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アダーシャン伯爵夫妻の日常  作者: 々 千早
Ⅱ 伯爵夫妻の日常~馴れ初め編~
6/30

伯爵との秘書契約

評価3000突破、ありがとうございます!!

先週は急な用事で、更新遅れまして申し訳ありません……この間に書いた短いお話も追加いたしますので、そちらもよろしくお願いします!(`・ω・´)キリッ

ではでは、今日も自己中な閣下と呆気にとられるイリスにお付き合いくださいまし。

 どうしてわたしなのかしら……?


 伯爵の衝撃的な言葉を上手く消費できた頃には、いつの間にか馬車に乗せられていた。現在進行形で動いているところを見るに、かなり時間が経っていると見受ける。

 父母と兄弟が外に出てその様子を見ていたような気がするが、頭がぼんやりとしていてどんな顔をしていたか思い出せなかった。

 しかも目の前には美しい人がいる。見覚えはあるのだが、一瞬、誰かわからなかった。誰だろう…と使いすぎてぼんやりした思考の中で記憶を手繰り寄せ、例の伯爵であることを思い出す。

 先日は馬に乗ってきていたようだが、今日は馬車らしい。乗馬もそれなりに体力と神経を使うので、煩わしいと思ったのかもしれない。見るからにものぐさそうな伯爵である。その可能性は高い。


 ガタガタという車輪の音に二人きりの空間であることを改めて思い出し、イリスは思わず生唾を飲み込んだ。


 沈黙が気まずい。


「あの……閣下?」


 そろそろと顔を上げて話しかけると、面倒くさそうに伏せられたままだった長い睫毛が上げられる。


「なんだね」


「あの……。………」


 聞きたいことは山ほどあるのに、肝心の質問を口に出来なかった。山ほどあるから、何処から手をつけていいのかわからないのだ。

 まず何から聞き出そうか迷っているイリスを一瞥し、伯爵は面倒くさそうに鼻から息を吐いた。


「何処に行くのか知りたいかね?」


「……はい、知りたいです」


 当たり前だろ、という言葉を飲み込み、イリスは力なく頷いた。何故だろう。さっきから脱力しっ放しな気がする。

 伯爵は深緑の瞳をこちらに向け、また伏せた。


「君をアダーシャンの邸に連れて行く」


「……は?」


「私の邸に連れて行くといってる」


 もう一度繰り返す伯爵。イリスは滑稽なものでも見るように首をかしげた。


「それはわかっています。どうして連れて行く必要があるのですか? 仕事の話なら文を出せばいいだけの話です。私を連れて行く意味はないと思いますが?」


 立て続けに疑問をぶつけられ、伯爵は眉をひそめた。質問攻めは嫌いらしい。

 イリスはピタリと口を噤んだ。


「君は私の話を聞いていなかったのかね? 妻にすると言っただろう」


「いいました。けれど、私は一切、同意していません。両親も同意していないと思いますが? 普通、こういうものは父にかけあうのが筋ですよね?」


 怒っても怖くないのはわかっているが、精一杯、威圧を込めた声で問い詰める。


 イリスに黙って勝手に商談を進めた父であるが、娘の結婚話までは無断で進めないだろう。この時代に政略結婚など珍しくもなんともないが、相手は北方の有力貴族の一つアダーシャン伯爵。

これといったものがなく、利用価値など所有している工場(それも恐らく、近々使いつぶされる予定)しかないケミストラ男爵家と縁戚関係になる必要性が見つからない。その説明をしてもらいたい。


 いつまでも見つめていると、伯爵は微笑んだ。それは天使のように美しく、顔の美醜に頓着しないイリスも一瞬、見とれてしまうほど完璧な笑顔だった。


「君に私からの申し出を拒むことは出来ないと思うが。正しくは、”拒むことは出来るが家のことを考えると出来ない〟といったところか」


「……は?」


 何を言い出すんだろう、この男……もとい、閣下。もっと詳しい説明を聞きたいんですが。

 意味が全くわからず固まっているイリスを見て「面倒だ」と呟き、伯爵は天使のような顔のまま、唇を動かした。


「実家の工場がどうなってもいいのなら、断ればいい」


「……え?」


「実家がどうなってもいいのなら、好きにすればいいといっている」


 ……この人は今、なんといったの?


