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アダーシャン伯爵夫妻の日常  作者: 々 千早
Ⅱ 伯爵夫妻の日常~馴れ初め編~
4/30

伯爵と夫人の微妙な馴れ初め

お気に入りがいつのまにか500件越えしていて顔がムンクの叫びみたいなことになりました。評価も1200越えしてました。

皆様の応援をかみ締めながら、執筆したいと思います。


いったそばから身勝手で大変申し訳ないのですが、今週は忙しくなるので、今日更新しておきます。

題名通り、伯爵と伯爵夫人の馴れ初め話です。全体的にちょっと長くなります。

 秋晴れの日だったと思う。心地のよい風と高くも低くもない日差しが地面を照りつけ、気温がうまく調和して、北の地にしては珍しいほど過ごしやすい日だった。


 その日、ウェンデル・アダーシャンは旅装姿で馬に乗っていた。

 供は繋ぎとして秘書を勤めてくれている姉イザベラと、伯爵家の中でも武術に優れた元傭兵のブレードだけで、北方でも指折りの領主であるアダーシャン伯爵家の視察にしては、無防備すぎた。


 そもそも、ここはアダーシャン伯爵家の領内ではない。ここはケミストラという――恐らくほとんどの貴族が聞いたこともない――小領主の領内だ。


 ケミストラ男爵家というのは、世にいう成金という部類の家柄であるらしい。元々はシャトラという姓の、織物業で利益を上げた商人である。

シャトラの二代目当主がケミストラ男爵家の一人娘と結婚したらしく、現在、男爵家はシャトラの血筋の者が当主として君臨をつとめている。要は、金で買った爵位を掲げているわけだ。


 それでも、北方、果てには王都にもそれなりに名の知れている、数百年前より続く由緒正しいアダーシャン伯爵家には、遥かに劣る。血筋においても、財産の面に置いてもだ。


 初代の頃は王都で店を構えられるほどの貯蓄があったらしい。一代目は商売上手、二代目は家格をあげることに尽力したが、三代目の当主は浪費家で、おまけに商売の才能がないということで、

いままでの生活が一変。ケミストラ男爵家は、これ以上ないほど落ち込んだ。三代目の当主は早々に死去したそうだが、すでに遅く、彼が死んだあと、遺品に借用書という無駄なものが残っていたという。


 数多くの宝石や美術品、骨董品を抵当に入れてやっと借金を返した頃には邸に何も残っておらず、いまでは庶民とそう変わらない生活をしているらしい。

初代より続く織物工場だけは抵当に入れずに済んだようで、細々と続け、いまでは数少ない収入源の一つであるらしいが、その工場も風前の灯火だ。家族で食べる分には問題がないが、貯蓄は知れたものだろう。


 血筋に誇るものもなく、加えて何の利用価値もない工場を持つケミストラ男爵に何故、高貴なアダーシャン伯爵本人がわざわざ足を運んだのか。


 商売に多大なる才能を発揮した十六代目アダーシャン伯爵ウェンデルは、近々新しい事業に着手しようと考えていた。


 そんな中、イザベラに、最近貴族の間で、綿を紡いで織った布に精巧な刺繍がなされたハンカチが流行しそうだと聞いた。絹よりも丈夫で安く使いやすく、色んな意匠のものが販売され始めている。


 それで、ウェンデルは思いついたのだ。そうだ、織物業にしようと。


 いちからつくるのには莫大な金がかかる。元々、流行に便乗して一稼ぎしようという気しかなかったので、簡単に買収できそうな工場を探した。


 使い潰せそうで、経済的に困っている工場。


 その最有力候補に挙がったのが、ケミストラ男爵の持つ工場だった。借金こそないものの、資金繰りは大変らしい。新しいことをはじめようにも金はなく、工場でつくる物品はすべて流行おくれのものばかりで、工場の大きさに見合わず人員は少なく、作業工程も効率が悪い。


