新米秘書の失態
皆様こんばんはでございますm(_ _)mペコリ
Ⅱもとうとう最後のほうまできましたね。
いまは試験中なので、筆の進みが遅く、十一月いっぱいでの完結が無理に……ううっ、無念!(TmT)
長いのでタイトル変えて二つに分けます。今日もどうかお付き合いくださいませ。
前編は短いですが、後編は長めです。
それでは今日も、最低な伯爵と苦労人イリスをお願いいたします。
恋愛要素は後半になりそうです。
十二月の上旬、当初の予定通り、今年最後の領内視察が行われることとなった。
視察前の一、二週間は地獄だったとしか言いようがない。
それもこれも、年末を出来るだけゆっくりと過ごしたいという伯爵の無茶な要求に答え、仕事を切り詰めたためだ。
理由の一つに、婚儀の準備で慌ただしかったというのもある。だがそれは、ほとんどエドウィンと使用人が済ませてくれていたので、伯爵とイリスがすることはほとんどなかった。
この一、二週間の最大の地獄は、実家の工場での布の試し織りや品質の確かめ、新しく入った機械の点検などの理由で、
ほとんど毎日ケミストラとアダーシャンを行ったりきたりしたことだった。
それに通常業務も加算されるのだから、休みどころか息をつく暇もなかった。
工場云々の話になると伯爵が忙しいように聞こえるが、本当に忙しかったのはほとんどイリスである。
それもこれも、伯爵が工場の一番面倒な手続きをイリスに丸投げしたせいだ。契約内容には『管理はケミストラ男爵に任せる』と書かれてあったので、文句が言えなかったのだ。
商売のことで父に頼ると大変なことになるのは目に見えていたので、
実家の商売はトゥーラとヴィットリオが率先して引き継いでくれた。
まだ指導が必要なところもあるが、二人も根っからの初心者ではないので、思ったよりも円滑に物事が進んでいる。
いつの間にか、工場で雇うお針子も町の職業斡旋所で選んでくれていた。二人は想像以上に優秀だった。
トゥーラとヴィットリオのおかげで負担はいくらか減ったが、契約書などの重要書類は、まだイリスがこなしている。二人にはまだ荷が重いと思ったからだ。
工場内の点検や今後の指示もあってヘトヘトになって帰っても、伯爵の細々とした世話、通常業務が待っている。
あまりにも忙しいため、寝台ではなく机で眠りこけたりすることも多く、いつ食べて、いつ寝たかすら覚えていない。やっと、一息つけたのが昨日の晩のことだ。
机の上で眠りこけたり仮眠を取ることが精一杯だったイリスを尻目に、自分だけ普段どおりの生活を送っている伯爵を少なからず憎らしく思ったのも仕方がないといえよう。
一息つけると思った瞬間、どっと疲れが押し寄せて、イリスはその晩、ぐっすりと眠った。
肩の荷が下りたからだろうか。朝起きた途端、体全体が気だるく、背中に妙な痛みがあった。
しかし、それを言ったところで、仕事人間の伯爵は相手にしないだろう。「肩凝り? そんなもの、社会人にはつきものだろう」と、早々に切り上げられるのがオチだ。
食欲もなかったがなんとか少量の朝食を押し込め、今日のために仕立てられたドレスに着替える。
昨晩、大慌てで仕立て屋兄妹から届けられた外出用のドレスは、空色のものだった。
この空色の布は兄が王都の研究所に雇われるきっかけとなった化学染料で染めたもので、特許などもまだしていない。いまのところ、ケミストラの工場にしかないものだ。この布の色彩が称賛されて、工場は徐々に巻き返してきていた。
懐かしい思いに駆られながら、使用人に手伝われてドレスを着てみた。ドレスと一緒に届けられた白い帽子にも、ドレスと同じ空色の布でリボンがついている。
伯爵の要望どおり、ドレスも帽子も派手な羽根飾りや宝石はついておらず、「いかに布の色を引き立てるか」を考えた意匠だった。この人たちに頼んで大丈夫だろうか……と、少しでも疑ってしまった自分をいまさらながら、叱咤する。
伯爵を待っている間、鏡を見て、一度自分の姿をじっくり観察することにした。
はじめは歌劇かなにかに遊びにいく貴婦人のようだと思ったが、よくよく見ると、別荘に遊びに行く学生のようにも見えてきた。
兄が作り出した化学染料の色は美しいのに、その色を纏う自分があまりにも幼く見えて悲しくなってくる。すると、眉を下げた自分の顔が鏡に映る。
自分の顔と睨めっこしていると、遠慮なく扉が開いた。予想通り、仏頂面の伯爵だった。
室内で仕事をするときのような緩い恰好ではなく、ちゃんと外出着の上に、防寒具を兼ねた外套を着込んでいたが、口調はいつも通りだった。
「馬車の用意が出来た。行く」
いつも通りかなり上からな物言いに、頬をひきつらせる。わたしはあなたを待っていたんですが。
待たせたことに対する申し訳なさなど爪の先ほども含まれていない命令口調に、いつもならムッときたかもしれない。
