伯爵閣下の愛人サマ
皆様、こんばんはでございます。m(_ _)m
前回の予告どおり、閣下の愛人サマが登場いたします。
ご気分を害されることはまずないかと思われます。最後のほうに微妙な恋愛要素(?)あります。
イリスVS愛人もどうか生暖かく見守ってやってください。あ、今回も伯爵は最低なやつです(^ω^)笑
伯爵はイザベラに、引継ぎをするように命じたが、イリスに引継ぎはほとんど必要なかった。
秘書仕事は娼館でしていたことと酷似しており、やったことがないものが僅かに含まれていても、賢いイリスはすぐに覚え、また仕事も早かったので、教えることがほとんどなかった。
書類整理や片付けなどもイザベラよりも手馴れたもので、なんでもさっさと済ませてしまう。
驚くことに、伯爵に雇われて二週間で、すでにイザベラが受け持っていた仕事以上のものをこなすようになった。
イザベラはそのことが心配そうだったが、二週間前をもって完全に伯爵の秘書を辞め、夫と息子の元へ帰っていった。次に会うのは恐らく婚儀のときになるだろうとのことだった。
最後に伯爵に、「便利だからといって使いすぎるなよ」としつこく忠告し、馬車で侯爵領まで帰っていったのだった。
十月も半ばになると、北に位置するバリスク地方には雪が降りはじめる。
はじめ量は少なかったものが、だんだん増えていき、北の地方の中でもまだ暖かいアダーシャンでも雪が降り始めた。
十一月の中旬に差し掛かり、まだ吹雪こそないものの、頬が切れそうな冷たさが舞っていた。それでも、今年は随分と運のいい年だと思う。まだ大雪と呼べるものがない。
今日、伯爵は邸にいない。商連幹部のドラーヴス伯爵に呼ばれたらしく、慌しく出かけていったのだ。予定にもなく、急なことだった。
今日は珍しく、雪は降らなかった。空気は澄んでいて冷たいが、中よりも外のほうが暖かい。結婚して夫人になることはほぼ決定事項だが、まだ伯爵夫人ではない。自分一人のために暖炉を使わせることに遠慮を感じ、体を温める目的も含め、気分転換に散歩に興じていた。
昨日の晩に解けてまた凍った雪をブーツで踏みしめ、ショールを着直し、「寒い」と呟く。ハァ、と息を吐いただけで、白い湯気のように空気が空を舞った。
婚儀の日付が近づくにつれて、少し不安になってくる。まさか自分が結婚できるとは思ってもみなかったのだ。
貴族の女子が嫁入りするときは基本的に持参金というものが必要だ。だが、ケミストラ男爵家にそんな金があるはずもない。
本当はトゥーラを嫁に出す金だけはつくろうとばかり思っていて、自分の結婚のことなど考えもしなかったというほうが正しい。考える余裕がなかったというのもある。
ずっと実家の商売を進めるつもりでいたので、自分が結婚するということにまだ現実味が沸かなかった。
「結婚、か……」
どこか憂いを感じさせる声で呟く。それはほとんど弱音だった。
……弱音だって、吐きたくなるだろう。何の前触れもなく結婚の日取りを言われては、誰だって怯む。
元々、伯爵の突拍子のない求婚からはじまった結婚である。当然、日取りまで突拍子がない。
「代理人を挟んで、婚儀は十二月の下旬に予約した。年明けと同時に呼んでいない親類縁者、友人に手紙で結婚のことを知らせたいのでね。年明けの文を送るときに報告すればいい。一石二鳥だろう」
仕事を片手で済ませながら、ごく自然な流れでいまさっき告げられた結婚式の日取り。女の一生の思い出となるべき日なのに、死刑宣告にしか聞こえず、思わず書類を取り落とした。
そんなわけで、婚儀は約一ヵ月後に行われることになった。
「家格が釣り合わない」、「わざわざ嫁き遅れの女を娶らずとも」という理由で親類縁者とひと悶着あったようだが、嫁入りに至っては丸く収まったようだ。当然といえば当然である。イリスでもあの毒舌に論破されて勝てるとは思えない。
伯爵の希望通り、婚儀は少人数の親戚と友人のみを招く小規模なもので、聖堂で署名をするだけのものになった。宴会や晩餐会などといったものは開かないことにしたらしい。人前に出るのが苦手なイリスからすれば、嬉しいことだ。
