魔神との出会い
曇天。鈍色の風が鋭く吹き荒ぶ中、男はビルの屋上から身を投げた。
中空に放たれた身体は、横殴りの鉄風に流されながらも重力を享受する。
灰色の大地に至る過程、ゴンドラにぶつかり男は跳ねる。
そうして赤い体液をコンクリートにぶちまけた。
「……い。……き、ま……からだ……せ」
なんだか暖かい。ふわふわする。……俺は落ちはずだ。しかし意識はある。死ねなかった?
……それともここが死後の世界というものか? そうであればなかなか悪くない心地だ。白乳色の空間で、ぷかぷか浮遊して漂う感じ。
はあ、なんだか気持ちがほどけていく。
「……い!」
声がする。
「おい!」
うお。「誰? どこにいる?」
「気付いたか。我はここだ」
目の前に、とぐろを巻いた蛇のような輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。しかし実体がはっきりしない。
「蛇?」
「蛇ではないわ」
「じゃあ、なんだ?」
「貴様こそ、人にものを尋ねる前に名乗らぬか」
なるほど。「俺はホシ・マガテ。あんたは?」
「我は魔神アヌース」
うーん。「すまないが、よく聞き取れなくて」
「我はアヌース」
「ワンモアカモン」
「ふざけるな。耳の穴かっぽじってとくと聞くがよい。地獄、物質界、天界の三界に恐怖と混沌の嵐をまとい殷々と響く、我の名は、アヌース!」
なんということだ、確かに恐怖と混沌を感じる。肛門だなんて悪魔的なネーミング。
「マガテよ、貴様このままでは死ぬぞ」
おや、まだ死ねてなかったのか。
「死にたくはなかろう。見たところまだ若い。20代半ばといったところか」
すごいぞアヌース。俺は25歳だ。その優れた観察眼で自分の名前を見つめ直してほしい。
「若くして死にゆく不憫な貴様に我からチャンスをくれてやろう」
「チャンスって?」
「我に貴様の体をよこせ」
体をよこせとは。強引なアヌース。「それは一体、どうチャンスなんだ?」
「うむ。貴様は死にかけの状態だ。現に魂は物質界を離れ精神界との狭間、ここ境界にいる。このままだと肉体が機能を失い魂が完全に分離して死に至る」
それは願ったり叶ったりだ。
「かと言って今のまま肉体に戻っても同じこと。そこでだ。悪魔である我が、貴様の肉体を使い物質界で受肉する。その受肉の際に貴様もともに連れて行ってやろうと言うのだ。肉体は我のものとなるが、意識は我の内に宿ることができるであろう。どうだ、このまま死ぬよりはよかろう?」
こいつは根本的に間違っている。俺にとってそれはチャンスでもなんでもない。
「アヌースさん。俺はな、自殺したんだ」
「……!」
「それに地獄だの天界だのよくわからない。ましてや悪魔なんて言われてもねえ」
「貴様……なんと愚かしい」
「俺の望みはね、このまま安らかーに静かーに死ぬことだ。受肉? 俺の体は使ってかまわないけど、俺は逝くからな」
「……それでは意味がない。貴様の魂とともに受肉しなければ、肉体は蘇らない。我はアンデッドになりたいわけではないのだ」
色々とややこしいらしい。しかしだ、俺はもう戻りたくないし、意識だけだとしてもアヌースなんて破廉恥な名をとても受け入れられない。
「悪いけど、それなら他をあたってちょうだい」
「我に次を待つ時間はない……!」蛇の輪郭がほどけて淡くなったり、かと思えば収束して濃くなったりしている。まるでここに留まろうと必死に抗っているみたいだ。
「こうしている間にも、我は消えてしまうかもしれん」
「お前も死にかけてるのか?」だから俺と同じ、この境界とかいうところにいるというわけか。
「死、というと少し違う。我々は概念的な存在だからな。消滅だ。我は今まさに消滅しようとしている」
死と消滅、どう違うんだろう。
「頼む。我とともに来てくれ」
チャンスをやるとか言ってたくせに、だいぶ殊勝な物言いになってきたじゃないか。
「貴様が何を苦に自ら命を絶ったのかは知らんが、我の内に宿れば外界の些末なことに気を煩わせることもないぞ。なにせ悪魔の一部となるのだからな」
「でもなあ、アヌースってのはいただけない」
「何?」
うーん、察してほしい。相手が悪魔とはいえ、あんまり名前を批判するのは気が引ける。が、背に腹は代えられん!
