年生で、兄ちゃんは秀才ぶりをいかんなく発揮していた高校三年の頃、俺達の両親は事故で死んだ。
俺達は、両親に兄ちゃんに俺の4人家族で、夏休みに海外旅行に出掛けたり、週末の食卓はいつもより豪華に彩られたりと、まあよくある中流の少しだけ上、といった家庭環境だったように思う。
背がひょろりと高く手足が長い父は、柳のような寡黙さとしなやかな強さをまとった人だった。
平日はいつも仕事で遅くなるからか、小さい頃は週末になるとうんとかまってくれた。
例えばキャッチボールやサッカーのパス練習、父はどんなスポーツでも器用にやってのけ、僕と兄ちゃんを虜にした。例えば図書館、自分の読みたい本を上手に見つける方法を教えてくれた。
とにかく父の休みの日は一緒に遊んだ。俺は遊んだ後に父が発する、なんとも男臭い、少し頭がくらっとするような汗の臭いが大好きだった。
一番頻度が多かったのは登山だ。ただ登るだけではなく、兄ちゃんがこの花はなんだ、あの草はなんだと道中目に留まった知らない植物を片端から父に聞くため、さながら生物の授業を受けながら登山しているようだった。
イワカガミ、コケモモ、ツクシシャクナゲ、ユキザサ、マイヅルソウ。俺は正直植物にあまり興味はなかったのだが、開花したミヤマキリシマの群落には感動した。
山にピンクの海が湧き起こり、所々に他の植物が緑の浮島のように点在する。登山の疲れを忘れさせる美しさがあった。
父は山頂に着くと必ずコーヒーを淹れた。山頂から遠くを眺め無表情にコーヒーを飲む父の横顔は、なんとなく近寄り難く、このまま山頂に置いていかれるのではないかと心配になった。
そしてコーヒーを飲み終わると、これも決まって俺達の頭をガシガシと乱暴に撫で、いつもの父に戻るのだ。
母は父に輪をかけ――静かで優しいことはなく、とてもパワフルで大胆な人だった。
小学生の頃、俺は口べたで何かあるとすぐ手が出てよくクラスメイトを泣かせてしまっていた。
何度両親や学校の先生と、もう叩かない、言いたいことがあれば口で言うと約束しても、そのときの衝動を抑えることはできなかった。そうしてまた、友達を殴って泣かせたある日、どうやら先生から母に連絡がいっていたらしい。
業を煮やした母は、学校から帰宅した俺を有無を言わせず車に投げ込んで裏山に連れて行き、木に縛り付けて帰ってしまった。
しかし縄で俺を縛る途中、おそらくは自分の行為に対して冷静になったのだろう、縄は蝶々結びで結ばれていた。
難なく縄から抜け出したものの、歩いて帰れば今度は勝手に帰ってきたことで怒られるかもしれないと思い、俺はどうすることもできず裏山にある小さな公園で遊んで時間をやり過ごした。
日が暮れ、野犬の遠吠えが聞こえてきてやばいと感じ始めたときに、父が迎えにきてくれた。
あとで聞いた話では、怒った手前自分で迎えに行くことができずにいた母が、勤務中の父に連絡して仕事を早く切り上げてもらい、迎えに寄越したらしい。
家に帰ると、二度と叩きなさんなえと言いながら、母は温かい鍋焼きうどんを出してくれた。俺は母が作る少し味の濃い甘い鍋焼きうどんが大好物だった。
とにかく、そんな優しい父、気丈な母、秀才な兄ちゃんとの生活がこれからもずっと続いていくものだとばかり思っていたが、両親の交通事故死によって呆気なく終わりを告げた。
両親を失くした未成年の俺達は叔父の家族にお世話になることになった。
叔父一家は他に叔母、長男、長女がいて、当時の身なりや言動からするに、貧しい環境に身を置いていたらしい。
今までほとんど交流のなかった叔父一家が俺達を受け入れると名乗り出たときには、どうにか生活が繋がったと安堵したが、彼らはただのハイエナだった。
6人で暮らすにはうちは手狭だ、お前達は転校しなくて済むからありがたいだろうなどと理屈をこねて、彼らは手始めに俺達の家に移り住んだ。
そうして、我が物顔でやれこの絵画は品がない、やれ炊飯器が古くて炊く米がまずいと文句を言い、湯水のように金を使い我が家を侵食し始めた。
叔父家族の身なりはどんどん派手になった。従兄妹達は俺達兄弟の部屋を奪い、あたかも始めからこの家の主人は自分達であるかのように振る舞い出した。
恐らくは、俺達を子供だとなめていたのだろう。主導権は自分達にあると勘違いしていたのだ。
しかし、俺は人並み以上の体を持ち、兄ちゃんは叔父家族が束になっても敵わない賢さを持っていた。
俺達が相続した資産の管理は俺達でやると突っぱね、あちらが応じなければ実力行使で無理矢理我を通した。
奪われた部屋を奪い返し、両親が残した遺産で買われた無駄なものはへし折り引き裂いた。一時、家は戦場だった。
俺達を自分達のコントロール下に置くのは難しいことを叔父一家は、表向きは大人しくなったが、今度はどうにか俺達を追い出す方法がないかと画策していたらしい。
叔父達は盗人猛々しかった。
逸早くそのことを察知した兄ちゃんは就職の道を選び、労働者という社会的地位と経済力を身に付けて逆に叔父達を追い出そうとしたが、俺が学校で兄ちゃんが職場に行って家にいない間、叔父達はまた好き放題過ごすようになった。
もうどうしようもないんじゃないか、何度こんなことを繰り返せばいいんだ、俺達家族の想い出が詰まっている家ではあるが、諦めた方が楽になるんじゃないか、と俺は心が折れかけた。
しかしそんなある日の夜、突然叔父達は悪魔の家だの何だの言いながら血相を変えて、着の身着のまま家から出ていき二度と戻って来なかった。
「セツが何かけしかけたんでしょうね」
ゴミョウさんに家族のことを話しながら、俺もそんな気がしていた。
長年疑問に思っていたあの図々しい叔父達が突如去った理由がやっとわかった。
きっと、叔父達の捨て台詞通りに悪魔か何かをけしかけたに違いない。
「マガテ君達みたいな家族なら、私もほしかったな」
ほしかった? ゴミョウさんに家族はいないのだろうか。
「ねぇ、セツの最期はどんなだった?」
「……格好良かったよ」
「……そう」
気付けばいつの間にか黄昏時だった。
兄ちゃん、ありがとう。これからん俺をちゃんと見ちょってよ。