 昔は上流階級相手に商売していたらしいが、いまでは一般庶民に買ってもらって生計を立てている始末。元大商人も落ちぶれたものだ。

 そんな工場だからこそ、使い潰すには丁度いい。入念な下調べをした後、工場を買い上げることに決めた。そして、ウェンデルはあることに気付く。


 男爵の子供たちは、領内では秀才で名高いらしい。取り分け長男と長女は特別で、二人は大学に通っていたという。その二人は今年の春、大学を非常に優秀な成績で卒業したらしく、いまは実家で暮らしているらしい。


 丁度このとき、ウェンデルは新しい秘書探しに密かに悩んでいた。いまではイザベラが手伝ってくれているが、家庭のある彼女に長丁場は不向きだ。にも関わらず一年以上も彼女に手伝わせている。さすがのウェンデルも考え直さねば、と思っていたのだ。


 仕事が出来るのならそれでもいいが、貴族社会において学歴はある程度重視される。加えて優秀な成績をおさめたとなれば、誰もが放っておかない。当然、ウェンデルもそうだった。


 なのだが。


 麦畑ばかりが広がっている田舎丸出しの光景を、ウェンデルは退屈そうに見回した。


「まったく……骨折り損だったな」


 温い風に吹かれ、飛びそうになる帽子を押さえて目深に被りなおすウェンデル。運だけではなく、風まで自分を馬鹿にするつもりらしい。

 その隣に、同じく騎乗して並ぶイザベラは苦笑した。


「そういうな、弟よ。見ろ、この壮大な景色」


 イザベラは大袈裟に、感情を込めて言った。歌劇が好きな姉だから、声の調子も何処か韻を踏んでいるようで、深みがあり――そして、その音はウェンデルの苛立ちを増させた。


 ウェンデルはムスッとした顔のまま、姉が手を広げて示した山をそっけなく一瞥した。


「確かに、壮大ではある。……それを生かして材木として売るなりすれば、纏まった金が出来て新しい事業に着手できるものを」


 あっさり夢をつぶして見せた伯爵は、溜息を吐いた。


「今の当主も経済の才能はないらしい。初代から続いているかどうかは知らないが、家を継いだ時点で織物業など早々に切り捨てればよかっただろうに。その金で新しい商売に着手出来た。上手くいけば工場も買い戻せる」


「……伯爵ってほんと夢がないですよねー。お顔に反して」


 小声で呟くブレードに、ウェンデルは冷たい視線を浴びせた。


「なにかいったかね」


「いえ、なんでも」


「なら黙れ」


 いつになく棘のある言い方で吐き捨てる伯爵に、ブレードとイザベラは思わず目を見合わせた。嫌味を言うことはあれど、口調を荒げることは滅多にない。どうやら、かなり不機嫌であるようだ。

 イザベラは馬を急かし、弟の隣に並んだ。


「ウェンデル。どうしてそんなに怒っているんだ」


「別に怒ってない」


「その言葉は眉間のしわを消してからいってもらおうか」


 スッと自分の眉間をなぞり、イザベラは勝ち誇ったように微笑む。

 ウェンデルは藻色の目で姉を横目で睨んだ。しかし――すぐに真正面を向いて、ハーッと溜息を吐く。


「怒ってはいない。機嫌が悪いだけだよ、ベラ」


「なんだ、どうした?」


「……骨折り損じゃ機嫌も悪くなるだろう」


 思い出してイライラしたのか、また不機嫌そうな顔に戻る。

 イザベラは呆れたような顔をした。


「まだ根に持っているのか」


 ウェンデルは答えなかった。ただポクポクと三頭分の蹄の音が響くだけで、それすらも虚しく秋風に流される。


 イザベラはますます呆れた。あのときは笑顔で「仕方がない。潔く諦めましょう」と言っていたくせに、この弟は――。


「仕方ないだろう。我々が行くよりも先にケミストラの息子の就職先が決まっていたんだから。男なら、運が悪いと思って諦めたまえ」


 まるで小さな弟におもちゃを取られて泣き寝入りするしかない兄のような態度のウェンデルを、宥めるようにイザベラはいった。


 時は少し遡る。



 *************



 アダーシャン伯爵とケミストラ男爵の会談は、順調に進んだ。


 北方の有力者のアダーシャン伯爵の来訪に、男爵は戸惑っていたようだが、仕事の話とわかると真剣な面持ちでウェンデルの話を聞いていた。


 その後、いくつかケミストラに有利な条件を提示した上で、アダーシャン伯爵家が運営、ケミストラが管理する共同経営。利益は伯爵家が六十ケミストラが四十という形で話が纏まった。

