伯爵と商談と求婚と
今週は更新できるか心配でしたが、出来ました。人間やれば出来るんだなって感心したり……。
お気に入りが1000近くになっていて己の目を疑いました。皆様本当にありがとうございます。評価とか2300越えしててびびりました。本当にありがとうございました。
前回はやや伯爵目線でしたが、今回はイリスのターンになります。
翌日もその次も、三日続けて同じ雲ひとつない秋晴れの日が続いた。北の地方には珍しいほどの快晴である。それが長く続くのは特に珍しい。
洗濯物がよく乾き、風の通りもよいので、ケミストラ男爵家の兄弟は自室の片付けや掃除をしていた。
あまり物を置かない主義のイリスは、すぐに掃除が済んでしまい、ついでに兄弟でよく使う外の古びた四阿の掃除も済ませた。そこに掃除と片付けを済ませた兄が通りかかり、一緒に読書に興じることになった。
しかしそれも、最初の五行目のあたりで読むのをやめてしまった。なかなか集中が出来ず、イリスは大きく溜息を吐いた。工場になにかあってはと気が気でない。なにをしていても、集中出来ないのだ。
「どうしたんだ、イリス。一昨日から溜息ばかり吐いて」
「なんでもないわ。ちょっと疲れているだけよ」
なんでもないの言葉通り、微笑んでみせるイリス。しかし、かえって兄に疑念を抱かせたようだった。
「もしかして、例の伯爵のことか?」
〝伯爵〟という言葉に、イリスは思わず体を強張らせた。
事業のことで伯爵と、自分抜きで勝手に話を進め、あまつさえ契約書に署名してしまった父に、イリスは少し苛立っていた。少し世間知らずなところがある父は、商売においてもっとも大切なものが情報だということをよく理解していない。当然、商売の上でのアダーシャン伯爵の噂なんか知るわけがない。
「……少しも疑わなかったところがお父様のすごいところよね」
イリスは眉間にしわを寄せて皮肉った。
地位も富もあるアダーシャン伯爵家が辺鄙でこれといって輝くものがない我が家が経営する工場に目をつけるなんて、馬鹿でも疑問に思う。父の猜疑心のない真っ白な性格は誰にも愛され、おかげで人望も厚いが、商売には絶対に向かないのだ。商売には、損得で判断する冷酷な心も必要だ。
いまから五ヶ月前、イリスが大学を卒業して兄と共に帰還して以来、いままでギリギリだったケミストラの工場は少しずつだが巻き返してきていた。
首都から流行の柄やこれから売り上げが伸びそうな織物製品をケミストラに持ち込み、あちらでしていた娼館の経理と受付で培った人脈を駆使し、加えてある程度商売のことを勉強していたため、いまでは経営のことはほとんどイリスが指示していた。
あと一年待てば……イリスの計算では受注が増え、人手を増やすことが出来るはずだった。
父がイリス抜きで伯爵と誓約を交わしたのは、商連に加盟し、粘り強く商人たちに工場の製品の宣伝をして、やっと小さいながらも、他方から仕事を頼まれるまでになった矢先のことであった。
顧客探しに時折訪れる、商連が経営する商人のための宿屋は、イリスの情報収集の場の一つである。なにより金がかからない。酒を飲んでいれば口も財布も緩むため、酌をする女を装って言葉巧みに話しかければ、商人たちは色々話してくれた。
高そうな身なりに高そうな靴を履いた老人を選び、「最近、商連内でいざこざが起きているんですってね。詳しく教えてくださらない?」と聞くと、その商人は溜息を交えつつも話してくれた。
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「アダーシャン伯爵の若当主が荒稼ぎしてるもんでね。わしらの商売が上手く出来なくて、反発しているものが大勢いるんだよ。お嬢ちゃんが言ってるのは、きっとそのことだろう」
「アダーシャン伯爵……?」
思わず首をかしげると、商人は少し目を丸くした。
「おや、知らないのかい。若い娘さんにしては珍しいほどの世間知らずなんだねぇ」
ホッホッホと老人は笑う。彼の周りを囲む若い商人たちも苦笑を禁じえなかった。
イリスは詳しく探りを入れてみることにした。
「どういう方なのか、ご存知?」
