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アダーシャン伯爵夫妻の日常  作者: 々 千早
Ⅴ 伯爵夫妻の日常~夜会編~
28/30

壁際の伯爵

ウェンデルのターン。


 一方。


 愛人の手によりイリスと引き離されてしまった伯爵は、妻不在の中、うんざりした気持ちで遠くから他の男と踊るマリーシュカを眺めていた。


 言葉巧みにウェンデルを攫っていった彼女の希望通り二、三曲踊ってやると、あとは見ていてやるから踊ってくるといいと己は壁際に下がったのである。甘えた声で縋る愛人を無視してさっさと壁際に下がったウェンデルは、ようやく一人の時間を手に入れた。


 いまでは彼女が踊るのをやめる素振りを見せれば、瞬時に取り囲もうとする貴族たちが壁際に並び、同じ魂胆でいる同胞を見張って牽制しあっている。


 綺麗に巻いた豊かな金髪に、野生の猫のように情熱を湛えた宝石の瞳。華奢だが胸部は豊かで、ついでにいうと―――良くも悪くもだが―――感情表現も豊かだ。淡い薔薇色に染まった爪は綺麗に磨いて整えられ、その手に口づける権利を得ようと老若問わず野次馬が狙っている。


 北方の有力貴族であるアダーシャン伯爵と踊ったという事実が彼女にさらなる箔をつけ、嫌でも注目されてしまったようだ。さっきからご機嫌伺いに来る貴族やその子弟たちが、「あのご令嬢はどなたで?」と、下心丸出しで尋ねてくることにもいい加減うんざりしていたが、それらの対処に追われて、無意味にイリスと別れて二、三時間経過していることもウェンデルの不機嫌に拍車をかけていた。


 皆が言うように、マリーシュカは美しい。それは認める。しかしそれはウェンデルと同じく遠くから愛でるための美しさに過ぎない。


 マリーシュカは、今まで顔と愛嬌でその場を切り抜けてきた部類の人間だ。故に世間知らずで我儘だし、思い通りにならないと癇癪も起こす。反省するところはまだ可愛げあるとしても、それを次に生かそうとしないのがマリーシュカである。本日の公の場で本妻をないがしろにする行為と言い――これからの彼女の扱いを考えなくてはいけないな、とウェンデルは思う。


 どうしたものか、と若さゆえの短慮さが目立つ愛人について考えていると、背を叩かれてウェンデルは肩越しに背後を振り返った。


「やあ。こんばんは、ウェンデル」


「ベラ」


 誰かと思えば姉のイザベラであった。普段は男装を好む彼女だが、仮装舞踏会でもない限り、ウィルフォング侯爵夫人として相応の女の装いで夜会に出席する。癖のある赤銅色の髪は両側頭部のみをとって後頭部にまとめ、あとは背中に遊ばせる髪形だ。ドレスは今の季節一番無難な本繻子(サテン)を選び、色は既婚者らしく抑えめ。意匠に若い頃の派手さはないが、代わりに装飾品や素材に金をかけているらしいことが察せられるいずれも仕立ての良いものであった。


眼鏡はかけず、いつもは薄い化粧もしっかり作りこんでいる。髪を結い上げて踵の高い靴をはくと、背丈はウェンデルとほぼ同等だった。


 会うのは年明け以来だろうか。


 しかしウェンデルは驚きもせず、姉の手を取ってその甲に恭しく口付けた。


 イザベラはくすぐったそうに目を細め、大人しく挨拶の口づけを受ける。そしてからかうように笑った。


「お前も来ていたとは意外だよ」


「私だってたまには夜会に参加する」


 本当はダルトー公爵夫人から若干脅迫じみた手紙が届いたため、ご機嫌伺いに仕方なしと言った風だったのだが、姉の手を離しながら、のうのうとウェンデルはいう。


 一瞬で弟の嘘を見抜いたイザベラは苦笑した。ウェンデルがあまりに夜会に出席しないので、イリスが来る前はイザベラが伯爵夫人代理で出席することが多かった。今日だって遠縁にあたるダルトー公爵夫人の夜会にも関わらず、きっと出席しないだろうからと、ご機嫌伺いと、弟の埋め合わせも兼ねて出席したのだ。


 もちろん、理由はそれだけではない。公爵夫人はベラの幼い頃からの歌劇仲間で、そこには楽しみも大いに含まれているのだ。夫の元には公爵夫人から慈善団体への寄付を目的とした競売の案内状も来ていたし、ウェンデルと違って渋々出席したわけではない。