 契約書の署名を含めるすべての手続きが済むと、ウェンデルは次の話題に入った。


「男爵。秀才と名高いあなたの家のご子息を私の秘書にしたいのだが、いかがか」


 噂どおり、パッと見ならば女と間違ってもおかしくない美貌の伯爵に、ケミストラ男爵は一瞬見入ったようにぼーっとしていたが、すぐに目に光を戻して息を呑んだ。


「うちの……ラギネアを、ですか」


 男爵が恐る恐る、窺うように聞くと、ウェンデルは微笑んだ。


「いま丁度、秘書に空きが出ていてね。代理を務めてくれている姉のおかげでなんとか回ってはいるが、その姉も家庭を持っている」


 ちらりと伯爵に向けられた視線の意図を汲み、秘書の役目を果たしているイザベラは頭を下げる。血が繋がっていないことによる容姿の違いに何も知らない男爵は驚いたようだったが、ウェンデルは構わずサクサクと話を進める。


「これ以上の長丁場はさせられない。そこで、優秀な成績を収めた上に他国で一年の留学をおさめて帰ってきたラギネア殿が適任かと思うのだが、どうだろう?」


 ウェンデルは声に圧力を込め、じわじわと追い込むように男爵に問う。


 男爵は困ったように眉尻を下げて目を泳がせた。それだけで、彼の心は読めるようだ。ここで頷かなければ、久々に入った仕事の話がすべて破談になると思っているのだろう。


 その気はないが、ウェンデルは暗にそれをにおわせて提案した。

 男爵は視線を斜めにして考えていたようだが、そろりとウェンデルを見上げた。


「恐れながら、閣下。次男の……ヴィットリオではいけませんか? 親の口から言うのも差し出がましいとは承知しておりますが、あれも兄に劣らず優秀です。必ずや、閣下のお仕事のお役に立てることでしょう」


 男爵は足りない頭で考えた苦肉の策を口にする。


 次男も長男ほどではないが、優秀だと聞いている。しかし、次男はまだ大学に入れる年齢ではない。いくら優秀でも、夜会に伴ったとき、他人に馬鹿にされない程度の学歴は欲しい。

 そのため、きっぱりと断言した。


「どうしても、ご令息に頼みたいのだが」


「……困りましたな」


 男爵は再度、途方にくれたように頭を抱えて唸った。

 そんなときだった。父の窮地を察したかのように、扉が静かに開いた。

 開いた扉から、芳しい紅茶の香りが風に乗ってやってくる。どうやら、この地方の特産であるようだ。


 扉の外に立っていたのは、まだ少女の年頃を過ぎたばかりの女だった。

 乱入者のせいで部屋の張り詰めていた空気が少し緩む。男爵の気が一瞬でもそちらに逸れ、ウェンデルは内心で舌打ちを打った。しかし、女のほうは気付かないふりをしてニッコリする。


「失礼します。お父様、お茶をお持ちしましたわ」


「ああ、トゥーラ。ありがとう。……閣下にご挨拶を」


「あら、わたしとしたことが」


 二人を挟むテーブルにトレイを置くと、わざとらしくドレスの裾を翻してくるりを回る。

その仕草が癪に障ったが、ウェンデルは愛想笑いを浮べて彼女に挨拶させるべく手を出した。

 男爵の娘は手をとり、足を引いて腰を屈め、礼を取った。


「トゥーラ・ケミストラと申します。お会いできて光栄ですわ、アダーシャン伯爵閣下」


「ウェンデル・アダーシャンだ。こちらこそ、君のような笑顔が素敵な淑女に会えて光栄なこと極まりない」


 背後でイザベラがブッと噴出した音が聞こえた。

 無理もないと思い、ウェンデルも気を悪くはしなかった。社交辞令とはいえ、普段のウェンデルを知っているならば噴出して当然だ。もちろん、ウェンデルが先程述べた美辞麗句のうち、内心であてはまる言葉は一つもない。