イリスの両親の結婚は、浪費家の祖父の意向で随分と派手でけばけばしいものになったそうで、伯爵の家格と貯蓄のことも考えると、通常通りの婚儀を行えば、我が家とは規模が違うものになるはずだ。
もし伯爵が親戚に負けたら…とビクビクしていたが、結局は伯爵の主張が通り勝利した。親戚連中も「もういいや」と諦めたらしい。
伯爵の性格を考えれば、下手に口出しをされて気を悪くして、「式は挙げない」といいかねない。実際、言ったのだろう。親類が慌てて伯爵を宥めていたのは記憶に新しい。
「……それにしても、広いなあ」
憂鬱になるばかりなので、一旦、結婚に関する考えを封じて、イリスは邸を見渡した。
執事のエドウィンの説明によると、この邸は数代前の当主が女好きの愛人のために建てた別邸なのだそうだ。その割には随分凝った細工がなされ、豪奢なので、そのことを聞くと、当主に一番寵愛を受けていた愛人が芸術に関心を持っていた人のようで、彼女が自分好みに飾り付けたらしい。
当時再流行していたのか、かつての王がつくったクリフォード様式と呼ばれる形式を取り入れた家具や燭台、暖炉、壁紙。すべて品がよく、落ち着いており、金のかけどころの違いを感じさせる。
少しでも気を抜けば迷子になってしまいそうだ。
所在なくフラフラと探検感覚で歩いていると、そのうち冬の乾いた空気で喉が渇き、普段運動しないこともあって息が上がって足が疲れてきたので、何処か休めるところを探し、四阿に落ち着いた。
四阿は吹きさらしで寒かったけれど、ショールを持っていたので少しは凌げる。
四時ごろには帰ってくると主人が言っていたのを思い出す。彼は何故か、イリスが出迎えなかったら怒るのである。最低でも、仕事部屋で待っていなくてはならない。
使用人は主人を出迎えるのが当然だと思っているのだろう。自分は彼の婚約者だが、ちゃんと給金を貰って秘書として雇われているので、使用人と同じ働きを要求される。婚約者だからという理屈は通じないらしい。
「……仕事するのは嫌いじゃないからいいんだけど」
ただ、変なことを要求してくるのはやめてほしい。
例えば、寝室。邸に強引に連れてこられた三日後、何故か伯爵と同じ部屋になった。ご丁寧にイリスの分の寝台も用意してくれている。夜の営みを手っ取り早く済ませるためか…と思えば、一切手出ししてこない。まったくもって意味不明だ。まさか、二十代後半で性欲が萎えてきたわけではあるまい。
一緒に寝るのかと思えば、三日に一度、何処かへフラリと出て行って明け方近くになって帰ってくる。仕事をしているのかと思い、朝一で机の上を確認したが、そういうわけでもないらしい。
「だったら寝室を共有する必要などないのでは」と抗議してみたが、イリスの主張はことごとく無視されたため、もう諦めた。
まだ結婚しているわけでもないのに寝室を同じくすることにはじまり、まったくもって謎な夜の徘徊。邸にある程度慣れてきたからか、彼の行動すべてが謎に思えてくる。
ハァと溜息と同時に吐いた息で手を温め、すっかり冷たくなった頬に体温を移そうと試みていると、視線の先に薄いピンクの布が揺れているのが目に入り、釘付けになる。
「あら? もしかして、イリス様かしら?」
その声は、高く、ハツラツとしていて――姿も声も、すべてイリスを上回って輝いていた。
少女とも言える年齢の淑女だった。青く輝く瞳に、クルクルと縦巻きにされ、髪飾りで飾られた金色の髪。控えめに胸の谷間を強調したドレスは下品ではなく、なんとも可愛らしい。整った目鼻立ちは、伯爵と並んでも劣らないように思える。ドレスではなくブラウスにスカートのケミストラのときから変わらない仕事着で、ろくに化粧もしていない平凡な顔立ちの自分とは大違いだ。後ろに侍女を引き連れて歩いているのが様になっている。
