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食堂の事情。  作者: ぐも
11/14

その11 起きたときのこと。

 ナノハナが目を醒ました場所は、見慣れた北部基地の医務室であった。転属当初は貧血を起こしては訪れていたので、馴染み深い。酷く頭が痛くて目眩が酷いのも、あの頃と同じく貧血を起こしたせいだろう。コンの話の衝撃と、ここ数日ぶり返していた拒食と睡眠障害が相まって、派手に倒れてしまったのだろうと見当がついた。

 頭はぼんやりしていたが、リョクがコンを追ってきていたことに思い至る。釣りの帰りのことを思い、何の落ち度も無いリョクには悪いことをしたと反省する。謝罪しよう、と暗い部屋の中で身を起こすべく腹筋に力を入れた。日が大分傾いたようだ。

 起き上がろうとする腹筋を押しとどめるように、そっと手を置かれたのはその時だ。え、と疑問に思って視線を彷徨わせると、見知った影が目に入った。レンゲだ。責任者であるから、面倒をみてくれたのだろうか。礼を言おうと開きかけたナノハナの唇に、優しく指が押し当てられる。


「寝てなきゃ駄目よ、なっちゃん」

 穏やかに微笑むその顔に、ナノハナは目を丸くした。そして耳を疑った。レンゲの顔も、その声も間違えるものではない。特に声を聞き間違うはずが無かった。だが北部訛りの無い声は、レンゲの声では無い。


「倒れちゃうんだから。すず君がびっくりしちゃうわ」

 その声を永遠に聞けないと解った時、ナノハナとスズシロは一晩中号泣した。生まれる前から、自分たちにそう呼びかけていた女性は、たった一人だ。


「ふふ、すず君が蛙をなっちゃんのお口に入れた時のことを思い出しちゃった。なっちゃんの方が腕白で虫でも何でも捕まえてきたのに、あれからてんで蛙だけは駄目よねぇ」


 ナノハナは混乱し、次に恐怖した。今自分の目の前に居るのは、良く見知った栄養局のレンゲではない。北部でその話を知るものは誰も居ないはずだ。悲鳴を上げようとしたが、喉が詰まって声が出ない。

 まただ、また何も言えないのだ。


「なっちゃんは寝込んじゃうし、お父さんにも怒られるしで、すず君はすっかり悄気ちゃったっけね。ふふふ、懐かしいわねぇ」


 これは一体誰なのか。悪夢の続きなのか。ナノハナは真っ青になって目を見開く。女は笑みを浮かべたまま、ナノハナの青い唇から指を離すと、自分の口元の前で立てた。


「なっちゃん、このことは秘密よ。その代わり、なっちゃんに詰まっているものを取ってあげる」


 女が口元で立てたひとさし指が、ぐにゃりと歪んだ。恐怖するナノハナの眼前にその指が差し出される。指はうねうねと蠢き、伸び、鎌首を擡げ、白い牙を剥いた。

 蛇だ。

 ひ、と息を呑んだナノハナの口に、蛇が飛び込んだ。ナノハナは思わず身を捩らせるが、蛇はナノハナの喉に潜り込む。息苦しさと、蛇の濡れた感触に、悲鳴を上げることも出来ない。蛇の冷たい体が喉から胃へと這っていく感触は、喩えようも無く不快だった。


「大丈夫よ、なっちゃん」


 女は微笑んでナノハナの顔をのぞき込むと、ナノハナの頬の涙を拭った。腹の辺りで蛇が跳ね、ナノハナは仰け反る。ずるずると食道を蛇が這い上がり、女の指に帰ってきた。女は元に戻った人差し指を見て微笑む。ナノハナは涙を流し、肩で息をしながら女を見上げた。起き上がる気力も体力もすっかりない。女はそんなナノハナに布団をかけ直すと、ぽん、と頭を撫でた。


