その9 翌日のこと。
この先から、ややグロですのでご注意ください。
小さいスズシロは、よくナノハナの後ろをついて歩いてきた。待って、姉ちゃん待ってとナノハナについて歩いてきた。ナノハナはわざと早足で歩いたり、隠れたりしてスズシロを泣かせた。大声で泣くスズシロを見るに忍びなくなって、ナノハナが姿を現すと、スズシロはナノハナの服の裾をしっかりと掴んで離さなかったものだ。
今は、ナノハナが大声で叫んでスズシロを探している。どこにいるの、出ておいでと叫んで探しまわる。
南部は霧が深くて誰の姿も見えない。
ナノハナは、赤い線の入る軍服の弟を探し、湿地を歩き回った。
泥の所為でナノハナの素足は酷く汚れていた。それでもスズシロを探す。早く見つけてやらないと、と必死で探す。
そうしてぬるりとした、妙な手応えのあるものを踏む。見下ろせば、それは蛙だった。不意に霧が晴れると、見渡す限りの地面に大きな蟇蛙が無数に蔓延っていた。あまりの恐怖に、ナノハナの喉からは悲鳴も出ない。だが何かが食道を這い上がってくる。ぬるぬるとしたそれがナノハナの口から顔を出す。
這い出したのは、一匹の蟇蛙であった。
○
「なっちゃん、昨日はどうだったのー?」
翌日出勤したナノハナを待っていたのは、好奇心に目を輝かせた同僚たちであった。目をこすりながら、ナノハナは考えをめぐらせる。
「准尉は魚を卸せるようになりましたよ」
「そうじゃなくて!」
「もう来ないと思います」
罪悪感を抱きつつも、目的を達したようだから、と言い添えると、一様に「えー!」と声が上がった。「勿体ネー!」「連絡先くらい、聞いときなヨー!」「楽しみにしてたのにネー」などと、惜しんでいるのか面白がっているのか、その両方なのかと悩むのも馬鹿らしい言葉を背中で聞き流し、ナノハナは仕事に没頭する。
昼を過ぎた頃合いで、その背をぽんと叩かれた。また話のネタにされるのかとうんざりしながら振り返ったナノハナの目に、心配気なレンゲの顔が映った。
「なっちゃん、ちゃんと食べてる?」
「大丈夫ですよ」
「眠れてる?」
「問題ないです」
年嵩のレンゲは、笑うナノハナの目元を指差す。
「目元の化粧が濃いヨー」
は、と笑いかけてナノハナは言葉に詰まる。だがすぐにかぶりを振った。
「平気ですよ。もう准尉も来ないでしょうし」
「つらい?」
またもナノハナは言葉に詰まる。リョクを悪く言いたくない、という気持ちも強いが、ナノハナにはナノハナの事情があるのだ。
「今は手も足りてるから、少し休んでなー。寝てても良いヨー」
「お布団が恋しいですよー」
「忙しくなったら起こすンだから、熟睡は駄目だからねー」
軽口で答えたレンゲに、ナノハナは肩を竦めて戯けた。お言葉に甘えて、と言い添えて、ナノハナは休憩室に向った。厨房の奥にあるロッカー室を兼ねた小部屋で、厨房の喧噪を完全に遮ることは出来ないが、ドア一枚分は多少静かだ。
椅子に座ると大きく息を吐く。眠りたい気持ちも強いが、ナノハナは眠ることが出来ない。机に突っ伏すこともせず、両手は腹に乗せ、天井を仰いで深呼吸を繰り返す。瞬きも出来ない目が乾いて次第に涙が滲んできた。それを拭うと、化粧が袖について、ナノハナはうんざりする。
折角の休憩だというのに、休めないのは勿体ない、せめてお茶でも飲もうかとナノハナは腰を浮かす。
ガタン、と何かを倒す音が厨房から聞こえた。悲鳴のような同僚たちの声も聞こえる。何を言っているのかは聞き取れないが、尋常でない事態は察しがついた。ナノハナは眉根を寄せ、そっとドアを押し開けた。こっそりと厨房の様子を伺う、そのつもりだった。
「こちらにナノハナという方がいるのでしょう!」
「ご用件は何ですかッ!」
レンゲと見知らぬ男性軍人が言い争っていた。会話に自分の名前が出ている異常事態に、ナノハナの心音は跳ねる。逃げ出したいが、世話になっているレンゲの切羽詰まった声や、心配そうに振り返った同僚たちを放って置くわけにもいかない。
ナノハナは休憩室から出ると数歩進み、立ち止まった。カウンターに近づくほどの度胸は、足も震えて沸いてこない。
「ナノハナは自分です」
絞り出した声も震えていた。場の視線が一斉に集まり、身が竦む。
そんなナノハナを見て、男性軍人は黒瞳を瞠った。黒髪に黒瞳はあまりにもありふれている。珍しいと言えば、北部基地所属にしては日に焼けていて、眼力は技術将校とは比較にならないほどに鋭い。軍服の線は工兵科の青でリョクと同じだ。年も同じくらいだろうが、雰囲気がまるで違う。ナノハナに相手への心当たりは全くなかった。
だが、こういう雰囲気の軍人は過去に何度か見かけたことがあった。南部にはこういう雰囲気の軍人が大勢居た。ナノハナの息が詰まる。
若い軍人はナノハナの姿を見るや否や、あろうことかカウンターを飛び越えて厨房に乗り込んできた。カウンターに食材は並んでいないが、あまりの非常識にレンゲが怒りに燃える目で男の背を睨む。激怒のあまり言葉も無いようだ。当のナノハナは近づいてくる男の威圧感に気圧され、数歩後ずさって扉に背をぶつけた。ドアノブに手がかかるが、ドアは厨房の側にしか開かない。
青ざめた顔で視線を男に向ければ、彼もまた蒼白な顔でナノハナを見ていた。涙を堪えているのでは無いか、との考えがナノハナの脳裏に浮かぶ。
「何をしている、コン!」
酷く混乱したナノハナの耳に、駆ける足音と見知った声が飛び込む。そんなに怒った声は始めて聞いた。食堂から怒鳴っていたのは眉をつり上げたリョクだ。
そうしてまたナノハナはスズシロを思い出してしまう。ナノハナが理不尽に教師に叱られていた時に、スズシロが割って入ったことがあった。姉を庇おうという正義感からでは無く、単純にその教師と不仲だったからで、ナノハナへの叱責の原因もそのせいだった。弟を窘めるべきか教師に怒りを抱くべきか迷う前に、心底うんざりしたという、他愛ない思い出だ。
それでも、ナノハナを動揺させるには十分な記憶である。膝が折れそうなナノハナに、眼前の若者は被っていた軍帽を脱ぎ、深く、これ以上無いほどに深く、頭を下げた。
「謝ってすむことではないと解っています。
自分が、スズシロを殺しました」
瞬間、ナノハナの頭は真っ白になった。
「違う」
視界が滲み、歪み、廻り、ぶれる。
「弟を殺したのは、私だわ」
蟇蛙が喉から這い出すような不快感と、視界を奪う深い霧がナノハナの意識を奪う。
床に倒れる音は遠い。