「本当に知らないのかね? 噂の〝美貌の伯爵〟だよ。北方では有名だと聞いていたがね。お嬢ちゃん、もしかして他の地方から出稼ぎに来たくちかい?」
自分の身の上を探るような老人の言葉にギクリとしながらも、自嘲の笑みに見えればいいのだがと願いながらぎこちない笑みを浮べる。
「ええ……弟が病気で、商連だとお金がたまると聞いたので」
「関心だねえ。いいことだ。……話を戻すがね、お嬢ちゃん」
老商人はひとつ溜息をはいて話しはじめた。
「伯爵は若くして当主業を継ぎ、学生時代に王都で身につけた洗練された感覚で貴族相手に商売をしてなさる。
はじめは貿易業だったかな。それから宝石、家具、子供の玩具や筆記具まで幅広く扱っておられる。
ここ数年は庶民も視野に入れて商売をなさっているようだよ。あまりに多方面での荒稼ぎがすぎるもので、この間商連から注意を受けたと聞いている。あまりに大きくしすぎると、我々の商売が上がったりなんでね」
「……富は皆で分け合うもの。独占しては我が身、滅ぼさん、ですね」
「その通り。よく勉強してあるね」
老商人は人のよさそうな笑みを浮べた。
良識のある商人ならば誰もが知っている、有名な言葉である。富を独占すると他人の恨みを買い、儲かりすぎると金銭にばかり執着して必ずしくじる、自制せよという戒めの言葉。商連が掲げる標語でもある。
「まあ、注意したところであのやり手の伯爵は聞こうともしないだろうがね。また別の手段を考え出すだろう」
「冷たい人なんですね」
「それがそうでもないのさ」
老人は苦笑した。
「若様は稼いだ金で領地と領民の生活をもっとよくしようとなさっているのさ。何年か前の不景気のときは職業斡旋所をつくり、ご自身もいくつかの工場を買収して就職口を提供した。
定期的に炊き出しをしたり、孤児院や修道院、学校、芸術家にも多く寄付をしていらっしゃる。ちゃんと商連の標語を守っているから、ほとんどの商人は文句が言えないんだよ。
伯爵のおかげでアダーシャンは我々にとっても商売がしやすいところだし、余計な口出しをしてあそこで商売が出来なくなると打撃だ。
……でもまあ、お嬢ちゃんの言っていることも一理ある。噂では、若様は最近、小さくて冴えない工場を選んで買収し、使い潰すという手法を取っているそうだからね」
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いま思えば、あのときから嫌な予感はしていた。
やっぱりお父様を一人にするんじゃなかった、と再び後悔する。天気がいいから外で本でも読もうと思ったのが間違いだった。やっぱり、父を一人にするべきではなかったのだ。
「伯爵はきっと工場を使い潰す気なのよ。どうすればいいの? うちの数少ない収入源だったのに……やっと商売も軌道に乗りかけていたところだったのに……」
「そう落ち込むなよ、イリス。なんとかなるさ」
ラギネアが励ますように言う。しかし、彼の言葉には全然説得力がなかった。
「ラギ兄さんはいいわよ。王都で就職が決まってるんだから……お父様ったら本当に後先考えないっていうかなんていうか……閣下は私たちをどうする気なのかしら……?」
ハァと溜息を吐くイリス。確かに、兄の言うとおりなるようにはなるだろう。しかし、それは最悪な形で現れるか最善で現れるかはわからない。
「元気出せって。お兄ちゃんが絵本でも読んでやろうか? 灰かぶりの話がいいか? お前あれ好きだったもんなぁ」
わざと冗談を言うラギネア。少しでもイリスを元気付けようとしてくれているのだろうか。だとすれば、逆効果である。
「……いらないわよ。兄さん、わたしのこと何歳だと思ってるの」
「何歳でも、お前は可愛い僕の妹だよ」
ラギネアはニッコリと笑う。
なにをいい笑顔で抜かすか、この兄は。イリスは冷ややかな視線を兄に浴びせた。いつまで自分を幼子のように扱う気なのだろうか。小さい頃は嬉しかったが、二十歳にもなると嬉しいが過ぎて疎ましくすら感じる。
イリスとラギネアの視線の交差はしばらくの間続いたが、それもすぐに切り上げられた。
「姉さん、姉さん! 大変大変大変――っ!」
邸内に響き渡るような(というか明らかに響いている)大きな声で『姉さん』と『大変』を連呼され、イリスはガクッと肩を落とした。次はなんだ?
