覚醒
「カムラ!」
(先程話したであろう。もう、カムラではない)
(……除霊できたのか?)
(いや、物質界での姿に戻っただけだ)
(どういうことだ?)
(さっきまでのそやつは、憑代を媒介として地獄での悪魔本来の姿を物質界に発現させていたのだ。……真の力を使うために変身していたと思えばよい。しかし、変身は魔力を消耗する上、憑代への負担が大きい。我らの攻撃によって変身が解けたのだろうな。おそらく気を失っているだけだ)
(……そうか)
(我も魔力はほぼ尽きた。……すまんが……寝る)
左腕の盾が片刃の剣に変化した後、アヌースの気配が俺の奥に沈んでいくのを感じた。
残りのアンデッドはこの剣と独力で切り抜けろ、ということか。
周囲を見渡す。
電気系統が破壊されたのか、停電したフロアにはわずかにしか外光が入って来ず薄暗い。
突然の主人の意識消失を受けてか、それともアヌースが発した凄まじい光を恐れてか、アンデッドどもは俺を遠巻きにノロノロとうろついている。
咳き込む音が聞こえた。
いつの間にか黒い球体は消え、兄ちゃんが床に横たわっている。
「兄ちゃん!」急いで駆け寄る。よかった、満身創痍だけど生きている。
「……マガテか」
「大丈夫?」
「……に、逃げろ」
「あん悪魔なら倒したけん」
兄ちゃんは一瞬驚いたような顔をし、寂しそうに笑んだ。
「……そうか。お前、倒したんか」地面を肘で突っ張って上体を起こそうとする。
「ボロボロやん」兄ちゃんの体を支える。「カムラ診るけん、ちょっと横んなっちょきよ」
「カムラっち、見舞いに来ちくれた友達か」
「そう、そこで気ぃ失っちょん」
兄ちゃんの表情が曇る。「……まさか、悪魔に憑かれたんか」
「そう」だけど、なぜ。「……受肉、ち言うんやろ」
「……知っちょったか」
「兄ちゃんこそなし知っちょんの? ムールムールが巨人とか守護者とか言いよったけど、兄ちゃんなんか関係あるん?」
唯一の肉親まで、そういったわけのわからないものに関係しているのかもしれないという不安で、つい口早に尋ねてしまう。
兄ちゃんはまた、笑んだ。何かを覚悟したような、諦めたような、そんな笑みだった。
「なんから話そう。……そん前に、友達ん体返しちもらうか。肩いいか?」
兄ちゃん。やっぱり兄ちゃんは「この世界」に関わっているのか。俺は呆然としながら肩を貸し、カムラのそばまで歩いて行った。
「こっからは一人で大丈夫や」
兄ちゃんは跪いて、うつ伏せに倒れたカムラの頭に手を置き何かを唱え始める。無骨な掌には温かな緑白色の光が灯りだし、カムラの体に呼びかけるように明滅する。
柔らかな光に目を細めながら、兄ちゃんは無表情だ。
中空にはかざした掌から発せられる燐光が舞い、まるで蛍が黄泉路を照らすかのように優しく残酷な光景だった。
きれいだな。
その所作を間近で見て、ずっと以前から兄ちゃんが「この世界」の中で生きているであろうことを、唐突に理解する。
いつから兄ちゃんはこうなのかな。なんで教えてくれなかったんだ。俺のこの体にも関係しているのだろうか。
緑白色の明滅に合わせるように、次から次に疑問が浮かび上がる。
全部聞こう。除霊が終わり、病院を抜け出したら兄ちゃんの知っていることを話してもらおう。
そして、俺のことも聞いてもらおう。仕事のこと、アヌースのこと、これからのこと。
次第に力強さを増す光を見ながらそう決めた。
しかし、突然光が途切れる。
「っつう!」
何が起こったのかわからない。兄ちゃんはカムラの上に置いていた手を抑えてうずくまっている。
カムラがガバと顔をあげ、奇怪な四つん這いで素早く俺に駆け寄ってきた。その顔はグールだった。
予期せぬ事態に体も心も反応できない。呆気にとられているうちに、真正面から鯖折りよろしく組み付かれて押し倒された。
そのままずるずると床を引きずられ、兄ちゃんから遠ざけられる。
カムラ越しに見た兄ちゃんは黒い靄のようなものに覆われていた。
何か決定的にまずいことが起きている。ようやく悟り、無理矢理引き剥がそうとした瞬間、カムラの喉がざらついた音を発した。
「マ゛……ガ……デ」