「なっちゃん、もう一度寝なさい。後は次の人が教えてくれるわ」

「おかあさん?」

 聞き間違えようのない声に呼びかける。

 母の声で「ふふふ」と笑い、女は人差し指を口に当てた。見れば、彼女の軍服は黒い線に金糸の縁取りがある。


「私は魔女」

 その声を最後に、ナノハナの意識は再び混濁した。





   ○


 数度瞬いて、ナノハナは目を醒ます。室内の灯りに眼を細める。


「気がつかれましたか?」


 目を醒ましたナノハナは、夢の続きだと思った。

 そうでなければ、何故かの人が自分の枕元にいるのか解らない。これは自分の欲望が見せる幻だと考えた方がしっくりくる。暖かな感触に視線を動かせば、ナノハナの痩せた掌を包む節くれ立った手が目に入った。


「医者を呼びましょう」


 そう言ってかの人はナノハナから手を離そうとしたので、ナノハナは咄嗟にその手を握りかえした。驚いた顔がその手を見る。みるみるうちに顔が赤くなり、そして青くなった。


「いや、ここ、こ、これはセクハラとかではなくですね、うなされたら手を握っておくようにと言われまして、委任された身としましては職責を全うすべく」

「この場合、訴えられるのは私ですよね?」


 ナノハナはしっかりと手を握り返す。その温かさは幻ではないと実感する。同時に、得体の知れない女の言葉を思い出す。どちらも夢では無いとしたら、どうしたらいいのかとしばし考える。


「貴方は私を監視していたとか、口封じに殺しに来たとか、そういうアレですか」

「えっ」


 黒い瞳がますます丸くなった。ナノハナは急激に恥ずかしくなる。

 一体、憧れの人に何を言い出しているのか。


「いや、忘れて下さい。あの、自分は栄養局のナノハナと申します」

「え、ええと、自分は第八開発部局所属のアカガネ技術中尉です」


 互いに頭を下げると、かの人、アカガネは空いていた手で後頭部を掻きながら、廊下とナノハナを交互に見やった。


「ええと、この度はうちの部局の者がご迷惑をおかけしまして、お見舞いに寄りましたところ、そちらの女性士官の方に付き添いを頼まれまして」

「レンゲ少尉でしょうか」

「ああ、確かそんな名前でした」


 声は、と言いかけてナノハナは口を噤んだ。アカガネがレンゲの声を覚えているのかが解らなかったからだ。それでナノハナは他に心配していたことを尋ねることにした。


「リョク准尉は」

「今は局の方に。その、貴方のことを心配していました」


 ナノハナは鼻の奥の痛みに息を呑んだ。ナノハナのせいで傷ついたろうにと思うとやりきれない。


「あの、ずっとこちらに居たからご存じないと思いますが、あの後隊長が駆けつけまして、准尉たちを取り押さえまして、貴女を医務室に。厨房の復旧にはこちらも参加しまして、さきほど夕飯営業が始まったところです。レンゲ少尉は夕方一度こちらに見えたんですが、営業が忙しいようで」


 レンゲと厨房が戦場になっていることは容易に察しが付いた。迷惑をかけてしまった。今からでも復帰すべきか、と身体を起こすも、目眩に額を抑える。


「寝ていて下さい、無理をしないで、休んでいるようにと少尉も言っていましたよ」


 この状態で厨房に行っても働くのは無理そうだった。ナノハナはレンゲの言葉に甘えることにし、壁に凭れる。レンゲは、北部に来てから面倒をみてくれた人たちの一人である。それだけに薄闇の中で会話した、レンゲではない誰かのことが思い起こされ、ますます目眩が酷くなる。


「やはり医者を呼びましょうか?」

 アカガネが心配そうにそう言った。ナノハナは無言で首を横に振る。


「リョク准尉は、もう一人の准尉を?」

「ああ、コン准尉ですね。コン准尉の方が足も早いですし、飛び出しちゃったら追いつけなくて」

「あの人、マトウ部隊の」

「確かその部隊です。ずっと戻るつもりでいたようでした。

 一度酷く落ち込んだ時期があって、可哀想だった」


 端的に言うアカガネを見上げれば、それが表面的な同情で無いことはすぐに解った。

 フユガ大尉の言葉を思い出す。北から帰ってくるはずの曹長。スズシロの死を自分のせいだと言った若い男。


「スズシロ、弟は、マトウ部隊に憧れていました。責任を感じられることを弟は望まないと思います」

 他の辺境鎮に所属し、しかも救助に来て壊滅した部隊を、誰が責めようか。他所にいたコンが気に病むことは無いのだ。ナノハナは自分自身への呵責を胸に、この場にいない若者を慰めた。