 むしろ反対で、内心では彼女を値踏みしていた。


 容姿的には、平凡だ。特別美人というわけでもないが、不細工というわけでもない。これから顔立ちは変わるだろうが、いずれにせよウェンデルには敵わないだろう。国内にありがちな麦色の柔らかい髪は父と同じだし、瞳の色も父と同じだ。ただ、何処かオドオドしている父親とは違い、堂々としている。しかし、取り分け目立つような容姿でも顔立ちでもない。

 だが、兄の就職の話に父が勝手に頷こうとしているところを「ここぞ」と見極め、乱入してきた頭の回転には、悔しい思いを噛み締めることしか出来ない。外で聞き耳を立てていたのだろう。中のものが冷めていては怪しまれるので、お茶は冷えたものに、食器はグラスにして持ってきている。


 男爵家の兄弟全員が賢いというのは、嘘ではないらしい。中でもこの女は一番侮ってはいけない人物のような気がした。

 妹でこれなのだから、噂の兄は余程優秀なのだろう、と当然の期待が浮かび上がってくる。

 腹を探るような目で彼女を見下ろした後、そっと手を離す。トゥーラも立ち上がり、改めて父に向き合った。


「ところで、何のお話をしていたの? お仕事のお話?」


「ああ。詳しいことは後で話すが久々に大きな仕事が入りそうなんだ」


「まあ、素敵! でも、事業ならお姉様と一緒に進めたほうがいいのではなくて?」


 姉という単語を拾い、先日目を通した調書を思い出す。男爵には長男、長女、次女、次男が続いているのだということを思い出し、合点が行く。


「いや」


 これ以上、この場に彼の子供たちを入れるのはごめんだ。トゥーラだけで手ごわいというのに、更に優秀と名高い姉まで入ってくると、ややこしいことになりそうだ。これ以上、ラギネアを引き抜くのに時間をかけたくない。