 伯爵の言っていることを咄嗟に理解出来ず、イリスは混乱した。しかし、どれだけ反芻しても、伯爵の口から出たのはイリスを脅迫する言葉で。


 あまり表情を変えなかった彼女がどんな顔をしているのだろうかと、伯爵の胸は好奇心で疼くが、どう覗き込もうとしても髪で顔を隠しているためわからない。


 焦れたウェンデルは手を伸ばし、イリスの髪に触れた。それに気づいた彼女は肩を跳ね上げる。

 肉食獣に脅された小動物のような動作に愉悦が湧き、ウェンデルは人知れず唇を緩めた。

 そのうち、イリスのほうがそっと顔を上げ、不気味な笑みをたたえているウェンデルと下から目を合わせる。

 相変わらず綺麗な顔である。この人はなにをしたいのだろう? という、さっきから抱いている疑問は聞くだけ無駄だと判断し、イリスは別の、もっと有意義な質問をすることにした。


「一つ、おたずねしてもよろしいでしょうか? 誰もが抱く至極当然の疑問なのですが」


「なんだね」


「閣下ほどの権力、経済力、血筋をお持ちのお方なら、わたしの家など比べ物にならないほど優れた家柄の令嬢を嫁がせることも出来るはずです。

私とは七つも年が離れていらっしゃいますし、どうせ離れているなら妹でもよかったのでは? 貴族の結婚は花嫁が若いほうがいいのですよね?

わたしは見るからに結婚適齢期を過ぎておりますし、特別美しいとはいえません。実家の経済状況を考えれば、持参金目的とも思えません。

嫁き遅れで持参金もろくに用意出来ぬわたしに、何の利用価値があるのかお聞きしたいのです」


 自分を取り巻く女たちとは違う手ごたえに、ウェンデルは内心で密かに浮かんだ愉悦をかみ殺す。

 貴族の令嬢というと、やたら矜持(きょうじ)ばかり高く、自分の容姿と家格が比例していると思いがちだ。いくら十人並みの容姿でも、「他人の目から見れば美しい」と自己陶酔している場合が非常に多いのである。

 だがイリスはウェンデルの知る令嬢たちとは違い、誰もが望む伯爵の求婚を、まったくもって謎だといいたげだ。喜ぶどころか、迷惑そうですらある。ほかの令嬢たちと違う反応を、伯爵は気に入っていたのである。


 伯爵はちょっと理由を考えた後、口を開いた。


「工場買収と共に、君の兄君を雇おうとしていた話は?」


「聞いております。秘書にしたかった……とか……」


 そこまで言って、ハッとなる。


「まさか、そのためですか?」


「それ以外に何が?」


 何故か堂々として言われた。

 真顔で偉そうにいうことではないと思うのだが……。


「君は兄君にも負けない優秀な成績で大学を卒業したと聞いているし、仕事も出来る。商売のこともある程度わかっているようだし、所作も言葉遣いもその気になれば完璧。

細々としたこともこなせる。何の心配をしているかは知らないが、給金は払う。私の秘書になりたまえ」


 傲慢な態度で言い切ると、伯爵は睨むように目配せをしてきた。


「異論はないな?」


 伯爵の言葉はイリスにとっては、命令にしか聞こえなかった。そして恐らく、彼もそのつもりでいっているのだろう。

 伯爵は本気だ。彼の中で、イリスの実家が運営する工場は、使い潰す以外に使い道のない工場である。それ以外の利用価値はない。むしろ金ばかりがかかりそう利益が出ない工場として認識されているだろう。だが、イリスが嫁げば、彼は見逃してくれると暗にいっているのだ。


