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アダーシャン伯爵夫妻の日常  作者: 々 千早
Ⅴ 伯爵夫妻の日常~夜会編~
29/30

伯爵夫人と競売

多くの評価、お気に入りありがとうございます。感想も本当に励みになります。今日はちょっと長めですがよろしくお願いします。


 時は二、三時間ほど遡る。


 ハウエルに促されて個室に入室したイリスは目を見張った。


 個室が思ったよりも広かったことにも驚いたが、そこには遠目で見るよりも多くの紳士淑女が集まり、なにやら手に番号がふられた札を持ってお喋りに興じているのである。


 そちらに興味を惹かれ、思わずよそ見していると、軽やかな声がイリスを呼んだ。


「こっちだよ、イリス」


 少し離れた距離から呼びかける声は、馴れ馴れしくはあるが不快ではなく、聞けば聞くほど彼の声は幼い頃から聞きなれていたかのように耳に馴染み、イリスの警戒心を解かしてゆく。


 個室に入った途端、すでに先程の貴公子然とした様子は見受けられず、その豊かな表情は甘えん坊で悪戯っ子の少年――例えば、レオルネ――を思わせる。


 だからなのかもしれない。例えば上質な砂糖菓子が口の中でほどけていくように、ハウエルはイリスの警戒心を解した。イリスはそのことを不思議に思いながらも、少し離れてしまった距離を慌ただしくつめ、微笑んで待つハウエルの背後に追いついた。


 近くで見るとより一層その美しさが際立ち――色目はなしにして――美人に微笑まれてなんとなく弾む胸を抑えて、イリスはハウエルの後に続いた。ハウエルはイリスが転んでしまわないよう、手首を引いて壁際に沿って移動し、案内する。と、さらなる個室に続く立派な扉の脇に控える男に語り掛けた。


「やあ、シン」


「おかえりなさいませ、ハウエル様」


 襟は詰まっているが裾のあたりはゆったりとした、昔王都の博覧会で見た大陸外の民族衣装を纏った男が、ハウエルを見つけて恭しく頭を下げた。大陸のものとは違う平坦な造りの服の上からでもよくわかるほど鍛えられた屈強な肉体を持つ男の顔は、いささか鼻が低いイリスよりもさらに平たく、黒髪で目は一重で細いくらい切れ長だ。


 推測するに―――恐らくサラシャの血を引く混血か、大陸外からの移民であろう。生まれてからずっとファルディアに住んでいるが、はじめて更紗(サラシャ)人というものを見たイリスは、妙に緊張してしまい、男の顔を注視してしまわないようにするのにかなり気を使った。そもそも、大陸一外国人を厳しく取り締まっているファルディアにおいて、大陸外の外国人の人口は驚くほど少ないのである。


 しかしハウエルは見慣れているのか、出迎えの言葉に『おかえり』とは返さず、早速男に質問を投げた。


「お母さんはまだいる?」


「ハウエル様をずっとお待ちですよ。約束の時間になってもおかえりにならないのでピリピリしてらっしゃいます」


 男が寄越すちょっと非難じみた視線を、ハウエルは受け流す。


「おかあさんは時間に細かいからね」


「……ハウエル様が頓着しないだけだと思いますが」


「なんかいった? シン」


 従者の失言を責めるように視線を送ると、「いいえ、なんでも」と男は口ごもった。そして、扉の取っ手に手をかけ、そこでやっと美しい主人に紛れて背景か引き立て役と化していたイリスに視線を寄越した。


「……? そちらの方は?」


「今日の俺の協力者候補。シン、先に今日の札を渡してあげてよ」


「……こ、こんばんは。イリスと申します」


「………」


 じっと値踏みするように上から下まで観察されて、イリスは内心たじたじになりながらもドレスの裾を持ち上げ、軽く頭を下げた。とりあえず初対面の人には、愛想よく挨拶だけしておけば失礼にならない――今までの経験で学んだ事柄を実行し、ぎこちないながらも微笑むイリスに、やがて男は礼儀正しく腰を折った。