それよりもまず、伯爵邸にこんな令嬢はいただろうかと考える。何度もこうやって暇があれば屋敷を探索していたが、彼女を見かけたことがない。まあ、このあたりに来るのは今日がはじめてだから、そのせいかもしれないけれど。上品なドレスを着ているところを見ると、使用人ではないらしい。
イリスはしばしの間沈黙した後、ずれかけたショールを引き寄せながら、たずねた。
「……何処かでお会いしましたかしら?」
「あら、ウフフ」
何故か笑われてしまった。彼女の後ろに続く侍女らしき女たちもクスクスと笑う。それは紛れもなく、嘲笑だった。
聞けば気を悪くするような笑い方をしたというのに、彼女は詫びも入れずに続ける。
「わたくし、マリーシュカと申します。父はドラーヴス伯爵なのですけれど、ご存知1ないかしら?」
「……ああ」
イリスは小刻みに首を振る。ドラーヴス伯爵――大変、聞き覚えのある名前だ。
伯爵が慌しく商連に行ったのは、ドラーヴス伯爵に呼ばれたからだ。イリスが秘書をはじめてまだ二ヶ月ほどしか経っていないけれど、たまにちらほらと見かける名前だから、伯爵と懇意にしていることは知っていた。
「お父様のことなら存じています。そうですか、ドラーヴス伯爵閣下の……確か、商連のバリスク本部で幹部を務めておいででしたね」
「ええ。父の仕事が縁で、ウェンデル様と知り合いましたの。ご存知?」
「いいえ。知りませんでしたわ」
普段呼ばないから一瞬、誰かわからなかったが、ウェンデルとは伯爵の名だ。
不必要な情報であったが、適当に相槌を打って頷く。表情は崩していないつもりだったが、マリーシュカはムッとしたように眉間を険しくする。怒っているような顔に、心臓が跳ねた。
「しらばっくれていらっしゃるの? もしかして、皮肉のおつもり? それとも……わたくしの言おうとしていることが、おわかりにならない?」
「は?」
問い返せば、マリーシュカは高らかに歌うように言ってみせた。
「わたくし、閣下の三人の愛人の中の一人なの」
突拍子もなくいわれて、イリスは目を丸くする。その反応が予想通りだったのか、彼女は勝ち誇ったような笑みを口元に刻む。
驚いたものの、イリスはさほど傷ついていなかった。
元々、伯爵の都合で勝手に決まった結婚であり、近々妻になるというのにこれといったふれあいもない。
むしろ、伯爵の夜の徘徊の謎が解けて、すっきりした。
伯爵が三日に一度――一日おきの日もある――何処かへ行って帰ってくるのは、愛人のもとに通っていたからなのだ。イリスに手を出さなかったのは、愛人の中に心を寄せる人がいるからだろう。
自ら愛人と公言した彼女は、誇らしげに赤い唇を吊り上げた。
「愛人の意味は、わかるわよね? もしかして、傷つけたかしら? 当然よね。婚約者に結婚前から愛人がいるなんて。でもね、貴族社会ではごく当たり前のことよ?」
嫌味っぽく流し目をしてくるマリーシュカに、イリスは笑顔で対抗した。
「言葉の意味も、貴族に愛人がつきものだということも知っておりますよ。伊達に勉強ばかりしてきたわけではないので。そうですか。ではこれから先も、お体を充分に労わった上で、閣下のお体を慰めて差し上げてください」
「なっ……!」
ペコリ、と頭を下げるイリスに、マリーシュカは絶句したように黙る。引き連れていた侍女たちも目玉が落ちそうなくらい目を丸くしていて、口が半開きのままだ。
皮肉とも取れる切り返しであったが、イリス自身にそんな気はまったくない。本心のままを告げただけである。彼に抱かれたいという気持ちはいまのところ、まだわかないので、見るからに伯爵に気がありそうな彼女に譲ってしまうがよいと判断したのだ。
マリーシュカはしばらくの間、身動きも出来ないほど絶句していたが、何かの拍子に扇を開き、その裏で咳払いをした。
「……あなた、閣下と結婚なさるのよね?」
ちらり、と嫌味な流し目を送ってくる。
「はい。その予定です」
「あなた、確か男爵家の出よね? それも極貧の。家が伯爵家で財力もあるわたしでも駄目だったのに、どうやって閣下を篭絡したの? 教えてくださらない?」
「ものすごく貧乏というわけではないのですが……何故気に入られたかは閣下自身に聞いてもらいませんと。わたしもわかりません」