「何か用か?」


 妙に上機嫌な姉を訝ってたずねると、イザベラはふふんと鼻を鳴らした。


「いや。うら若き淑女が社交嫌い・夜会嫌い・ダンス嫌いの三拍子を揃えたアダーシャン伯爵を独占していると早くも評判でね。その淑女の顔を見に来たのさ」


「………」


 イザベラは少し野次馬っぽい口調でいい、満足そうにした。多分皆のいう〝うら若き淑女〟は間違いなくマリーシュカのことだろうが、イザベラはおめでたいことに〝うら若き淑女〟のことをイリスのことと勘違いしているようである。


 もうそんな風に話題になっているらしいことにウェンデルは頭痛がしてきてこめかみを揉んだ。マリーシュカとダンスを踊る羽目になった経緯までを姉に気付かれると面倒なので、ウェンデルは話題を変えるべくイザベラのドレスに目を落とす。


「ベラ。そのドレスの布はサラシャの輸入物か?」


「そうだ。よくわかったな?」


「ここまで素晴らしいサラシャ織の布は国内では再現できないからな」


「今年の誕生日にシャーから贈られたものなんだ。色がいいだろう?」


 イザベラは裾を摘み上げ、夫の贈り物を自慢げに見せつける。話題の方向転換は思っていたよりもうまくいった。


 イリスとの結婚で、布を扱うようになってから以前に増して織物に関して目が肥えてきているウェンデルは、その繊細な作りと糸の質のよさに、さすが絹織物と陶磁器の国であると感心した。


「染料もサラシャか?」


「そう。あちらでは蘇芳色というんだと。元はサラシャよりもっと離れた島国の職人がサラシャに持ち込んだ色らしい」


「へえ」


 赤は派手すぎず、渋みがある色で、既婚者でも気負いなく着れる抑えめな色合いだ。流石、何年も姉への想いをこじらせ続けただけあって、侯爵は姉の好みを熟知している。昔から赤いドレスを好んで着ていたイザベラだが、以前夜会で会ったとき、最近赤が似合わなくなってきた気がするとこぼしていた。また公の場で赤色が着れて嬉しいのだろう。


 元々化学染料というものがないサラシャの織物は草木で染めるものが多い。質が良くて肌に優しく、肌の色にも馴染みやすく、近年サラシャ織は上流階級に人気がある。涼し気な本繻子(サテン)も人気だが、暑い時期よりも寒い時期が多い北方においては、冬場になれば分厚い織に草花を模した紋が織り込まれた、豪華なサラシャ布を使ったドレスや部屋着が定番になりつつある。


「最近舶来品が流行っているし、この機会に異国の職人を招聘してサラシャ織を研究させて、似たものをケミストラの工場で作らせるのもいいかもしれないな。将来、ケミストラの特産品になれば万々歳だが」


「ああ。いいんじゃないか。……それよりイリスは何処だ?」


 商売の話はからきしなので、適当な返事を返し、イザベラは周囲に目を配らせる。


 ウェンデルは肩を竦めて知らないふりをした。


「会場の何処かにいる。……どうせ普段食べれないからと言って、どこかで一番高そうなメロンでも食いだめしているんじゃないか」

「イリスがそんな意地汚いことするわけないだろ……? まあ確かにあのメロンは美味かったよ。さすがダルトー公爵夫妻の夜会だな」


 適当に毒づくウェンデルをイザベラは窘める。……しかし数時間前、イリスは実際に広間の隅っこで生ハムメロンを咀嚼していたので、食いだめはしていないが当たらずしも遠からずであった。


「一曲踊ったか?」


「……いや。………まだだ」


 二人で夜会に出席した際、『絶対一曲は共に踊ること』というのはウェンデルがイリスを破格の報酬で雇用するにあたって課した条件のうちの一つだった。周囲に契約結婚を悟られないためにも仲睦まじい伯爵夫妻を印象付けよう、という二人の姑息な企みであったのだが、『ダンス嫌いのアダーシャン伯爵が踊るのは妻だけ』と周囲に印象付けておくのは、イリスもウェンデルも他人からの誘いを断ることが出来て実に都合がよい。断れない誘いもあるにはあるのだが、多くの人々を牽制するには十分だった。


 嘘をつこうとして失敗したウェンデルは内心で自己嫌悪に陥る。嘘をつくのが下手なわけではないが、イザベラに嘘をつくのは苦手だった。あとで追及されてぼろが出てしこたま小言をくらうので、なるべく真実を口にしようと幼い頃から習慣づけていた結果であった。