「もう終わった話だ。……ところで、男爵。答えを聞かせていただきたいのだが?」


「う、ううむ……」


「答え? 何の答えですの?」


「それがな、トゥーラ」


 また余計なことを! ウェンデルは思わず唇を噛んだ。

 猜疑心のまったくないまっさらな男爵は、まさか娘の本性に気付いていないのだろうか。


 ……どうしよう。すごくありえる。


 わざとらしく父の傍らに立ち、拝聴の姿勢を取るトゥーラは、確かに見た目だけは純白なことこの上ない。


 後ろ暗い話でないだけに止めるわけにもいかず、ウェンデルは男爵と娘のやり取りを第三者として見守るしかなかった。

 男爵は疲れたように息を吐き、娘にいった。


「ラギネアを秘書としてお迎えしたいというんだ」


「まあ、ラギ兄様を!」


 声の調子は光栄なこと極まりない! と言いたげだったが、目は笑っていなかった。

 トゥーラは手を合わせてわざとらしく驚いたようにしていたが、父の耳元に唇を寄せ、ウェンデルにも聞こえるような声量で囁いた。


「でも、お父様? あの話、閣下には……?」


「それがまだなんだ」


「だったらいま言いましょうよ。答えを先延ばしにするのは失礼だわ」


「いや、しかし……ラギの将来のことを考えると、閣下の下で働いた方が……」


 言うか言わないかと迷う男爵。そこに、イザベラの咳払いが割って入った。父と娘の視線がいっせいに、イザベラに移る。


「失礼。……あの話、とは?」


 ちらり、と眼鏡の奥で二人に視線を投げる。その視線を受けたトゥーラがいち早く口を開いた。


「ええ、それが……」


「トゥーラ」


 話し出そうとした娘の腕を、青い顔をした男爵が掴む。しかし、トゥーラはサッとそれを払って、説教口調で言い放った。


「お父様。どうせ言わなくてはいけないことでしょう? グズグズしていてはいけないわ。閣下はお忙しい方なのだし」


「……何の話です?」


 待ちきれなくなり、ウェンデルがたずねた。顔立ちに騙されがちだが、ウェンデルは昔から気が短い。特別短い、というわけではないが、長いとはいえない。

 声に不機嫌さが滲みでていないか心配だったが、客人そっちのけて話す親子に気遣いは無用かと考え直す。もとより、ウェンデルのほうが家格も財産も上だ。物怖じする必要はない。


 伯爵の若干不機嫌さが混じった声に、同じ顔で目をパチクリしていた二人だったが、口を開いたのは何処か抜けた風のある父親ではなく、キビキビとした切れ者の娘の方だった。


「申し訳ありません。……兄を秘書としてお迎えしたいという閣下の意向は、我が男爵家にとっても願っても見ない話です。しかし、兄にはそれをお受けすることは出来ません。他の兄妹ならお受けできるのですが……」


「……つまり?」


 必然的に声が低くなる。嫌な予感がしてきた。


 そしてその予感は、的中することになる。 


 トゥーラは、今日見た中で一番――一番、楽しそうに笑った。その笑みが「ざまあみろ」と言いたげだったのは、気のせいに違いない。


「兄はすでに、王都の研究所への就職が決まっているんですのよ」


「まあ、そういうわけです」


 ゴホンと咳払いをし、居心地悪そうな顔をした男爵が引き継ぐ。その声は娘のものとは違い、酷く申し訳なさそうなものだったが、ウェンデルの機嫌を宥めることはなく、むしろ苛立ちを増させた。


 しかし、ウェンデルは北方の有力者であるアダーシャン伯爵である。いくら田舎の貧乏貴族でも、礼儀を欠くわけにはいかない。礼をかけば、それは醜聞となり、すべてウェンデルに行くのだ。アダーシャン伯爵を陥れて名家の称号から引き摺り下ろしたい輩の、中傷の対象となる。


 一旦心を空っぽにし、頭に美術館に置いてある天使の彫刻を思い出して、伯爵は微笑んだ。それは完璧で、少しの隙もない、氷の微笑だった。


「そうですか。それでは、仕方がない。潔く、諦めましょう」



 ***************



 ――声にその気持ちは少しもこめられてはいなかったけれど。


 初対面のものなら笑顔に騙されるだろうが、生まれてこの方三十年近く付き合ってきたイザベラには通用しない。


 イザベラは眉間にシワを寄せている弟の顔を覗きこみながら、呆れ声で行った。


「姉を引き抜けばよかっただろう」


「あの腹黒妹の姉を? もっと腹黒いに決まってる」


「しかし、噂では兄をも凌ぐ秀才だというじゃないか。実際大学を一つ年上の兄と一緒に卒業しているし」


「女を雇っては仕事にならん」


 伯爵は苛立ちをこめた声で言い放った。


 無論、仕事にならないのはウェンデルのほうではない。女のほうだ。大概の女は、ウェンデルの外見を気にして仕事が手につかなくなってしまう。そのため、伯爵邸で彼の身の回りの世話をするものは必然的に、全員彼に興味がないか、あったとしても一線を越えないという意思が固い者かのどちらかになってしまった。


 女を抱くのは、伯爵とて満更ではない。一昨日の晩、行きつけの娼館で娼婦を一晩買って抱いたばかりだ。前までは「一夜限りの仲なら」という条件で自分に抱かれたいと望む女を抱いていたが、二年前、「身篭った、責任を取れ」と喚かれて以降、イザベラに注意されて自分の行いを反省し、「女遊びは娼館で」というのが教訓となっていた。