さすがのイリスも、ここまで来れば彼女の目的がわかってきた。
(この人、閣下のことが好きなんだわ)
好きな人のために嫉妬できる彼女を、イリスは微笑ましい気持ちで見つめていた。
確かに可愛らしいが、それでも嫌味は聞いていて、気持ちのよいものではない。なんとかしようと、イリスは思案する。
……普通に考えて、愛人が主人に望むものは一つよね。
うん、と一つ頷き、イリスはケロリとして言った。
「あなた様が望むのなら、伯爵夫人の座は譲って差し上げます。
でも閣下の世間体が心配なので、わたしに妻の称号だけ残してくだされば嬉しいです。それさえ残してくだされば、閣下の許す限りでどうにでもしてくださって結構ですから」
別に望んだ結婚ではないし、権力も要らない。社交が苦手なイリスに、伯爵夫人が務まるとは到底思えない。
マリーシュカは沸騰しないのが不思議なくらい、顔を真っ赤にさせた。
「いらないわよ! あなた、愛人だからってわたしを馬鹿にしているの!?」
「え。そんなつもりは毛頭ありませんが」
「その澄ました顔がムカつくのよ! なんで平然としていられるのよ! 夫となる人がすでに愛人を囲っているのよ!?」
「そういわれても、男性はそういうものですから」
困ったように眉を下げる。
イリスは特待生で奨学金が必要だったので異性交遊など出来たものではなかったが、友人はよくそういっていた。「男は浮気するものよ」と。
彼女はイリスの切り返しにさらに顔を赤くさせ唇を真一文字に引き結ぶと、足取り荒く四阿から出て行った――と思ったら、すぐに手にバケツを持って帰ってきた。
引き連れていた侍女たちがハラハラするのを強引に振り切り、イリスの前に立ち、思いっきり振りかぶる。
「これでもくらいなさい!!」
え、という前に、バシャッという音がして、イリスは頭から水を被った。
***************
ずぶ濡れのイリスを見て、使用人たちは悲鳴を上げた。
はじめの一週間、イリスの侍女を務めてくれていたオーレリーに見つかったのが悪かった。彼女はずぶ濡れのイリスをみて、泣きそうな顔で「イリス様がーっ!!」と叫んだのである。
何事か、と思えば、池に飛び込んだとしか思えないほどずぶ濡れの伯爵夫人がいて、あとは想像通り、絶叫の連鎖だった。
すぐさまタオルと、お湯が沸くまでの繋ぎとしてネグリジェとガウンが用意された。そのあとには温めたミルクが用意され、使用人がいなくなると、執事のエドウィンがやってきた。
いつもは笑顔が絶えない彼に心配そうな顔をされると、心が少し痛んだ。
「イリス様。もしや、誰かに水をかけられたのではありませんか?」
「誰か、といいますと?」
カップを口から離して首をかしげると、エドウィンはいいにくそうに言った。
「マリーシュカ様、とか……」
「マリーシュカ様をご存知なんですね」
「ええ。その、いいにくいのですが、彼女は閣下の愛妾でいらして……頭に血が上ると、人に水をかける癖が……申し訳ありません。私の管理不行き届きです」
深く頭を下げられる。こんな風に謝られることは滅多にないので、イリスは内心で少し動揺した。
「結構ですよ。皆さんの適切な処置のおかげで風邪を引かずに済みそうですし。わたしも彼女の気に障るような発言をしたかもしれません。というか、したのでしょう。元を正せばわたしの不注意です」
イリスに水を被せたあと顔を真っ青にしていたのだから、まだ可愛げがあるほうだと思う。
「それよりも、皆さんにはご迷惑をおかけしました」
近々、伯爵夫人となる予定の人にペコリと頭を下げられ、エドウィンは狼狽した。
「イリス様。我々は使用人としての仕事を果たしたまでですから……わざわざ頭を下げられなくてもよろしいのですよ」
そう説明すると、「そうですか? でもすみません」とわかっているのかわかっていないのか、判断できない答えがかえってくる。
