その10 もっと前のこと。
過去編。
「餓死です」
そう言って検死官は死体袋の頭部を開封した。
「え?」
ナノハナは眠るスズシロを見ていた。
スズシロが軍人になってから、五度目の帰還であった。荼毘に附す前にナノハナと対面を果たしたスズシロは何も言わない。言えない。もう起きない。
やつれた頬、骨張った顎、くしゃくしゃの髪を撫でてやる。右の耳たぶを掴んで裏を見れば、黒子があった。母親が真っ先に気付いた、生まれた時からのスズシロの特徴だ。何度も何度もその黒子を抓って泣かせたせいで、スズシロはそこに触れると痛がって嫌がったものだ。ナノハナにとって、軍が右手に埋め込む南部第十八小隊の生体認識票よりも、変わり果てた顔よりも、雄弁に弟であることを示す証だった。今はどれだけ力をいれても、スズシロが嫌がることは無い。抗議の声は上がらない。
起きて、起きなさい、と呼びかけることも叶わない。
「餓死って、配給は」
「兵站局の方がそう仰るのはごもっともです。ですが、弟さんの胃は空でした」
「どうして配給が届かなかったんですか!」
「それは私には解りません。ですが、上等兵は幸運でしたよ。ほら、五体とも欠けていない。獣に食われる前に回収された。戦闘による被害も軽微でした」
だからなんだというのだ。手足は義肢で補えるが、肝心な命を失ってしまったではないか――しかしナノハナはもはや弟の遺骸に取りすがって泣くばかりで、悲しみで喉が塞がれ、叫ぶことは出来なかった。
スズシロの葬儀は呆気なく済んだ。
全てが帝国式に、しめやかに軍の手で行われた。ナノハナは放心した体で弟の遺骨を抱えて墓地に運び、整然と並ぶ墓標の一つに弟を埋めた。同じ日に五件も葬儀があったのは、スズシロの部隊がほぼ壊滅したせいだった。弟のいた南部第十八辺境鎮は、敵の攻勢に耐えきれず、落ちた。弟の憧れであった、第十七辺境鎮の野戦隊が救援に赴いたが、混戦と餓えの中で全滅した。
東と南の境界に繁る密林の中、敵側に突出していた第十八辺境鎮である。兵站の補給は一ヶ月近くも絶えていたという。詰めていた兵士の半数は襲撃により持ち場を放棄したが、殆どが餓えか獣のために死んだ。敵は建物を破壊したのみで、占拠もせず、攻勢にも出ていない。
同じ新聞の片隅に、兵站の不備で兵士が持ちこたえられなかったことを糾弾する記事が載った。
数年前までは誰も、東部と南部の境でそんなに大きな戦闘が起こるとは思っていなかった。今度の戦争の発端は西部にあり、東部は影にしか存在していなかった。そもそも、東部は表向き帝国の支配を受け入れている。最前線はさらに東、テンロウ湿原付近とされていた。
尤も、スズシロの志願が受け入れられた頃から、東部と南部の境界も殺気だってはいたのだ。テンロウ湿原を中心とする大湿地帯における帝国戦車隊の敗走と、東部勢力の武装化の果てにくるものを、密林と湿地の彼方にあると考えていたことを、ナノハナは恥じた。
喪が明けて出勤したナノハナに、同僚たちは一様に同情し、兵站の徹底をナノハナに約束していった。兵站の不備は指摘されたが、書類には不備が無かった。運搬上の経路選択ミスとのことで、他部署の人間が処罰されていた。
ナノハナは虚ろな目で、自分や同僚たちの着ている軍服の黄色いラインを眺めていた。
黄色は土地の豊饒を示す、大地と食物の色だ。大陸北部に興った帝国が、肥沃な南部の実りを見て決めた色だと言う。