 すべてはイリス次第。イリスの選択一つで、実家がいまの生活を続けられるか、没落しきるかが決められる。

 ならば、イリスはこう答えるしかない。


「……ありません」


 イリスは僅かに首を縦に振った。家を守るためには、その答えしか残されていなかった。

 すると伯爵は上機嫌になり、掴んだままのイリスの髪を引き寄せるようにして引っ張った。

 俯き加減の蜂蜜色の瞳が上を向く。とろりとして、さながら大粒のトパーズのよう。


 ウェンデルは顔を近づけ、イリスの顔――正しくは唇の端――に、唇で触れた。


 突然口の端に感じた柔らかな感触に、イリスはキョトンとしている。けれど彼女は、ウェンデルが今まで見てきた女たちのように顔を赤らめたりせず、不思議そうに伯爵が触れた部分を指でなぞっていた。

 その反応も新鮮で、ウェンデルの興味をそそる。唇を緩ませ、少し潜めた声は、自分でも驚くほど、愛の言葉を囁くような甘美な響きを持っていた。


「契約成立だ。もうすぐ邸につく。期待しているよ、イリス」


 しなくていい。

 そういってしまいたかったが、イリスはグッとその言葉を飲み込んで、


「かしこまりました、閣下」


 と、溜息を押し殺した声で答えを返した。望みどおりの言葉を聴けた伯爵は、次に顔を上げたとき、得意げな笑みを顔に貼り付けていた。




 伯爵の予告どおり、まもなく馬車は停まった。

 イリスはそっと小窓から外を窺う。空はすでに藍色に染まりかけていて、かなりの時間、馬車に揺られていたのがわかる。


 御者が来るのも待たず扉を開け、伯爵は地に足をつく。ハッとなり、イリスも腰を上げて馬車から降りた。

 馬車から降りると、少し離れたところで伯爵が、主人を出迎えに来た執事らしき人と言葉を交わしているのが見えた。


「閣下。お帰りなさいませ」


「ああ」


 対する伯爵の言葉は素っ気ない。しかし執事は顔色を崩さなかった。そして暖かい笑みのまま馬車の方向を見て――イリスに目を留めた。


「あの……閣下?」


「なんだ」


「……あのご婦人は何処のどなたです?」


 主人しか乗っていないはずの馬車に見慣れない女が乗っている。それだけで、主人を出迎えに来た使用人たちはポカンとしていた。


 気持ちはわかる。当然だろう。北方の有力者の家に学生のような恰好の女がやってきたのだ。伯爵につりあわない階級の女であることは一目瞭然だ。

 だが恰好にいたっては、イリスに責められる筋合いはない。本人の返事も聞かず強引に連れてきたのは伯爵である。


「イリスだ。例のケミストラの領主の娘で、兄の代わりに秘書にするため、連れ帰ってきた。近々、妻にする」


「はあ、なるほどケミストラの領主様……は? いま、なんと仰いました、ウェンデル様」


 かなり衝撃的な言葉を流された気がする。張本人は当然ながら平然としているが、あまりに平然としてペラペラと言われたものだから、事前に宣告されていたイリスもギョッとした。


 伯爵はまた面倒そうに眉をひそめ、執事らしき初老の男性に、「妻に迎える」ともう一度繰り返し、それ以降は視線の一つもくれてやらなかった。


「イリス。ついて来い」


 名前を呼ばれ、使用人とともに呆然としていたイリスは我にかえり、さっさと歩き出す伯爵のあとを追った。


 建物の中は、イリスが思っていたよりもずっと広かった。平屋のようで、階段の類は見当たらなかったが、そこかしこに芸術品が置かれ、扉やその取っ手など、細かいところにまで念入りに細工が施されている趣味のよい邸だ。