「……なるほど。シンと申します、イリス様。ハウエルの従者です。今宵、階上に入るには、この札が必要です。どうぞお持ちを」


 スッと差し出されたのは、先程のご婦人たちが手にしていた札と同じものであった。番号がかかれており、イリスに渡されたものには『五十一番』と数字が打たれていた。


 なにかしら、これ。まさか競りでも始まるのかしら――? 疑問は山ほどあるが、ハウエルの方の時間の都合が悪いのか、「質問はあとでね」とハウエルは悪戯っぽく笑った。


「ハウエル! あなた今までどこをほっつき歩いていたの!?」


 青い顔をした女性が開口一番、ハウエルを怒鳴りつけ、ハウエルは痛そうに眉を寄せた。


 女性もイリスやハウエルと同じ金色の目をしており、さらに羨ましいことに、年齢を感じさせない絹のようなすべすべとした珠の肌を持っていた。胸部は豊満で銀色のドレスがよくにあう。その顔立ちは極めて繊細で、若い頃はさぞかし、という美貌の持ち主だった。


「もう競りが始まっちゃうわよ! あああ、着替えもあるって言うのに、この子ったら、仕事だというのに腹もくくらずもぅ、もぅ……あ、あら? そのお嬢さんはなんなの?」


「なにって彼女は俺が見つけた今日の〝ロール夫人〟だよ、おかあさん。彼女が急にこれなくなったんだから仕方ない――ね、先にその子を王族並みに着飾ってあげてよ」


 上着を脱いで長椅子に積み上げゆったりと椅子に腰掛けるハウエルに、「皺になるからやめて!」と小言を投げ、女性はイリスと改めて顔を合わせ、まじまじと観察すると目を細めて微笑んだ。傾城の美女といっても差し支えない繊細な顔立ちはハウエルとよく似ていた。


「お名前は?」


「え? あ、い、イリスです」


「イリスさん。私はソランジュです。ちょっと髪型を変えるからお髪を触らせて頂戴ね? それからお化粧も変えましょう。……あらあら。私たちと同じ金色の目をしているのねえ」


「え!? あ、あの!」


 女中たちが時間をかけて編み込んで整えてくれた髪をあっさりほどき、(くしけず)りはじめた貴婦人にイリスは制止の声をかけた。


「大丈夫よ。とって食ったりはしないし売り飛ばしたりなんか絶対にしないから。あら、なんて細いのかしら。鎖骨も浮いて……羨ましいわ……ハウエル! 宝石箱とって!」


「おかあさんは人使いが荒いなあ」


 小腹がすいていたのか、卓子に用意されている果物を取り、口に入れていたハウエルは口の中のものを飲み込んでしまうと、婦人が指示した箱を取った。


「あなたの支度はすぐに終わるでしょ。女は時間がかかるの! 選んで!」


「はいはい……ああ、そうだね。目の色と合わせて金で飾りたてよう。それからこの真珠だろ? それからこのサファイアの指輪も。大きさは……うん、大丈夫そうだね。それとドレスの差し色にルビーとダイヤモンドのブローチも……おかあさん。サラシャ織の宝石がついた薄いショール。あれはどこ?」


「衣装箱の中に入ってるわ」


「あ、あのぉ、これはいったいどういう……」


「いま説明するよ、イリス」


 早速、イリスの首を金の首飾りで飾りたてながら、ハウエルはいった。


「あなたに頼みたいことがある。――今日これから、この夜会で競りがあるんだ。そこで俺を競り落としてほしい。もちろん、お金を払うのは俺だし、この小切手を使ってくれればいいから」


「競り!?」


 夜会で競りというなんだかいかがわしく犯罪臭の強い単語に、青い顔をしたイリスは押し付けられた小切手を反射で押し返した。


「イリス?」


「……すみませんごめんなさいただいま腹痛、腰痛、肩凝り、四十肩、関節痛、陣痛その他もろもろのせいで―――……体全体が一気に老人のように退化したので今日は帰らせてもらってもよろしいですか」


