Father Christmas
「ワイルドだぜぇ」
流行語大賞に選ばれた言葉は、どう考えても自分には関わりがない。
二〇一二年十二月、一般的に言えば年末の慌ただしい時期ではあるが、中山啓太にとっては「師走」という言葉は無縁だ。十二月だからといって仕事が特別忙しくなるわけではない。抱えている業務柄、年がら年中ずっと多忙極まるのだ。これが零細企業の宿命だと啓太は思いながら、五年落ちのオンボロPCのキーボードをたたく。
啓太は、大学卒業後に正社員で就職した会社でリストラに遭い、何とか再就職した零細企業で事務の職を得たが、変わり映えのない日常に辟易していた。生活するのに必要最低限の給料をもらえるのはありがたいのだが、それでは自分の求める人生設計には不十分であると、どんどん過ぎて行ってしまう日々の中で啓太は考えていた。
大学で、啓太は工学部の航空工学を専門としていた。小さい頃から飛行機のパイロットに憧れ、将来はジャンボジェット機の機長になることが夢だった。しかし、就職活動で受けた航空会社は全て門前払いに近い形で落とされ、一応受けた鉄道会社にさえ内定通知をもらうことはできなかった。自分には飛行機乗りの適性がないのだと、啓太は痛感せざるを得なかった。
「少し、ゆっくりしたいな」
自宅でPCの画面を見ながら、啓太は独り言を言った。一人暮らしのワンルームは狭い。休みの日にすることといったらインターネットくらいのものだ。
「お。中々いいんじゃね?」
啓太は宮城県のある民宿のページをしげしげと見た。一泊二食付六,五00円。部屋数は全五部屋でこじんまりとしている。オーナーが漁師なので魚料理が売りだそうだ。小規模な民宿の割に露天風呂もしっかりしている。
年末の休暇が始まる二十四日に、一泊の予約を入れた。俗世間を離れてゆっくり温泉にでもつからないと体が持たない。啓太は二週間後の一人旅行を期待しつつ、休みが始まる二十四日まで延々とつまらない事務作業をしなければならないのかと、目の前の憂鬱を一層強力に感じた。
十二月二十四日、世間では三連休の最終日だろう。あからさまな人件費削減で社員の出勤日を必要以上に減らしている結果、二十五日から一月三日まで十連休の恩恵を受けた啓太は、奥松島の民宿に向かっていた。クリスマスイブにうかれたカップルが決して選ばないような、周りには海と入江しかないおんぼろ民宿だ。未婚で、勿論彼女もいない啓太が選択した一泊二日の自分自身への慰安旅行だった。
宿は築何年経っているか想像さえできない趣だった。江戸時代やその前から建っていると言われても信じてしまうくらい、柱の黒ずみ、ひびや亀裂など壁の経年劣化、崩れかけの石垣が耐え抜いた年月を自己主張していた。啓太を出迎えたのは九十歳過ぎと思える男性だった。主人の父親、隠居かと思ったが、宿には他に人の気配がない。まさか、と思ったそのまさかだった。
「大正八年生まれ、この宿の主人の田中正八です」
一体何歳かさえ分からない自己紹介を受けても、苦笑いを浮かべることしかできないのだが。
夕食時、テーブルに並ぶ料理を見て、自分だけしか宿泊者がいないことを啓太は知った。老人と自分が二人きりだ。啓太は口数が多くなく、自分から話題を振ることは得意ではないから、これから沈黙が続くことを予想せざるを得なかった。
夕食の一品目として、主人が目の前に置いた皿を見て、啓太の危惧はいくらか、いや、だいぶ吹き飛んだ。美味い料理に言葉は必要ないとはよく言ったものだ。
「左からキンメダイ、カキ、フグ」
ぶっきらぼうに話す主人の言葉を聞きながら口に入れると、宿泊料金が破格としか思えないくらいの味だ。東京では啓太の日給を払ってもこれほどの刺身は味わえないだろう。言われなくても新鮮だと分かる弾力感、瑞々しさは箸が止まらない。
「うまい」
思わず啓太が声に出すと、主人は少し表情を和らげたように見えた。深く刻まれた皺は年相応だが、腰がまっすぐに伸び、大正十二年生まれで今年八十九歳の祖母よりも年上には思えない。祖母は特別養護老人ホームに入所しており、ほとんど寝たきりだ。
「お客さん、お一人だけなんで、酒は好きなだけどうぞ」