が、やるべき仕事が終わったあとの疲労感ばかりがのしかかってきて、力なく頷くことしか出来なかった。
イリスのほうも羽織った外套の裾を翻し、外に出た。
外ではすでにエドウィンが待っていて、馬車の扉を開けていた。
いま丁度手が空いている使用人が何人か集まって、微笑みながら未来の伯爵夫妻を見送ろうとしている。
「いってらっしゃいませ。一刻も早くのお帰りをお待ちしております」
その笑顔の裏に、「独身最後の旅を存分に楽しんできてくださいね」という生暖かい思いが込められているような気がするのは、イリスの気のせいだろうか。深読みしすぎかもしれないが、憂鬱な気分に陥った。
そんなイリスの心も知らず、馬車は本日の視察先、ベルセローナへと向かう。
***************
伯爵一行は、通り行く市民に歓迎して迎えられた。
ベルセローナは美しい街だった。冬の鬱蒼とした天気のせいで少し活気がなく感じられたものの、街並みは綺麗だし、歩道と車道が敷き詰められた煉瓦の色の対比で別れ、道路整備もきちんと出来ている。
居酒屋などの食べ物を売る店と装飾品や家具を売る店がきっちりと境界線が引かれて分けられ、余計な争いごともなさそうだ。それらの中でも、イリスが一番感心したのは、町外れの区画に設けられた市場だった。
活気があり、商人と一般市民で溢れかえっている。どこかしこで食べ物のいい匂いがして、骨董品から上流階級向けの宝石まで幅広い分野の店が出店している。
これだけ賑やかだというのに、店を開くのに必要な場所代は免除され、商人は市に収入の一割を納めることが義務づけられている。
しかし、彼らも好きなときに営業出来るというわけではないらしく、二月に一度は大きな人の移動がある。そうして、市場はますます発展していくのである。
それだけではない。市場から離れた娼館街には酒場を兼ねた商人のための宿屋がある。それらのほとんどは市営で、料金のいくつかは伯爵家に転がり込むという寸法だ。
伯爵が商売上手だということを痛感した瞬間だった。
街を一通り見て回ると、次は修道院、孤児院などの施設に寄って院長や責任者に、なにか困っていることはないかと話を聞く。
伯爵邸からベルセローナがそう遠くないこともあり、市長の邸で一泊した次の朝、すぐに邸に帰る予定になっている。
視察に取れる時間は今日だけで、そう長く滞在することは出来なかったが、院長は感極まった様子でお礼を言っていた。
その様子に驚いて、伯爵が院長と話し込んでいる間、通りかかった修道女にこっそり彼の評価を聞いてみると、
皆口をそろえて「いい人だ」と繰り返した。そして、そんな人の妻になれるあなた様はきっと、神様に愛されているのだといわれた。
イリスの心によぎった言葉はこれだ。――どうしよう。ありがたくない。
ウェンデルが修道院や孤児院、研究所といった施設に多額の援助、寄付金を送っていたのは知っていたが、イリスは彼の本性も本音も知っているので、その姿が安易に想像出来なかった。
そしてこれもまた、驚くことに、イリスに対して傲慢な彼は修道女たちだけではなく領民にも人気があるようで、歓迎する市民に向かって時折、窓からにこやかに手を振って市民を喜ばせていた。
貼り付けられたその笑みに、「面倒くさい」と書かれていたのは、イリスの気のせいだと思いたい。
裏表の激しい彼に溜息を吐いた途端、ぶるりと背筋が震えた。それから一層、体がだるくなってきたが、「きっと寝不足のせいだ」とイリスは片付けた。
***************
一通り市内を見回ると、馬車はやっと、日も暮れた頃に市長宅前で止まった。
市長宅を管理する壮年の執事によって客室に通され、晩餐会がはじまるまで、伯爵と共に僅かな休憩をとる。
これから市長とその夫人と会談を兼ねた夕食を共にするのだ。
執事が去り、伯爵が長椅子でくつろいでいるのを見届けてから、やっと椅子に腰を下ろすことが許された。
……体が重い。
疲労のせいで慣れないドレスが負担になってきたのだろうと初めは考えたが、この重さは異様である。
出来ることなら胃の中のものを吐き出したいと思わせる気だるい吐き気が襲い、途中で挟んだ昼食もあまり食べられなかった。椅子の背もたれにあたっている背中が痛い。凝っているのかと思い背筋を正したが、だるさが増すだけだった。
ボーッとして一点を見つめていることが苦にならなくなった時点で、熱があるのかもしれないと自覚した。普段ならばここで伯爵に訴えるのだが、今回は別だ。市長との会談を交えた晩餐会は、上手く領地を治めるのに必要なため、外すわけにはいかない。
そんなことを思っていると、伯爵は読み込んでいた書類から顔を上げた。が、イリスが熱を出していることに気付いていないようで、ホッとする。
