就寝前の伯爵夫妻
『Ⅰ 伯爵夫妻の日常』最後のお話です。ちょっと恋愛要素があります。かなり短めだと思います。
夫の仕事が終わってその場からいなくなっても、伯爵夫人の仕事は山積みである。
まず散らかしっぱなしの夫の机の後片付け。書類の整理。書庫にアルファベット順に並べ、重要なものは鍵の付いた金庫に入れる。
それが終わると、明日の仕事に使いそうな書類を吟味し、机の上に置いておく。
そういえば、仕入れた情報をわかりやすく書類に纏めなくてはいけない。……ああ、そういえば今日は月一の経理の日だった。
思い出そうとすればいくらでも仕事は沸いて出てくる。伯爵夫人の夜鍋はすでに決定事項だった。
ウェンデルを見送ったあと、少しの間穏やかな休憩を取り、自室で書類作成に取り掛かった。時間を忘れて没頭しなければ朝になってしまうので、大変な仕事である。
しっかりと読み込んで理解した上で黙々と書類を作成していると、いつの間にか時間がたっていたのか、扉が軽く音を立てた。
ハッとなって振り返る。
「どうぞ」
「失礼します。……奥様。もう十一時ですが、湯浴みはいかがなさいますか? お湯の用意は出来ておりますが」
オーレリーという名の若い使用人が遠慮がちに聞く。元は執事のエドウィンがイリスにつけた侍女だが、自分の身の回りのことはいつもの癖で無意識にこなしてしまうので、侍女の役割を果たせなくなり、申し訳なく思いつつも元の給仕係に戻したのである。
歳がさほど離れていないこともあり、彼女とは今も懇意にしている。こうやってイリスを呼びに来るのも、いつも彼女の仕事だ。
もうそんな時間かと、イリスは時計を見上げた。……確かに、十一時を過ぎている。
「ごめんなさい。いま入ります」
「では、ネグリジェの用意を」
オーレリーは慣れた様子でイリスの箪笥を開けて夜着を出す。
伯爵邸は使用人たちの労働基準がしっかりしている。大概が、夜の十時には業務を終え、あとは夜勤の使用人の出番だ。だが、オーレリーはいつも率先してイリスを手伝ってくれるのだ。
「いつもごめんなさいね、オーレリー。仕事をしているとつい時間を忘れてしまって」
「そんな! 奥様、恐れ多いですわ」
「でも、あなたの就寝時間が減ってしまうし」
「そんなこと、どうでもいいんですよ」
どうでもよくないと思うのは、イリスだけだろうか。
「もし嫌だったらわざわざ呼びに来なくてもいいのよ? あなたも疲れているでしょうし」
「ええーっ! そんな! 楽しみを奪われては困ります」
全体的に地味で平凡な自分の何処に楽しみを感じているのか理解できないが、なにか楽しいのだろう。実際、彼女は楽しそうにしている。
オーレリーは夜着を嬉しそうに抱くと、部屋から出て浴室に向かうイリスのあとに続いた。……といっても、来るのは浴室までで、彼女の仕事もそこまでで終わりだ。いまだに他人に世話をしてもらうことになれないイリスは、湯浴みも一人で行う。
邸にはじめてきたとき、仕えがいのない伯爵夫人だと使用人たちから嘲笑されることを覚悟していたが、杞憂に終わり、温かく迎えられた。そして何故か絶大な支持を得ている。
幾多の結婚話を蹴り続けてきた伯爵が娶ろうと思った女が思った以上に常識人だったので、感動したらしい。確かに、彼の性格に比べればイリスの性格は常識の範疇だろうし、手がかからない。
この邸内で、イリスの味方でないのは伯爵の愛人たちくらいだろう。愛人たちはお互いに張り合い、伯爵夫人でさえも敵視している。
ゆっくりと湯につかって肩と手首の凝りを解すと、体と髪も洗って仕事部屋に戻る。
まだ少し水気を含んでいる髪をタオルで拭いていると、ふと机の上に見慣れない派手な便箋が二つのっていることに気付く。
裏返して差出人を見ると、手紙は愛人からだった。イリスは早々にそれを屑籠に捨てる。
どうせ、中身はろくでもないことばかりだ。イリスを中傷する言葉であったり、伯爵を遠回しに詰る内容であったりする。そういった負の感情が渦巻いた呪いの品は取っておいいても邪魔になるため、早々に始末することにしていた。
娼館からきた領収書と数枚の報告書を取ると、帳面に挟んで小脇に抱え、いまだ仕事部屋を明るく照らす燭台を持って寝室に入る。
伯爵夫妻は同じ寝台で眠るということをしない。たまに真冬の寒いとき、伯爵に「防寒具代わりになれ」と言われて一緒に寝たことはあるが、それだけだ。夫婦の営みもないため、当然といえば当然である。
何度も言うが、イリスは優秀な秘書を求めて伯爵に雇われるついでに娶られた、飾りだけの妻である。夜の営みをする必要はない。恐らく、イリスが愛人を作っても彼は何も言わないだろう。
伯爵夫人と伯爵を結ぶのは、聖堂で誓った愛の言葉でも結婚指輪でもなく、色気のないことに仕事の話だけである。
まあ、伯爵がイリスを抱こうともしないのはそれだけではないと思うが。女のイリスよりも伯爵のほうが美形なのだ。彼の愛人は彼とつりあうくらいの美女が揃っている。イリスに性的な欲望を抱かないのもそのせいだと推測する。
