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16.恋の始まりと恋の終わり

 私は、シスター・グレイスへのご相談を終えると、面倒な事は少しでも早めに片付けて減らしてしまった方が良いという結論に至りまして、あの用務員のお方と話すべく、気持ちが萎えないうちにと、早速その足で彼が居られると思しき高等部の体育館に向かいました。


体育館を覗くと、案の定、彼は熱心に壁に下塗りを施しているところでした。


館内は既にもの凄いシンナー臭で頭がくらくらしそうでしたが、彼と話すなら、他の人に聞かれる心配の少ない、今この場所が最善です。


そう判断すると、私は思い切って体育館の中に足を踏み入れました。


下塗り作業に集中しておられるとばかり思っておりました用務員の男性は、驚いた事に私という侵入者の気配にすぐにお気付きになられ、チラリとこちらに顔を向けられましたが、ただそれだけ……。又何事もなかったかのように、すぐに作業に没頭されておられます。


明らかに気付いておられるのに、まるで入り口から通り抜けた風のように私の存在自体をスルーする、そんな彼の態度に、何故だかちょっと腹が立って、とても居心地が悪く感じられました。


こちらから声をお掛けするべきなのか、でもよくよく考えますと、そもそも何と声をお掛けすれば良いものか。ここ迄何も考えずに勢いで来てしまいましたし……。


そんなこんなを考えながら、私が黙って作業する横顔を見つめておりましたら、


「そろそろ来る頃だと思ってたぜ」


刷毛を動かしながらこちらを見もしないで用務員の男性はそう仰いました。


その声、口調、私は一気にあの居酒屋での夜に記憶がタイムスリップしておりました。

後半はかなり酔ってしまっておりましたので曖昧ですけれど、それでももう間違いありません!やはり彼はあの時の―、


「やっぱり貴方、あの夜の兎オタクね!隠そうとしたってもう無駄なんだから、さっさと正直に白状なさいよ!」


そう畳み掛けて詰め寄った私に、こちらを振り返った用務員の男性は、逆に鬼の首を取ったかのような勝ち誇った笑みを浮かべて私の事をご覧になりました。


「やっぱり、あんただったんだな?随分とあの夜と印象が違ったから、捜すのに随分手間取っちまったぜ」


「あっ、因みに言っておくと、髪型とかの事じゃねぇよ。ククク、あんた、とんだ演技派女優だよなぁ。ここじゃ随分とまた猫かぶってるじゃねぇか。あっちがあんたの素なんだろう?みんなが知ったら腰抜かすんじゃねぇか?特にシスター・マーガレットなんか!アハハハハハ」


得意気な顔をしてそう指摘すると、とうとう堪えきれないという風に大笑いしだした兎オタクでしたが、そのくせニヤニヤしながらチラチラとこちらの様子を窺っています。


(くぅ~!)


(悔しい!何でこんな奴に!)


「な、何を言って、私を脅迫する気?おあいにく様ですけど、変なデマ流したって、誰も貴方の言う事なんて信じたりなんかするものですか!」


そうよ、私がこの学院でどれだけ努力してどれだけの信用を勝ち得ているかなんて、コイツに分かる訳ないわ。ついこの間入ったばかりのパッと出のコイツにこんな風に言われるなんて、心外の極みでした。


「そうか?確かに入ったばかりの頃だったらそうだったかもしれねぇけど、俺様、今この学院で結構注目集めてるぜ?信用されねぇ迄も、話題に登るには十分なネタだと思うけどな。なあ、あんただってそう思わねぇか?」


「!」


自信満々にそう言い切られ、返す言葉がありませんでした。


確かにコイツの言う通りでした。


何だかんだで今やこの兎オタク男は学院中の噂の的、一挙一動足を最も注目されている人物の一人です。


何も言い返せない私に自分の優位と見てとったのか、


「まあまあ、漸く離ればなれだった織姫と彦星が再会出来たんじゃねぇか、そんな顔するなって。俺たちゃあ揃いのマリッジリングをしている、自他共に認めた誓い合った夫婦じゃねぇか」


そう言って兎オタク男は軍手を外すと、わざと指輪をはめた指が私によく見えるように手の甲をこちらに向けて指輪を示しました。


「よし、それじゃあ漸く感動の対面と再会の挨拶も終わったことだし、そろそろ本題といきますか。俺達の今後の人生設計について話そうぜ」


(はぁ?)