「イリス」
名を呼ばれ、咄嗟に返事が出来ない。最早、すべての動作が億劫になっていた。
伯爵はムッとしたように眉間にしわを寄せたが何も言わず、不機嫌になった声で要求した。
「水が飲みたい」
「……はい」
心なしか掠れた声で返事をして立ち上がり、よろよろと部屋の隅に移動する。
普段なら軽々と持ち上げられるというのに、いまは石を持ち上げているかのように重たく感じられた。腕が震え、重たいものを持ったせいか気だるさが増す。
吐き気を堪えてコポコポと音を立てながら水を入れると、それを持って伯爵に手渡す。
「どうぞ」
掠れた声しか出なくなった喉を整えてから、グラスを差し出す。伯爵は書類から目を離さず細かいことを言い出す。
「遅い」
「申し訳ありません。要らないのなら元に戻しますが……」
「そんなことは一言もいっていない」
不機嫌極まりない声で言ってからグラスを受け取り、嚥下する。
だったらなんで言ったんだ、と呆れることすら出来ないほど体力が消耗していた。
明日は大丈夫かな……と思っていると、伯爵が怪訝そうにイリスを見上げる。
「やけに静かだな。具合が悪いのか?」
「大丈夫です」
余計な疑惑を抱かせないため、力なく微笑んでみせる。それがかえって、疑惑に拍車を掛けたようだった。
「診せてみろ」
額に手を伸ばされ、イリスはサッとそれを避けた。
伸ばされた伯爵の手は、空をかく。
「平気です」
「その顔の何処が平気だ。息が浅く、顔色もよくない。目が充血している。修道院を出たあたりから顔色が悪くなってきていたし、そういえば、朝も昼もあまり食べていなかったな? 調子が悪いのではないかと常々思っていた。診せたまえ」
朝から観察されていたのかと驚いて目を丸くする。イリスが目をパチパチしている間にも伯爵の手がまた額に触れようとし、ハッとなってそれも避けた。
これは、イリスの意地のようなものだった。
「閣下にご心配いただくようなことはありませんわ。寝不足で少し体がだるいだけです」
「イリス」
咎めるような声を、イリスはやんわりと制する。
「大丈夫ですから。……少し、夜風に当たってまいります」
夜の冷たい風に当たれば、体の熱も冷めるだろう。それが熱を出した体によいかどうかはわからないが……その場しのぎにはなるだろうと期待した。
部屋を横切り、扉の取っ手を捻ると、ぐらりと視界が揺れた。まるで貧血を起こしたときのように、一瞬世界が回り、足に力が入らなくなる。
なんとか転ばず、蹈鞴を踏むだけに留めたものの、その足取りが危なっかしかったようで、伯爵自らわざわざ、書類を置いてやってきた。まあ、この部屋にはいま二人しかいないのだから当然といえば当然だが。
ウェンデルはなおも逃げようとするイリスの腰に腕を回し、動きを封じて額に手を当てると、鬼の形相で睨みつけてきた。それは、いままで食らってきたどの目付きよりも怖く、イリスを怯ませた。
「何処が平気だ。どの口が物を言った」
「………」
「何故、朝のうちに言わなかった」
「……閣下」
「つまらない言い訳など聞きたくない」
冷たい声でピシャリと遮られる。
物言いたげに視線を送ってみるが、彼は一瞥もせず眉間にシワを寄せたまま、半開きの扉の向こうに控える従者に言った。
「市長をここへ。誰かをやってエドウィンに医師を呼べと伝えろ」
市長の呼び出し、先に戻れ、エドウィン、医者……すべての言葉の断片を受け止めて組み立てると、イリスは叫んだ。
「閣下! わたしはまだ、大丈夫です!」
精一杯の元気を込めて元気であることを強調しようとした。しかし、口から出る言葉は強気だが、声の調子は自分でも驚くほど酷く弱弱しいものだった。
イリスの抗議には耳も貸さず、伯爵は事務的に淡々と物事を進め、長椅子にイリスと共に腰を下ろした。消耗しきっているイリスが彼に抗う力など、あるはずもなく、半分抱きかかえられた形のままでいた。
ほどなくして、控えめに扉を叩く音がして扉が開いた。
「お呼びでしょうか、閣下。なにか大切なお話でも……」
そこで言葉が途切れる。すっかり元気がなくなり、ぐったりしているイリスを見て、市長は瞠目する。
イリスの状態など説明するまでもなく、ウェンデルは事務的な声で言った。
「すまないが、市長。彼女の調子が悪いようだ」
ちらり、とイリスを見下ろす。その目は冷たく、そして声は怒っているかのように硬かった。
「今日の晩餐は失礼させていただきたい。会談は、また別の機会に設ける。そちらの都合に合わせるので、すまないが、今日は帰らせてもらう」
「は、はあ。それは結構ですが。……そうですね。そうなさるがよろしいでしょう」
イリスの様子をみた市長も伯爵と同意見だったようで、頷いた。そんなに酷い顔をしているだろうか?