 時折、帰ってきた主人気付いて頭を下げる使用人たちも含め、イリスの興味を引くものは沢山あったが、迷子になっては困るため一旦、無視を決め込んだ。


 伯爵邸に着いて最初に通されたのは、伯爵の仕事部屋だった。広々としており、窓際に長椅子が置かれ、インクのにおいがたちこめてある程度片付いている、まさに読書にピッタリの部屋――だったのだが、この部屋で一番大きな仕事机がそれを台無しにしていた。


「とりあえず今日中に机の上を綺麗にしたい。それを片付けろ」


 伯爵の言葉に、早くも現実逃避したくなった。伯爵は外套を脱ぎ、急いで追ってきた女の使用人に手渡している。


 彼にそれ、と示されたのは、仕事机の上に適当に山と詰まれた書類だった。中には決裁書類や、なんらかの契約書まで含まれている。


 机の上のあまりの汚さに、イリスは目眩を覚えてこめかみを押さえる。どうやら伯爵は、使用人に仕事机を触られるのを嫌っているらしい。床や屑篭、棚に埃やごみが一切見当たらないのがその証拠である。

 しばらく何も考えられなかったイリスであるが、仕事机の上に載っている書類を一つ捲って軽く目を通した。


「どのように片付けましょう? なにかご希望は? アルファベット順、月日……あとは使用頻度で分けたり……そうなると、閣下にもう一度目を通していただく必要がありますが」


「君が見やすいようにしてくれればいい」


 窓際の長椅子に一人だけ腰を下ろし、伯爵は言う。

 意外と優しいことも言うんだな、とちょっと驚いたイリスだが、その驚きはすぐに切り捨てられた。


「私が見るわけではないのでね。書類管理も秘書の役目だ」


「……エエ、はい。そうですよね」


 そんな上手い話はないとはじめから疑っていたので、特に傷つくことも、文句を言うこともなかった。無難にアルファベット順にしておくか、と思いなおす。


「では、無難にアルファベット順に……保管庫はありますか?」


「ある。場所は執事のエドウィンか使用人に案内させろ」


「かしこまりました。……あとついでにすることは?」


「ない」


「はい」


 せっせと仕事机を埋め尽くす書類を集め、抱えられるだけ抱えて持っていこうとするイリス。ウェンデルはピクリと眉を上げ、イリスを引き止めた。


「なにをしている?」


「なにって……」


 イリスは「馬鹿じゃないの」とでもいいたげに眉間にシワを寄せて怪訝そうな顔を作った。


「これから保管庫に持って行くつもりですが」


 次は伯爵が「アホか」とでもいいたげに眉間にしわ寄せた。


「使用人に運ばせればいいだろう。時間がかかる」


「でもわたしはまだただの秘書ですから」


 特に〝秘書〟のあたりを強調する。イリスはまだ、伯爵夫人ではない。出来ればこの先なりたくもない。

 その嫌味な響きが伝わったのかどうかはわからないが、伯爵は眉間にしわを寄せて毒を吐いた。


「馬鹿かね、君は。必要ならば使えばいいだろう。変なところで謙遜するな。仕事机の上にベルがおいてある。それで使用人を呼びたまえ」


 顎をしゃくってベルを示す伯爵。しかし、イリスはまじまじとそれを見てばかりで動く気配がまるでない。


「なんだね。鳴らし方がわからないとでも?」


「……そこまで馬鹿じゃありません。うちにはないので珍しかっただけです」


 工場を持っているとはいえ、イリスの家は使用人を雇えるほど裕福ではないのだ。


 まだ興味が冷めず、しばらく見ていたかったが、これからいつでも見れるではないかと自分を説得して、手を伸ばす。と、そのとき、ベルの音がイリスの耳に飛び込んできた。

 諦めた伯爵が鳴らしたらしい。数度鳴らすと、元の位置にそれを戻す。


 ……近くにあるなら鳴らしてくれればいいじゃない。

 イリスは呆れた。どうやらこの伯爵、かなりのものぐさらしい。……いや、部下が主人の手を煩わせること自体が間違っているのだろう。わかってはいるが、何故だろう。心からなかなか、呆れが消えてくれない。