このタイミングで俺の名を呼ぶという行為、その裏にある明確な悪意を感じ取った。
その行為は俺の動きを封じる一手に違いない。その一手によって稼いだ時間で、奴にはなし得たい何かがある。
もう、この体にしがみつくモノはカムラではないのだ。名前を呼ばれたことで逆に冷静さを取り戻せた。
力任せにもがいてみるが、両腕ごと抱き固められていて引き剥がせない。
急げ。
剣を握る力を弱めて柄を遊ばせた。
剣の形状のまま、光球のように操れないか試してみると、手の内で力強い浮力が生まれた。
よし。
俺は剣を手放して操り、カムラの太腿に突き立てる。
「グガァッ」
カムラは苦痛で身を捩り進行を止めたが、拘束を解くには至らない。
顔と顔が向き合った。
カムラの顔は先程の戦闘での損傷か、呪害の影響か、頬はえぐれて歯がのぞき、片方の瞼はただれ落ち、なんの感情も宿さない伽藍洞の目玉がむき出しになっていた。
ついさっきまで、やつれた顔して転職の話なんてしていたのに。
壊死しかけているその顔に、今までのカムラが幾重にも重なる。
新人研修の隣の席で舟を漕ぐ間抜け顔、居酒屋で酔っ払いながら可愛い同期の話をする赤ら顔、結婚と父親になることを伝える嬉し顔。
わかっている。カムラはグールになり助かることはなくて、俺の名を呼んだのは罠で、兄ちゃんの身には危険が迫っていて。
しかし、もうダメだ。これ以上目の前のこいつを傷付けることはできない。
苦し紛れに兄ちゃんを見遣る。
黒い霧は兄ちゃんを中心に収縮していき、その濃度は薄まっていく。
まるで体内に浸透していっているようだ。
まさかムールムールは兄ちゃんに受肉しているのではないか。
やつは「使ってやる」と言っていた。
それに兄ちゃんを包んでいた黒い球体は、カムラに受肉したときのものに酷似していた。
戦闘の最中、受肉するための何かしらの準備をしていたのだとしたら。
「兄ちゃん! これ使って!」
剣を兄ちゃんに向けて飛ばした。これで何ができるかはわからない。しかしきっと兄ちゃんなら何かできるのではないか。
そんな都合の良い期待に祈るような想いで縋った。
剣を手にした兄ちゃんは立ち上がりこちらを振り向く。
光刃に照らされたその表情は、なにか決定的に兄ちゃんではなかった。
優しさであったり、情深さであったり、そう言った自然と滲み出る兄ちゃんを兄ちゃんたらしめるものが欠落していた。
「よう、弟よ。……なんつってな! ギャハハハ! まじやばかったわー」
ムールムールが光刃で床を引っ掻きながら近づいてくる。
「人間一匹殺すだけの楽勝ミッションだったのによ。まさか守護者二匹も相手することになるなんてついてないわー。でもまー結果オーライ!」
俺を見下ろして立ち止まる。
「巨人に受肉し直せたし。お前殺してミッションはコンプリートだし。俺様サイキョー!」
正直、頭では理解できても感情が追いつかない。
「へいへい、なんか言えよ。俺のことお兄ちゃんて呼んでいいんだぜぇ?」
俺は無様に床に転がったまま、只々ムールムールを見上げることしかできない。
「はっ、つまんねぇリアクション。もっと盛り上がれよ」
ムールムールがカムラ越しに剣を突き下ろす。
腹に衝撃が走り、その衝撃は灼熱の痛みを帯びた。
反射的に痛みで身を縮めようとしたが、ともに貫かれたはずのカムラはその手を離さず身動きできない。
痛みが俺の内で暴れ回る。
このまま芋虫のように突き殺されるのか。
襲ってくる痛みと恐怖と閉塞感を噛み殺し、アヌースを何度も呼ぶが、反応はない。
「心配すんな。お前もちゃんとグールにしてやるから」
ここで死ぬのか。境界で否定したはずの死が、カムラと兄ちゃんを引き連れて覆い被さってくる。
自然、目を閉じた。
ああ、俺があのまま死んでいれば二人は今も生きていたんだろうな。病院にいた人達もそうだ、無駄死にだ。
恐怖は過ぎ、諦念と罪悪感が去来する。
「ゴフッ」
顔に何かが零れ落ちてきた。目を開けるとムールムールが吐血している。
その胸には自身で突き立てたであろう剣が深々と刺さっていた。
「ようも俺かたん弟を。地獄ん帰れ!」
「……兄ちゃん?」
どうして?