「どうしたの、ヴィットリオ」
座ったまま四阿にやってきた弟に呆れたように視線を投げるイリス。今年で十五になったというのに――いや、だからか――相変わらずトゥーラ同様、落ち着きがない。
ヴィットリオは大変との言葉どおり慌てて走っていたが、足元が危なっかしくて見ているイリスのほうがハラハラしてしまう。弟も悲しいことに、自分と同じで運動能力がほとんど皆無なのである。
フラフラした足取りでやっと四阿に飛び込んできたヴィットリオは、肩で息を切らせた。顔も首筋も汗で濡れていた。
「ね、姉さん……大変なんだよ……は、伯爵が……ハァ」
「伯爵? とっとと吐きなさい、ヴィットリオ!」
「ちょ、ね、姉さ……気持ち悪……」
先程の落ち着いた態度から一変して攻撃になった姉にガクガク揺さぶられ、ヴィットリオは困惑気味に瞳を揺らす。
兄弟は、トゥーラを除く三人ともケミストラ周辺の地方に見られる黄色い目をしている。
可愛い弟が困惑していても、イリスは構わなかった。商売は時機を逃すとその後の収益に関わる。
しかも噂のアダーシャン伯爵のことである。イリスは慌てていた。
「おい、イリス。落ち着け。ヴィットリオの意識がいまにも飛びそうだぞ」
ハッとなって手の力を緩める。ヴィットリオは頭をぐらぐらさせて、顔を青くさせていた。気持ち悪いのだろう。だが我慢して、姉の望んだ情報を口にした。
「は、伯爵が呼んでるよ。父さんよりも姉さんのほうが頼りになるだろうからって……」
「……ああ、でしょうね」
工場になにかあったわけではないとわかり、イリスは安堵する。それと同時に、伯爵の正しい判断を心の中で褒め称えた。父が一緒にいると、商談など出来たものではない。
イリスは立ち上がると、スカートやブラウスのシワ、リボンの位置、髪の乱れやカチューシャの位置をただし、応接間に向かった。
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「――どうも伯爵閣下。遠路はるばる痛み入ります。本日はいかなる御用でかような辺境の地に参られたかお聞きしてもよろしいでしょうか?」
美しいが建前だけの、あまり心のこもっていない礼を取り、無駄な感情を切り取った怜悧な表情で言い放ったイリスは、伯爵を見やる。
伯爵の背後に立っている秘書らしき女性は昨日とのあまりの差に驚いたのかキョトンとしていたが、伯爵はイリスと同じように怜悧な表情を見せていた。
冷たい顔。けれどそれは、これからの駆け引きに必要である。
しばらくお互いをにらみ合うように凝視していた両者だったが、伯爵が僅かに笑みを見せたことにより終息した。
「ふむ。弟君に聞いていないのかね?」
「そそっかしい弟ですので、言い忘れたのでございましょう。私は聞いておりません」
仕事の話にきたというのはわかっていたが、勝手に弟のせいにして、イリスは堂々としらばっくれた。相手はアダーシャン伯爵。我が家を危機に陥れようとする敵である。油断したり、少しでも優しいところを簡単に見せるわけにはいかない。
伯爵は疑わしそうにイリスの大きな目を窺っていたが、すぐにそらして背後に視線を移した。
「ベラ、例のものを」
無言で頷いた女性は、懐からなにかを出してテーブルに広げる。
まさか新たな契約書か、と一瞬身構えたイリスだったが、テーブルの上に広げられたのが紙でなく布であることに面食らってまじまじとそれを見つめた。
「……これは?」
「見てのとおり、ハンカチだが?」
ですよね。イリスは納得した。
広げられているのは正方形のハンカチだった。両方とも、いつも見慣れた色合いに少しの工夫が加えられている。まるでレースを縫いつけたかのように細やかな刺繍が施されていた。
ここまではいい。精巧な刺繍が施された派手な形状のハンカチを持つのは、貴族の間では珍しいことではない。だからこそ、驚いたのだ。この男は、世間知らずだとイリスを馬鹿にしているのだろうか?
まじまじとハンカチを観察していると、イリスはあることに気付いた。
「もしや……綿ですか? このような刺繍が施されたものにしては珍しいですね」
「いま、王都の上流階級では綿の製品が流行しかけていてね。これに便乗してひと稼ぎすることにしたのだ。ケミストラの工場では、北方の伝統的な刺繍を施した、洒落ていて、趣味がよく、夜会に持っていっても遜色ない意匠のものを生産する予定だ。上手くいけば他国にも輸出する。お父上から話は?」
「……聞いておりません。父もそそっかしいもので」
というより、口をきく暇がなかったといおうか。イリスではなく、父の方からである。
自分抜きで勝手に話を進めた父に、イリスは怒っていた。ここ数日、父と目を合わせてすらいない。何処か落ち込んでいる父を見ていると心が痛んだが、イリスは無視した。
そのとき、イリスの中でふと疑問がわいた。
北方の有力者で多忙のアダーシャン伯爵が、なんの利用価値もない小工場を持つだけの領主のもとに、何故訪れたのか? 背後にいる秘書の女性にでも頼めばいいことである。伯爵自ら訪れるような話だとは思えないのだが。
「……今日お越しになったのは本当にお仕事のお話だけですか?」
「それ以外に何がある?」
伯爵は平然として言い放った。イリスは心の中が一瞬空っぽになったのを感じた。
「お父上が商売のことは君に聞いたほうがよいというのでね」
伯爵は落ちてきた髪を後ろにかきあげながら、弟がいっていたことと同じことを口にする。
本当に、商売の話だけに来たのかしら……?