「………」


 真面目な顔で一気に早口にまくしたてるので、ぶはっと親子はふたり揃って噴出した。


 他はともかく、流石に陣痛はなかろうと思い返した今、後悔するが後の祭りである。……とにかくイリスはいまこの場から逃げ出したく、思いつく限りの体調不良を並べたてたが、あまりに焦っていたせいか、四月に伯爵と視察した温泉の効能しか出てこず、それをまくしたてたのだった。


「おほほ! 怯えなくてもいいのよ、イリスさん。取って食おうっていうんじゃないし、この子は仕事でダルトー公爵ご夫妻によばれているの。公爵夫人の支援する慈善団体に寄付するために一晩体を売るのよ」


「……体を、売る?」


 いまいちまだ犯罪臭いご婦人の発言に胡乱な目を送ると、ご夫人は口を押えて慌て、傍らで笑いすぎた余り脇腹をさする息子を見やった。


「あ……あら? ハウエル。あなたちゃんと自分のことを説明してなかったの?」


「だっていえば逃げられると思ったから」


「なんで説明してないのこの子は!」


 肩肘を突き出して息子を小突き、婦人は観念したように指でこめかみを揉んで大きな溜息を吐いた。


「ハウエルは――そうね。男娼なの」


 男娼。それは娼婦の男版といった意味である。


 しかし男娼の盛りは十八歳までであり、ハウエルはどう見てもイリスより一つ二つ年上だ。美しさは健在だが、男娼にしてはいささか年が行き過ぎているのではないか。


 沈思するイリスの心をどこまで読んだのか、定かではないがご婦人は弱く微笑んだ。


「若い時ほどお客はとっていないのよ。いまは主に知識を提供することを生業にしているの。要するに貴族や知識人や文化人が開く夜会に出向いて、話術や芸で夜会を盛り立てるのが仕事なのね」


 なるほど。高級娼婦のようなものか。王都で娼館に勤めていたイリスは、夫人の言おうとすることを理解した。しかし男娼はよく聞いても高級娼婦の男版とはなかなか珍しい。


「公爵ご夫妻とはうちの娼館で開いているサロンでお会いしたの。お二人はハウエルをとても気に入ってくれて、今日は競売に出てくれないかってお願いされたのよ。それでここに来たの」


 ダルトー公爵夫妻は北方の知識人や文化人を支援しており、教養がある人なら身分問わず声をかけていた。高貴な方であるにもかかわらず、貴族の端くれにぶら下がっている程度のイリスに偏見を抱かず接してくれるのはそういった理由からだ。


 イリスは妙に納得した。ダルトー公爵夫人は私生活においては貴族の縛りにとらわれない自由な人で、破天荒さはイリスも、その夫の伯爵も認めるところであった。


「でも今日は大きな夜会だからか……現役時代に通われていた性質の悪い性癖を持つお客様が何人も来ているの。それで、いつもはこういうときロールという偽客(さくら)に雇っている女性がいるんだけど、今日は急用で来れなくなってしまって……どうしても客を取りたくないこの天邪鬼(あまのじゃく)は急遽、ロールと同じ髪色で背格好も丁度よくて仕立てのよいものを着て趣味の良いものを身につけた……人のよさそーなあなたにをかけたってところかしら?」


 ちら、と非難の眼差しを受けるハウエルは「お母さんご名答」とあまり感情のこもっていない声でいった。婦人は視線を再びイリスに戻し、落ち着かなさげに指先をこすり合わせた


「ごめんなさい。騙す気は本当になかったのよ。……もしいまの話を聞いて少しでも嫌悪を感じたり、お嫌だと思われたなら、帰っていただいても構わないわ。付き添いの方の元まで、シンに送らせるわね」


「え、困るよお母さん」


「お黙り! もとはといえばあなたが悪いんでしょーが!」


 この期に及んで嫌そうに顔を歪める息子を叱責し、婦人はきっと息子を睨み付ける。


 ああ、それで自分に声をかけたのか。何故地味な自分に美しい男が話しかけてきたのかずっと不思議だったが――おかげで腑に落ちた。

 イリスは少しの間考えるように視線を床に落とし、再び顔を上げた。


「いえ。お話は分かりました。ご指示通りハウエル様を競り落とせばよいのですね? 金額に上限はありますか?」


「え、イリスやってくれるの?」


「はい。人助けですものね?」


「ありがとう!」


 夫人の繊細な顔にみるみるうちに春が訪れ、血色をよくする。やはり、仕事だ割り切れと息子を叱りつつも、実際息子が無碍に扱われると親として耐えられないものがあるのだろう。そういう事情があるならば、仕方がない。人助けだ。