常々思っていたが、仮にも貴族の令嬢とはとても思えない。二年にわたる学生生活が彼女をこんな風にしたというのもあるだろうが、理由の一つに彼女の実家が使用人を雇えなかったというのがあげられる。彼女はこうやって人に世話をされるのに慣れていないのだ。
「イリス様、お湯の用意が出来ました」
オーレリーが呼びに来る。
「いま行きます。ありがとう」
イリスは椅子から立ち上がって返事をすると、エドウィンの隣を通り過ぎていった。
――しかし、イリスが湯浴みをして出てきたのは、わずか二十分後のことだった。
湯浴みを終え、充分に体を温めてから浴室を出ると、髪を乾かすのも早々に伯爵の仕事部屋へと駆けていった。
体の水気をぬぐって衣服を身につけようとしているときに、伯爵が帰ってきたのが伝わってきたのだ。
タイ代わりのリボンを歩きながら結ぶのに戸惑いつつも伯爵の仕事部屋に入ったときには、もう遅かった。
「遅い」
窓際の長椅子にゆったりと腰を下ろし、肘掛に肘をつく伯爵は、予想通り不機嫌だった。
ちらりと視線を落としたその先には、外套、上着、ベスト、タイが小さな山をつくっていた。
イリスはそっと溜息を吐き、一つ一つそれらを拾って腕にかけていく。外観は地味なものだが、内側に毛皮を張った冬用の防寒具はずっしりと重たい。
「申し訳ありません」
「何をしていた」
「……湯浴みを、しておりました」
上手く嘘をつこうかと思案したが、濡れた髪とエドウィンの報告を聞けばどうせばれるだろうと、素直に白状した。
伯爵はフンと鼻で冷え冷えと笑い飛ばした。
「ほう。主人が外で働いている間、秘書は優雅に湯浴みをしていたと」
「……。……これには、深いわけが」
「深いわけ? 言ってみるがいい。ただし、どうせつくなら面白い嘘をつけ」
もう嘘だと決め付けられている。イリスは嘘など一つも言っていないし、言うつもりもないのに。
あらかじめ釘を刺されるほど信用がないのか、と少し悲しくなりながら、イリスは静かな声で話し出す。
「水をかけられたんです。体が冷えたので、使用人の方たちが湯浴みを勧めてくださいました。風邪を引くと大変なので……わたしが倒れては、閣下も仕事がしにくいでしょう?」
「水? 誰にかけられた」
「閣下の愛人に」
傷ついた様子を見せるどころか、躊躇う様子も一切みせず〝愛人〟という言葉を出したイリスと、彼女に水をかけた犯人の両方に、彼は瞠目したようだった。
「マリーシュカか」
エドウィンのいうとおり、彼女には前科があるらしい。名前を出していないにもかかわらずこうもあっさり見抜かれているのを見ると、彼女が気の毒に思えてきた。
伯爵の脱ぎ散らかしたものを一つ一つクローゼットにかけていきながら、イリスはくつろぐ主人を振り返る。
「愛人がいらっしゃったのですね。教えてくださればいいのに。閣下も人が悪いですわ」
「教えてなんになる? 婚約破棄などと抜かされては困る」
「どうせ知れることじゃないですか。あとで明らかになっても婚姻無効という手が残っております」
「やけに食いつくな」
面倒くさそうな溜息を交えつつ、伯爵は長い足を組みなおす。
「君には縁遠い話かもしれないが、貴族で愛人を囲っているものは多い。中には子を生ませる愚か者もいる。結婚前から子持ちでないだけ私はマシだと思うがね」
何故か堂々として言われた。イリスは密かに溜息を吐き、呆れた。予想はしていたが、少しくらい動揺すればいいのに。
呆れてものも言えないイリスに、伯爵は訝しげな視線を投げてくる。
「なんだ。傷ついたのかね?」
反応を窺うような質問を向けられ、イリスは動揺することもなく、むしろ少し驚いた様子で小首を傾げた。
「いいえ?」
不思議そうに返すイリス。
ウェンデルは思わず、ヒクリと口角を引き攣らせた。
「……少しくらい傷ついてみせたまえ」
「胸が痛いです」
「いい加減にも程があるだろう」
しかも棒読みで、信憑性が紙一枚よりも薄っぺらい。
クローゼットに伯爵の衣服をかけおえたイリスは、自分用の仕事机に寄り、引き出しを開けた。
