同期
翌日、眩しい朝日で目が覚めた。そういえばと思い天井の隅を見てみると、少し黒ずんでいる。
看護師や先生に気付かれやしないかとヒヤヒヤしたが、誰も何も言わなかった。
ちょうど朝食を食べ終えた頃に兄ちゃんが来た。
「昨日は寝れたんか?」
なんと手に林檎と果物ナイフを持っている。
「寝すぎて肩凝った。それどしたん?」
「見舞いち言やぁこれやろ。ほら、皮ぁ途中で切れっしまわんごとしてクルクル剥くやつ」兄ちゃんは得意気に言った。
勘弁して下さい。異性がしてくれるからこそ病室での林檎の皮剥きは神聖なのであって、日に焼けた筋骨隆々の兄弟にされてもひたすら残念なだけだ。
それに、「兄ちゃん包丁使えんやん」一緒に住んでいた頃、料理は俺の役目だった。
いつも俺の方が帰りが早かったから自然とそうなったのだが、兄ちゃんの作る料理が不味いのも確かな要因の1つだ。
「ちったぁまともになったんで。まあ見ちょけ」
「病院で怪我されたらたまらんけん」
「大丈夫っちゃ」
そう言って兄ちゃんはそろりそろりと林檎の皮を剥き始めた。話しかけないでおこう、この手つきでは本当に怪我をしかねない。
覚束ないながらもどうにか皮を剥き終えた兄ちゃんは、誇らしげに実が削れた林檎を差し出した。
「見ちみよ」
「皮にだいぶ実がひっついちょん」
「でも剥けたで」
「うん、まあ、ありがとう」
指先で摘み口に運ぶ。うむ、林檎は林檎だ。……兄ちゃんの剥いた林檎を食うという行為は、なかなか照れる。
「うめぇか?」
「いやいや、林檎やん」
「照れんじいいわ」兄ちゃんはにやにや笑んでいる。
どうした兄よ、気持ち悪いぞ。俺が飛び降りたショックでおかしくなったか。
不意に、病室のドアをノックする音がした。看護師か。
「あ、どうぞ」
「よう」
スーツ姿のよれた男が入ってきた。会社の同期で同じ部署のカムラだ。入社当時はよく飲みに行った仲だけど、今の部署になってからはお互い多忙を極めてそれどころではなくなった。
兄ちゃんは挨拶もそこそこに売店に行ってくると病室から出て行った。
「ホシ、無茶しやがって!」
「俺の体は奇跡でできてるみたいよ」
兄ちゃんは気を利かせたつもりなのだろうが、この状況でカムラと2人きりは気まずい。俺は仕事から逃げようとして自殺を選んだ人間で、カムラは現在進行形で仕事を頑張っている。
……いや、待てよ。
「お前が会社の屋上から飛び降りたって聞いた時は驚いた。仕事が手に付かなかったよ」
「俺のせいでそっちにしわ寄せがいったらすまんな。仕事大丈夫か? まだ昼休みにもなってないけど」
そもそも昼休みですら忙殺される部署だ。怪我人の見舞いどころではないだろう。
「それなら大丈夫だ。部長が俺を名指しで見舞って来いだって」
「部長が?」
部下を家畜か何かと勘違いしている、あの鉄面皮のパワハラ部長が?