「式を挙げるのは蓮花が大学を卒業する迄待ってやるとして……、あっ、有り難く思えよ?取り敢えず、正式に婚約だけはしておいてだな―、」


「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。何勝手な事言ってるのよ!いつ自他共に認めたのよ!私は何も認めた覚えなんてないんですけど。貴方とマスターが、意識の無い私に勝手に指輪をはめたんじゃないのよ!いい加減にしてよ!しかも蓮花って、誰が呼び捨てにしていいって言いました!?」


明らかにあさっての方向に勝手にずんずん進んで行く、この超が付く程の勘違い・ポジティブ思考・兎オタク男を、誰か何とかしてくださ~い!


「はぁ?夫婦なのに、苗字さん付けってそっちの方がおかしくね?」


「ああそっか!悪ぃ悪ぃ、俺様はまだ名乗ってなかったもんな。だから拗ねてたのか。そりゃあ怒るのも当然だわ。これは悪かったな。俺様は“綾”だ。みんなそう呼んでるから、蓮花もそう呼んでくれ」


日本語が通じない兎オタク男が勝手に話を進めて、名乗り終えた正にその時、


「アハハハハハ!」


静かな体育館に、まるで推理ドラマでいうと、いよいよ名探偵登場!みたいな絶妙なタイミングで、高らかな笑い声と共に、初めてお会いした日と全く同じように山高帽を被られて、そして今日は遂に右手にステッキ迄持たれた宮下先生が、颯爽と入って来られたのでした。



◇◇◇◇


 「これは聞き捨てならないですね。いつ貴方様の呼び名が、“綾”になったのです?少なくともこの私は、貴方様がご誕生あそばされたその日から今日に至る迄一度も、そのような呼び名でお呼びした覚えはございませんが。そうではありませんでしたか?あ・や・ま・ろ・様?」


「そ、惣太郎!オメェはいつもいつもいいところで人の邪魔ばっかりしやがって!何でこんな所に出て来やがるんだよ!」


「それは勿論、良からぬ空気を察知して、でしょうか。この体育館周辺に、あり得ない程の凶々しい気が充満しておりましたので」


「しかし綾麿様、貴方様のその根拠の無い自信は、いったいどこから生まれてこられるのですか?全く、呆れるを通り越して羨ましいですよ」


大仰な口調でそう仰りながら突然登場なされた宮下先生に驚きながらも、やはり思った通りお二人がお知り合いらしいのには、妙に納得してしまいました。


でもそれより……、


「あや……ま……ろ?」


「ええ、このお方は、塔宮綾麿様。私の上司兼主人です」


そのアイドル顔負けの女性受けしそうな今風の顔立ちにそぐわない平安貴族ばりの古風な名前、私が唖然として思わず宮下先生に聞き返しますと、先生は常と変わらぬ穏やかな口調で、この綾麿という名の兎オタク男が上司で主人だという更なる衝撃の事実を、私に告げてきたのです。


「上司で主人?コイツが?しかも宮下先生の?」


「アハハハハハハ!綾麿様を“綾”と呼ぶお方もお身内以外居られませんが、コイツとは!アハハハハハハ、香椎さん、貴女はやはり私が見込んだ通りの素晴らしい女性です!綾麿様が貴女に固執なさるお気持ちがよく解りますよ。貴女のようなチャーミングな女性にお目にかかったのは初めてです。出来る事なら貴女に私の妻になって頂きたかった。初出勤の日に貴女に出逢って以来、ずっとそう願っておりました……」