当時のナノハナは、黄色で表される農兵科の、黒い縁取りを持つ兵站管理局に所属する事務方の軍人であった。日常的な事務作業を担当する部局であったが、兵站の流通も担当していた。もっとも、新人も同然のナノハナにはさほどの権限はなく、専ら資料整理が仕事であった。これまでの決裁資料の在処を知っていたナノハナには、弟の居た南部第十八辺境鎮への流通経路を確かめることは可能であった。勤務時間の合間を縫い、寝食を忘れ、ナノハナは膨大な資料をめくった。
「大丈夫?」
そう声をかけてくれる人は大勢居た。ナノハナはその全てに首を振った。
「こういうのなら、食べられるんじゃないかな」
そう言って消化の良いものを差し入れてくれる人も多かった。だがどんなに美味しい匂いだと思っても、柔らかく出来ていても、ナノハナの喉を通ることは無かった。ナノハナの喉は無力感に塞がれていた。
「まだ休んでて良いのよ」
そう気遣われても、ナノハナは休まなかった。罪悪感がナノハナを駆り立てた。
○
その日、ナノハナは歩兵科の兵士が集まる食堂に一人で向った。農兵科と違って男性ばかりで、一種独特の雰囲気を持っている。弟が生きている頃から、ナノハナは歩兵科に近づいたことはなかった。用も無かったし、唯一の理由になり得る弟には、絶対に一人で近寄るなと警告されていたからだ。
すれ違う人間の殆どがナノハナを見、そして目を背けた。執念が成す偶然か、探す人物は食堂に一人でいた。ナノハナは真っ直ぐにその男に向った。拳を握って、肘を折ると肩の高さまで上げる。
「帝国に栄光あれ」
水平に腕を伸ばす。基地内での慣例でもある敬礼に、男は振り返った。ぎょっとして黒い目を丸くしていたことを、ナノハナは今でも覚えている。
「失礼します、フユガ大尉。自分は農兵科のナノハナ兵長です」
「君、保健センターには行ったのか?」
「はい。
今回は十八辺境鎮の兵站経路について、質問があります」
「ちょっと来なさい」
フユガはそう言って、ナノハナを屋外のベンチに案内した。天気の良い日で、フユガはナノハナに缶の紅茶を提供した。甘ったるいと評判になっていた、果汁入りの紅茶だ。そういうことは今でもはっきりと覚えている。それを差し出したフユガがナノハナを直視しなかったことも、自分もフユガを見なかったことも、その日紅茶は握りしめるだけで終わったことも。
「ナノハナ兵長、君はスズシロ上等兵の姉だね?」
「はい。大尉のことは弟から聞きました」
「どういう風に?」
「十八辺境鎮で一番尊敬する人だと申していました」
「僕も、良いお姉さんだと聞いていたよ」
フユガはそう言って、遠くを見たまま笑った。ナノハナも笑おうとしたが、頬が引きつってしまった。
「十八辺境鎮について、何を?」
ナノハナは持っていた書類を順番に見せた。
「これが最初に十八辺境鎮に送ることになった装備一式です。食料は備蓄分も含めて十分でした」
「そうだね」
「こちらは運送計画書です。十八辺境鎮は帝国側から見れば僻地でしたから、トラックは十六、十七を通って最後に向います」
「ああ、そうだった」
「こちらが十六辺境鎮での受領書、これは十七辺境鎮での受領書」
「見たことがあるよ」
「これが十八辺境鎮分の受領書。十七辺境鎮での代理受取りの署名です」
「署名をしたのはメツキ大佐だね」
「ご存じなんですね」
ナノハナは出した書類を淡々と片付けた。書類は正式なもので、部局ではこれを受け取るだけだった。誰も確認していなかった。ナノハナは虚ろな目で書類をしまうと、膝に書類ケースを載せて正面を見ていた。フユガの顔は見れなかった。南部特有の植生を、生食すれば中毒を起こす果実を眺めていた。
「メツキ大佐殿は、先月中央に戻られた」
呻くようにフユガが口を開いた。ナノハナは淡々と会話を繋げる。