まだ疑わしかったが、イリスにそれを確かめる術はなく、一旦この話を切り上げることにした。
「わかりました。……申し訳ありませんが、この間父と交わした契約内容をもう一度お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「面倒だが……まあ、いいだろう」
伯爵は心の底から面倒くさそうに片方の眉を寄せたが、無理もないと判断したのか、背後に立つ女性に説明しろと指示した。
結局人頼みなんですね。
イリスは背後に立っている女性が気の毒に思えた。見るからに人使いの荒そうな人の下で、よく働けるな、と関心すらする。
集めた情報によると、アダーシャン伯爵は仕事にとても厳しい人らしい。商売においては一切の駆け引きも許さないことがあるそうな。
イリスは慎重に、伯爵にベラと呼ばれていた女性秘書の話を聞いていた。ケミストラの工場で生産する予定の織物に使う綿は、どの地方から取り寄せる予定だとか、染料は伯爵家が支援している研究所で出来た染め粉を使うとか、利益は男爵家が六割貰えることとか、そういう話だったが、結局ケミストラの工場は使い潰されるということだ。そのことを疑いようもない事実として捉えていたイリスは、注意深く、少しでもこちらに有利になる情報を集めた。
一通り話を聞き、秘書の女性が言葉を紡ぐと、少し考えたふりをしてからイリスは口を開いた。
「失礼ですが、閣下。生産をはじめる予定はもう立てておいでですか?」
「早ければ四ヵ月後にははじめるつもりだが。」
綿や染料を仕入れることを視野に入れればそれくらいはかかるだろう。それでも、四ヶ月は早い方だ。アダーシャン伯爵家だけが持つ特別な伝手でもあるのだろう。
経済の面でも人脈の面でもケミストラをはるかに凌駕する伯爵を、内心でちょっぴり羨ましく思いつつイリスは微笑んだ。
「そうですか。わかりました。では、閣下。工場で雇うお針子や作業員を含む人員については、わたくしに一任していただけませんか?」
「……は?」
伯爵は眉根を寄せた。しかしそれは不愉快そうなものではなく、己の耳を疑っているというような顔だった。
いままで度々質問を挟みながらも静かに聞いていたかと思えば、いきなり反撃に出たことに驚いたらしい。
見た目は大人しそうだと小さい頃から言われ続けてきたため、伯爵がそう思うのも無理はないかもしれない。
押して駄目なら引いてみるという言葉があるが……イリスはあえて逆の手段を使ってみた。経営権と所有権はすでにアダーシャン伯爵家に渡してしまったため、はじめから強気に出られるわけではない。そして商売に関して百戦錬磨の伯爵である。変に探れば反感を買いかねない。下手をすれば、管理、運営の役職から追い出されるかもしれない。
ここは、手始めに小さなところから自分に有利になるよう、働きかけるのがよいとイリスは判断した。いきなり大物を狙うのは危険すぎる。
ちょっと驚いた風にしている伯爵と女秘書を見て、イリスは微笑を浮べて少し首をかしげる。
「いけませんか?」
彼女は、すでに駆け引きを始めている。
話を聞いて悟った伯爵は、蜂蜜色の瞳と目を合わせてしばし黙り――そして、長い睫毛を伏せた。
「断る。心配しなくても、信用できる人員を確保する。君が口を挟む余地はない」
「おかしいですね。失礼ですが、閣下は我々との約束をお忘れではありませんか?」
「なに?」
自分よりも身分が上の伯爵相手に慇懃無礼とも取れる発言をして見せたイリスは、平然として最強の切り札を繰り出した。
「すべての管理と運営は我々がしてもいいことになっているのですよね? でしたら、人員確保も我々の仕事の範疇でしょう?」
「………」
伯爵は舌打ちを打って顔を背けた。
「……いいだろう。人員の件については好きにするといい」
「ありがとうございます。尽力いたします」
嬉しそうな声の響きに、伯爵は片目を上げてその顔を盗み見る。
細められた目から見えるとろけそうな蜂蜜色の瞳に自然と目が行く。伯爵領では珍しいからかもしれない。笑っただけで目の端から零れ落ちそうだ。昨日は茶色かと思ったが、鮮やかな黄色というには相応しくない色なので、見間違えたらしい。木陰にいたのだから、見間違えたとしても不思議はない。
