その8 帰り道。
結局、半ば強引にリョクの皿に自分の取り分の半分を寄せて胃に収めさせた所で、食事は終わった。片付けの最中にリョクが残りの魚を捌き終え、全て調味液に漬けた。ハガネも自分の釣り道具の片付けを終えると、たき火や細々したものの撤収に手を貸してくれ、ナノハナは大分楽に作業を終えることが出来た。
日が落ちる前に全て撤収し終えた三人は、朝と同じ電車で帰路についた。乗客は少なく、箱席にハガネとリョク、向いにナノハナの並びで座ることが出来た。
最初からそう会話も無かったが、それなりに話をしていたリョクが真っ先に静かになった。隣のハガネに凭れるでも無く、独り船を漕ぐ。ナノハナは眠る気も無くぼんやりと窓の外を眺める。ハガネも手持ちの通信機を見ていた。
「一つ、伺っても?」
不意にかけられたハガネの言葉に、ナノハナは思わず姿勢を正した。電車はトンネルに入り、ハガネは通信機を片付けていた。外光が無くなった車内は、室内灯の分だけ明るい。
「なんでしょうか」
今日一日、殆ど会話をしていないハガネからの会話は、ナノハナには気まずい。
「貴官と准尉の、その、関係は?」
「料理を教えています」
「何故?」
「応対したのが自分でした」
「それだけ?」
「他に何か?」
この人も同僚たちと同じなのだろうか、と聊か落胆してナノハナはハガネを見やった。狼狽えるハガネは一度口を噤む。しばらくして、リョクを見やったままおずおずと口を開いた。
「他人に懐いているのが珍しい」
リョクは職場でどんな風に振る舞っているのかと、ナノハナは眉根を寄せた。それでふと気付く。
「ひょっとして准尉は、友達がいないのでしょうか」
「喧嘩の相手はいますよ。今回もそれが原因でしょう、他部局の方にまでご迷惑をかけて申し訳ない」
ハガネが笑った。ナノハナはようやくハガネの素顔を見た気がした。最初は初老くらいに見えたハガネだが、改めて見ればずっと若そうだ。せいぜい三十代後半だろうが、雰囲気が落ち着いているせいで、ずっと年上に見えたのだ。ナノハナはハガネの様子と言葉に戸惑う。だがハガネはナノハナの戸惑いを見落としたまま話し続ける。
「准尉には良い経験になったでしょう」
「まあ、山ほどイモを剥くことは工兵科ではしないでしょうし」
「それもあるでしょうが、部局の外に世界が出来たことです。貴方のように良い姉さんが居て本当にのように見える」
「冗談じゃない」
ナノハナは抑揚の無い声で言ってしまってから、慌てて手を振った。
「いやだって、妹が欲しかったというか、大体くれるならもっと可愛い子が良かったと言いますか……ああそう、前に映画で見た子役の子とかが良いな。十歳くらいの可愛い子で」
悩みなど無い娘に見えるようにと、ナノハナは数人の子役の名を挙げた。ハガネは曖昧に笑い、「最近の子役は解らないので」と小さく頭を下げた。それ以上は追求しない。ナノハナはどういう番組を見るのか、好きな映画はあるのかと益体もない話題を振り続ける。ハガネは言葉を遮るでも無く、静かに頷く。
その間リョクは眠り続け、停車直前に起こされると、網棚から皆の荷物を降ろした。ナノハナの手提げは二つのままだが、朝よりは大分軽くなっている。リョクは軽い方をナノハナに渡し、ハガネの荷物も持って電車から降りた。ナノハナはその後ろに続く。駅から基地までは、まずは登り坂だ。
基地の敷地は二辺の長い二等辺三角形に似ていて、中央と奥の敷地がやや低く、坂があちこちに出来ている。距離もあるため、駅と基地内の巡回バスが出ている。だが直前の便が出たばかりであったので、次のバスを待つよりはと三人は歩いて戻ることにした。目的地は三人とも基地の宿舎だ。
歩きながら、リョクは上機嫌で一日の礼を述べ、ナノハナはそれを茶化しながら頷く。ハガネは特に何も言わない。リョクはハガネの態度に不満を示すこともなく、魚の捌き方の細かいことや燻製の作り方をナノハナに問う。ナノハナはそれに適当に答える。
そんな会話をしているうちに、ナノハナの住んでいる衛生科宿舎が見えてきた。工兵科の宿舎は更に奥まった場所にあることを思い出し、ナノハナはリョクとハガネに別れを告げるべく腕を上げようとした。
「准尉、送ってさし上げなさい」
え、とリョクとナノハナは同時に声を上げた。思いがけないハガネの言葉に、別れの敬礼にと上げかけた腕も止まる。
ハガネはさっさと踵を返して去って行く。残され、ハッとしてナノハナはリョクが持っている自分の荷物に手を掛けた。
「准尉、この先は一人で行けますから、荷物を返して下さい」
「しかし、中尉の命令が」
リョクは生真面目そうに眉間に皺を寄せている。
「命令?」
「送っていけと」
「命令かな?」
お互いに首を傾げて黙り込む。リョクは頭をかくと、ナノハナの手を振り払った。
「宿舎の前までは荷物を持ちましょう」
「いや、別にここで構いませんけど」
「女子寮には入れませんから、ご安心を」
淡々とした物言いに、ナノハナはどういう誤解をされたのかを悟った。頭を抱える。
「准尉、女子寮なんかに近づいて良いんですか? 尻だけですまないかもしれませんよ」
ピタ、とリョクが足を止めた。振り返った顔は真っ青だ。
乙女だなあ、とナノハナは生暖かい気持ちでリョクを見返す。
「帰りはダッシュで逃げて下さいね」
リョクが青い顔のまま頷く。
ナノハナはあははと笑って先頭に立って歩き出す。距離は本当にそう遠くないのだ。
「待って下さい、師匠」
ははは、と笑っていたナノハナは不意に声を詰まらせた。
どう考えても、リョクと弟に共通点は無い。南部育ちの野生児と、北部産の高貴な帝族では見誤る方が難しい。
だというのに、リョクといると弟のことばかり思い出す。「待ってよ、姉ちゃん」と後をついてきていた弟はすでに居ないというのに。
「師匠? ナノハナさん! どうしたんですか!」
ナノハナは濡れた目元を抑え、もう一方の手でじくじくと傷み始めた腹を抑えた。心配そうなリョクが差し出す手を押しとどめると、つとめて声を落ち着かせる。
自分がその手を取っていいはずがないと、ナノハナは判断していた。
自分のような人間が、純朴なリョクに師匠と呼ばれる道理は無い。自分のような人間が、猫背のあの人を思慕して良いはずがない。
「准尉が悪いんじゃないんです、ごめんなさい」
「ならどうして」
「ごめんなさい。貴方がいると耐えられない。もう無理です」
我ながら酷い言い方だった。繊細なリョクが傷つくのは、その顔を見ずとも、雰囲気だけで察せられた。だが、ナノハナにも限界がある。リョクの持っていた荷物を奪い取る。
「目的は十分ですよね? 燻製は後で届けさせます。ごめんなさい」
リョクは逆らわない。何も言わない。ナノハナはその顔を見ない。
「ごめんなさい」
ナノハナは踵を返すと一目散に走った。リョクは追ってこなかった。