その6 りんごふたたび。
翌日は昼食前から夕方までの勤務であった。頭がふらつこうが仕事に手抜きは許されない。雪の降り始めた寒さの今日も、水仕事をこなしていく。
食事は温かい煮付けやスープがよくはけた。職員たちも、温めたスープに固いパンを浸した遅めの昼食を摂った。ナノハナはどれだけスープにパンを浸しても、妙に舌がざらざらして食が進まなかった。それでも腹も鳴らさずにてきぱきと働いた。じっとしていると寒いのだ。
夕飯の時間が終わる頃にリョクが来た。蕪とイモを渡すと、嫌な顔をせずに黙々と皮剥きを始めたので、ナノハナは雪の中ゴミ袋を担いで集積所まで向った。南部育ちのナノハナには、まだ雪が珍しいので、集積所までの雪道も、今は新鮮だった。転ばぬように注意して、ゆっくりと歩く。
そうして戻って来ると、食堂の前でぼんやりと立っている男がいた。服にぱらぱらと雪を積もらせ、寝癖のついた頭をかき、猫背の男がため息をついている。後ろ姿とはいえ、ナノハナは見間違えていない自信があった。クマを拵えた黒い瞳の向う先が食堂の開室時間であることも察しがついた。
ナノハナはしばし逡巡した後、ぐ、と拳を握りしめて顔を上げた。
「あの、ご夕食でしょうか」
男が吃驚した顔でナノハナを振り返った。え、と口を開いて、青白い頬を真っ赤にする。ナノハナは耳まで赤くなりそうな己を必死で押さえこむ。
「こんな時間に、食堂の前におられるので」
言い訳のように続けた声が固くなるのが解った。男は赤い顔のまま俯く。
「……閉店時刻を間違えて」
なんと間の抜けた人だろう、とナノハナは思う。普通だったら、他の人間が相手ならば小馬鹿にする答えであった。だがナノハナは、男のその答えに一種の愛おしさを覚える。
高鳴る鼓動を押さえ込もうと、唾を飲み込んで、男から目を逸らして言葉を続ける。
「少し、待っていて下さい」
え、と男が聞き返すのを背中で聞いて、厨房に駆け込む。夕食で使わなかった食材の大半は、状態に応じて翌日以降に使用される。切り分けなかった果実ならば、まず翌日に回されることになる。定番の林檎は厨房に溢れており、昨日のように職員の夜食にも供される程度の余裕はある。ナノハナは林檎を手に、廊下に戻った。
「残り物ですが、お持ち下さい」
男が呆気に取られた顔で林檎とナノハナを見比べる。
「外、雪降ってますから。酒保に行くのも大変なのでは」
「そういや、降ってたなぁ……」
感慨深く男は言う。外を歩いてきただろうに気付かなかったのかと尋ねたかったが、胸の鼓動があまりにも五月蠅くて、問いかけは差し控えた。
「ありがとう」
ちょっと頬を赤らめて礼を言う顔を、ナノハナはちらっと見ただけだった。
「いえ」
自分の声の素っ気なさに、心中でもう少しどうにかならなかったのかと言いたくなるも、どうすることもできず、ナノハナは食堂に戻った。レンゲだけがナノハナの熱に浮かされたような様子を気に止めて声をかけてきた。
「なっちゃん、どうしたのー?」
「いや、なんか食いっぱぐれた人がいて、忍びなくて。あの、林檎を持出しました」
「あらあら、だったら何か温かいものの方が良かったネー」
それは考えが足りなかった、とナノハナは後悔する。が、男の顔を思い出すと心臓の辺りで体温が上がってしまう。自分のことではなく相手のことを考えようとすると、顔が真っ赤になりそうだった。まさか自分にこんな純情さがあったとはと自嘲しても、顔の熱は引かなかった。
だがこの想いが恋だというのなら、一体自分には、その資格があるのだろうか。ナノハナは自分の腹に手をやった。
「じゃあ次は」
ふぅ、とため息をついたレンゲは最早ナノハナを見ていなかった。視線は厨房のナノハナではなく、食堂で沢山の中年女性に囲まれるリョクに向けられている。
「あれ、助けてあげたら?」
顔を挙げたナノハナは、大分生暖かい目で、悲鳴を上げるリョクを眺めた。
○
「姉ちゃん、今日だけ一緒に寝てよ」
