脳死 ―― 中身がなくてもいいですか? ――
あれから数日が経過した。
なぜか夫と息子の葬儀が終わっていた。
そして臓器が移植されて何組かの患者が助かったそうだ。
なぜか捕まることもなく、覚悟してたつもりの緊張が現状、気が抜けてしまった。
生きているため、お腹がすく。仕方なく買い物に出かけた。
帰ってくると、ドアの鍵が開いていた。
家を出るとき変な行動でもしたかと思い出そうと試みる。けれども、何事もなく普段通りに家を出発している。
忘れ物をした、とかいつもと違う行動をしてたなら、ミスも犯しもするだろう。
そうではない。ミスではないならば、泥棒?
先日の行動がもとで、このとき、警察に連絡しようとは思い浮かばなかった。
ドアノブに手をかけて、ゆっくりと扉を開く。覗き込みながら、様子を窺う。
物音はしない。
コソ泥がいるなら物音ぐらいはするはず、と中に入ってみる。
慎重に、足音が立たないように気を付ける。
リビングのドアの前で、まず、聞き耳を立てる。
静かだった。意を決し、ドアを開ける。
そっと押し開く。
覗き込むと、息を呑んだ。何かがある。
ゆっくり開けようと思っていたが、いつの間にか開ききってしまった。
この前見た物よりも少し小さい。
それは円筒形の水槽のような物。
今度は前回より大きなモノが浮かんでいた。
人の頭部。あたま。
それも夫のモノ。
その驚きもあってドアを一気に開いてしまっていた。
凝視してしまう。動きも止めて。呼吸も忘れて。
なぜ? どうして? 呆然と立ち尽くす。
そのままならば、いつまでも時の刻みに気づくこともなく、見入っていたんだと思う。
だが、静寂を破る音がした。それが自分を呼んでいることに気づいた。
『カアサン、ゲンキダッタカイ』
母さん、元気だったかい?
語られる言葉が頭の中で遅れて翻訳される。
それは機械音声だった。一昔前よりは聞き取り易い、と思わせる。
抑揚のない、硬く、冷たい感じがする声だった。
その首は、口角を上げ、目を細める。
そして、目を左右に忙しなく動かし、瞬きを繰り返している。
それは文字入力をしている動作だった。
よく見ると、水槽? の前には透明なボードがあった。
さらにその下には、鏡に映したような文字が浮かぶモニターが存在していた。
その首に質問をしてみると時間は掛かったが、やはり夫のようだった。
そして言われて気づいたが、生命維持装置という物が部屋の一角を占領していた。
それがあるため、首だけになっても生きているらしい。
安心して落ち着いてきたため、荷物を下ろし、腰掛けて改めて話を聞く。
連絡が途絶えてから何があったのか。
話によると拉致られたらしい。そして拷問を受け、こんな姿になったそうだ。
話が進むと今度はこちらの状況を伝えなくてはいけなくなった。
少し悩む。私は息子だけでなく夫も亡くしたと思っていたところに、亡くなった夫が生きて返ってきた。例え首だけであろうとも。
しかし、夫は自分が酷い目にあっただけでなく、息子までも亡くしているとは考慮していないだろう。
精神的に更なる追い打ちをかけてもいいのだろうか?
今の夫は体がない。体を動かして気を紛らわせることは出来ない。
この会話すら大変そうだ。
でも、……。時間が経てば息子がいないことに気づくだろう。同じ家に住んでいるんだから。
ふぅーっと、ため息が漏れる。
覚悟を決める。しかし、先に夫が亡くなったことになっていることから告げる。
これもショックなことには違いないだろうし。
やはりショックだったんだろう。会話が途切れ、何か考え込んでしまった。
一声を掛けて、暫し一人にしてあげようと、リビングから離れることにした。
決して息子のことを話すことが、気が重くて退散するわけでなく。……
いや、やはり気が重い。自分が死亡している事実だけで思い悩むのに、息子は亡くなっているのだ。
しばらく時間を置きたい。せめて食事でも取って……
愕然とする。
胴もないのに食事なんて取れるわけもない。
自分の気分転換が通用しない。
食べることも、運動も出来ない。まして会話すら儘ならないとするなら、どうすればいいのか……
考えたけど、どうにもできない。
疲れない程度の会話。挨拶みたいな。ちょっとした声掛けなど。
会話に時間を取って、それでも長くなるようなら休憩をはさんで、回数を重ねてでも根気よく聴くしかないだろう。
最初の質問の時に聞いていたが、夫の世話は、最初は介護みたいと思っていたが、実際は手を出せることがない。点滴用のパックを交換するぐらいだ。