 スズシロが死んでいたとき、皆が「貴女のせいでは無い」とナノハナに言ったように。


「それは、貴女も同じです」


 不意を突く言葉にナノハナは視線を上げた。アカガネが手を握りかえしていた。しばらく呆気に取られていたナノハナは、はたとアカガネの言葉の裏にあるものに気付いた。


「知っているんですね!」


 言葉に詰まったアカガネに、ナノハナは手を振り払い顔を背けた。アカガネは憧れの人であったから、自分自身の過去を知られたくなかった。知られてしまった今は、その眼前から消え去りたい気持ちでいっぱいだった。ほのかな慕情を抱いていた黒い瞳に映るナノハナ自身に耐えられなかった。


 だがアカガネはナノハナが手を離すことを許さなかった。両手でナノハナの手を握りしめる。ナノハナが拒絶しようとすると、黒い瞳は真っ直ぐにナノハナを見て「ごめんなさい」と謝罪した。


「僕はずっと貴女を知っていたんです」

 意外な言葉にナノハナは呆気に取られる。アカガネは赤らんだ顔でナノハナを見ていた。


「春先に貴女が大鍋を振り回す姿を見て、細いのにどこにそんな力があるんだろうと不思議だった。レジ打ちの時には虚ろなのに、料理中や、食事している客を見る時の貴女は嬉しそうで、僕も嬉しかった」

 ナノハナはアカガネを見上げた。アカガネは言葉を続ける。


「だんだん健康になってくる貴女に、僕は安心していました。それに、覚えていないかも知れませんが、林檎をくれた時は本当に嬉しくて、僕は」

 熱っぽく語るアカガネの黒瞳には、ナノハナしか見えていない。その瞳に吸い込まれそうになるも、ナノハナの目は別の影を映して見開かれる。

「中尉、うしろ!」


 え、とアカガネが振り返る。

 ゴギャ、とか、ばごん、だとか、とにかく痛そうな音と共に痩身が吹き飛ばされた。

 ナノハナは悲鳴を上げて、倒れるアカガネを抱き留める。軽そうに見えても、それなりに重い。


「どうも! 通りすがりのセクハラバスターです!」

 両手を挙げて、軽くウィンクをしていたのは、アカガネを吹き飛ばした巨人だった。天井に頭がつきそうなほどの長身に、子供の胴体くらいはありそうな二の腕の迫力は、男性のものならば悲鳴を上げていただろう。だが子供の頭よりも大きそうな胸は、よほどの酔狂でなければ女性と判断するには十分過ぎるほど立派だ。黒々とした睫は長く、その下の黒瞳は大きい。


 ナノハナは悲鳴を上げず、呆気に取られ、口を開けたまま固まってしまった。

 第八部局の、大きな女性。

 その言葉をようやく思い出したとき、女性の背後から、彼女に比べれば小柄な男性が、これもまた遠慮の無い蹴りを放つ。


「阿呆かぁーッ!」

 怒りに燃え、吹き飛ばした巨人の胸ぐらを引っ掴んで正座させ、「待ても出来ないのかお前は!」と散々に罵り始めた。巨人は反省の色も無く唇を尖らせて「ぶー」だの「えー」だのと不服そうで、ますます男が怒り狂う。


 頭が真っ白になったナノハナが頭を抱えていると、医務室の入り口から、そっと顔を覗かせたいかにも軍人然とした若者がいた。彼は無表情で、説教する男と反省しない巨人を眺めると、ナノハナに視線を向けた。

 そうして至極平静な声でナノハナに向って口を開く。


「通りすがりのコント集団です」

「ツぅチぃいいいいいいいいいいいいいい!」


 男が左拳に渾身の力を込めて、その横っ面を張り飛ばした。

 ナノハナは頭が痛くなってきていた。

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