「は? やだよ」
ぐぅ、とスズシロが突っ伏したまま呻いた。
戦線から戻ったのは四度目のことだった。これまでに無い弱音に、ナノハナは拒絶してから驚く。自宅の居間でのことだ。洗濯物を畳み終え、そろそろ寝ようかと立ち上がりかけた時、上着の裾を掴まれたのだ。
ナノハナは改めて弟を見返す。これまではナノハナが心配していても、休暇の度にけろっとした顔で戻ってきたスズシロだが、今回は大分大人しかった。ちょっと考えてから、ナノハナは浮かしていた腰を降ろし、すっかり大きくなってしまった弟の頭をわしゃわしゃと撫でてやった。
「軍隊じゃ一人で寝てるんでしょ」
「当たり前じゃん、男ばっかだし、つか暑いし、臭いし」
「姉ちゃんは偏見無いよ?」
「俺は女の子が良いよ!」
ははは、とナノハナが笑うと、スズシロは不機嫌な声を出す。
「そういう姉ちゃんには、恋人とか出来たの?」
「あんたに言われたくないわよ」
「まあ生で蛙食うような姉ちゃんに恋人とか無理あだだだだだだだ!」
「あれはアンタがアアアアアアア!」
ナノハナはスズシロの耳を思い切り引っ張っていた。ナノハナとスズシロはそれなりに仲の良い姉弟であったが、やんちゃ盛りの弟の悪戯に姉は散々手を焼かされた。寝ている姉の口に蛙を突っ込んだ時は酷い騒ぎになったし、それ以来ナノハナは蛙が大嫌いだ。今でも時折、蛙が詰まって何も喋れず、息も出来なくなる悪夢を見るのだ。あの悪戯だけは、生涯恨みに思う。
「茹でれば鶏のような」
「止めないとほくろ潰すよ」
スズシロの耳の後ろには、生まれつき黒子がある。それを爪でつねると、スズシロは大仰に痛がる仕草を見せた。耳を引っ張られる方が痛かろうに、幼少期にナノハナが散々虐めたせいで、スズシロの心理的弱点になっていた。やめてー、と巫山戯ているのか本気なのか判断つかない悲鳴を上げる。ナノハナは、ぱしん、とスズシロの耳を軽く叩いて、手を離した。
「全く、大人しくレーションを食べなさい」
「でもさぁ姉ちゃん、前線じゃ贅沢言えねぇよ」
ぽつり、と呟くスズシロの声は暗い。
「食べたの?」
弟の沈黙に、ナノハナは血の気が引く。
「だって、配給が」
「間に合わないことも、あるよ」
その時のナノハナは、ただ絶句した。
不毛の砂漠が広がる西部や極寒の北部と違い、東部と南部は緑も水も豊富だ。もっとも生食出来るものばかりでもないし、生水は腹を壊す。それは基地に勤務するナノハナにとっても常識であった。
特に東南部での兵士の死因では、食あたりと水あたりが最大のものだ。ナノハナたちでさえ、最低限のサバイバル知識は叩き込まれているし、前線のスズシロたちにはまさに必須の技能である。
だが、それを非常時以外に発揮せずにすむように、食料の配給が行われている。それが帝国の誇りで有り、国力の優位性だ。何よりも優先されるべき事項だ。そのはずだ。
「まあ、非常時の訓練だったんだけどさ」
「そう」
ナノハナは兵站の不備がなかったことに胸をなで下ろした。弟が餓死することなど想像もしたくなかった――どんな形であっても、スズシロの死は考えたくなかった。
「スズシロ、次もちゃんと帰ってきなさいよ」
嫌な胸騒ぎのせいでナノハナはそんなことを言った。
「人を殺しても?」
消え入りそうな声を、ナノハナは危うく聞き逃すところだった。裾を掴むスズシロの手が震えていた。それでナノハナは、弟が甘えてきた原因を悟った。
悪戯の好きなスズシロだが、ナノハナや友達に怪我をさせるようなことはしなかった。虫や蛙への虐待も、ナノハナの口に蛙を入れて以来、何か思うところがあったのか、全くしていない。台所に虫が出たときには、ナノハナの方が頼りにされていた。
そんな弟が歩兵科の軍人になる。そう決まった日から、ナノハナは、ずっと用意してきた言葉を口にした。
「アンタが怪我するよりは良いよ」
スズシロの背をあやすように叩く。
「……ありがと」