「ただし条件がります」


「え?」


 イリスはずい、と強気にでた。人助けは人助けだが――イリスにただで働く気はなかった。そこまで人が好い自覚はなかった。


「まず、本日の領収書の名前はロール夫人です。よろしいですか?」


「もちろん! そのつもりよ」


 喜ぶソランジュ夫人に、イリスは頷いた。


「もう一つ。これは私にとってはあくまで〝仕事〟です。人助けではありません。あとで私にちゃんとお給金を払ってください。それからお給金は本日要相談で。口約束は信用できませんので、後日、日を改めて正式な書類を持ってお宅へ今日のお給金をいただきに伺います。よろしいですね?」





***************





 美しいご夫人の手で精巧に髪を結われ、本気で目玉が飛び出そうなほど高価な宝石や貴金属で王族並みに飾りたてられたイリスは、本日の競売の決まりをしっかりと仕込まれ、小切手の入った鞄などを持たされてハウエルの個室を出た。


 あの個室は競りのための別館が解放されるまで間の待機所――いわゆる休憩室だったらしく、待ちくたびれた紳士淑女は別館が解放されると聞くなり、個室に設けられた外の回廊へ続く扉をくぐり、こぞって別館へと移動していた。


 ロール夫人名義の小切手と領収書の問題もあり、なるべく身バレは避けた方がよかろうというイリスの意見に従い、ソランジュ夫人が薄いサラシャ織の布を自前の帽子にピンで固定してくれていた。それで巧みに正面を隠し、イリスは別館内を窺った。


 ……見知った顔の御仁が大勢いる。個室でたむろしていた著名人の他に、有力な貴族もいた。御歳を召してからは滅多に社交に参加しないファルディア王国諸侯の一人、シェーレン老公爵もいるのだから、ここには北の有力者が集まっているとみてよいだろう。それ以外にも東の貴族、西の貴族、南の貴族と――避暑以外で滅多に北へ足を運ばない御仁もこぞって北上しているようだ。


 慈善団体への寄付を目的とした競売であるというのにこれだけ人が集まるのだ。ダルトー公爵夫妻の威光を存分に見せつけられ、イリスは感心した。


「……イリス、イリス」


 小声で呼ばれて振り返ると、そこには美しく異国風に着飾ったハウエルがいた。手には扇を持っており、衣は光を受けて煌めいている。絹で仕立てられたそれはシンが纏っていたものとよく似ていたが、しかしシンのようにズボンに似た下穿きははかず、腰のあたりで帯やピンで縛るだけの随分簡素なつくりだった。北方の気候に明らかに向かないその簡素な服は、服飾としての美しさより「いかに脱ぎやすいか」を重視したものであった。足は裸足で――けれど陶磁器のようにすべすべと美しく、ハウエルの若々しい肉体を保つための余念のなさを語る。


 さっきまで得意の客たちにお愛想を振りまいていたハウエルだが、競売もいよいよ、となると不安になってきたらしく、イリスの元にやってきてさっきからやたら付き纏って離してくれない。


 美しい男はただでさえ目立っている。顔を隠していて本当に正解だったと、ときおりハウエルをおう視線を受けながら、イリスは思った。


「絶対あの男に負けないように頼むよ」


 ハウエルは嫌そうな顔でイリスに耳打ちした。


 扇でさされた先に見知った顔があり、イリスは目を瞠った。


「キャヴェンディッシュ子爵ではありませんか。隣は奥様でしょうか」


「そう。人も物も同じく美しいものが大好きな物好き夫婦さ。随分羽振りのいい金持ちだからね。多分、最後に残るよ」


 嫌悪感もあらわに金色の目を歪めるハウエルに、イリスは小首を傾ける。子爵は、成金臭いが人当たりはよい。彼の何が嫌なのか。


「……あの男、長いし奥方も一緒に相手しなきゃいけないから嫌なんだよ。自領でどれだけ我慢してるか知らないけどさ。男や女を縛って、二人で美しいものを征服するのが大好きな狂人夫婦で有名だよ。そりゃ気前はいいけど」