「み、宮下先生!何を仰って……!生徒をおからかいになられるものではございませんわ!」


平然とそんな事を仰る宮下先生に、それは先生の女性に接する上での常套句なのだとどんなに自分に言い聞かせても、顔が火照るのを止められません。先生は女性の扱いなんてお手のものでいらっしゃるのでしょうけど、幼稚園からこの聖フロイス女学院という世間から隔絶された幽境の地で過ごしてきて、男性とのこういったやり取りに全く免疫が無い私はあたふたするばかりで、てんで気の利いた躱し言葉など出てきません。何とお返事してよいやら困ってしまうのです。


そんな私を見ても、宮下先生は優しい笑みを崩される事無く、


「からかってなどおりませんよ。本心から申しておりますし、その気持ちは今も全く変わっておりません。いえ、寧ろ今宵貴女の有りの儘のお姿を拝見して、更に想いを強くしたでしょうか……。ですが寂しい事ですが、どうやら私の運命の赤い糸は、残念ですが貴女の小指には繋がっていないようですね」


「えっ?」


お返事に窮して、俯いてもじもじしていた私は、続けて仰られた宮下先生のそのお言葉の意味が理解出来ずに、恥ずかしくて顔を上げる事すら出来なかったのに、思わず声を出してそのお顔を見つめてしまっておりました。


「おや?まだお気付きではなかったですか。これは私とした事が余計な事を申してしまいました。貴女がお気付きになられる前に、有無を言わさず攫ってしまえば良かったですね」


そんな私の様子をご覧になられて、クスクスお笑いになられながら冗談めかして戯れ言を仰る。


先生が何を仰っていらっしゃるのかさっぱり解らず戸惑うばかりの私に、宮下先生は急に真剣なまなざしを向けられて、


「貴女のお気持ちが私にあったなら、例え相手が綾麿様であろうといずれかの国の王子であろうと、貴女を諦めたりなど致しませんよ」


ですが……、と一旦言葉を切られた先生は、そこでフゥと大きく一つため息を吐かれると、


「【目は口ほどに物を言う】ということわざは、どうやら真実のようですね」


と独り言のように呟かれたそのお声には、とても寂しげな響きが含まれておられました。


「貴女のそのお美しい目はとても正直です。今この時、私が貴女の目の前に居て、貴女にこうして愛を語り掛けているにも拘らず、先程から貴女のその瞳は、何度もチラチラチラチラ他の人物をご覧になられて、その人物の反応を気にしておられる」


「えっ?!」


そのお言葉に驚いて大きく目を見開いて見ますと、私の目に映っていたのは宮下先生ではありませんでした。


私の視線の先には、先程迄の意地の悪い笑みではなく、穏やかで優しい微笑みを浮かべた兎オタク男が、静かに私を見つめ返していました。


「少し話し過ぎてしまったようです。本来私がこちらに参りましたのは、綾麿様にお伝えさせて頂く事があったのですが明日に致しましょう。では私はこれにて」


何も申し上げる事の出来ない私に向かい宮下先生は優しい笑みを浮かべられると、山高帽をひらりと取られて紳士風に優雅に腰を折られて、再び山高帽を被られて、おいでになられた時と同様に、颯爽と出て行かれたのでした……。



◇◇◇◇


 綾麿様……、


貴方様のその単純明快なポジティブシンキングが羨ましいというのは私の本心です。私が貴方様にだけいつまでも勝てないのは、既に気持ちで負けてしまっているからなのでしょう。貴方様は真に塔宮家十八代目当主にして塔宮ホールディングスの後継に相応しいお方。


人の上に立つ者が周りの者に不安を与えているようでは、皆を統率など出来ません。貴方様のその揺るぎない自信、信念こそが、皆を導く指針になるのです(まあその自信が正しいかどうかは存じませんが……ね……)。


私はそんな貴方様を、時には諫め、時には御身の盾となりながらこれからも補佐して参ります。


私は、いえ我が一族は、貴方様を、塔宮家ご一族を陰で支える存在であり続けている事を誇りに思っておりますから。


まあ、この気持ちを面と向かって貴方様に申し上げる事など、貴方様か私のどちらかにお迎えが参って、永遠のお別れとなる最期の瞬間迄、あり得ませんが……。


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