「肛門じゃん。すまんが、俺無理」
「……! 貴様ふざけるな! よいか? 我々悪魔は貴様ら人間から向けられる恐怖や不安といった感情や認識を糧に存在している。人間に認識されている限り、我々は不滅だ。しかしその逆で、存在を認識されなくなれば力も弱まり最後は存在そのものが消えてしまう。すなわち! 貴様の言う尻の穴と我が名が同義であれば、我はこうして消滅の憂き目に遭おうはずもない! なにせ人間どもに一人一穴付いている穴だ。そんな存在を忘れる道理はない。我がこうして消えかけていることが、我が名と肛門が別物だと言う何よりの証左! わかったかこの愚か者!」
物凄い勢いでしゃべったな。ごめんよアヌース、やっぱり気にしてたんだね。
「それじゃお前は、今まさに人間から完全に忘れ去られようとしているってこと?」
「許し難いがそういうことだ。我がこのまま忘却の果てに消滅してしまえば、無だ。存在していたことすらなかったことになる。確かにここにいたというのにだ」
なるほど、誰からも認識されなくなるということは、始めからいなかったことと同じなのか。それは不憫な気がするな。
「貴様、肉親はいるか?」
「急になんだよ。……兄が1人」
最近会ったのはいつだろうか。不意に鳩尾の辺りがそわそわし出す。
「同胞や恋人は?」
「多くはないがいるよ。恋人はいないけどな」
そわそわが加速する。なんだか致命的に、嫌な感じだ。
「このまま貴様が死んだとしても、その者達が貴様のことを記憶にとどめてくれるだろう。悲しい想い、辛い想い、楽しい想い、わからぬが、そういった感情とともに貴様は誰かの内で存在し続ける。貴様が確かにいたという証だ」
やめてくれ。考えないように意識の底に沈めていたものが巻き上がる。こうなってしまった以上、誰かのことなんて聞きたくない。俺は死ぬんだ。
「自殺した貴様だ。残す者、残す事柄と現状を天秤にかけ、それでもこの結果を選択したのであろう?」
気が付いたら屋上にいた。何気なく眺めたフェンス越しの景色に吸い込まれた。瞬間、抜け出せると思ったんだ。あのときの俺には、あそこから逃げるということが何よりも重要だった。
「それとも、そういったことに思いを馳せる余裕もないほど、追い詰められていたのか」
やめろ、振り返るな。あんな場所に戻りたくはないだろう? お前はなんの未練も感じず飛んだはずだ。なのに、今になって後悔するなんて馬鹿げている。
「否定しろ!」
……!?
「貴様の"今"を否定しろ!」
……何を言う。しょうがなかった、こうするしかなかったんだ。今さら戻るなんてごめんだ。俺は疲れたんだ。
「恐れるな! 我がいる。我が悠久の鳥籠となり、外界の万物から貴様の愛しい脆弱さを守ってやる。我と貴様で生きるのだ」
……戻るのは怖い。あそこには俺の人権なんて微塵もなかった。またあの日常を繰り返すのなら、このまま死んだ方がきっとましだ。……でも、もしも違う先があったなら。それをこいつが見せてくれるのなら。
「……アヌース、2つ約束してくれ」
「言ってみろ」
「あっちに戻ったら、兄ちゃんに会いたい」
「任せておけ。もう1つは?」
「俺の姿で、お前の名を名乗るな」
「き、貴様!」
「ははは、冗談だアヌース。俺は決めたよ、お前と一緒に行ってやる!」
「そうか! よく言った!」
蛇の輪郭が黒い靄となってほどけていき、俺を包み込む。
「では行くぞ! 物質界へ!」