 イリスの妙に熱っぽい視線には気付いていないようで、伯爵は優雅に肘掛に肘を付いて長い睫毛を伏せた。

 目を閉じていては、ジロジロみていても気づかれないだろう。すぐに来るだろうが、使用人が来るまでの間だけ、イリスは伯爵の顔を観察することにした。いままでずっとピリピリしていて、ろくに見る暇などなかったのだ。

 例の商人がいっていた通り、確かに美しい人だった。光の当たり具合によっては暗緑色に見える黒髪はふわふわとして手触りがよさそうで、胸元まで伸びている。白く、男にしては滑らかな肌に、綺麗に整った細い眉。なにか特別なことでもしているのだろうかと疑問に思う。何処もかしこも完璧すぎるとまではいわないが、まるで古代の彫刻のように美しい。目を瞑って佇んでいるだけでも、様になる。


 だからだろうか。先ほどから腹立たしいと思うのは。イリスを妻にするといったその直後から、この整った唇から次々と、我慢していたものをすべて吐き出すように毒が排出されるようになったのだ。

 顔がいいから性格までいいとは限らない。それは重々承知していたので、特に期待はしていなかったが、やはり女の子には『理想の旦那様像』というものがある。


 これがわたしの旦那様。……自分の人生、一度終わったとイリスは本気で思った。

 ハァ、と落胆の溜息を吐いた瞬間、扉を叩かれる。

 イリスが来たことをまだ知らされていなかったのだろうか。主の仕事部屋に女がいることに驚いている使用人に、無表情で要件を告げると、慌てて書類を抱えて保管庫まで運んでいった。


 とりあえず先に書類をすべて運ばせてから、仕事机に視線を戻す。書類の山がなくなって随分すっきりしたが、綺麗とはいえない。少し片付いただけだ。

 くしゃくしゃになった紙、数種類の万年筆、折れた羽根ペン、手帳、その他諸々で溢れかえっている。

 仕事机のそばにある屑篭を取って、使い物にならない羽根ペンやごみを放り込む。無造作に転がっている万年筆を備え付けのペン立てに立てるなど、それだけで、大分机の上が片付いた。そっと屑篭をのぞき、そのあまりの量に「どれだけごみがあったんだ」と呆れてしまう。


 ウェンデルはじっと、イリスが片付けていく様子を見ていた。事前に調査していて知っていたことだが、男爵家は経済的に使用人を雇う余裕がない。とすれば、家の人々は自分のことは自分でする癖が必然的に付くものだ。大学の寮生活もあってか、随分と手慣れているようで、無駄な動作が一つもなかった。自分が躾けることは特になさそうだ。


「イリス」


 なんとなく、名前を呼んでみる。と、イリスは一度机の上を片すのをやめて伯爵を振り返った。


「はい」


「今日はもう仕事はしない」


「はい」


「今日は客室を用意させる。整理が終わったら今日は休んでいい。明日からベラに引継ぎをさせるから、なるべく早く仕事を覚えるように」


「……承知いたしました」


 何処の家の秘書も業務内容事態は変わらないと思うが、そういうからにはなにか特別なことでもあるのだろうか。

 沈黙してそんなことを考えていると、伯爵は落ちてきた髪を後ろに撫で付けながら言った。


「なにか他に聞きたいことは?」


「いまのところはございません」


「ならいい。……んん」


 伯爵はなにかを思い出したように唸ると、一つ付け加えた。


「明日、仕立て屋を呼ばせる。準備をしておきたまえ」


「閣下のお召し物ですか?」


「馬鹿かね、君は」


 ごく自然な流れで呆れたように言われた。最初は少なからずムッときたものだが、もう言われすぎて、今日はよく馬鹿だっていわれるなあくらいの感慨しか沸かなくなってしまった。

 同じ空気を吸っていると慣れてくるのだろうか。


「君は私との契約を忘れたのか? 結婚するには花嫁衣装がいるだろう」


「……は? 花嫁衣装?」


 なにそれ、すごい初耳。


 結婚といっても軽い流れで求婚されて決まったものであったため、婚姻届に署名をして役所に届け出るくらいにしか思っていなかった。まさか本当に式をするつもりだろうか?


