誰?(アイデンティティさらし The Murder of Common Identity)
自分の知らない人間が一方的に自分を知っている、という経験はなんだか不気味で気持ち悪い。
大学に行った日の夜、コンビニ帰りのこと。賑やかな駅周辺からだんだん離れていくにつれ、めっきり人通りも寂しく、街灯も少なくなった。もう夜中の10時過ぎだし、あたしみたいな女の子の独り歩きはちょっと怖いものがある。別にあたしはぜんぜん美人でもカワイイ系でもない、ごくごくフツーの女子大生だけれど。
今日はスカートもミュールも履かず、ジーンズにスニーカーだったから、早足で暗い路地を歩いた。早く帰ってプリン食べよ、とコンビニで買った大好物の焼きプリンをヴィニール袋越しに眺め、“お気に”のグリッターバッグを肩にかけ直した。とそのとき、人の気配を感じた。なんとなく後ろをチラッと見る。少し離れたところに、ぼーっと男が一人立っていた。
気にしない気にしない、そう自分に言い聞かせ先を急ぐ。たまたま目に入っただけ。
でも、あたしの跡をついてくるように、歩調を合わせるように、後ろのほうでザザッザザッと微かに足音がする。
気にしない気にしない、たまたま帰宅方向が同じなだけ。
自宅マンションが見えてきた。エントランスまでもうすぐ、というところで突然、背後から男のか細い声がした。
「多田野さん、多田野さん」
あたしの名前を呼ぶ声だ。反射的に振り向いた。
「こんばんは。多田野響子さん、ですよね?」
男は低い声で、だが、はっきりとあたしをフルネームで呼んだ。“しかしあたしは彼を知らなかった”。
「多田野さん、今日は大学だったんでしょ」
同じ大学、同じ学科の人だろうか? そんなに明るくない電灯のもと、彼を観察した。
上着は白のサマーニットカーディガン、レトロなネイビーのドット柄シャツとタイ、ボトムはベージュのパンツに青のカジュアルシューズ、と妙に爽やかな服装だった。髪型はウェーブがかったミディアムの茶髪で、顔は……顔はやっぱり見覚えがない。
「多田野さん、いつも頑張ってますね」
男は興奮気味にぼそぼそ喋る。その口ぶりはまるであたしを知っているみたいだ。そういえば、どこかで会ったことがあるような気がしないでもない。
「多田野さん、いつもマジメですよね。オレ、尊敬しちゃいます」
なおも男は喋り続けた。あたしはそんなに目立つタイプではない。変だな、もしかしたら彼は知り合いであたしが思い出せないだけかも、という考えが頭をよぎった。誰ですか? と相手に訊くのは失礼だし、あたしのイメージが悪くなる。そう思うと、うんうん相槌打って、ニコニコ愛想笑いして、テキトーに話を合わせるしかなかった。
「多田野さん、じゃあまた」
男は一方的に話し終え、小走りに去って行った。
ホッと安心したものの、なぜ知らない男があたしのフルネームを知っているの? なぜあたしのふだんの生活を知っているの? と次々に不可解な疑問に襲われ不安になった。個人情報がどこからか漏れている? まさか、ストーカー?
そう考えるとたまらなく怖くなり、エントランスに駆け込もうとした瞬間、
「多田野さん、多田野響子さん」
再び背後から、あたしを呼ぶ別の男の声がしたような気がした。ビクッと驚きで体が硬直した。恐る恐る振り返ると、視線の先の暗闇の中から、すーっと黒い影が浮かび上がってくる。それは、カーテン生地のような大きく真っ黒い布を全身に纏った、人間らしきモノだった──。
「初めまして。わたくしが黒衣探偵ペルソナです」
「てか、あなた、誰ですか」
あまりの堂々とした不審者っぷりに、恐怖を通り越し、あきれて思わずストレートに訊いてしまった。失礼かも、と気遣う間もなかった。
「あなたの疑問を解いてさしあげましょう」
「いや、だから誰なんですか」
「それが疑問の一つならば、解答ははっきりしている。わたくしは黒衣探偵ペルソナです」
頭のてっぺんから足の先まで、全身大きな黒い布で覆っている。わずかに目元が覗いているだけだ。だから“黒衣”なのだろうか?
