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食堂の事情。  作者: ぐも
3/14

その3 好みの問題。

 翌日は朝から厨房の同僚たちにアレコレと声をかけられた。

 いわく、「今恋人いないンでしょー?」「イケメン!」「工兵科は給料エーヨー!」「玉の輿!」など、など。


 ナノハナは早くも家に帰りたくなった。さすがにレンゲだけは、自分が許可を出した手前、同僚たちを宥めに回ってくれた。だが、女性同士の話というのは盛り上がると止まるところを知らない。


「なっちゃん、ちょっとお洒落しなヨー」

「髪、伸ばしたら似合うヨー」

「ああ、お化粧も頑張ンねっとー」


 幾つになっても女性というのは乙女だ、とナノハナは思う。

 そして面倒くさい生き物だ。


 それでも何時ものようにナノハナはイモや冷凍肉の詰まった大箱を一人で持ち上げ、鉄鍋を振り回し、揚げ物や煮物が綺麗に配膳されたバットを丁寧に配膳していく。一番人の集まる昼食時が終われば軽く掃除もし、夕飯の混雑に備える。そうしてまた、対面式のカウンターに食事を並べる。


 大量の肉と貴重な野菜を鉄鍋で炒めてバッドに盛りつけ、配膳を終えたのは、夕食の営業開始時間とほぼ同時だった。早めの夕飯を取る客たちが三々五々に集まり、ナノハナは厨房の少し奥の方で林檎を手にしていた。山のようにある、北部の名産品だ。夕食が始まったばかりの時間帯であったから、あまり沢山剥いておくのは勿体ない気がして、今の消費具合はどうであろうかとカウンターの方へと首を巡らした。


 カウンターには、食事を選ぶ客が一人だけいた。クマをこしらえた黒い目はぼんやりしていて、だらしなくあいた襟足に出来ているシミや、夕方になって伸びてきてしまったであろう無精髭は目に入っていないのだと察せられた。甘辛たれの肉団子をトングで掴む手付きは危なっかしいが、きちんと皿の上に落とした。手付きが危なっかしいのは、小脇に抱えた本のせいだろう。カバーの掛かった表紙が少しよれている。


 そう長い時間見ていたつもりも、凝視したつもりも、ナノハナにはまるでなかった。それでもその客は伏せていた黒い瞳を少しだけ上げた。落ち着いた黒い視線が、ナノハナを捉える。瞬間、ナノハナは真っ赤な林檎に視線を戻していた。赤い林檎の先、ステンレスで覆った壁に、ぼやけた客の姿が映っていた。客はさほど気に止めた風もなく、皿を抱えてレジに流れていった。


 大丈夫、あっちは気に止めてもいない――ナノハナは少しだけ寂しい気持ちで林檎の追加を手にとって立ち上がった。包丁を手にまな板に向う。客の座った席は幸いにして厨房から近かったので、ナノハナは林檎を切る間、指を切らないように注意しながら、同時に客の様子を伺うことが出来た。


 軍服に入っている色は青と緑。リョクと同じで工兵科の実験局勤務だ。襟章は、今のナノハナの位置からは見えないが、技術中尉だということを、大分前にレジ打ちで顔を会わせた時に確認していた。本のカバーは、先週来たときと同じだ。ゆっくり読んでいるのだろう。ナノハナも本はゆっくり読む方だ。もっとも、あの客が何を読んでいるのかは解らないし、ナノハナと同じ本を読んだことがあるとも思えない。


 今日も結構な大盛りである。若い実地訓練中の兵士ならともかく、基地勤めの、三十を過ぎていそうな痩せ男が食べる量とは思えない。それでも男は淡々と、粛々と、食事の山を崩していく。好き嫌いはなさそうだ、とは、配膳の傾向を見ていればなんとなく察しがついた。