部屋に専用の仕事机が欲しいと頼んだ翌日、届いたものだ。見るからに高そうな品物で、ただの秘書にこの対偶はよすぎると思う。
引き出しからヘアブラシを取ると、濡れた髪を梳く。先端だけ変な風にうねった髪は、濡らしたあとちゃんと梳かないと、ますます酷いことになるのだ。
「イリス」
名前を呼ばれ、伯爵のほうを向く。何かあったのだろうか、と首をかしげると、彼は眉間にしわを寄せた。
「返事はちゃんとしたまえ」
「……はい。なんでしょう、閣下」
いちいち細かい人だ。
心の中でそう呟いていると、伯爵は人差し指でイリスを手招く。
「やってやる。こっちに来い」
「――は?」
「髪を梳いてやるといってる。ここに座れ」
ここ、と示されたのは伯爵の膝の上で。まじまじと見つめた美しい顔は仏頂面だった。
何の嫌がらせだ、これは。
「いえ、結構です。自分で出来ますから」
「私は座れ、といったのだが?」
「……失礼します」
新緑の瞳で見つめられたとき、脅されているのだと悟ってあっさりと屈する。ここで頷いておかないと、実家の資金援助断ち切りをはじめとするあらゆるもので彼は、イリスを脅しに来るだろう。そんな気がした。本気でないにしろ、心臓に悪いのには変わりがない。
やはり男性の足の間に座るというのはいくら気にしないイリスでも恥ずかしいので、さりげなく隣に腰掛けようとした。その瞬間、二の腕を掴んで引っ張られ、強引に伯爵の足の間に収まる形になってしまう。
(逃げられない)
絶望の溜息を吐いていると、手からブラシを抜き取られ、髪を一房掴まれる。
髪にブラシを通して梳りながら、伯爵はボソッと呟いた。
「茶色、か。ありがちな色だな」
聞こえていないとでも思っているのだろうか。伯爵の呟きは、ちゃんとイリスの耳に届いた。
普段からごく自然な流れで挨拶代わりにいびられているのだが、いまのはカチンときた。父譲りの茶色の髪は確かに平凡だが、逆に誰もが持っている色だからこそ劣等感を感じずにいられる。だからイリスは、平凡だとは思うが自分の髪色自体は嫌いでなかったのだ。
ありがちで悪かったわね。わざわざ平凡な花嫁を選んだのはあなたですよ。
ふつふつとあがってきた怒りを深呼吸で冷ましながら、伯爵を見上げる。
「ご不満なら、婚儀までに染めておきます。マリーシュカ様のように華々しく、金髪はどうでしょう」
本人が気付かない程度の皮肉を交えていう。そうすれば胸がすっきりするかと思ったが、多少、ましになっただけで怒りは簡単に消えてくれなかった。
「なにを言っている。君の瞳の色に金髪は似合わん」
「そうですか。では、髪の色にあわせて瞳の色も変えなくてはいけませんね」
「イリス」
伯爵が苛立った声で名を呼んだ。
「何故そういう話になる」
「閣下がそう仰ったからです」
「そういう意味で言ったわけではない」
「それは申し訳ありませんでした」
話が長くなりそうだと見て早々に切り上げることにしたため、いささか可愛くない言い方になってしまったが、後悔はしていない。
表情には出していないが、イリスが少なからず気を悪くしたのを、ウェンデルは感じ取っていた。そして、その不機嫌はウェンデルにも伝染する。
髪を梳くのをやめ、顎をつかんで強引に目を合わせる。少しおさまったかと思われた不機嫌は再び、冷たく細められた瞳に浮かび上がった。
「……口の利き方がなっていないな。主人に対する口の利き方をベラに教えてもらわなかったのか」
「ご不快でしたか? でしたら、ごめんなさい。謝ります」
「可愛げのない言い方を……。……まったく、小憎らしい口だ」
怒ったような、呆れたような声のあと、突然、ウェンデルは唇の端を持ち上げて愉快そうに笑った。
つい三秒前まで不機嫌そうだったというのに、変わり身の早さにキョトンとする。
顎を掴んでいる手の親指はいつのまにかイリスの小さな唇なぞり、指で顎を持ち上げると顔を近づけて面白そうに瞳を覗き込んできた。
「この口で、奉仕でもしてみてはどうかね?」
突拍子のないウェンデルの言葉に、イリスは目を瞬かせた。彼が〝奉仕〟という言葉を性的な意味で使っていることにも、すぐに気づいた。