麦色の髪と大人しそうな外見を見ていると、まるで小鹿のようだと思った。茶色の毛並み、大きく大人しげで賢そうな瞳。無邪気なところがあり、けれどそれなりに用心深く狡猾な、成長過程の鹿のような。
ジッとそれを見つめていると、ウェンデルは溜息を吐いた。
「聞きたいことがあるのだが」
「はい。それは父にお願いいたします」
「……君のことだが」
「仕事のお話でしょうか? 新しい機械でも入れる予定ですか? それならいつでも結構ですが」
……しらばっくれているのか、この女は。
ウェンデルは笑顔を貼り付けたままのイリスをしばし見つめ、口を開いた。
「私の名は知っているのかね?」
「はい。アダーシャン伯爵閣下ですよね?」
「……まあ、そうだが」
……ここまで平然とされると少し傷つくな。
いままで自分の容姿に釣られなかった女がいなかっただけに、衝撃だった。それと同時に、三十間近にもなって女のことで傷ついている自分に気付き、ウェンデルは吐き気がした。
「ウェンデル・アダーシャンだ。私の歳は知っているかね?」
「二十歳くらいでしょうか?」
イリスは適当に答えた。
「……しらばっくれているのかね、君は」
とうとう我慢の限界が来たウェンデルは、持ち前の短気さを垣間見せた。
というより、三十間近になって二十歳に間違われたことにウェンデルは少し腹を立てた。若く見えるのはいいことだろうが、三十間近になって二十歳に間違われるのはただの嫌味である。
「今年で二十七になる。君はいくつだ?」
「はい。今年で二十歳になりました」
「……二十歳?」
ろくに調書を読んでいないイザベラは思わず声を上げた。言いたい気持ちは十二分にわかる。イリスは大きめの目のせいで、幼く見られがちだ。
「嘘だろう」
「いえ、本当です。今年の春、大学を卒業したばかりです」
「大学は二十一で卒業だ」
「……ああ、そうだったな」
そういえば一つ年上の兄と一緒に卒業していたことを思い出す。
ウェンデルはちょっと馬鹿にしたような目でイザベラを見た後、再度イリスの顔を見つめる。イリスは、イザベラを見て微笑んでいた。その笑みは先日の無防備なものではなく、いつなにをいわれてもすぐに対応できるような臨機応変さを携えていた。
仕事の顔と私生活をしっかりとわけている。これは使えると、思わずにはいられなかった。
伯爵は一旦目を伏せ、ジッと考え込んでから再度、形のいい唇を動かした。
「ウェンデル・アダーシャンだ」
「は? ……いえ、はい」
突然名前を言われ、イリスは目を丸くする。しかも、彼の唇から出たのは、先程聞いた彼自身の名である。
問い返すとギロリと睨まれ、「黙って聞いていろ」と視線で命じられる。彼のほうが身分が上であるため、反論も出来ず、イリスは黙って聞き役になった。
「今年で二十七になる」
「はい」
「結婚はしていない」
「……はい」
だったらなんだ。
内心、少し呆れていると、伯爵は面倒くさそうに片目を上げ、長い睫毛の隙間からイリスを見つめた。
「……鈍いな。私が何を言いたがっているかわからないのか?」
「……申し訳ありません、頭が悪いもので」
あまりの理不尽さに、普段は温厚なイリスも思わず眉間にしわを寄せる。自分でも自覚があったので、俯き、頭を下げるふりをして隠す。自分よりも身分が上の人に対し、慇懃を忘れるとどんなケチをつけられるかわかったものではない。
それに気づいていたのか、伯爵は不遜な態度で「フン」と鼻を鳴らした。
「イリスだったか」
「はい」
伯爵が自分の名前を覚えているということにちょっと驚きつつも、頷く。
次に何を言われるか、と警戒しているイリスをひと眺めしてから、伯爵は口を開いた。
「私の元へ嫁げと言っている」
「……はい?」
思わず顔を上げたイリスのポカンとした顔を見て、伯爵は満足そうな笑みを顔に浮かべた。
突然ですが、私の中のイリスのイメージは何故かディ●ニーキャラクターの某小鹿です。毛並みの色とかマッチしてます。
それにしても伯爵はどうしてこうも自己中なんでしょうね……書いているほうとしては楽しいのですが(笑)
Ⅱはまだ続きます。どうかお付き合いくださいませ。拙いものですみませんでした……。