元々、性に関心のない堅物のイリスである。特に気にはしていない。仕事をしっかりとこなしているうちは、伯爵も理不尽に離縁を提案したりはしないだろう。だからイリスは、彼の呆れた所業にも文句は言わず、後始末もしっかりとこなして持ち前の優秀ぶりを見せ付けているのだ。
万年筆で表に数字を入れていると、静かな音を立てて扉が開いた。
「まだ起きていたのかね?」
驚いたような声だ。聞きなれた声にイリスは顔を上げ、声の方向を見る。視線の先には伯爵が立っていて、いつも帰ってくる時間よりも早いことに、今度はイリスが驚く番だった。
「おかえりなさい。思ったより早かったんですね?」
先程の玄関でのやり取りが嘘のように(実際嘘だが)あっさりとした態度で、イリスが聞く。
まだ夜中の一時を過ぎたばかりである。いつもは朝の三時か四時頃であり、帰ってくるには少々早い時間だった。
「なにをしている?」
外套を脱ぎ、長椅子の上に放りながら、イリスが膝に抱えている帳面を覗き込む。
素早く寝台からおり、体を冷やさないためにそばにおいていたガウンを羽織ると、伯爵の見るからに高そうな外套やら上着やらベストやらをクローゼットにかけていく。
「今日は月に一度の経理の日でしたので」
まさしく娼婦が纏う香水といった感じのきついにおいが染みこんだ服に若干眉をしかめながら答える。かなりきついにおいで、まだ目が乾いたような感じがする。明日、しっかりと外で乾かさなければ。
早くも明日の朝の予定を立てながら、ちらりと伯爵を見る。
「随分お早いお帰りだったんですね?」
もっとゆっくり伯爵のいない時を噛み締めたかったのだが、と思っていると、伯爵は急に不機嫌になった。
「早く帰ってはいけない理由でも? 可愛い奥さんが寂しがっているのではないかと思って早めに帰ってきたのだが?」
「鼻で笑える冗談ですよね? あ、すみません」
「……君の本心が本当の意味でわかった気がするよ」
謝罪のわりに申し訳なさそうではないイリスに非難がましい目を向け、ウェンデルは唐突に大きな溜息を吐いた。
「お疲れですか? なにか暖かいものでも持ってきましょうか」
「いや、結構。……まだ眠らないのかね?」
「あと少しで終わります。……閣下、少し冷えていらっしゃるのでは?」
イリスはそっと伯爵の手の甲に触れた。そこはイリスの体温よりもずっと低く、ひんやりとしていた。
「すぐに湯浴みの用意をさせます」
いって、寝台の側の箪笥にのっているベルを取って、何度か鳴らす。と、すぐさま夜勤の使用人が飛んできた。
「湯浴みの用意を」
夫人の要望を聞いた使用人は是の返事を返し、背中を返して下がっていった。部屋はまた二人きりである。妙に静まり返っていた。
「イリス」
甘い声が名前を呼ぶ。イリスはちらりと声の方向に視線を送った。
「はい?」
「ここに座れ」
「え、嫌です」
即座に断った。なぜなら、伯爵が〝ここ〟と指示したのは――彼の膝の上である。
何が悲しくて二十歳を過ぎてまで子供のようなことをしなければいけないのか。そして、何故させようとするのか――彼の真意がわからない。
イリスが断ると、伯爵は声の調子と口調を少し強くして再び、唇で言葉を紡ぎ出した。
「座れといってる」
「……はい」
いくら抵抗を見せようとも、イリスの抵抗なんてたかが知れている。そして伯爵のことである。これ以上の抵抗はイリスの色々なものに関わりそうな気がしてきた。
何度か躊躇してはいたが、結局は長い足の間に見える長椅子の布の面積に腰を下ろす。
ほとんど空気椅子に近い状態で座り、居心地悪そうに見てくる蜂蜜色の瞳にウェンデルは満足そうに微笑んだ。しかし、それとは正反対にイリスは不機嫌そうだ。
「困ります」
不満そうに薄い色の唇が動いた。それから目を離さないまま、ウェンデルは首をもたげた。
「なにが?」
「秘書業務の中に、『足の間に座れ』というのは入っていません。妻の仕事にも入っていませんよね?」
「……どうして君はいちいち理屈で考えたがるのだろうね。気紛れという結論はないのか?」
苦い顔を隠すように、麦色の頭に額をつけ、腹部に回した腕に力を込める。イリスはビクッと肩を跳ね上げたが、怯えたリスのような動作が面白くて、クスクス笑いがしばらく収まらなかった。
「……閣下。やはり冷えてらっしゃいますね?」
確かに体は程よく冷えていたように思う。しかし、いまする話ではないのではないか。
全然関係のない話題で話を逸らそうとするイリスに気付いていたが、ウェンデルは軌道修正しようとは思わなかった。
「……君が暖かすぎるんだよ。普段は冷たいくせに」
心なしか甘えた調子で愚痴っぽくいう伯爵の言葉に、思わず眉間にしわを寄せる。意味がまったくわからないのだ。
「どういう意味ですか?」
「自分で考えたまえ」
ぞんざいに言い放つと、伯爵は目を瞑る。そして、冷えた体に体温が移るまで、イリスを離さなかった。
三十間近でなにやってんだこの人はと突っ込みながら書いてました。
Ⅰ完結で、次はⅡに移ります。現代から過去に戻る予定です。少し長くなるかもしれません。
※三月より文字数削減や調整のため、加筆修正はじめました。どうかご協力ください。<(_ _)>