 姉にも不機嫌を隠そうとしないウェンデルにまたも呆れさせられながら、イザベラはこれで何度目かわからない提案をする。


「お前もそろそろ、所帯を持ってはどうだ? いい加減、跡継ぎを儲けろとジジイ共がうるさくなるぞ。あと二、三年もすれば三十になるのだし。妻を娶れば、お前の嫌いなうざったい女も寄ってこなくなるだろう。いいことづくしじゃないか」


「いいことづくし? 愛人を抱えていると知って平然としている女なら考えてもいいが。そんな女、何処を探してもそういないだろう? 政略が目的で割り切っているという女に限って、あとで面倒になるものだ」


「極貧貴族の娘を娶るとか、方法はいくらでもある」


 神妙な声で呟かれ、思わず手綱を引いて馬を止める。憂鬱な顔で、「いいこと言った」とでもいいたげな誇らしげな顔のイザベラを睨んだ。


「……お前たちはそんなに私を結婚させたいのかね」


「その通り。そうすればお前の女遊びが減って、私を楽にしてくれるだろうと思ってね」


 ニッコリと微笑んでいう姉に、ウェンデルは溜息を禁じえなかった。どうして自分の周りには結婚を促すような人しかいないのだろう。

 しかし、姉にいたっては、「そろそろ身を固めて自分を楽にして欲しい」という言葉に嘘がないため、反論が出来ない。


 イザベラはいい。気心が知れている仲だし、無理強いしようとはしない。


 伯爵が一番気に入らないのは、お節介な親戚連中である。そういうやつらが心配しているのは決まって伯爵家のことだ。アダーシャン伯爵家の直系男系が途切れるのを、なんとしても阻止しようとしている。


 時折寝室に彼らからの回し者が来るのもそのせいだ。見た目こそ美しいものの、「伯爵の子を身篭れば自分が伯爵夫人」とジジイ共に唆されたに違いない。ウェンデルも馬鹿ではないので、妊娠させないように――彼女たちにはばれぬよう――対処して、いままで醜聞を避けてきた。


 しかし、いくら寝床で「愛している」といわれても、その言の葉がウェンデルの心に響くことはなかった。本心がわかっているだけに、嬉しくないのだ。


 自分だってそれなりに家は大切だと思っているが、彼らほど病的には思っていない。伯爵家をこれ以上ないほどの富裕の層にまで押し上げてやったというのに、種馬としてまで働かされるのはごめんだ。

 伯爵は目を伏せて疲れを滲ませた溜息を吐いた。


「……爵位はレオルネに継がせればいい」


 思わず弱音を呟く。すると当然、聞き捨てならんというようにイザベラが反論した。レオルネというのは彼女の息子で、次期侯爵が決まっている跡取り息子でもある。


「馬鹿者。レオルネは侯爵の跡継ぎだぞ」


「また一人息子を作ればいいだろう。それに継がせればいい。それか、弟の子に継がせるのもいい」


「お前ね。子を作るのにも準備期間ってものがあるんだよ。私と弟の迷惑も顧みたまえ」


 イザベラはひくりと頬を引きつらせた。彼に子供が生まれる日はいつの日になるやら。どうやら、ずっと先の話のようだ。


 ハァと溜息を吐いたその瞬間、ウェンデルがふいに青鹿毛の馬を止めた。


 それに気付き、イザベラも手綱を引いて馬をとめさせる。


「どうした?」


「人がいる」


「何処に」


「いるだろう。あの木陰に」


 目の悪い姉のために指をさして場所を示す。なるほど、確かにいる。目を瞑ってなにやら考え込みつつ、時折、帳簿のようなものに字を綴っている姿が見えた。陰になっているせいで顔立ちや髪の色はわかりにくかったが、弟の言うとおり女性であることはわかった。


「あれは……女か?」


「女だろう。スカートをはいてる」


 青のスカートに、丁度イザベラのはいているような茶色の長靴(ブーツ)を履いている。女性が足を見せるのを、あまりよく思われていない時代のため、このように短い丈のスカートをはくときはブーツがつきものだ。質素な白のブラウスに、タイの代わりに結んだ水色のリボン。まるで女学生のような恰好だ。