「はぐれたのか?」


「……少々、邪魔が入ってね。仕方なく、だ」


 じゃなかったらこんな大規模な夜会の中で、優秀な秘書でもあるイリスを手放すことなどしない。夫としては最低でも、地方領主としては優秀な男がそんな愚行を犯すはずがないとイザベラも納得した。そうか、邪魔が。


「……ん? じゃあお前は誰と踊ってたんだ? お前を独占していた淑女は誰だ。公爵令嬢のカタリーナ様か? 公爵夫人が是非ともお相手してやってほしいと仰っていたが」


「……いや」


 ごまかせず、ウェンデルはついに腹をくくった。


 ウェンデルの深緑の瞳がちら、と見ることを促すように広間の中心にゆき、つられてそちらに目をやったイザベラは弟の言いたいことを粗方察すると、改めてジトッとした目を送った。


「お前……」


「言いたいことはわかるからそれ以上言わなくていい」


「いうわ! なんでお前は自分の奥方じゃなくてドラーヴス伯爵令嬢の付き添いを務めてるんだ!? てかお前を独占したうら若き淑女ってあの子か! あの子か! おいこら!」


 邸だったら胸倉をつかんで派手に揺さぶってやってるところだが、さすがに公共の場では怒鳴りつけるまでが精々だった。


 イザベラは思わず目を覆った。妻とは踊ることもせず、愛人とは踊ったという事実が、イザベラの脳天を揺さぶった。なにやってんだこいつは!


「お前な……! そういう態度が、元々危ういイリスの立場を悪くするんだ! わかってんのか!」


 言い返せず、ウェンデルは黙した。流石に今回は自分が悪いと反省しているようで、言い返さない。


「どうするんだ!? この事態の収拾はどうつけるんだ!?」


「落ち着け、ベラ。声が大きい」


「これが! 落ち着いて! いられるかっての!」


 ギシギシと、これも夫から贈られたであろう舶来物の檜扇を手の内で軋ませ、イザベラは地団太を踏む勢いで憤る。


 こうなってしまった姉を落ち着かせることは至難の業である。イリスならその辛抱強さで話を聞いて落ち着かせることもできるだろうが――自分には到底できる気がせず、ウェンデルはすっかり小言の多くなった姉の対処法を、さんざん悩みあぐねた挙句、最後は無言で目を反らした。こうなるから嫌だったのだ。


姉弟の――主に姉が一方的に憤っているだけだが――熾烈な戦い中、大人しやかな声が割ってはいる。


「……ウェンデル様?」


 まさかイリスか、と姉弟ならではの息のピッタリさでほぼ同時に声の方向を向く。しかし、イリスはウェンデルのことを普段『閣下』と呼ぶので、人違いか、と二人の目から期待が消え失せたのもほぼ同時であった。


 声の主――すなわち、マリーシュカ・ドラーヴス伯爵令嬢は、イザベラに気付くと儀礼的に腰を折った。この際、目上は当然ながら侯爵夫人であるイザベラなので、マリーシュカは声をかけられるまで頭を下げて待つ立場にある。


 彼女がただの愛人ならば、お灸をすえて家に帰らせるところだが、都合の悪いことに彼女は北の社交界でちゃんと地位のある伯爵家の令嬢である。


 なかなか苦しい姿勢で頭を下げている手前、彼女を大人げなく無視するわけにもいかず、イザベラは仕方なしに表情筋を総動員して、慈愛に満ちた笑顔を浮かべて声をかけた。


「御機嫌よう、ドラーヴス伯爵令嬢」


「お久しぶりでございます、ウィルフォング侯爵夫人。ご機嫌麗しゅう」


 イザベラはウェンデルが何処かから拾ってきたこの伯爵令嬢をあまりよく思ってない。「元あった場所に返してらっしゃい!」とウェンデルに怒ったことだってある。弟には黙って、いい嫁ぎ先を探して持参金を持たせてやるから邸を出ていかないかと暗に仄めかしたことだってある。しかしこの伯爵令嬢、よほど図太いのか、イザベラの言わんとすることをわかっていながら、邸を出ていこうとはしなかった。


