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14.用務員の決意

 中等部の体育館の壁画は、学院中に大反響の嵐を呼んだ。終いには学院の理事長から、対価を支払うので、中等部だけではなく全ての学校の体育館の壁にも、同じように童話の世界をモチーフにした絵を描いて欲しいという正式なオファー迄舞い込んだ程だった。


俺様は、あくまでも用務員としての用務の一端でなら、という前提で絵を描く事は了承したが、対価を貰う事はきっぱり断った。金を貰っちまえばそれはプロの仕事になっちまう。俺はここに、この香椎さんの母校に、例えほんのいっときでも、俺が確かに一緒に居たんだっていう何かを残したかっただけなんだ。正直俺自身驚いている。俺様がこんなセンチな奴だったなんて。



◇◇◇◇


 あれから3日、今俺様は新たなモチーフ・一寸法師の壁画を大学部の体育館に描き始めるべく下塗りの作業に取り掛かっていた。あの日シスター・マーガレットが俺様に残した、『彼女はかぐや姫なのですわ、いずれ砂漠に帰る』という謎の言葉、その言葉の意味するところを考えながら……。


惣太郎が明かしたその言葉の意味、香椎さんが抱えている(いや背負っていると言った方が、より事実に近いかもしれねぇな)秘密とは、俺様のこの人並み外れた才を以ってしても到底思いも及ばねぇ想像を絶するものだった。

それは彼女の出生に関わる、ある意味国家的と言っても過言ではねぇ程の、超重大機密事項だったのだ……。



◇◇◇◇


 『はぁ?王女?』


『はい、私も俄かには信じられませんでしたが、間違いございません』


俺は最初、まだ惣太郎が俺をからかって、詰まらねぇ冗談を言っていやがるのかと本気で腹が立ったが、惣太郎は至って真面目な仕事モードの表情で、淡々と報告を続けていた。


惣太郎の調査によれば、こうだ。


香椎さんのお母さんである藤花(ふじか)さんは、学生時代に、日本語を学ぶ為に日本に留学しておられた中東某国の王子殿下と、そうとは知らずに恋をされたらしい。そしてその王子殿下から、留学期間を終えてご帰国される際に真実を打ち明けられ結婚を申し込まれたが、王子殿下の母国の一夫多妻制だけはどうしても受け入れる事が出来なかった藤花さんは、王子殿下との結婚をきっぱり諦めて、新しい人生を歩む決断をされた。そうして王子殿下とお別れになられたのだそうだ。


だが、運命とは皮肉なもので、王子が帰国されてから身籠っておられる事が判り、お腹の子の為にと、藤花さんはその事実を王子殿下にお知らせになられた。すると藤花さんを心から愛しておられた王子殿下はたいそうお喜びになられて、直ちに藤花さんを迎えるべく再来日なされたが、それでも藤花さんは王子殿下と共に行く事を拒まれたので、それならば、せめてお腹の中にいるご自身の子を守りたいと、認知の手続きをとられたのだという。


つまり香椎さんは、正統なる王家の血族と認められた、中東某国の王女様なのだというのだ。


確かにそう言われてみれば、あの少し彫りの深い、俺様が一目惚れした印象的なバッチリとした可愛い目も、日本人にしては色素が薄めの茶色い髪と瞳も、彼女がハーフだというのなら全て納得がいく。


それでも、誰がこんなお伽噺さながらの突拍子もねぇ話をいきなり聞かされて、『はい、そうですか』となるか?


因みに余談になるが、そうなると当然の事ながら、彼女は父である王子殿下の財産を相続する権利も有しているわけで……。


その王子殿下の資産というのがこれ又凄い。金融資産は勿論の事、各国に所有する不動産、又実業家としていくつかの会社経営にも携わっておられる上に、果ては当然の事ながらアラビアの王子殿下、ご自身が採掘権を持つ油田もあるのだとか。


そんな超VIPがこの学院に潜んでいたなんて、っていうか、そもそもこの国に居る事自体驚きだ。こんなとんでもねぇ事実を世間に知られたら、それだけでも恰好のパパラッチ垂涎のネタじゃねぇのか?


そういう事なら、この学院は彼女にとって、最良且つ安心安全な学び舎兼隠れ家だったに違いねぇ。聖フロイス女学院という世俗から離れた日本の秘境に匿われる事により、彼女はずっと護られてきたって訳か。恐らくそれが、彼女のご両親の願いだったのだろう。


しかしそうなるとこれから先はどうするつもりなんだ?


そんな彼女ももう大学部の3年。あと1年とちょっとでここを出なきゃなんねぇ筈だ。決断の時が近づいている。


香椎さんは何を望んでいるんだ?


そして、香椎さんのご両親は彼女に何を望んでいるんだ?特に彼女の父である中東某国の王子殿下はどう思っているんだ?


そんなこんなを考えながら作業に没頭していた俺様は、いつの間にか辺りが静まり返り、見上げた明かり取りの窓からは月の光が射し込んでいる事に漸く気が付いた。


すっかり遅くなっちまった。


でも集中したお陰か、下塗り作業はあと壁一枚を残すのみだった。


俺は残り一枚の下塗り作業を最速で終わらせて早く宿舎に戻ろうとペースを速めた。そうすれば、明日には乾いてその上から絵をすんなり描く事が出来る。


それから1時間弱、俺様は最大の集中力を発揮して今日の作業予定を終了した。



◇◇◇◇


 スマホを見ると、22時を少し回ったところだった。


俺は急いで片付けを済ませて、体育館を出た。シンナーに酔った頭に、夜風が実に気持ちの良い綺麗なハーフムーンの晩だった。


風に乗ってどこからか甘い花の香りが運ばれて来ている気がする。まるで南の島に居るような、そんな心地よい錯覚に、柄にもなく目を閉じて夏の夜風に身を任せながら甘い香りに浸っていると、香りと共に微かに何かが聞こえてきた。


初めは幻聴かと思った。


本当に微かに聞こえただけだったから。それでも何故か俺は目を閉じて、その微かな音をもう一度拾おうと、耳を澄まして音が運ばれてくる方角を探しながら、自然と足が彷徨い出す。見当を付けた方に少し歩んだ時、再び微かな音が聞こえた。やはりかなり遠くから聞こえてきているようだった。それなのに、そうと判っても、俺はやはり宿舎に戻る気にはならなかった。


(この音の正体をどうしても突き止めなきゃなんねぇ!)