「………」


 ハウエルは苦り切った表情で子爵への正直な思いを吐露した。


 ああ、それで伯爵は彼が嫌いだったのか。


 イリスは長らく伯爵が何故あの人あたりのよい子爵を嫌うのか、疑問に思っていたが―――そういえば以前、自領の鉱山の宣伝に邸を訪れた際、帰り際に伯爵を舐めるようにジロジロと見ていたことを思い出す。そういうことに疎いイリスにもわかりやすいほど明らかな色目であり、それでも伯爵は美しいのだからそういう気になる気持ちもわかると気にしていなかった。


 けれど伯爵が彼の裏の噂を元々知っていて、嫌っていたのだとしたら。そーゆー性癖を持っているのだとしたら、脳内でどのように伯爵を扱っていたのか――なんとなく想像がついて、イリスは内心ドン引きした。そしてそんな男も客として拒めないハウエルにちょっぴり同情した。


「……なるほど。頑張ります」


「あと十分くらいで競りは始まるからね。何処にもいかないでよ。始まったらもう会場に入れなくなるからね」


「わかっておりますよ」


「……お母さんに聞いたと思うけど、その小切手は商連に申請した正式なものじゃないから上限が金貨一万枚までなんだ。もし足りなかった場合、そこに換金所があるからその装飾品をあとで換金して。――なんとしても俺を競り落としてよ」


 貴族たちが並ぶ換金所を扇の先で示し、ハウエルは真剣みを帯びた声でイリスに頼み込んだ。


 ああ、この装飾品はそういうことか――王族並みに着飾ったのは単に身バレを防ぐためだけではなく、換金して足しにするためだったのだ。金貨の詰まった重たい革袋はいくら持てるか知れている。宝玉のついた高価な装飾品の換金はある意味合理的であり、イリスはなるほど、と得心しながら興味津々にそちらを見つめた。


 本日は原則現金での支払いであるが、事前に会場に許可を取った小切手は使ってよいということになっている。しかしそれには普通、身元確認書類が必要なはずである。


 ……ハウエルがどのようにして、偽客(さくら)であるロール夫人の小切手の使用許可を手に入れたのかまではわからないし、知りたくもないが、何が何でも今日は客を取りたくないというハウエルの執念を感じさせ、イリスは苦笑を禁じ得なかった。


「ハウエル様、そろそろお時間です。待機しませんと」


「ああ、わかったよ、シン。――じゃあ、イリス。頼んだからね」


 最後にもう一度念押しして、ハウエルはシンに連れていかれて舞台裏に向かった。


 イリスは一人になった。ざわつく会場内、どう動いても肩が触れ合ってしまいそうな人込みの中で、イリスの金色の目は奥方と酒を楽しむキャヴェンディッシュ子爵をとらえた。


 競りとは、決まりは実に単純だが、時折、心理戦のような様態をとることがある。競り上手は相手の懐を読み、相手の一手二手を読んで、徐々に値をつり上げていく。


 今日は懐に余裕はあるが、それも貴金属まで売り払ってしまえばそこまでである。加えて、キャヴェンディッシュ子爵はかなりの金持ちである。――あちらの懐が何処まであるか、競りを仕掛ける前に探ることはしておいたほうが賢明だろう。


 イリスは決意して、にこやかな顔を作ってキャヴェンディッシュ子爵に近づいた。


「御機嫌よう、キャヴェンディッシュ子爵」


「……ああ、あなたはアダーシャン伯爵夫人! 今日もお美しい!」


 見え透いたお世辞に嘘をつけ、とイリスは内心で笑った。布を纏ってろくに顔も見えないようにしているというのに、美しさがわかるはずがない。現にさっきまで誰かわかっていなかったのだ。……そりゃ伯爵ぐらい美しければわかるかもしれないが。