 ブレードと共に一点を見つめていると、とんと地面を叩くような音がする。不思議に思って音の方を見ると、ウェンデルが地に足を下ろしていた。


「なにをしている?」


「声をかける」


「……口説くのか?」


「まあ、そんなところだ」


 姉にフッと微笑みかけ、ウェンデルは芝生を横切って木陰に近づいた。後ろから同じく下馬したイザベラが追いかけてきたが、構わず近づく。


 ちょっとしたお遊びのつもりだった。気に入れば夜の相手をすることを命じるのもいいという、軽い気持ちだ。権力乱用は最も嫌うものだが、どれだけ警戒心が強い女でも、ウェンデルの顔を見れば考えが変わって自分から誘ってくる。あちらからその気になって誘ってくれば、ウェンデルとて満更ではない。


 そのくらいの気持ちだった。こんなところでなにをしているのか、という疑問もある。


 木陰に近づくにつれ、あちらもウェンデルに気付いたようで、そっと顔を上げた。


 陰が全身にかかっているせいでよくわからないが、どうやら髪の色は茶色らしい。瞳の色も似たような色で、肌は北方によく見られる白。唇は薄い色をしていて、大きくはなかった。頭には黒いカチューシャをしていて、生え際から見える額は広く頭がよさそうに見えた。


 ジッとこちらを見つめてくる大きな瞳の前に、手を差し出す。


 しばらくまじまじとその手を見つめてはいたが、差し出された手の意図を汲み取ったようで、女は伯爵の手をとると礼を取った。


 貴族の令嬢が学ぶ礼だ。庶民にも知っている者は多いが、ここまで完璧な者はいないだろう。所作自体は、いますぐ夜会に出してもほとんど違和感がないほど卓越していた。


「君は、こんなところでなにをしているのかね」


 ウェンデルが疑問を口にすると、顔を上げた女は首をかしげた。


「私ですか? 内職をしながら家計簿をつけ、最初は本を読んでエミールの死について考えておりましたが、読み終わると『人間が死ねば何処に行くのか』という疑問にたどり着き、ずっとそのことを考えておりました」


「………」


 考えていることが微妙だ。明らかに年頃の女が考えるようなものではない。


 伯爵一行全員がそう思ったが、ごく真剣な彼女を前に笑い出すわけにもいかず、一瞬黙り込んだ。第一、答えろと指示したのはウェンデルである。


 てっきり、恋仲にある男のことでも考えていたのではと思っていたのだが。


 ウェンデルは女の意表をつく答えに唖然としていたが、すぐに気を取り直した。


「……それはそれは。哲学的なことを考えるのだね。……それで、人間が死ねば何処に行くのかわかったのかね?」


「まだ生きておりますので、わかりません」


 女はもっともな答えを返した。しかし、ウェンデルが聞きたかったのはそういう答えではない。


「では考えていたところまででいいから、君の考えを聞かせてくれ」


 なんでそんなことを聞くのだろう。


 そういいたげに、女は不可解そうに眉を寄せたものの、ウェンデルのほうが自分よりも身分が上ということは理解しているようで、質問に答えた。


「わたしが思うに、人間は死ぬと魂が抜け出て、上に浮上すると思うのです。そうして、なにもないところに行って、転生のときを待つ。そこは苦しみも喜びも無い完全なる〝無〟の世界で、その雲の上から下界が見えるのですが、生き地獄にも匹敵する場所に見えるのだと思います。我々の住む世界は善も悪も混在していますから」