「フユガ大尉は護衛任務に当たっていたから、あの時十八辺境鎮にはおられなかった」
「そうだよ」
フユガが一度言葉を切った。
「あれほど早く終わって欲しいと思った任務は無い。終わればまた辺境鎮に戻れる、以前の、クソッタレでもまだマシな部隊に戻れる。マトウの所の曹長だって北から戻ってくるはずだった。全部駄目だった。野戦隊は……」
言葉尻は聞き取れなかった。
第十七辺境鎮の野戦隊。歩兵科の特殊精鋭部隊を野戦隊と呼ぶ。東部戦線の激化に伴って、昨年西部から部隊ごと派遣されてきたのがマトウ隊だ。西部での輝かしい戦歴は、スズシロのような若年兵には一種憧れの存在でもあり、転属を知った時には些か興奮気味に感動を語ったものだ。ナノハナはその口ぶりを覚えていた。姉の不安と心配を他所にはしゃぐ、弟の脳天気な明るさを忘れることなど出来なかった。
その部隊もまた、十八辺境鎮の救助作戦において全滅していた。隊長であったマトウ准尉の葬儀は、スズシロの葬儀の前日、基地を上げて執り行われていた。糧食も弾薬も少ない中、友軍を見捨てることは出来ないと、緊急信号に答えたのだと噂されていた。
ナノハナはフユガの言葉を待った。ナノハナにとって、前線での戦闘は、弟が死んでもなお遠かった。東部大敗走の湿原から十八辺境鎮までの間には、要衝がいくつもあった。ナノハナ自身が銃を持って敵に突撃するような事態はまず来ないはずだったからだ。
だがナノハナの握りしめた書類は、ナノハナの部局がメツキ大佐による代理受領を認めたが故にあるものだ。兵站は、その過程に悪意のある横領があったとしても、豊穣の線を途切れさせてはならなかったのに、部局の誰もが見逃した。そして前線が一つ落ちた。落ちてなお、振り返って気付かれないことにされた。味方の後背で線を途切れさせることは、農兵科兵站局の黄線にかけて、決してあってはならなかった。
「大佐殿は昨日、起訴された」
「南部での罪ですか?」
「いや。中央に帰って、屋敷の使用人を過って殺したそうだ」
「どうしてそんなことを知っているんですか」
ナノハナは思わずフユガを見上げていた。そんなことは新聞にもデータベースにも出ていなかった。フユガに会う直前までメツキ大佐の身辺を調査していたナノハナにも、初耳の事件であった。
するとフユガは、何とも言いがたい横顔で笑っていた。
「大佐殿は帝族だ。恐帝の逆鱗に触れた。憲兵が余罪を調べて、昨日僕の所に来た」
無理に悪を気取るように、フユガは震えて笑う。
「僕は洗いざらい喋った。部下への虐待はいくらでも証拠を持っていた。兵站の横領もあっただろうと伝えた。君のその書類も、彼女は喜んで持っていくだろう」
「憲兵は、まだこちらに?」
「十七辺境鎮の帰りに寄るそうだよ。近衛の魔女がね」
「魔女?」
フユガはナノハナを見ずに口の端を歪めた。自嘲だろうかとナノハナはフユガから目を背ける。フユガは立ち上がると、振り返ってナノハナを見た。ナノハナも立ち上がる。
「君の気持ちは解らないでも無いし、こんな言い方も無駄だとは思うけれど」
フユガはナノハナをまっすぐに見ていた。
「スズシロのためにも、健康には気をつけなさい。あれは貴女の責任じゃない」
ナノハナは頬を歪めた。弟がいた頃には作ったことも無い冷笑が、弟を亡くした姉の顔に浮かんだ。忠勤を裏切られても、兵士の身に染み付いた動きは敬礼を取らせる。
「帝国に栄光あれ」
するとフユガも似たような笑みを見せた。腕を水平に伸ばして敬礼を返す。だが言葉は違った。
「地獄で栄えあれ」