 そんなわけで、イザベラがマリーシュカをよく思っていないのと同じように、マリーシュカもイザベラをよく思っていないはずである。


 マリーシュカはひとつ微笑むと、イザベラの存在はほとんど無視して避け、甘えた様にウェンデルにすり寄ろうとする。


「ね、ウェンデル様。もう一曲踊ってくださらない?」


「いや、すまないが弟は先約があるんだ。な、ウェンデル?」


 イリスのいないところで好き勝手させるか! イザベラはすり寄ろうとしたマリーシュカを牽制し、笑顔でウェンデルに圧力をかけた。


 イザベラの目論見を女の勘で察したマリーシュカは、気に障ったように眉を上げ、険悪な空気を出し始めた。


「……侯爵夫人。先程、侯爵閣下がお探しでしたわよ。まずはそちらに行かれたほうがよいのでは?」


「そういう伯爵令嬢こそ。未婚の淑女はもう皆馬車に乗り込んでおりますよ。従者に送らせるから、狼に襲われる前に君ももう帰りなさい」


「じゃあ最後に一曲だけ。ね、ウェンデル様?」


「いやいや。私と踊るんだよな、ウェンデル?」


「………」


 いや、どちらとも踊る気はないから、と言いかけて、ウェンデルは空気を読んで出かかった言葉をおさえた。マリーシュカの青く宝石のように美しい瞳からバチバチと火花が散っており、それを笑顔で受け流す姉の灰色の目は笑っていない。


 男にはかなり醜く映る女同士の牽制を見せつけられ、ウェンデルの頭の中に、唐突に「イリスを探しに行こう」という考えが浮かんだ。小鳥のようにうるさいマリーシュカや、小言の多いイザベラより、やはり大人しく主人をたてるイリスが一番落ち着くという結論に至った。その結果であった。


「……イリスを探しに行くか誰とも踊らない。マリーシュカ。君はもう帰れ」


「そんなぁ」


 マリーシュカは甘えた声を出し、かわい子ぶった。騙されんぞ、とイザベラが顔を引きつらせているのが気配で分かった。


「……イリス様なら美しい殿方と親し気に歩いて個室に入ってゆきましたのに……」


 ピタ、と姉弟の動きが止まった。


 マリーシュカが非難じみた声でブツブツいったのを聞きとめたイザベラが先に思いっきり顔を顰めた。信じられないという顔だ。ウェンデルも信じられない。


「……美しい殿方? イリスが?」


 元来そういう性格というのもあろうが、普段から顔がよい男には散々苦労されているので、イリスは顔で人を判断しない。好みの顔の一つや二つはあろうが、フラフラと無防備に知らない男についていくような子ではないし、ましてや夫を持っている身で、知らない男と二人で親し気に個室に入ることを賢いイリスはしないだろう。貴族社会ではどんな噂を立てられるかわかったものではないからだ。


 そういう根拠があってマリーシュカの言っていることは嘘ではないかと疑ったが、マリーシュカの目に嘘をついたと言う動揺や素振りは見られない。


「でもわたくし見ましたもの。赤茶の髪に金色の眼をして仕立ての良い服を着た美しい殿方でしたわ」


 マリーシュカは勝ち誇ったように笑うと、許しなくウェンデルの腕をとった。


「きっと逢瀬の約束をなさっているのよ。……それにこんな時間に個室に二人きりってそういうことですよね? ね、だから閣下……」


「黙れ、マリーシュカ」


「イリスがそんなことするか」といいかけて――ウェンデルは口を噤んだ。


「……ウェンデル?」


 いきなり黙りこくった弟の名をイザベラが呼ぶ。


 イリスがそんなことするわけあるか、と断言する資格はウェンデルにない。妻より愛人を大事にする夫ととられかねない行動をとったウェンデルに対し、イリスが操立てする義理がないのである。全くないのである。そのことをわかっていたウェンデルはバツの悪い思いを押しこめて、マリーシュカから本格的に背を向けた。


 マリーシュカの顔を見たくなかったし、何より変な焦燥感が湧き上がってきた。


「……ベラ。侯爵があそこで探してる。私はアンネに挨拶をして、イリスを連れてもう帰る」


 言いながらウェンデルはシャーメインに目配せした。

 確かに先程マリーシュカが言った通り、自分を探しているらしい夫をこれ以上待たせるのも申し訳ないと思ったのかイザベラは肩を竦めた。


「そうだな……私も公爵夫人に挨拶して帰ろう」


「マリーシュカ。イリスが男を連れ込んだ部屋は何処だ?」


「……いや。逆だろ、ウェンデル」


 性欲より知識欲に旺盛なイリスが男を連れ込むわけがない。イザベラはイリスの体面を守るべく控えめに訂正した。


ウェンデルはちょっとは己を悔いているはず。

お読みくださりありがとうございました!次回はイリスのターン!

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