主人がそう言うので、啓太は熱燗を頼んだ。普段は飲まない日本酒は、啓太の警戒心をどんどん奪っていった。たまには、気兼ねなく酔っぱらいたいと開き直り、啓太はお銚子を次から次に空けた。酔いが全身を支配するのを感じながら、自分の中に溜めてきた思いを吐き出したい衝動に駆られ、実害のない年寄り相手にそれを実行に移した。
「夢が、あるんですよ」
老人は調理をする手を一瞬止め、答えた。
「どんな夢で?」
「空を、飛びたいんです」
「空を……。飛行機に乗りたいということですか?」
「いやいや。パイロットになりたいんですよ。ジャンボジェットのパイロットにね」
「ああ。なるほど」
海外旅行さえしたことはないだろう、目の前の年寄りをしっかりと視界に収め、啓太は無駄な会話だったかと少し後悔した。
「夢は、かないそうで?」
老人に問いかけられ、想定外だったので啓太は戸惑いながら答えた。酒の力を借り、普段なら決して言えない本音でもって。
「無理ですよ。卒業した大学も平凡だし、僕自身の能力も大したことないし、絶対にパイロットにはなれないですよ」
言い切ってせいせいはしたが、無性に寂しい感覚が押し寄せてきた。
「まだ若いんだし、無理とは言い切れないんじゃ?」
何も知らないくせに。パイロットがどれだけ狭き門か知らないくせに無責任なことを言いやがって。啓太は思った。
「ほんの一人握りの、すごく優秀な人しかなれないですよ、パイロットは」
老主人はしばらく黙っていたが、おもむろに口を開いた。
「そうですかねぇ。人間、必死になって、一途に努力すれば、不可能はないと思いますけどねぇ」
啓太は老人の言葉をほとんど聞き流した。何もわかっていない、ど素人の参考にならない意見だと思ったからだ。パイロットになりたいという、自分の抱える夢は壮大で、ほとんど叶えることができないものだと啓太は理解している。しかし、とてつもない夢を持っている自分が、何の夢も持っていない周りの人間よりも数段優れていると思う反面、その夢はまず間違いなく叶えられないと諦観している自分にも、同時に辟易しているのである。
真夜中、信じられない音で啓太は目を覚ました。耳の穴の中まで入ってくるような轟音だ。何の音かというより、今何が起こっているか分からない。就寝中の個室の布団から這い出そうとした瞬間、啓太は音の主である膨大な何かに身体ごと飲み込まれた。飲み込まれて身体を持って行かれている間に、口の中に入った欠片によって、自分は土砂崩れに巻き込まれたのだとうっすらと理解しながら、次第に意識が薄れていった。
啓太が目を覚ますと、数えきれない星が瞬いていた。身体の上にのしかかる重みに全身の苦痛を覚えた。改修工事をしっかり行わなかったおんぼろ民宿のせいだ、啓太は損害賠償でも請求してやろうと、全く身動きができない状態で適当に思考を巡らせた。
「大丈夫、ですか?」
すぐに主人の声だと分かった。数メートル離れた場所から聞こえてくる。あれだけの土砂崩れがあったのに、星の瞬く音が聞こえるかと思うほど静かだ。
「大丈夫、です」
本当は大丈夫ではない。土砂に埋もれて全く身動きが取れないのだから。
「申し訳ありません。裏山の地盤が緩んでいたようで」
「いえ」
今さら老人を責めても仕方がないと啓太は思った。
「暗くて、何も見えないですね」
常に携帯しているキーホルダーのLEDライトを付けたが、細く弱い光は頼りなさ過ぎてすぐに消した。
「明かり、貸してくれますか」
老人に言われるまま、啓太はLED付きのキーホルダーを渡した。
十二月の東北は、早朝に氷点下まで気温が下がる。このまま朝まで動けなければ、凍死する可能性も十分ある。啓太は、もはや死さえ受け入れる気持ちを抱いていた。どうせ叶わない夢を持って生き続けるなら、いっそ一思いに死んでしまった方が楽なのではないかと、厚い土砂に埋もれながら啓太は思った。
「ふぁーざー・くりすますって、知ってますか?」
宿の主人が言った言葉は、すぐには理解できなかった。
「え? ふぁーざー?」
「Father Christmas」
「?」
「サンタ・クロースだっぺよ」
「ああ」
幼い頃、十二月二十四日は特別な日だった。大きめの靴下をベッドの枕元に置いて、眠りにつく。そうすると、翌朝には決まって靴下を破かんばかりの大きなプレゼントが入っているのだ。そういえば、今日はクリスマスイブだった。聖夜に死ぬというのも、中々おつなものかもしれない。
