10.再会のシナリオ
鬱蒼とした木々に囲まれている早朝の学院内は、空気が痛い程に澄み切っていて、寝起きの頬に心地よい。一瞬にして働いていなかった脳が目覚めた。
◇◇◇◇
あの晩独り会議をした結果、俺様が捻り出した結論。それは先ず第一に、香椎さんに近づくチャンスを見つけるという事だ。
こうなってみると、用務員という俺様の立場は反って好都合だった。時間も仕事内容もそれ程束縛されずに自由が利くからだ。
これが講師だったらこうはいかなかった。惣太郎自身言っていたが、講師の一日とは、講義は一日一回90分のみなのだが、その講義の為の準備やら学生への課題対応やら、ゼミの対応やらがある上に、毎日何かしらの教職員会議があり、講義時間とかぶっていない教師陣は参加必須なのだ。
その点俺様はと言えば、上手く立ち回りさえすりゃあ、ある程度行動が自由に出来る!こんな美味しい状況を利用しない手はねぇ!
そうと決まりゃあ俺様のアクションは早かった。早速、用務員という立場をフルに利用して、その仕事にかこつけて、女子大生という名のお嬢様方に言葉巧みに近づくと、こういう時には大いに役立つアイドル顔負けのこの童顔に愛想のいい笑みを浮かべて害のない男と安心させた上で、それとなく香椎さんの情報を集めて回った。
そんな地道な聞き込み努力を続けた結果、漸く突き止めた最も上手くいきそうな時間帯。それが早朝のこの時間というわけさ。
生徒総代を務める優秀なる女子大生・香椎さんは、毎朝必ず独りで学院内の見回りを行っているらしい(何て偉ぇんだ!)。そしてその後、部長を務めるテニス部の朝練に、これ又誰よりも早くコートに向かっているという(健気過ぎだろ!)。
という訳で……、この時間をおいて、誰にも邪魔されずに彼女に近づけるチャンスはねぇ!
目下のところ、俺達夫婦(←もう決定)の最大のお邪魔虫である惣太郎は、どんな手を使ったのかは知らねぇが、俺には、『忙しい、忙しい』と言いながら、ちゃっかりテニス部のコーチなんぞに納まっていやがる。
だが、フフン、それもちゃあんと承知の上さ。
恐らくだが、アイツの唯一の誤算、それは、アイツ自身悦に入って下手にカッコつけ過ぎたせいで、取り巻き連中に始終囲まれて身動き出来なくなっちまったって事だろう。
テニス部のコーチを引き受けたのも、イナバちゃんの情報集めと指輪捜しの為だとか何とか最もらしい事ぬかしていたが、ありゃあどう観たって、香椎さんに近づくのが目的に決まっている。
「けど、アイツも詰めが甘いねぇ」
俺様が様子を窺いに行ったら、案の定アイツは女学生達に囲まれて、香椎さんに近づく事さえ出来ねぇ始末だ。
「クックックッ」
しかもアイツは他からも頼み込まれちまったらしく、テニス部の他に、ゴルフ部のコーチ、映画部とミステリー研究会の顧問迄引き受けさせられちまって、テニスの朝練に出られるのは週一回だけだというネタも、既に入手済みだ。
つまり今朝、俺達夫婦を邪魔する奴は誰もいねぇって寸法だ。
俺様は香椎さんに近づけるこんな絶好のチャンスを逃したりする程、惣太郎に優しくねぇ。
早く俺様に気付いて貰いてぇ気もするが、もう暫くこのまま様子を見るのも悪くねぇかもなぁ。
俺様の中でイナバちゃんはもうすっかり香椎さんと一致していた。
今更だが、香椎さんはよく見るとイナバちゃんに雰囲気が少し似ているし、特にあのパッチリとした彫りが深い大きな可愛い目は、ちょっと日本人離れしていてかなり目を引く。あの日居酒屋で出逢った派手な化粧をした俺様のイナバちゃんも、際立って可愛かったのがパッチリとした目元だったのだけははっきり覚えていた。
そうそうそれと、勿論真っ先に彼女の名前は確認済みだ。彼女のフルネームは、香椎蓮花ちゃん。頭文字“R”の条件も難なくクリアだ。
今となっては、どうして彼女は違うと初めて廊下で会った時に思っちまったのか、不思議でならねぇ程、ピタッと符合している。
普段の清らかで崇高な彼女とあの夜の親しみやすい気さくな彼女、正反対の二人。俺の印象だとあの夜の彼女の方が素の彼女な気がするから、多分普段は猫を被っているのだろう。その秘密を知られたくなくて何も言わずに逃げ出したに違いねぇ俺様のシンデレラ。
そんな事を考えながらウキウキとテニスコートに向かって歩いていると、木立の間からチラチラと綺麗なブルーのハードコートが見え隠れしてきた。
コートは金網で区切られて各2面×三つ。手前から中等部用、真ん中が高等部用、そして一番奥が大学部用だ。
誤解がねぇように一応言っておくが、俺様は今れっきとした用務員の仕事の為に、テニスコートに向かっているのだからな。
俺様の手には、今ペンキと刷毛がある。
テニスコートを囲う金網の塗装が剥げてしまっているのを目ざとく見付けた俺様は、すぐさまそれを庶務課に申告して、ペンキを自分で塗り替えるという都合の良い仕事(まあ要するに、あちこち粗探しをしまくって、漸くこれを見付けたのだ)をゲットする事に成功した。
俺様にペンキ塗りなんか出来るのかって?