 林檎の皮剥きを終え、他の作業を淡々とこなしながらも、ナノハナの関心はその客に向けられていた。コンロに向って野菜を炒めてる時も、野菜を切り分ける時も、配膳や片付けの時も、ナノハナは密かに頭を回転させていた。不自然にならないよう、細心の注意を払い、気を利かせた風に、重労働である皿洗いの流しへと滑り込む。かの客が、食器の返却口に来るよりも早くその位置についたことで、ナノハナは心中で拳を握りしめた。油の浮いたぬるま湯に躊躇無く両腕を突っ込んで、皿の汚れを落とし始める。


「ごちそうさん」


 生気とか、覇気だとか、若々しさの感じられない声だ。それでも、ナノハナの心は躍る。その一言を聞くために皿洗いの場所に移動する計算をしていたのだから、成功して嬉しくないはずがない。だからこそ、ナノハナは声に気をつける。とにかく、面倒くさそうに、関心など無さそうに、低く答える。


「はい」


 そうして逸る自分自身を宥めながら、たっぷり胸の内で三つ数えて顔を上げる。男は食堂を出て行くところだ。丸めた背中、本を抱えた小脇。もう夕飯だというのに、寝癖とおぼしき後ろ髪のハネ。当然のように、上着の裾からズボンに収め損ねたシャツの端が覗いている。そうして食器の返却口からナノハナが回収した食器には、食べ残しも食べこぼしもない。特にナノハナは男が大量に盛りつけていた野菜炒めの皿を見た。見事に何も残っていないその皿を、ナノハナは表情を押し殺して眺める。だがそれも一瞬のことだ。他の皿を眺めるのと変わらない時間だ。


 ナノハナは男の名前を知らない。知りたいという好奇心を、理性で押しとどめてきた。この気持ちが恋なのか敬意なのかも、ナノハナは知ろうとしなかった。男はナノハナを目に留めていないのだ。だから、ナノハナが一方的に男の情報を知っているのは公平ではない、と自分に言い聞かせる。階級は、見える位置に階級章があるのだからしょうがない、と自分に言い訳をする。


 きっと知ってしまったら、今のような幸福は消えてしまうだろう。何日、何十日に一度、特に言葉を交わすわけでもなく、ただその健啖さでナノハナを何日も幸福にしてくれるような男のことは、ただナノハナ自身の胸の内にだけあればいいのだ。




 食堂を閉める時間になって、リョクは大汗をかいて飛び込んできた。同僚たちに囃し立てられ、うんざりしたものの、顔には出さず、ナノハナはリョクに向かい合った。


「先生、今日は何を剥きますか!」

 ナノハナは無言でテーブルの上の大箱を指差した。青々とした緑色の葉は北部では貴重な色合いだ。


「蕪ですか?」

 帝国北部の冬において、大量に消費されるのがイモと蕪、そして豆だ。豆の調理にはまず包丁が要らないので、包丁の扱いを教えようとすればイモか蕪の皮剥きになる。


「昨日はイモでしたしね」

 北部特有の、葉の多い蕪を手にナノハナは言った。リョクは興味津々、と言った様子で蕪を見る。北部特有で、北部では庭先でも生えているような蕪の何が彼の好奇心をかき立てるのか、ナノハナはますます頭が痛い。

 おまえは蕪も見たことが無いのか、どんな坊っちゃん育ちだ――との言葉を飲み込む。


「まずは葉を切り分けます。お浸しにするので、こちらに。根っ子の方は皮を剥いて八等分にしたらボウルにいれてください」

 ボウルにはナノハナの用意した液体が入っている。その匂いにリョクはちょっと眉根を寄せた。


「酢漬けですね」


 酢の匂いが鼻についたようで、リョクはボウルから顔を背けている。蕪の酢漬けは定番メニューの一つだ。ナノハナは無言で頷くと、昨日と同じようにリョクの隣で蕪を剥いて切り分けた。リョクは見様見真似で作業を開始する。


