23.ハーフムーンに願いを
漸く眩しい光に目が慣れてきた私は、横向きに置かれたピアノの椅子の前で、二人で踊ったあの夜と同じように優雅な仕草で礼をとるアイツを見付けました。
今夜のアイツは、あの夜とは違い、黒のタキシード姿です。
ヘッドライトを浴びて舞台の中央に立つその姿はとても洗練されていて、まるで本物のピアニストのようでした。
「えっ?用務員さん?」
静まり返った星見の広場に、シスター・マーガレットが呟いたその一言がやけに大きく響き渡りました。
「用務員さん?」
なのでそれに続いたシスター・グレイスの意味が解らないというニュアンスが込められたようなそのリピートも、その場に臨席していた全員に聞こえていたかもしれません。
「はい、シスター・グレイス。例の体育館の壁画を描かれた方ですわ」
シスター・マーガレットが一応声を潜められて補足説明されておられましたが……。
「まあ!あの絵を描かれた方?」
こちらでそんなやり取りが交わされているのが聞こえているのかいないのか、アイツは平然と来場者への謝辞の挨拶を始めました。
「アクラム殿下、サイード殿下。本日はご多忙中にもかかわらず、私・塔宮綾麿のピアノ発表会にご来臨賜りまして、光栄の極みでございます。申し遅れましたが、私は塔宮ホールディングス・営業統括本部・塔宮綾麿と申します。以後お見知りおきを賜りますと幸甚にございます」
顔を上げたアイツは、一国の王族を前にしても一向に臆する様子も見せず、まるで挑むような笑顔でこちらを真っ直ぐに見つめています。
「君、一つ尋ねますが、これはいったいどういう趣向なのです?我々に何の説明も無く呼び付けるなど随分と不躾とは思いませんか?これが我が国でしたら、場合によっては王族に対する不敬罪に成り得ますが」
サイードがすっくと立ち上がってアイツに対峙して厳しい口調で詰問しました。
なのにアイツときたら、王族であるサイードの非難にも一切動じる事はなく、それどころか自信満々にこう言ってのけたのです。
「お叱りはごもっともでございます、サイード殿下。しかしながら、詳細を先にご説明させて頂いてしまえばサプライズにはなりませんので、ご無礼を承知の上で、敢えてこのような段取りと相成りましてございます。ご不快の段、平にご容赦の程、宜しくお願い申し上げます」
そんな謝罪の言葉を述べながら胸に手を当てて再び礼をとったアイツでしたが、その言葉とは裏腹に悪怯れた様子は一切ありません。現に顔を上げる寸前、チラッと私の方を見ると、微笑んでさえみせたのですから。
「別にここに居る誰ひとり、驚いたりなどしないだろう!」
サイードは不愉快さを隠しもしない刺々しい物言いでアイツを見下したようにそう言うと、ドカッと再びソファーに腰を下ろしました。
「さあ、それはどうでしょうか?お聴き頂いてからのお楽しみという事で……」
「それではお時間もございませんので、早速始めさせて頂きます」
アイツが挨拶を終えてピアノの前に向かうと、再び宮下先生がマイクを持たれました。
「ご来臨の皆様、それでは発表会を始めさせて頂きますが、今宵塔宮綾麿が演奏させて頂く曲は1曲のみでございます」
「は?1曲?我々をわざわざ呼び付けておいて1曲?1曲だけだと?ハッ、これは又随分と侮られたものだ!!私達は忙しいのだ。そんな茶番に付き合っている暇などあるか!」
「叔父上、蓮花、帰りましょう。今宵は誰にも邪魔される事なく家族水入らずで過ごそうと、そう決めていたではありませんか。こんなふざけた男に付き合ってやる義理などありません!」
怒ったサイードは大声でそうアイツを罵ると、勢いに任せて再び立ち上がりました。
「サイード!?ちょっと待って、落ち着いてよ!」
私が慌ててサイードの腕を掴むと、
「サイード殿下、私には皆様をお引き止めする事など出来ません。ここからは、困った主を持った側仕えの独白としてどうぞお聞き流しください」
怒っているサイードを前にしてもアイツと全く同様に一向に動じる気配もない宮下先生が、相変わらずの涼やかなテノールボイスで語り掛けてこられました。
宮下先生はどう観てもサイードと同年代に見えるのに、その風格たるや、本物の王族はどちらなのか判らない程です。
「このような事、本来でございましたら当人を前にして断じて口になど致しませんが、今宵は我が生涯に於きましても特別な夜、故に申し添えさせて頂く事に致しました」
「我が主、塔宮綾麿は天才でございます」
「はぁ?この期に及んでまだそのような!主人大事の武士道気取りか?」