 薄いサラシャ織をベールのように使って顔を隠しているためか、一瞬誰か判別できなかったらしい。が、間近でイリスの顔を眺めた子爵は最初の空白をごまかすように声を張って挨拶した。


 折角顔を隠しているのにそんな風に叫ばれては気付かれる。イリスはすかさず横目で周囲を見渡したが、人々は広間で召した葡萄酒に酔っているためか、あまり気にしていないようでほっとする。


 イリスの手を取り挨拶の口づけをおくると、子爵はイリスの首――もとい首飾りを見て賛辞を贈った。


「おお! 若さに加えて本日は素晴らしい宝石ですな。その金の首飾りにグラディラ産の真珠のブローチ、耳のオパールは異国風で実に素晴らしい」


「嬉しいですわ」


「ご夫君のお見立てですか?」


「ええ。思ったより気軽につけられるので気に入っています」


 耳飾りについては真実を述べ、イリスは八割以上の嘘を笑顔で乗り切る。


「閣下は奥様のことをよくご存じなのですなあ……」


 子爵はまじまじと宝飾品を愛で、次の質問を吟味しているような間を置く。何処の産地だとか、何処の職人の手によるものだとか――これ以上宝石についてたずねられたら、ほとんどが借り物なのでまともに返事が出来ない。その際、上手く答えられなくて、子爵夫妻の警戒心を変に強めることは避けたい。


 イリスは次の質問も時間の問題かと、それらしく自分から話をそらした。


「そちらは奥様ですか?」


「ええ、そうです。……お前、ご挨拶を」


「お初にお目にかかります、伯爵夫人」


 礼儀正しくお辞儀をするご夫人はおっとりと優しそうな中年の女性であった。


 この女性に夫と二人で美しいものを征服するのが好きな性癖があるとはにわかに信じがたい。ハウエルの嫌悪に塗れた表情を思い出せばとても嘘を言っているようには思えず、人は見かけによらないな、と思いながら、イリスも当たり障りなく挨拶を返す。


 そして夫人とよくある挨拶を二、三言交わしたところで、さらに新しい話題を切り出す。――イリスとしては、こちらが本題だ。


「今日はお二人で競りに参加されるのですか」


「ええ。ダリューシャンからやってきた素晴らしい幾何学模様の壁掛けやアバラマの旧王朝の王族が纏った紅玉(ルビー)の宝飾品が出品されると聞いて、妻が欲しがりまして。ほら、あそこにあるものですよ」


 指をさす先にイリスは目を動かす。出品される商品は、事前に硝子張りの陳列棚に並べられ、競売者が品物を見定めるために置かれているのだ。そこの異国の品ばかりが集められた陳列棚を示され、イリスは子爵夫妻が本日競り落とそうとしている品にあたりをつける。壁掛けや宝飾品より、どちらかというと陶磁器が多いので、子爵がどれを競り落とそうとしているかすぐにわかった。


 奥方は子爵のからかうような声に少し恥じ入るように顔を赤くする。イリスは野次馬っぽい声でたずねた。


「では競り落とされるご予定なのですね」


「はは。そのために多目に持って来たのですよ」


「すごい。小切手ではないのですね」


「出来れば現金で、という公爵夫妻のご意向でしてね。ご夫妻のご意向には従わねば」


 持ち上げると、子爵はパンパンに金貨が詰まった重たそうな革袋を、得意げに見せつけて笑った。


 なるほど。今日は小切手は持っていないのか。イリスは安堵する。


 イリスは頭の中で即座に算盤をはじき始めた。子爵は幾何学模様の壁掛け、そしてアバラマ王族の宝飾品を本日は競り落とすつもりなのだ。彼が手にもつ革袋の中身は、音からして恐らく金貨一万枚半ば。そして彼の装飾品、夫人が今日身に着けている宝飾品を換金するとして、計算してざっと――金貨二万五千枚から三万枚といったところか。


 異国の壁掛けは意匠によって値段は前後するが、大目に見て金貨三千枚から四千枚程度。アバラマの宝石は、装飾品に加工されたものならば金貨七千枚から一万枚程度で取引される。――そこまでの競りで使う宝石は一万四千枚程度。残り、子爵がハウエルを競り落とす際に使える金は金貨一万枚までと見た。 