 ナノハナは己の手を動かしつつ、リョクの様子を観察した。リョクは一つ目の蕪を危なっかしい様子で剥き終えると、それからナノハナが蕪を剥く様子をじっと見ていた。ナノハナが三つほど剥き終えたところで、二個目を手にとって剥き始める。動きはゆっくりで、不慣れではあるものの、一個目よりはずっと上手だ。それから三個、四個と剥く内に目に見えて上手くなっていく。

 その様子に、ナノハナは心中で舌を巻いていた。坊っちゃん育ちかと笑っていたら、今頃恥ずかしくてリョクとはいられなかっただろう。出来ない子ではないようだ。


 全ての蕪を剥き終えて、リョクは嬉しそうに口元をもごもごと動かしていた。たぶん誇らしくて笑い出したいのを堪えているのだろう、とナノハナは見当を付けた。


「お上手ですよ。器用なんですね」

 褒めると、リョクはぱあっ、と満面の笑みを浮かべた。


「ありがとうございます!」

 ああこれは尻を揉まれてもしょうが無い、とナノハナは眩しいような、しょっぱいような気持ちの入り交じる半笑いを返す。


「これまで、料理の経験が全くないのですか?」


 リョクの様子を伺い見ていたナノハナは、抱いていた疑問を率直に口にしていた。リョクは飲み込みが早い。手先の器用さも重要だが、どうやって指を動かせば良いか理解するのが早いのだ。そんな青年がイモの頸動脈を狙う、などという発想になったのは、単純に無知なせいであろう。つまりこの青年は、これまで全く料理の経験も、食材に関わった経験もないのだ。そのせいで無知であり、おそらく傍で包丁捌きを見るのも今がほとんど初めてではないのか。ナノハナはそう考えていた。


 同時に、そんな状態に陥っていることがナノハナには飲み込めない。帝族とはいえ、幼少期に、両親なり使用人なりの調理を見ていても良さそうなものだ。外に出れば蕪は生えている。昨今の帝族には料理して食事を作る余裕も無いのかもしれないが、少なくとも帝国軍人ならば、下っ端だろうが将校だろうが、訓練校時代において初歩の調理技術の獲得は必修だったはずなのだ。

 なぜそんなことに、という単純な好奇心からの質問であった。


 だがナノハナは、視線を逸らしたリョクの横顔に己の好奇心を後悔した。リョクは金の瞳に宿る激情を、唇が白くなるほど噛み締めて堪えている。固く握る拳の先にある包丁の煌めきが、酷く不吉な輝きに見えてくる。ナノハナは咄嗟に頭を回転させる。


 そう重大なことではないのだと、声も表情も軽く、ついでに頭の中身も軽いのだと言うように、至極軽快に言葉を続ける。


「このままだと私の手付で完全に覚えますよ。代勤頼んで良いですかぁ?」


 私は休暇取りますから、と言い添える。リョクは面食らった顔でナノハナを見下ろした。当たり前だが、リョクの方が背が高い。ナノハナは平均よりも低い位なので、当然見上げる形になる。そこで、わざとらしく、両の拳を作り上目遣いで小首を傾げて見せた。これがナノハナに出来る精一杯の可愛らしさであった。


「師匠の頼みは聞くものでしょ?」

 声は冷たかったが。


「二重所属は禁止、でしたよね」

 妙に生真面目な言葉が返ってきたので、ナノハナはわざとらしく「ちぃっ」と舌打ちした。


 こいつは阿呆だ、と言いたげなリョクのため息に、ナノハナは胸中で安堵した。少なくとも、激情は金の瞳から消え去っている。


「ていうか、師匠って」

「まあ、弟子とも認めてませんけどね」


 そもそもリョクの方が階級は上だ。軍隊では階級が絶対だ。今更ながらそんなことを思い出すが、ナノハナには危機を乗り越えた安堵感の方が強かった。


 それくらい、リョクの激情はナノハナに恐ろしいものを感じさせた。

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