「婚儀は親しい友人と身内を呼び、聖堂で署名するだけの小規模なものにする予定だが、女は花嫁衣装に憧れるものだろう。君も一度は着てみたいと願っていると思っていたが」


「……それは、そうですが」


 彼なりに考えていたらしい婚儀の計画を披露され、しばらく衝撃でなにもいえなかったが、いくら流行やお洒落に疎いイリスでも、伯爵の言うとおり、花嫁衣装というものには淡くはあるが憧れはあった。

小さい頃はクローゼットにしまってある母の花嫁衣装を妹と共に眺めては自分の花嫁姿を想像したものだ。


 とりあえずお礼を言うべきだろう。


「それは、ありがとうございます。……とてもありがたいのですが。私の花嫁姿なんて見れたものではありませんよ?」


 自分の容姿は自分がよく知っている。国内においてよく見られる麦色の髪は先端だけ変な風にうねっていて不恰好で、目鼻立ちは平凡。蜂蜜色の瞳は確かに珍しいけれど、世界に一人、というわけではない。

肌が白いのは北の地方における人々の特徴で、これも平凡。せめて体形が女性らしい丸みを帯びていればいいのだが、胸元は僅かに膨らんでいる程度で、ほとんど寸胴に見える。ブラウスの裾をスカートに入れるとき、ある程度ふくらみを持たせて改善を試みたことがあるが、失敗に終わったので元に戻した。いくら改善を試みても、自分の容姿が優れているとはとても思えないのだ。


 ちょっと自信なさげにいうイリスに、伯爵は容赦なく言い放った。


「わかっている。それでも見たい。個人的に興味がある」


 「馬鹿」と同様、ごく自然な流れで地味に傷つく言葉を言われた気がするんですが。


 突っ込みたい気持ちを抑え、喉まででかかった言葉を飲み下した。一言多いとは、まさにこのこと。見れたものじゃないというイリスの自虐の言葉を肯定したくせに、「それでも見たい」とはどういうことだろう。笑いものにする気なのだろうか。


「それと、商売のことで私にも考えるところがあるのでね。ケミストラの工場で出来た布で花嫁衣装を作って宣伝をしたいし、ついでに夜会用と外出用の服もつくらせる。夜会で趣味のよいものを纏い、評判になれば、受注が増える」


 ……ああ、経営戦略なんですね。


 イリスはやっと彼が何故花嫁衣装にこだわるのか納得できた。イリスの花嫁姿を見たいという理由は、それだったのだ。工場で出来た布の品質を自分でも確かめたいのだろう。

 少しでも自分の花嫁姿を見たいと思ってくれたのだろうか、なんて夢見た自分が馬鹿でした。

 世の中万事上手くいくわけではないんだなぁと、イリスは改めて一つ大人になった気がした。


「かしこまりました。閣下の仰せのままにいたします」



 イリスは厳かに、自分の〝主人〟となった男に言葉を返した。

伯爵ってほんとに自己中だなぁ……と思います。

前秘書のイザベラ姉さんはよっぽど苦労してたんだなあと思わずにはいられません。

次は花嫁衣装のお話です。でも花嫁衣装はあまり出てきません(←ォィ


伯爵夫妻とは別に、短編を投稿しました!よければご覧ください!主人公は、伯爵夫妻にも出てきたあの人です!

はじめての短編ですが、感想をいただけたら嬉しいです!


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