 頭の中で空想の算盤をはじきながら、イリスはそこまで予測をつけた。――なるほど。下手に出ることは出来ない。身に着けている装飾品は借り物という認識があるイリスは、なるべく身に着けている装飾品に手を付けたくなかった。


 さてどうするかと悩んだところで、子爵が小声でイリスに耳打ちした。


「……それに、久々にアスパシアが競りにでると聞きましてね」


 アスパシアというのは、ハウエルの現役時代の源氏名である。古代に実在した高級娼婦の名を借りてそう名乗っていたらしい。イリスは全く知らなかったが、貴族社会や裏社交界では有名らしかった。


「……あら。お好きなんですか?」


 何も知らない小娘の顔でたずねると、子爵は上機嫌に頷いた。


「お恥ずかしい話ですが。妻と共に愛でるのが好きなのですよ。美しいものはなんでも夫婦で共有せねば。美しいものを目で見て触れて、目を養わなければ、鉱山経営などやっておられませんからな」


「ごもっともです。それにしても仲がよろしくて羨ましいですわ。……しかしわたしはどうも美しいものは一人で楽しみたい性質でして。閣下も二人で楽しむのはあまりお好きではないようですし」


「……伯爵夫人も、まさか?」


「いえ、いえ」


 ちらりと探るような視線を受け、イリスは微笑んで否定する。ここは否定しておいた方が無難だ。余計な噂を立てられてもなんだし、「男娼を競り落とす気はない」という風に振る舞っておいた方が後々の心理戦で便利だと判断したからだった。


「私は絵画を見に参りましたの。……ほら、有名な画家の」


 適当にいうと、その先を勝手に想像した子爵が「ああ」と声を出した。


「ミラー氏ですか。彼の『湖の処女(おとめ)』は素晴らしい。今日も新たな『湖の処女』が出品されるとか」


「ええ。私、彼の絵がとても好きなんです」


「ああ……私もですよ。奇遇ですな。国王陛下のお抱え絵師をお勤めのときは保守的で厚塗りの油絵が主流でしたが、彼の本領は『湖の処女』のような青の絵の具を使った幻想的な筆致にある。水の描画に関しては間違いなく彼が国で一番でしょうな」


 キャヴェンディッシュ子爵夫妻は少しほっとしたように胸を撫で下ろした気配を見せ、子爵は上機嫌に己の見解を語って見せた。


 競争相手が一人でも減って安心した、という感じだ。


 警戒心は、解けたか。


 彼らの本日の懐事情を読み、ある程度警戒を解くことが出来たイリスはいまが引き際かと見定めた。


「ふふ。流石ですわ。ますます今宵の競売が楽しみですね。ではまた後ほど」


「ええ、伯爵夫人も」


 子爵夫人が穏やかに返す。イリスはいまだに、あの奥方が夫と美しいものを征服するのが好きなのか信じられなかった。


(本当に人は見かけによらないわね……)


 そんなことを考えながら、ハウエルの競売が始まるまでにいかに子爵夫妻にお金を使わせるか、考えようといつもの癖で壁際に下がろうとして――とん、と背中に他人の肩が触れ合った。


「おっと……失礼しました」


「いえこちらこそ……ん?」


 華々しい会場内でも眩く映える金の髪、灰色の瞳。背肩幅がよい穏やかな顔立ち――見間違えるはずがなく、イリスは思わず名前を声に出していた。


「……シャーメイン様?」


「え? あ、イリス!?」


 明らかに彼女の趣味ではなく、他人の趣味でジャラジャラ王族並みに着飾られているイリスが誰かわからなかったらしく、シャーメインは思いもよらぬところで年明け以来久々に再開した義妹を見て驚いたようだった。


「久しぶりですね、イリス……こんなところで……今日はウェンデルも競りに参加しているのですか?」


「いえ。今日は私ひとりですよ。ベラ様は?」


「ベラは会場で公爵夫人と話していますよ。私はミラー氏の絵を競り落としにきたんですが――じゃなくて、イリス。どうして一人で競りに参加を? ああ、もしかしてウェンデルに頼まれて?」