ここに鏡があればいいのに、と思う。
「助かる。確か、市営の工場の話があったな? 従者を一人置いていくから、今日はそれに言付けてくれ。詳しいことは今度の機会に」
「かしこまりました。閣下の仰せのままにいたします」
「すまないな。苦労をかける」
いつもは謝らない伯爵が謝っている。それほどに、視察先の晩餐を断るのは失礼なことなのだと、イリスの心は重くなった。
十数分もすると、従者が「馬車の用意が出来た」といいにきたので、ウェンデルが立ち上がる。遠慮なしに力をいれて腕を掴まれ、引かれるままにイリスも立ち上がって、フラフラと玄関口まで歩いた。
使用人たちがどんな顔をしていたのか、気にする暇も無かったので覚えていないが、心配そうな視線だけは感じていた。
用意された馬車に乗り込むと、ウェンデルは黙って、イリスを横抱きにするようにして膝に乗せた。そのまま、馬車が動き出してもムッツリと黙り込んでいた。
「すみません……」
熱のせいか、喉がかすれて上手く声が出ないが、謝らずにはいられなかった。大変なことをしでかしたのだと、自責の念に駆られる。
それに対して、伯爵が言い放ったのは、冷たい言葉だった。
「私の手を煩わせるな」
胸が一つ跳ねて、途端にズキリと痛み出す。許して欲しかったわけではない。なのに、心臓が嫌な痛みをあげる。
同時に、当然か、という自嘲も沸いて出てくる。イリスはいわば、お金で買うように連れてこられた秘書だ。優秀さを買われて雇われた秘書は、すべて完璧でなくてはいけない。そういわれているように思えた。
(不甲斐ない)
心の中でそんな言葉が響き渡る。自分に情けなくなってきて、じんわりと目頭が熱くなり、イリスは涙ぐんだ。
その様子を、伯爵は黙って見てくる。心なしか気まずそうな間のあと、涙で濡れた睫毛を隠すようイリスの頭を自分の胸につけさせた。
目を開けているのに突然、視界が暗くなる。いつもならビックリするだろうに、いまはビックリする気力すらない。消耗しきっている。
されるがまま、頭を伯爵の胸につけて、体全体を伯爵に預けるような形になる。大きな手が、赤子をあやすようにイリスの髪を撫でた。
「邸につくまで寝ていろ」
思ったよりも優しい手つきに、状況も忘れてうっとりしてしまう。まるで、壊れ物を扱うような優しさで、イリスに触れていた。
頭を撫でられるたびにうとうとして、頭がずれないようにぴったりと伯爵の胸に額をつける。トクトクと聞こえる安定した音は、心臓の音だ。伯爵もやっぱり人間だったんだなあなんて、場違いなことを考えてしまう。
うとうとしていると、伯爵は不意に、呟いた。
「……少し、いいすぎたか」
珍しく反省しているような声を意外に思った。伯爵に雇われてまだ三ヶ月ほどしか経っていないけれど、彼が反省しているところなんて見たことがないのだ。
そのせいだろうか。ふいに背筋を襲った寒気にぶるりと体を震わせると、伯爵は手の動きをピタリと止めた。
「寒いのか?」
そうだ、寒い。けれど頷かず、わずかに首を横に振った。これ以上、伯爵に迷惑を掛けたくない。次にまた、あんな冷たい言葉をかけられたら、もう立ち直れないかもしれないと思った。
覚悟していたのに、身に降りかかったのは冷たい言葉ではなく真っ黒な外套だった。伯爵が愛用している外套だ。
外観はそんなに派手ではないが、内側に毛皮がはってあるので、思ったよりも暖かい。全身を包む外套の上から腕が回され、軽く締め付けてくる。
防寒具の上からじわじわと浸食していく人肌の温度が、気持ちいい。
「暖かいだろう」
独り言のように呟かれた言葉への返事代わりに、わずかに首を縦に振る。感情表現が子供かと自分でも呆れたが、伯爵は黙って髪を撫でた。
その手つきにまたもうとうとしてしまい、とうとう眠気に抗えなくなってくると、伯爵に抱えられていることも忘れ、いつの間にか穏やかな暗闇に身を沈ませていた。
ここまでが前半です。きりのいいところで区切ったので短かったですが(^^;)
次で最後です。もう少しお付き合いください。m(_ _)m