消え入りそうなスズシロの鼻声は、ナノハナの耳に残った。
何があっても弟が生きて帰ってきてくれれば良かった。馬鹿で、間抜けで、人殺しでも、スズシロはたった一人の弟だ。ナノハナはそう祈っていた。
そうして五度目の勤務に赴いた弟は、ナノハナの所に帰ってきた。
スズシロが五度帰還した後で、ナノハナは自分の仕事場にある書類箱を順繰りに調べていた。
灯りは不十分だが、文字の判読には十分であった。資料室にはナノハナしかおらず、ナノハナは作業に没頭した。南部第十八辺境鎮への兵站配給記録を確認しなくてはならなかった。一枚一枚、日付と配給先、許可した責任者の署名を確認しながらめくっていく。
その作業が何時間続いたのか、ナノハナには解らない。作業は業務ではなかったが、軍服の黄色の線にかけて、ナノハナは休みもせずにページを捲る。
黄色は大地の色だと言う。戦士の血肉を作る作物を育てる、黄色の肥沃な土地を黄色で表現した。その色にかけて、ナノハナは真っ赤な目をこすりながら書類を確認する。
兵站の充実が、黄線の全てであるはずだった。
――そして目を醒ましたナノハナは、痛む腹を抱え、己の膝に顔を埋めた。
五度、弟は帰ってきた。
スズシロが誰と恋に落ちても、誰を殺しても、ナノハナは構わなかった。
たった一つ、願いが叶えば良かった。
願いは声にならず、喉に詰まって出てこない。
○
「……そンでネー、偶然を装おえば良いと思の!」
きゃあきゃあとあがる悲鳴に、寝不足のナノハナは頭が痛い。
仕事の休憩のことだ。本当ならば休日であった日だ。疲労も溜っている。だが中年女性たちはお構いなしで、明日に迫ったリョクとの外出に、ナノハナそっちのけで盛り上がっている。口に含んだパンは今日も味気なく、ナノハナはそれ以上囓るのを止めた。
「二人っきりなんだし、いつもみたいな格好じゃ駄目だヨー」
「頑張ンのヨー!」
何を頑張れというのだと言い返す気力もなく皿を洗う。そうして日が暮れて、夕食の時間まで働く。ナノハナは何度も客席を伺ったが、会いたい黒い瞳を見ることが出来ないまま閉室の時間になる。
腹に手をやる。昨日の今日で、自分にその資格は無いのだと思い知る。
リョクはいつものように姿を見せた。山ほどのイモと蕪を渡す。だがこの日は、同僚たちに背中を押され、ナノハナもリョクの隣で皮剥きと相成った。中年女性には遠慮があまりない。
「明日なのですが」
「は?」
いささかウトウトしていたナノハナは、気のない返事をしてしまう。厨房の方で同僚たちの「何やってンの!」「もっと積極的に!」と、本人たちは囁き声のつもりであろう会話が耳に入る。リョクも聞こえたのか、やや眉根を顰める。が、すぐにナノハナに向き直ると、淡々とした表情のまま会話を続けた。
「ひとり増えても構いませんか?」
声を潜めたのは、厨房を気にしたからだろうか。ナノハナはなんとか聞き取る。
「特に何かを予約しているわけでもありませんし、構いませんけど」
「その、変わった人なのですが」
「気にしませんよ、准尉も大分変わった人ですから」
わざわざ料理を習いに釣り場まで来るのかと、ナノハナは首を傾げる。リョクはムッとした顔をぷいと逸らす。
「自分は変人じゃありません」
拗ねた声に、ナノハナは笑った。
「十分変人でしょう、食堂にイモを剥きに来る准尉なんて」
「自分はただ魚を捌きたくて! それで釣れなかったらと思って……!」
あ、と声を上げたリョクの白い頬が真っ赤になった。ナノハナは声を上げて笑う。
「釣りの応援を頼んだんですね。魚の捌き方も教えてもらえば良いのに」
「そうしたかったですけど、変な人ですし……」
「お友達なんでしょう?」
「いえ、部局の……その、年がずっと上で、話もあまりしなくて」
ふうん、と答えつつ、ナノハナは猫背の痩身を思い描いた。
つい先程、自分に恋をする資格が無いと思い知ったことも忘れ、くたびれた黒瞳に懸想する。
そんな偶然もあるまいが。