サイードは最早聞く耳持たんと言わんばかりに、自分の腕を掴んでいた私の腕を逆に取ると、強引に立ち上がらせようとしてきたので、私は必死に何とかこの場に止まろうと抗いました。
「待ちなさい、サイード」
その時でした。お父さんの穏やかな声が、シンと静まり返った星見の広場に響いたのは……。
◇◇◇◇
「叔父上?如何なされましたか?」
サイードは、さっき迄とは明らかに違う、そんなお父さんの様子に戸惑っているようでした。
「サイード、席に座りなさい」
お父さんはもう一度穏やかにそう言ってサイードを嗜めると、
「宮下先生、お話中大変失礼致しました。どうぞ、先をお続けください」
と宮下先生に先を促しました。
てっきりお父さんも一緒に怒りだすものだと思い込んでいたらしいサイードは、その豹変振りにポカンと固まったまま立ち尽くしています。
でも、再度お父さんに視線で促されて、何か言おうとしましたが諦めて、しぶしぶながらも再び席に着きました。
「ありがとうございます、アクラム殿下」
お父さんに丁寧に頭を下げられてから、宮下先生は続きを話し出されました。
「先程も申しましたが、塔宮は天才なのです。塔宮はこれ迄の人生で、私の知る限り努力というものを一切致した事がございません。何をしても、何を教わっても、全てあっという間に完璧にマスターしてしまう塔宮には、その必要がなかったからです」
そこで一呼吸置かれた宮下先生は、昔を思い出されておられるのか、本当に嫌そうにお顔を顰められて、
「本当に、全く可愛げのない子供でした」
とため息まじりに苦笑された。
「ですが、そんな塔宮にも出来ない事があるとある日判明致したのでございます。それを初めて知った時の私の気持ちは例えようがございません。私は歓喜に打ち震えた程でございましたから。これでお解り頂けますと存じますが、あいにく私は、武士道精神などという美しい主人愛など持ち合わせておりません」
そこで一旦言葉を切られた宮下先生が、皮肉げな笑みを浮かべてチラッとアイツに視線を向けられると、アイツも又、今にも飛び掛からんばかりに全身毛を逆立てた猫みたいな形相で宮下先生を睨み付けていました。
(全くこの二人って、結局仲が良いのか悪いのか……)
私がそんな二人を呆れながら見ていると、
「塔宮が唯一出来なかった事、それが何だかお分かりになられますでしょうか?」
「それは本日皆様にご拝聴賜ります、【音楽】なのです。どうやらこちら方面を司るミューズにだけは気に入られなかったようでございます。これ迄ありとあらゆる事で、私と塔宮は常に競って参ったのでございますが、何一つ雌雄を決したものはございません。ですが【音楽】に関する事、それだけは競う前から勝敗は決しておりましたから、塔宮はずっと目を背けて逃げていたのです、私との勝負からも……、全ての【音楽】からも……」
「ですが先日その塔宮が、私に頭を下げてきたのでございます。その時の私の驚きたるや、信じられぬ物を目の当たりにしたような、晴天の霹靂とはこういう事かと、それを身をもって実感致した心持ちでございました」
「どうして塔宮が忌々しく思っている筈の私に頭を下げたのか、お解りでございますか?蓮花様」
何故か宮下先生は、とても悲しげで寂しげな、何とも表しがたい表情で私にそうお尋ねになられたのです。
(宮下先生?)
私は宮下先生が私に何をお尋ねなのか、何の事を仰せなのか、さっぱり見当もつきませんでした。
ただ一つだけ私に解っている事は……、アイツが出来なかった筈の【音楽】を、これから私達の前で奏でようとしている、というその事実だけ。
「解りません。ですが、何かあったのですね、もう一度【音楽】と向き合おうと思える程の何かが」
私がそうお答えすると、たちまち宮下先生は先程のもの悲しい表情から一転、ニッコリ優しい笑顔になられて、
「はい、正解です、蓮花様。そしてその何かは、塔宮のピアノをお聴き頂ければご理解賜れると存じます」
「これはこれは長々と失礼致しました。独白が随分と過ぎてしまったようでございます。すっかり日も暮れましたようで、美しいハーフムーンも、私達の頭上を明るく照らしております」
「では皆様、大変長らくお待たせ致しました。塔宮の演奏をお聴きください」
「曲目は、私がアレンジさせて頂きました、ピアノソナタ、【デザート・オブ・ザ・ムーン】です」
「♪、♪♪〜〜、♪♪〜♪♪〜〜〜、♪〜♪〜〜♪〜♪♪〜〜〜、♪♪♪〜〜、♪♪♪♪〜〜〜、♪〜♪〜〜♪〜♪♪〜〜〜、」
(この曲!!!)