「いいえ」


 即座に否定したイリスを、シャーメインは意外そうな目で見る。イリスの実家の経済状況をざっとだがベラから聞いて知っているシャーメインは、ウェンデルに頼まれたわけでもないのに自分の私財を叩いてまでイリスが競売に――それも慈善団体への寄付を目的とした競売に参加することが信じられなかったのである。


「今日は……ちょっと事情がありまして」


「?」


 頭にわかりやすく疑問符を浮かべる侯爵を見て、イリスは閃いた。


「……そうだわ。――侯爵閣下、ちょっとこちらへ」


 時間がない。ダルトー公爵が出席者に椅子に座るよう呼び掛けている。イリスは多くは語らず、シャーメインの腕をとって壁際に下がり、下から見上げるように目を合わせる。


「閣下に協力していただきたいことがあるのです」


「……え? なんですか?」


「色々事情がありまして……今日は、アスパシアという男娼を競り落としたいのですが」


「アスパシア!? 男娼!? イリス、あの男を競り落とす気ですか……」


 灰色の双眸が一気に真剣みを帯びる。


「……イリス。あの男は現役を過ぎた今でも一晩で金貨数千枚を稼ぐ男ですよ。しかも今日は競売ですし、値が吊り上がるのは目に見えている。間違いなく破産します。早まるのはやめなさい。ただの浮気にあの男は敷居が高すぎる」


 予想していた通り誤解しているらしく、イリスは笑った。


「浮気ではありませんよ。そんなことしません」


「え? あ、違うんですか……」


「なんだウェンデルの吠え面が見れると思ったのに……」となぜかちょっぴり残念そうにする侯爵。流石にちょっと説明を省きすぎたかと、反省し、イリスは再び事情を説明することにした。しかし、いかんせん時間がないので、必然的にかいつまんだものになる。


「簡潔にいいますと、今宵はその〝アスパシア〟に雇われて、彼を競り落とすことになったのですよ。ある人物にどうしてもお金を使わせたい事情がありまして、閣下のご協力を賜りたいのです」


「………。……………あなたこんなところでも仕事してるんですか?」


 夕方まで散々手のかかる義弟に振り回されてへとへとだろうに。何処までも仕事人間なイリスに対し、呆れた様に侯爵は物憂げな溜息を吐いた。


 しかしイリスは気にする様子はなく、腕にかけている鞄の影でそっとある人物を指さした。


「あの方――キャヴェンディッシュ子爵というのですが、彼はこれから行われる異国の品の競りで、間違いなくあのダリューシャンの幾何学模様の壁掛けとアバラマの紅玉と金の装飾品を競り落とします。閣下にはその二つのの値をつり上げてもらいたいのです。ここは閣下のご威光で、他の出品者が負けじと値をつり上げるように……お願いできませんか。お願いします」


 心なしか目を生き生きさせて頼み込むイリスに、シャーメインは少し考えるように沈黙した。

 他でもない可愛い義妹の頼みだ。それに――年明け以来、ウェンデルには仕返ししたい気持ちもあった。この程度であの男の心がどの程度揺れるかは定かではないが、もし彼が少しでも動揺するとしたら――経過を見守る楽しみを想像してシャーメインはほくそ笑んだ。


「……ウェンデルに少し痛い目を見てもらうのはいいかもしれませんね。いいでしょう」


「?」


「わかりました。協力します。ただし実際に競り落とすことはしませんよ。仮に競り落としてしまった場合は請求します。いいですか?」


「いいです。ありがとうございます。その際の請求先も後日お手紙を出しますね」


「ならいいでしょう」


 何故そこで伯爵の名前が出てくるのか――わからないが、一瞬悪い顔をした侯爵はすぐに穏やかな笑顔に戻り、快くその役を引き受けた。

ちょっと長すぎました。次で社交編終わる予定です。

次回、イリスの心理戦をお送りします。次回もよろしくお願いします。

※小切手ですが、架空の大陸の国シリーズでは、『商会連合に申請したものでないと金貨一万枚までしか使えない』と設定していますが、本来は上限がないそうです。ご了承ください。

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