何故だかはっきりそう思った。


俺は音が消えちまわねぇうちに出どころを探るべく、必死に四方八方辺りを見回して、五感全てを研ぎ澄ませていた。


するとやはり微かに風に乗って、高い音、というか高く細い、そうまるで透き通った夜空に輝く三日月のような誰かの澄んだ歌声が、夜の静寂に溶け込んで、哀しく俺様の胸に響いてきた。


「何て声だ……」


切なくて、もの悲しくて、それでいて愛しい。


今すぐこの声の主を抱き締めてやりてぇ!


全ての悲しみから救ってやりてぇ!


それがこの学院に来た俺様の使命だとさえ感じた俺は、最早居てもたってもいられねぇ焦燥に駆られて、声が聞こえてくる方角に適当に当たりをつけて、やみくもに走りだしていた。


途切れ途切れに聞こえてくる声が、それでも徐々に大きくなっている。俺は少しでも声が大きく聞こえる方に聞こえる方にと、もどかしく思いながらも、月明かりだけを頼りに、声の主を必死に探し求めた。



◇◇◇◇


 どれ位走っただろうか。


ハァハァ息をはずませながら突然開けた場所に迷い出ると、そこには、


「随分ごゆっくりでしたね、私は30分も前からここに来て聴き入っておりますが……。どうやら、やはり私の彼女を想う気持ちの方が、貴方様より遥かに勝っているようですね」


恐らく俺様と同じように使命に駆られて歌に引き寄せられた先客、かぐや姫の求婚者がもう一人、俺様の方を見向きもせずに、上方のただ一点を見つめて立っていやがった。


俺様が辿り着いたその場所は、上空侵犯を24時間体制で監視しているという見張りの塔で、同時に天体観測も行っている、通称“星の塔”だった。


「大学部の体育館で作業に没頭していて、聞こえなかったんだ!」


「おやおや、私は宿舎でシャワーを浴びておりましたが、すぐに駆けつけて参りましたが」


「!」


(くっそう!コイツはどうしてこう、いちいちいちいち、俺様の癇に障る事を言いやがるんだ!)


俺がイライラして惣太郎に掴み掛かろうとした時、鋭く真っ直ぐで透き通る声が、ひと際高く辺りの空気を揺らして響き渡った。


(この歌は……、)


香椎さんが歌うその歌を俺は知っていた。


まあ有名な童謡だから、日本人で知らねぇ奴などいねぇかもしんねぇけど、俺様にとってその歌は、もう長い間ずっと心の一番奥深くの部屋に閉じ込めて思い出さねぇようにしてきた、辛い記憶の封印を解く特別な歌、扉を開ける鍵だった……。



◇◇◇◇


 俺がまだ小学生だった時に、俺の母さんは病気で亡くなった。


その母さんが自宅で療養していた頃、よく夜の浜辺に父さんと三人で散歩に行った。その時母さんは決まってこの歌を口ずさんでいたのだ。夜の砂漠を舞台にした、まるでお伽噺のストーリーのような何とも言えない不可思議な世界観の童謡。


俺はその度に、


『ねぇ母さん、その続きはどうなるの?二人はどこに行っちゃうの?』


そう母さんにしつこく訊いたもんだった。


俺はその頃まだガキで、母さんが近い将来俺の前から居なくなっちまうなんて思ってもいなかったんだ。


すると母さんは優しく笑って、いつも俺にこう言った。


『綾は二人にどこに行って欲しいの?それが答えよ』


あの頃母さんは薬のせいで髪が落ちて、それを気にして昼間出歩きたがらなかったから、そんな母さんを気遣って、父さんが夜の散歩によく連れ出していた。


今思えば、母さんは恐らく、自分に残された時があと僅かだと知っていたんだ。


(母さんは何を思ってこの歌を歌っていたんだ?)



◇◇◇◇


 「困りましたね……、本気になりそうです。こんな歌声を聴かされては……」


「何を思って歌っておられるのでしょう、何とも切なくなる声ですね」


遠い記憶の波に飲まれて想いに耽っていると、惣太郎がぽつりと漏らした誰に言うでもねぇそのつぶやきに俺の意識は引き戻された。


「いいえ、誰を想って、でしょうか。それ程迄に恋しいのでしょうか、砂漠の国が。そこにおいでの誰かが……。まあ、彼女の中には半分は彼の国の血が流れているわけですから、当然と言えば当然なのかもしれませんが」


「違う!!!」


(そうじゃねぇ!)


俺は漸く解った。香椎さんの歌を聴いて母さんの気持ちが!


「はっ?何を言って―、」


「惣太郎!おめぇに頼みてぇ事がある。おめぇが敵に塩を贈りたくねぇって言うんなら、それはそれで仕方ねぇから諦めるが、それでも!俺はおめぇに頼みてぇ!」


俺は、上空に浮かぶ優しい真珠色の半月を見つめながら星の塔で切なく歌うラプンツェルを、彼女が囚われている全てのしがらみから必ず救いだしてやる!


母さんが彼女とめぐり逢わせてくれた。俺にはそうとしか思えなかった。


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