「……ふむ。なるほどな」


 後ろでイザベラがやけに感心したように頷いている。ブレードのほうは頭が悪そうに「へー」と感嘆の声を出していた。


 なかなか興味深い考え方である。ウェンデルも内心では唸らずにいられなかった。


 久しぶりに会った話が合いそうな人物に、思わず笑みがこぼれた。


「面白い考えだね。哲学的というより、宗教学者が考えるような内容だ」


「ありがとうございます」


 褒められたことが嬉しかったのか、女は目尻を和ませる。


 何の穢れもないその目に釘付けになり、しばらくの間ジッと見つめていたが、ややあって次の質問を繰り出した。


「……名はなんという?」


「……はい?」


 パチクリ。そんな音が聞こえそうなほど大きく、女は瞬きをした。

 もう一度聞かれたことを煩わしく思いながら、ウェンデルは先程の言葉を繰り返した。


「名だ。君の名を知りたい」


 もう一度ゆっくり問うと、女は質問の意味を理解し、その質問が自分に向けられたことを理解した。


 焦らされて少しイライラしていたが、ふと口の端に滲ませた女の柔らかな笑みに圧倒され、怒りが何処かに流れていった。一瞬、ウェンデルは頭の中が真っ白になった。


「私ですか? イリスと申します」


「イリス……?」


 最近何処かで聞いたような、と黒い眉を怪訝そうに寄せる伯爵。イザベラを振り返るが、イザベラも同じような顔をしていた。

 恐らく、娼館の娼婦の名だろうとさっさと片付け、伯爵は笑った。


「イリスというと、虹の女神の名だったかな」


「はい」


 似合わないでしょう? と、イリスは笑った。自嘲するような笑みではなく、心底おかしそうに笑っていた。

 確かに、彼女の平凡な容姿にはそぐわない名前だろう。しかし、ウェンデルは何故かその響がいたく気に入ってしまった。というより、彼女自身が気に入ってしまった。


 話を聞いていると、彼女は大変頭がいいようだ。愛人としてそばにいれば、どれだけ自分を楽しませてくれるのだろうかという期待の笑みが口元に刻まれる。


 いつもは退屈そうな弟が笑うのを、イザベラは信じられない思いで見ていた。

 いままで彼が女と一緒にいるところを山ほど見てきたが、いつも退屈そうな顔をしていたと思う。青天の霹靂ともいえる事態だ。


 イリスのクスクス笑いがよく響く中、馬蹄の音が近づいてきた。


「イリス!」


 そう遠くない距離から、男の声がする。思わずつられて声の方向を見た伯爵は、自分の目を疑った。

 馬に乗ってこちらに駆けてきたのは、先程別れたばかりのケミストラ男爵だった。

 ついで、イリスを見やる。彼女は、「まずい」とでもいいたげに、ウェンデルと男爵を交互に見ていた。


 男爵は少し遠くで馬をおりると、手綱を引いて馬と一緒にこちらにやってきた。そして、ウェンデルを視界に入れると、目玉が飛び出そうなほど仰天した。


「こ、これは、閣下……ご無沙汰しております?」


 何故疑問形。


 ご無沙汰というか、さっき会ったばかりなのだが。かける言葉に迷った挙句考え出したものらしい。

 その場にいた全員がポカンとしているところに、やけに冷静な声が入ってきた。


「どうかなさいましたの?」


 木陰に置いていた本やら家計簿やらの持ち物を小脇に抱えたイリスが問いただすと、男爵はハッとなって言った。


「すぐに家に戻ってくれ。仕事の話が……ん? イリス。伯爵にちゃんとご挨拶をしたのか?」


「………」


 イリスはばつが悪そうに苦い顔をしていたが、父の眼差しに耐え切れなくなったのか、伯爵に視線を移した。

 瞳に宿る光は先程の柔らかなものではなく、敵を見るような無礼千万なものだったけれど、賢い彼女はすぐに目から光と、ついでに表情まで消して、スカートをつまんで先ほどよりも美しく、そして礼儀正しくお辞儀をした。


「……イリス・ケミストラと申します、アダーシャン伯爵閣下。どうぞお見知りおきを」


「……は?」


「……え?」


「えーっ!」


 ウェンデル、イザベラ、最後にブレードの間抜けな大声が、雲ひとつない蒼穹に吸い込まれていった。

要するに伯爵は夫人をナンパしようとしてたわけですね。

ほんと、三十間近でなにやってんだあんたは。

今回はやや伯爵目線でしたが、次はイリスのターンになります。Ⅱはまだまだ続きます。

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