「閣下にですか?」
「それ以外に誰が?」
誰が、といわれても。あなたを含めてこれといった人が見つからないのですが。
深緑の瞳を覗き込む。至近距離で囁いた伯爵は唇を吊り上げてとても楽しそうに笑い、その先を期待しているようにも、からかっているようにも見えた。色んな感情が混ぜになっていてよくわからないが、面白がっているのだけは事実だ。
……なにかしないと、また不機嫌になるんだろうな。
不機嫌になられると後々面倒なので、イリスは自分が妥協できる限りの行為を考えた。これは失礼に当たるのだろうかと一瞬、不安を感じたが、「どうにでもなれ」と腹を括ることにした。
「失礼します」
一言断ると、薄い色の唇は吸い寄せられるようにウェンデルに近づく。そして触れるか触れないかというくらいの間隔で頬を掠め、すぐに離れていった。
イリスが行動に出るとは思わなかったのか、ウェンデルは少しの間、呆けたように身動き一つしなかった。
そのうち、唇のあたった部分に指を当て、状況を把握すると、次は目を細めて心なしか不満そうにイリスを睨みつける。
「君はろくに閨房を学んでいないと見える」
「一応、一通りは学んでおります。大学では上級編までおしえてくださいますので、勿論、閣下をお喜ばせする方法も知識の上で知ってはおりますが」
「だったらやってみたまえ」
「……閣下。男女の営みというものは、心から愛した人とするものですよ」
「では、愛する努力くらいしてみてはどうかね。君からは仕事以外で誠意が伝わってきた試しがないのだが?」
「……考えておきます」
愛人を三人も囲っておいてなにを言い出すか、この人は。イリスは呆れた。
呆れを含んだ目で、イリスは伯爵と目を合わせる。
「一つ聞かせてください」
「なんだね」
「仮にわたしが閣下をココロから愛したところで、閣下はわたしを愛してくださるのですか?」
素晴らしいまでの棒読みで淡々と言ってみせたイリスに、伯爵は貴族らしく優雅に微笑む。
「気が向けば」
「……そうですか」
心なしか力が抜けた肩は、溜息を吐いたように上下した。
「なんだ? 結婚前から無節操だと呆れたのかね?」
「………」
自覚はあるのか。
「いいえ。そんなことは……まあ、少しは思いましたが」
「素直だね。そういうところも気に入っているが……」
主人に対していささか――いや、かなり無礼ではないか、といおうとしたが、なんとなく止めた。
面白そうに瞳を覗き込みながらも、手慰めにイリスの髪をいじる伯爵に溜息を吐く。
「だって、不公平だと思いませんか? 閣下はわたしに愛せと仰いました。わたしはそれに答えました。けれど、閣下は愛を返してくださらない。それではわたしが報われません。
……閣下。商売と同じで、人は何事にも見返りを求めるものです。お金で済むならいいのですが、そこに少しでも愛情が入ってくると、気紛れでは駄目ですよ」
不思議そうな顔をしたので彼がわかりやすいように言い換えると、途端、納得した顔になる。
この人は商売のことしか頭にないのか。
「なるほど。そのせいで愛人たちがもめるのか」
「閣下……」
責めるような、憐れなものを見るような混ぜになった目でイリスはジッとウェンデルの顔を見つめる。
冷たい視線を受けた伯爵は口元に笑みをたたえた。
「毎日肉ばかり食べていては野菜が食べたくなるだろう? 塩辛いものばかり食べていては甘いものを食べたくなるし、固いものばかりでは柔らかいものも食べたくなる。人間関係もまた同じ。そういうことだ」
もっともな言い分です。でもそれはいますべき話ではないし、それとこれは別でしょう?
誰もが納得しそうな例えを持ってくるなとイリスは溜息を吐く。それは正論ではなく、〝例え〟だ。
呆れたような気のまま、試しに伯爵との結婚生活を想像してみる。……どう考えても、前途多難である。
髪を透かして彼の顔を見て、イリスはまた盛大に溜息を吐いたのだった。
次は視察です。やや濃い目の恋愛要素を予定しております。