「うちの倅がね、二人いるんだけんど、ふぁーざー・くりすますを中学まで信じてたんだべよ」
自分よりも早くこの老人は死ぬはずだ。啓太は最期を迎えた老人の戯言だと、適当に耳を傾けた。
「毎年十二月が近付くと、一生懸命、願い事をしてね。願い事を叶えてもらうためだって、特に冬が近付くと、勉強も運動も頑張っていましたよ」
何を言いたいのだろう、この老人は。
「そういうふうに育てたせいか、努力ぐせがついたのか、長男の方が医者に、次男坊は県庁に勤めました。自慢の息子ですわ」
お前は努力していない、そう言われているようで、啓太はたまらずに言い返した。
「でも、どんなに素晴らしい息子さんでも、老いた親を民宿に一人きりにして放っておくのは、どうなんですかね」
言い過ぎたと思いながら、びくびくして答えを待っていた啓太だが、老人は何も言わなかった。秒針の音さえしない真っ暗闇で、時間だけが知らないうちに過ぎていった。
「夢は、必ず、叶うべよ」
一つ一つ、言葉を置くように話す老人の言葉は、冬の乾いた空気に小さくこだました。
「必ず、叶うっぺ。必ず」
老人の声を耳に入れながら、身体にのしかかる土砂の重みで、啓太は再び意識を失っていった。
目を覚ますと明るかった。太陽の位置と鳥のさえずり具合で、朝だということを理解した。啓太は身体を起こそうとして、全身に巻かれた包帯と、つながれた仰々しい医療器具を認め、助かってしまったことを諦めのように噛みしめた。死ねなかったし、これから先もまた同じようにうだつの上がらない人生を歩まなければならないのだと。
ふと視線を移すと、自分が寝かせられている簡易テントの隙間から外が見えた。隙間から除いた光景は、昨夜の土砂崩れの壮絶さを物語っていた。民宿の裏手は小高い丘になっていたが、それが全て流れ切ってしまって丘が平地のように平たくなってしまっている。
じいさんは? 先に病院に運ばれたのだろうか。 見える範囲で視線を動かしたが、老人は視界に入ってこなかった。
「ああ。気付きましたか」
救急隊員らしい服装の人物に話しかけられ、啓太は無言で頷いた。
「体調は、大丈夫ですか?」
再び、無言で首を縦に振った。
「幸運でしたね、田中正八さんと一緒で……」
「?」
理解できない。あのじいさんと一緒だと何が幸運なんだろう。啓太の思惑とは関係ないかのように、救急隊員は続けた。
「土砂崩れはかなり広範囲でした。この辺一体は全部飲み込まれました。ただ、人がいるのはあの民宿だけでしたが」
それが何だと言うんだ。運が悪いと言いたいのか。
「我々は、夜のうちに捜索の目星を付ける必要がありました。一刻も早く生存者を救出しなければならない。でも、闇雲に探しても、どこに人がいるのか分からない」
そりゃあそうだろう。
「捜索場所をどこに絞ろうか決めかねていた時、一筋の光が射したのです」
? 一筋の光?
「最初は、偶然の反射か何かだと思いました。しかし、ずっと規則的に光るので、これは偶然ではないと。そしてとうとう、応援に来ていた海上自衛隊の隊員が、モールス信号だと見破ったのです」
モールス信号?
「光は規則的に、正確な経度と緯度をモールス信号で伝えてきました。モールス信号が示す経度と緯度の場所に辿り着くと、あなたが埋まっていました」
何ということだ。それはつまり……
「田中正八さんは旧帝国海軍中尉です。真珠湾攻撃から生き抜いた、歴戦の爆撃機乗りでした」
! そんな……。
「田中中尉は、一度も、同じ飛行機に乗る部下や同僚を死なせなかったそうです。最期まで、最期まで、それを貫き通したんです……事実、あなたを救った」
救急隊員の瞳から、一筋の涙が頬を伝った。強く握られた右の拳は、小刻みに震えていた。泥まみれになってはいるが、救急隊員の右手に握られているのは、昨夜老人に渡したLED付きのキーホルダーに間違いなかった。
「Father Christmas!」
目があるのかないのか分からないほど顔中くちゃくちゃにして、顔全体で笑顔を表現しながら、老人が叫ぶ聖夜の声が啓太の全身を包み込んで離さなかった。