「うん、部長が。見舞いに行きたくても時間がなくて行けなかったから、部長の気まぐれを初めてありがく感じたわ。それでも、ここに来るまで迷ったんだ。俺が来てお前に嫌な思いをさせてもなって」
部長の気まぐれは解せないが、カムラの優しさに少し救われた。
「ありがとう。同じ部署なのに、久しぶりに顔見て話す気がするな」
目の前のカムラは目の下に黒々とクマを作り、頬はこけ、髪や眉毛は伸び放題だ。こいつやつれたなあ。そう思う俺はやつれを通り越して自殺に至ったわけだけど。
「もう会社に戻らない方がいいんじゃない?」カムラが言った。「スーパー激務にパワハラ上司。部長、お前には特に激しいよな。なんかした?」
「全然心当たりないな。単に気に食わないだけなんじゃないか。お前こそ大丈夫かよ?」
「怪我人に心配されたくないね。……まあでも、家族に愛想尽かされる前に転職先探すってのもありだよなぁ。せっかく子供産まれたのに、最近寝顔しか見てないわ」
カムラは1年前にデキ婚をした。今から子供がどんどん可愛くなっていく時期だろうに、一緒に過ごせないのは辛いだろう。
「そうだ、これ」
カムラから菓子折りを渡された。
「そんな気を使うなよ」
「それな、部長から」
「え、まじ?」
「気に病んでるとか?」
「それか毒だな」
「開けてみようぜ」
面倒なので包装紙は破り捨て、箱の表を2人で見遣る。
「結構いいお菓子じゃん」
「俺の自殺でついに改心したか。折角だしお前も食えば?」
「んじゃ貰っとく」
蓋を開けると、箱の中にびっしりと不思議な模様が描かれている。
(マガテ! それを破れ!)
アヌースの突然の叫び声に驚いている間に、箱から黒い何かが噴出した。それは瀑布が下から上に逆流するように勢いよく天井まで達し病室を黒く塗り潰していく。
「なんだこれ!」
(菓子の箱に魔方陣が描かれていた。何か仕掛けられたらしい。……しかし、なぜ?)
「うお! どうしたホシ、急に大声出して」
「は? お前見えてないのかよ」
天井から粘性の高いヘドロのような黒い液体が滴ってきて、俺やカムラの体にまとわりつく。
(これは精神界に起源のあるもの。貴様の友には見えていない。もっとも、じき嫌でも目にするであろうがな)
「ちょちょちょ、ちょっと待て。かなりやばくないかこの状況」
「さっきからどうしたホシ。やっぱり体の調子悪いんじゃないか? 寝とけ」
(ああ、まずいな! マガテ、とにかくこの部屋から出ろ)
寝ろだの出ろだのうるさい。
「カムラ、こっち来い!」
「あれ、……なんか体が重い」
気付けばカムラには足元から胸あたりまで黒のネバネバが絡み付いている。
「カムラ!」
「……うぅ、なんだこの黒いの。どうなってる?」
カムラにもこれが見え始めたらしい。ということはそれだけ呪害に犯されているということだ。辛そうに顔を歪めている。なんとかしないと。
(アヌース! どうにかできないか)
(……)
(黒いやつ、俺とカムラで絡まり方が全然違う。お前の影響じゃないのか?)
(……違う。できることならもうしておるわ)
コールタールのようなヌラヌラしたものに満たされた床に、カムラが崩折れた。もう頭まで真っ黒だ。
(おい、この前みたいに魔法かなんかかましてくれよ)
アヌースは押し黙っている。なんだ? 頭の芯が凍えるような感覚。こいつ、怖がっている?
(どうした? アヌース)
(わかったぞ。あの魔方陣は降魔の術式だったらしい。物質界に存在するものに、無理矢理精神生命体を受肉させる高等魔法だ。術者は小さな箱にそれだけの魔力と術式を込めて遠隔で行った。相当な力を持っているぞ)
(術者のことなんてどうでもいい! カムラを助けろ!)
カムラから黒い液体を払いのけるために近づこうとしたとき、部屋中のネバネバがカムラに集まり出した。
まるで餌に吸い寄せられるようにカムラを幾重にも塗り固め、黒い球体と化す。
(マガテ、残念だが貴様の友はすでに手遅れだ。来るぞ)
宙に浮いた球体の表面を赤いヒビが覆う。ヒビからは鮮血を連想させる赤い液体が垂れ流れ、球体が一度、大きく脈打った。
次の瞬間には粉々に砕け散り、中から深緑の甲冑を身に纏い、大剣を携えた得体の知れないモノが現れた。