この人は自分と同じだ、とナノハナは悟った。
夕方、フユガに話を聞いたと言って年配の女性がナノハナを尋ねてきた。魔女と評したフユガの言葉と裏腹に、物腰の柔らかい、上品な女性だった。黒い線に金糸の縁取りは、恐怖政治で知られる皇帝付きの憲兵部隊の証だが、そんな恐ろしさは微塵も感じさせない。優しそうな黒瞳を心配に染めて、ナノハナの体調ばかりを気に掛けていた。メツキ大佐の受領書を忘れ、ナノハナに食事を摂らせようと世話を焼き続けそうな雰囲気だった。受領書を持って帰らせるために、ナノハナは粥をひと皿飲み干さねばならなかった。
黒線の婦人が書類を持って帰った後、ナノハナは嚥下した粥を全て吐いた。
それでも、喉はつかえ、食事は喉を通らなかった。眠りも訪れなかった。
間もなく、ナノハナに病気療養を理由とした休暇命令が下った。周囲も、ナノハナ自身も、その命令に何の疑問も持たなかった。遅すぎたとさえ言われた。摂食障害と睡眠障害のために、もともと小柄だったナノハナは尋常ではなく痩せていた。
「農兵科も南部もやめて、北に行かないか」
メツキ大佐の処刑を知らされた翌日、上官であった部局の大尉に言われて始めて、ナノハナは自分の見つけた書類のせいで部局に迷惑をかけたのではないかと思い至った。この入院も、転勤の誘いも、部局からの報復ではなかったろうか。
「寒いけれども、北部はここよりもずっと平和だ。いい所だよ、寒いけれどね」
北部勤務の経験のある大尉は、青い顔でそう笑ったものだ。
北部には戦火が及ばなかった。南部も数年前までは銃後であった。兵士でも、戦地に赴くことはなかった。歩兵科の兵士でも、南部では工兵科の橋梁建設や農兵科の開拓にかり出されることが多かった。だが南部には戦場があった。その自覚が薄かった。
「農兵科をやめて、何をしろと?」
起き上がれなかったナノハナは、痛む腹部を抱え、呟くように聞いた。
「調理免許は取っただろう」
農兵科での調理訓練を思い出し、調理の資格も取っていたことを思い出す。提示されたのは、北部第五基地北第二食堂での調理業務であった。衛生科栄養局への転属である。給料は大分下がりそうだった。
ナノハナは虚ろな目で窓の外を見た。見慣れた南部の密林が広がっている。弟がよく遊びに行っては、泥だらけになって帰ってきた林と似ている。
「解りました。受けます。帝国に栄光あれ」
地獄に栄光あれ、とナノハナは胸中で付け足した。
自分が衰弱死することは、スズシロも両親も望まないはずだった。
そうしてナノハナは北部に来た。北部は帝国発祥の地であり、西部の天嶮、東部の大河で守られた要害であった。最大の敵は雪と言われるだけあって、戦火も雪にかき消されたかのように届かない。
給料は安くても、上官のレンゲを始め皆賑やかな女性ばかりだった。年若いナノハナはそれだけで貴重な労働力で、病み上がりだというのにどんどん力仕事が回ってきた。
兵站局と違って、栄養局では目の前でナノハナの用意した食事が消費される。痩せた、猫背のかの人も、どこに入っているのか解らないほどの量を腹に収めていく。かの人は、ちゃんと帝国の配給する食事を摂取しているのだ。
一つ残さず食べきる姿は、豊穣の線が途切れていないことを、ナノハナにこれ以上無く実感させた。自分の仕事が人を生かしていると思えた。ナノハナは自分自身の喉でも食事を摂ることが出来るようになった。夜に布団に入れば眠った。体力と体重は徐々に戻り、美味しい匂いには空腹になった。
ナノハナは雪の中で、生きる熱量を取り戻しつつあった。
スズシロと似ていない准尉が、厨房を訪れるまでは。