「ふざけるな! くそ守護者が!」
「てめぇこそふざくんな」
続いてカムラの首が飛ぶ。
「マガテ、お前は優しいけんな。色々感じるんやろな。でもな、お前は生きないけん。いいか、俺ん分も、友達ん分も、ここんおった人達ん分も、お前は真剣生きないけん」
時折表情を歪めながら、諭すように言う。
「……いいか、見ちょんけんな」
そう残すと、兄ちゃんは俺の側に崩折れた。
「……兄ちゃん」
カムラを脇に横たえ、痛む腹を庇いながら兄ちゃんに這い寄った。
「なぁ、しっかりして」
恐る恐る肩を揺するが、すでに事切れていた。自殺したのか、俺を救うために。
突如、その体から黒い靄が立ち込める。屍肉に群がる蠅のように俺の周りを覆っていく。
「……次は俺かよ」
俺の大切な人達をとり殺しながらしつこく物質界での生を求めるムールムールに、得も言えぬ不快感と殺意が湧き起こった。
「げさきぃやっちゃ!!」
溢れ出る殺意に呼応して、体の内で重黒い力が蠢き出した。
体中に凶暴な情動とそれを表出できるだけの力が巡り、しかし何か被膜のようなもので包まれて皮一枚隔てた内側で留められている感覚がある。
「ぶっ殺しちゃる」
初めての感情だった。そして、それ以外の感情が入り込む余地がないほどに、純粋にムールムールを殺したいと思った。
その衝動に突き動かされるように力は先鋭化し、体内のそこかしこで被膜を破って外に噴出していく。
右手を掲げ思い描く。
受肉はさせない、地獄にも逃さない。
今、ここで、殺す。
俺の周囲に光が生まれた。全てを暴き出すような、無慈悲な輝きが辺りに広がった。
薄暗かったフロアには最早影など存在せず、その内に太陽を孕んだように光で満ちている。
それは黒い靄と化したムールムールをも飲み込み、そして徐々に収縮していった。
捕えた。
気付くと笑みがもれていた。
概念的な存在さえ捕縛する光の檻。
掲げた右手の先には、光に留められ、か細い影のような姿を晒すムールムールがいた。
「な、なんだその姿は……お前も……悪魔か?」
そう言われ掲げている自分の手を見遣ると、黒い硬質な何かで覆われていた。
まるで蠱惑的な闇をたたえた黒曜石が皮膚となり、俺の体を守っているようだ。ゴツゴツした腕は、本来の俺のものよりひと回りもふた回りも太い。
そっと左手で自分の顔に触れる。頬、顎、口、順になぞりながら、顔まで黒い異物で覆われているらしいことを知る。
咬筋部は硬く盛り上がり岩山を思わせ、あらゆるものを噛み砕くであろう強靭さをまとっていた。
オトガイは鋭く尖り、その上部にはおそらく歯なのだろう、親指ほどの大きさの突起物が静かな恐怖を宿して並んでいる。
俺はどうなった?
……いや、今は、それよりも。
中空のムールムールを魔力で引き寄せ、その首を掴んだ。
「わ、悪かった。……俺は頼まれただけなんだって。このまま消えるからよ。な、勘弁してくれ」
卑屈な口調に理性が爆ぜ、その肩口に喰らいついた。咬筋に力を込めてずぶずぶと歯を沈めていく。
「おおおお、おい! いでぇって! や、やめろ! 放せ!」
お前は有無を言わせず殺したじゃないか。構わず喰い千切った。
「いぃぃぃぃでぇぇぇぇええ!」
咀嚼するが味も風味もない。
「おま、お前なんなんだよ? な、なに食ってんだよ?」
物質界での肉を失い、概念的な存在となったムールムールを殺す。
きっと普通のことではないのだろう。
しかし、俺の手や口は奴に触れることができるし、無論喰えた。
もう一度肩の辺りを齧って、辛うじて繋がっている右腕を引き千切った。
「ししし、死ぬ、死ぬ! ゆる、許して」
千切った腕を見遣る。切断面はやはり真っ黒で、血の一滴も出ていない。二の腕から指先までボリボリ喰った。
宙吊りのムールムールを床に引き倒し、今度は脇腹にかぶり付く。
「ぎゃあああああっ!」
叫べよ。光に捕らえられたお前は泣き叫ぶことしかできない。
その恐怖も、尊厳も、生命も、全部喰らい尽くしてやる。
そうして俺の中に消えるんだ。俺がお前の存在を上塗りする。
俺の全身全霊をかけてお前の全てを否定してやる。
「……」
いつしか首だけになったムールムールは俺に咥えられ、ついに声もあげなくなった。
終いだ。飴細工よろしく、噛み砕いて飲み込んだ。
ああ、ひどく疲れた。感情の昂りが過ぎ去って、まとわり付くような疲労が襲ってきた。
ふと壁に設けられた鏡が視界に入る。
そこに映るものは無機質な黒い獣だった。
顔の鼻から上半分だけ「俺」がのぞいているが、他は全身、得体の知れない真っ黒で硬質なモノに覆われている。
しかし硬質ではあるが、そこには確かに触感があり、なんとも不思議な感覚だった。
改めて顔を見る。
触れたときに感じた通りの凶暴さと頑強さを併せ持った顎、口は耳まで裂け、これまた化け物じみた白い歯が並ぶ。
なるほど、悪魔を喰えるわけだ。
手足の爪は鋭利なナイフと化し、なんと尻からは金属質な尻尾が生えていた。
だが、自分の変わりように驚く気力は残っていなかった。
立ち眩みがする。
そういえば腹を刺されたのだった。
黒いボディは炭化したようにひび割れ出し、顔や体の表面からぼろぼろと剥がれ落ちていった。
人に戻った俺は、そのまま意識を失った。