俺様は自慢じゃねぇが、今迄生きてきた中で、何かをするのに苦労したってぇ経験が一度もねぇ。一度やり方さえ教わればすぐに何でも簡単に出来ちまう天才肌なのだ。認めたくはねぇが、これ迄に出来なかったのは音楽関係の事だけだ。どうやら音楽のミューズからだけは、祝福を得られなかったらしい……。
◇◇◇◇
俺様がテニスコートに到着した時、香椎さんはまだ来ていなかった。勿論これも想定内だ。彼女の行動パターンは常に正確で狂いがないという。それはある意味とっても助かる、というか俺様にとってとても都合がいいわけだ。俺様はその先回りをすればいいだけなのだからな。
それから俺は、早速仕事に取り掛かった。今の俺様は用務員、金網のペンキを塗り替えに来ているだけの男。俺は用務員に徹して黙々とペンキ塗りに没頭した。
時刻は午前5時。香椎さんが来る予定の6時にはまだ1時間程ある。1時間あればこの修復作業も、だいたい終わるのではないかと考えていた。
そうして俺様が真面目に作業に取り組んで、あらかたやり終えて時計を見ると、6時10分前だった。後は最終チェックだけだ。そう思って端から順に丁寧に、ムラがないか、洩れがないかの確認を始めたところで人の気配を感じた。
振り向くと、レモンイエローの水玉のTシャツにグレーのカーディガン、ネイビーブルーのスコート姿の香椎さんが、こちらに向かって歩いて来るのが目に入った。
(今朝もなんて清楚で可愛いいんだ!!!)
俺は香椎さんを驚かさねぇように、道具を抱えて立ち上がると、敢えてコートの入り口の扉付近に移動した。
俺の姿に気付いたのだろう一瞬足音が止まったが、すぐに再び聞こえだして、それが徐々に大きくなってきて、近づいて来る気配も又、大きくなる。
俺様はガラにもなくちょっと緊張しながら、ちょうど良さそうな頃合いで振り返った。
「おはようございます」
(自他共に認める?)爽やかな最上級の笑顔を作って俺から挨拶すると、香椎さんも又、
「おはようございます、朝早くからありがとうございます」
と応じてくれた。事前に、『朝練前に作業する旨、部長さんにお伝えください』と言伝しておいたのが、きちんと伝わっていたらしい。
俺は抜かりなく段取っておいた自分を褒めてやりたくなった。
「まだ乾いてないのでお気を付けください。それと匂いも申し訳ありません」
実は俺自身も、慣れない作業ですっかりシンナー臭にやられてしまい、気分が悪くなりそうだった。
「屋外ですから多分そんなに気になりませんから大丈夫です。それよりこちらこそ助かりました。随分前から気になっておりまして、何度か庶務課に申請していたのですが、ずっと用務員さんが人手不足で、プライオリティの高い作業からになってしまっておりまして、ずっと後回しにされておりましたの。こんなに綺麗にして戴いて、他の部員の皆さんも、絶対に喜びますわ!」
(感激だ!何かをして、こんなに喜んで貰えたのなんて、生まれて初めてだ!)
俺様は生まれて初めて、これが労働という事の意味なのかと身をもって実感する事が出来た。
香椎さんと再び会えて、こうして会話出来た事も勿論最高に嬉しかったが、それと同時に、早起きして一所懸命に作業に没頭して、実はかなりしんどかったその頑張りに対して最上級の感謝の言葉を貰えた事が、素直に嬉しかった。
(こんなに気分か良いのは初めてだぜ!)
そう思ったら、俺様に、今迄に感じた事がねぇこんな気持ちを教えてくれた香椎さんに(この間もシスターから救って貰ったし)、何か恩返しがしたいとふと思い立って、途端にある良いアイデアが浮かんだので、それを実行する事にした。
「いえ、そんな風に仰って頂けて、私の方こそやった甲斐がありました、ありがとうございます。お邪魔でなければ、もう少し作業を続けても宜しいでしょうか?」
「勿論ですわ。と申しますか、今日は朝練はお休みでございますから、時間はお気になさらずに」
その言葉を聞いて、俺様は自分の間抜けさ加減を呪いたくなった。
当然だ!ペンキ塗りたてのコートで練習なんて、そもそもする筈ねぇじゃねぇか!
惣太郎の事言えたぎりか?俺の方が輪をかけて阿呆じゃねぇか!
「も、申し訳ありません、昨夜のうちに作業しておくべきでした!」
「あっ、いえ、そういう意味で申し上げたわけではなく、元々今朝はお休みでしたので、もうすぐ試験期間に入りますから」
(えっ、じゃあ何で香椎さんは……?)
俺の思った事が顔に出ちまったのか、香椎さんは少しはにかんだような笑みを浮かべて、
「私は融通の利かない性格でございまして、日頃の習慣通りに行動致しませんと気分が悪いのです。ですので今朝も、軽く体を解しに参りましたの。それに私は・・・、朝靄に煙るこのコートに参りますのが好きなのです」
そう言ってさり気なく周りに目をやった香椎さんの横顔に、ちょうど射し込んできた朝日が、まるで天然のスポットライトのように当たって、その光に照らしだされた香椎さんは、開花直前の蕾のような初々しさで、俺はあまりの眩しさに思わず目を細めて、それでも目は逸らしたくなくて、その透き通った横顔を他の誰にも見せたくねぇと、今迄に味わった事もねぇ程の強い独占欲と熱い想いを感じていた。