(この曲は……、)
それは、とても切ないメロディー。
そして、とても愛しいメロディー。
夏の夜の静寂に奏でられた胸を打つ哀愁を帯びたメロディーは、聴く人全ての心の奥深く迄届いた事でしょう。無性に人の温もりが恋しくなりました。
ここは音楽部も在る学校の敷地内。本来なら、この舞台で披露出来るような演奏とはお世辞にも言えない拙い演奏。
なのにいつの間にか私は、ポロポロポロポロ零れ落ちてくる涙でアイツの姿が観ていられなくなって、ハンカチを目に当てて、俯いて小さく鼻をすすっておりました。
サイードが見ているような気配を感じましたけど、どうしようもありませんでした。
私は、胸に込み上げてくる言葉に出来ない溢れる想いを抑えきれずに、もう限界でした。
ふと気付けば、短い曲を3回リピートしたところでパタリと演奏が止まっておりました。
私が涙でグチャグチャの顔を上げると、アイツが優しい笑顔で私を見て、手を差し伸べています。
「おいで、蓮花」
アイツが私を呼んでいる。
そう分かった瞬間には、私の体はフラフラと立ち上がって、自然と駆け出しておりました。
「綾!!!」
そして、差し伸べてくれた手を掴んで、そのままその温かな胸に飛び込んでいたのです。
「綾!綾!」
「初めて名前、呼んでくれたな」
「綾……」
私が胸に顔を埋めながらもう一度小さく名を呼んだその瞬間、綾のタキシードにしがみ付いていた私の手になんとなく違和感を感じたのでモゾモゾと体を動かして見てみると、どんなに引っ張っても捻ってもびくともしなかったあの指輪が、指の先っぽの方迄ずり落ちてきておりました。
思わず綾を見上げると、全く同じ仕草で、指の先に引っ掛かるようにはまっている指輪を面白そうに見ています。その意味を知っている私達は、目を合わせると、自然に笑顔になっていました。
「今度は俺が買ってやるからな」
「よし!蓮花、歌えよ」
「えっ?歌っ?」
「お前が言ったんじゃねぇか」
「えっ、何を?」
「今夜も月が綺麗だ」
「つ……き?」
『あ、あの歌。伝説が有るの!月に願いを込めて歌うと、その願いが叶うっていう伝説が!』
「ああっ!!!あ、あの、それは、あの、」
あの夜の咄嗟の自分の口から出任せが、突如鮮明に甦りました。
「約束しただろ?お前の願い叶えてやるって。俺も月に願ってやったぜ。今度はお前の番だろ?俺が弾いてやるから」
(えっ?)
「もし……かして、その為に……練習……してくれた……の?」
(私の為……に……?)
「お前は俺様の嫁だからな。嫁の為に頑張るのは、夫である俺様の使命だ」
なんて、カッコつけて大仰にそんな台詞を言ってもう一度ピアノに向かうと、まだ事態について行けてない私を、
「ほらっ」
と目線で促してくる。
私は伴奏する綾が見える位置に少しだけ移動すると、ピアノに手を掛けて一呼吸。
呼吸を整えてからいったん下を向いて目を閉じて歌の世界に意識を飛ばしました。
(ここは砂漠。辺りには誰も居ない。月の光だけを頼りに私達は彷徨う……)
そうして顔を上げて綾と視線を交わせると、
それを合図に綾が視線を鍵盤に落として、切ないメロディーを再び静かに奏でだしました。
私は頭上に視線を上げて、輝く月を見つめました。
(どうか私の願いをお父さん達に届けて……)
「♪、♪♪〜〜、♪♪〜♪♪〜〜〜、♪〜♪〜〜♪〜♪♪〜〜〜、♪♪♪〜〜、♪♪♪♪〜〜〜、♪〜♪〜〜♪〜♪♪〜〜〜、」
◇◇◇◇
歌い終わった余韻で淘然としていた私に、綾が問いかけてきました。
「今度こそ聞かせてくれるよな?お前の願い、本当の望みを」
私は綾の言葉を受けて頷き、そしてお父さんとサイードに向き直りました。
「私は、声楽の勉強がしたいの。もっともっと。だから一緒には行けない。ごめんなさい、お父さん、サイード!!」
シンと静まり返った星見の広場に、私の声だけが響いていました。
私は何の反応も示さない二人を真っ直ぐに見つめて、審判を仰いだのでした。