ならば時間は作れるだろう。
息子のことを語った後の方針も決まった。
ゆっくり癒していこう。
そして幾日か経った。
当初心配していた息子のことを語った後も落胆したようではあったが、なんとか気を持ち直したようだ。
今日は娘の病院へ行く前に、生命維持装置の充電がちゃんとあるか、確認しておく必要があった。
工事だか、点検だかで、昼間、停電になるらしい。
充電の目盛りも問題なく、バスの発車時刻も余裕がある。
夫に声を掛け、出発する。
家に帰り着いた時にはびしょ濡れだった。
傘も持っていたが、残念ながら役には立たなかった。
途中の道路も冠水していたり、と激しい降りだ。雷も喧しく轟いている。
雷鳴の轟音もすごいが、豪雨の雨音も負けてない。
体を拭いて、さっさと着替えることにする。
しかし電灯が点かない。停電が長引いているのかも知れない。
仕方なく手探りで着替えていく。
リビングに行くと夫がおかしなことを言う。
『カアサン、ゲンキダッタカイ』
なんだろう。違和感がある。
漸く聞き慣れた機械音声。
しかし今のは、硬く冷たい声、まるで戻ってきたときのような……
思い出した光景の中に、怪訝なことに同じ言葉があった。
顔を顰め、何が起こったのか、思い巡らす。
記憶喪失? ないない。
機械の故障? 納得いかない。けど保留か。
騙されていた? ……誰に? じゃあ夫は?
もともと顰めっ面だった顔を、この数日間の出来事が自分の想像によって悲しみに彩られてしまう所為で泣きっ面になってしまうのを耐えて耐えて我慢して、眉を顰めるに留める。
停電で髪を乾かせなかったから、髪から伝う滴のため、もしかしたら、泣いてるように見えたかも知れない。
しかし、意地でも泣いてやるものか。
想像が合っていたのか、以前の会話の説明がスピーカーから垂れ流される。
ここに夫はいなかった……
夫の顔があった。笑顔を向けてくれた。拙くても、会話が出来た。
だが嘘っぱちだった。偽物でニセモノで、どうしようもなく、にせもの、だった。
何なのっ!
顔もないのは生きてるとは言えないって考えたことが間違いなのっ!
顔があってもダメと言いたいわけっ?
信じられないっ!
絶望に沈んでいるところに幻の希望をぶら下げて、釣られて喰いついたら、より深い絶望の淵へ叩き落すってっ!
悔しい、くやしい、クヤシイッ!
先ほどの誓いも、すぐに破ってしまう。
涙が止まらない。
垂れ流されていたスピーカーからの音声にノイズが走る。だんだん大きくなるノイズ。次第に機械音声も聞こえなくなる。外の雨音との違いが分からなくなる。
そして一気にノイズが消え、クリアになる。
『あー、もしもし。聞こえてますか?電話じゃないですけど。』
若い男性? 警戒心が湧く。騙していた相手なんだから当然だ。
『停電に雷雨で延長とかついてないね。取り敢えずテーブルの上の物を見てくれますか?では、さよなら』
……。切れた。なんとなくだが向こう側には、もういない、と確信する。
テーブルを見るとノートPCがある。電源が点いている。
中は初め動画だった。数人の、ドナーを待っている患者だった。
家族で映っているものから、次第に寝たきりの画像などに替わっていく。
次いでリスト。この患者たちが娘の臓器で助かる期限だ。
最後に娘がドナーに登録した参加表明の映像だった。
それは極短いものだった。他愛もないかも知れない。
『死にたくはないんだけど。もし死んじゃったら。それでも誰かの役に立てたら嬉しいかなって。』
たったそれだけの映像。でも微笑んでいた。
繰り返し視聴した。飽くことなく見ていた。何度も見返す。
途中停電も解消されて、充電切れを起こすこともなかった。
PCの下に封筒があった。
以前のものではない最近の娘の、脳死の判定結果だった。
また、臓器提供の、家族の承諾のための、同意書だった。
我に返ると、何故か同意書にサインがあった。サインしていたらしい。
翌日、娘の許へと訪れていた。
いつものように、髪を梳いたり、話しかけたり。
最後に、組んだ手の下に封筒を置く。
直接医師に、手渡す勇気が湧かなかったからだ。
病院を出て、帰路に就く。が途中の公園で散策がてら道草を食う。
やってしまった感が後悔を、新たに一歩踏み出せた感が達成感を。夫のことや他にもいろいろ。
人の気も知らない空は、昨日の天気が嘘のような快晴だった。
眉を顰める
顔を顰める
両方、不快を表すが、
眉を顰めるは悲しみや心配事なども表す。