「探偵って……」
「黒衣探偵はこの世界に存在しない。しかし、この世界を謎解く役割を仰せつかっているのです。いわば、“私”というパースペクティヴで描かれた“世界”という絵画作品における消失点なのです」
からかわれているの? それとも新手の変態? ヴェールみたく素顔を隠しているし、周りが薄暗いせいか、目元からは全く表情は読めない。
「あ……はぁ……」
「あなたの疑問は、わたくしが黒衣探偵ペルソナであることではないはず。先ほどの不審な男が誰なのか、のはず」
よっぽどお前のほうが怪しいわっ! とツッコミたいのは山々だったけれど、なんか危なそうだし、様子見で、グッとガマンした。
「じゃ、誰なの」
「彼が誰かは知らない」
「えっ」
「あなたにも名乗らなかったのに、わたくしが彼を知っているわけないじゃないですか。しかし、彼があなたを知っていることが問題なのです」
どうやらワイセツブツを開陳する気はないようだったので、とりあえず安心した。あたしがホッとして黙っているのをいいことに、調子にノって黒衣探偵ペルソナ(!?)は勝手に話しはじめた。
「彼はあなたの顔を知っていた。しかしあなたは彼を知らない、見覚えがない、あるいは思い出せない。彼はあなたをフルネームで呼んだ。しかしあなたは彼の名前を知らない。彼はあなたを『いつもマジメだ』と指摘した。ということは、あなたの何かしている姿をよく見ていて個人的感想を抱いたことになる。しかしあなたは彼に見られている自覚はない。彼はあなたと同じ大学の生徒なのか。いや、それならばもっと具体的にキャンパスライフの話題、たとえば授業のことや先生の固有名が出てきてもおかしくない。では、彼はストーカーなのか。なんらかの方法、たとえばネットハッキングなどであなたの個人情報を盗み出しているのか。これも答はノンです。それならば、もっとあなたのことを知っていなければおかしい。さて、こう考えると解答はもう目前です。彼はあなた『多田野響子』さんのことを“その程度にしか知らない”ということを意味するのです。ところで多田野さん、あなたは今日大学に行きました。当然、こんなに遅くまで大学にいたわけではありません」
「あ、はい」
「帰宅が遅くなったのは、“コンビニ帰り”だからです」
決めつけるような言い方がちょっとムカついたけれど、そのとおりなので頷いた。
「正確に言うと、あなたはコンビニ“でバイトをした”帰りなのです。そして今夜の不可解な経験の解答も、そこにあるのです」
そう、あたしは今日大学に行って、夕方から駅前のコンビニで午後10時までバイトだったのだ。だからスカートとミュールじゃなく、ジーンズとスニーカーを履いていたのだ。
「コンビニの店員は通常、制服の胸に名札を付けて、たとえばそう『多田野響子』とフルネームが入ったプレートをぶら下げて接客するものです。あなたが熱心に仕事している姿も、何度か目撃されているでしょう。加えて、見た目、あなたの年齢は大学生と予想されてもおかしくはない。そして、店員にとってはお客は不特定多数であっても、お客側にとっては店員は特定の人間になりうるということです。もしその不特定多数の中に、あなたの意識しない常連のお客がいて、その彼があなたを『多田野響子』という特定の個人として意識していたら」
しばらくあたしは言葉が出なかった。その説明で納得できたからだ。もしかしたら、彼と何度かレジで顔を合わせているかも。特徴的なルックスじゃなかったし、異性としてことさら意識してなかったので、はっきり覚えていなかったのだ。
「──以上、証明終了」
そう黒衣探偵ペルソナは宣言するようにつぶやくと、纏った黒い布をマントのごとく颯爽と翻した。
「わたくしの推理講義を聞いて人は時に、わたくしをペルソナ教授とも呼ぶのです」
うちの大学にこんな教授いたっけ?
「お礼はそのプリンで結構」
「あ、えっ」
新たに湧いた疑問を質すヒマも申し出を断るヒマもなく、右手に持っていたヴィニール袋ごと、バイト上がりに買った大好物のプリンをさっと奪われてしまった。
「アデュー」
颯爽と片手にプリンをかざし、黒衣探偵ペルソナは闇の中へ、フェイドアウトするように消えた。
To be continued.