伯爵夫妻の社交
翌日、午後。伯爵邸はいつにない慌てぶりを見せていた。
イリスは慌ただしく働く使用人たちに申し訳なくて、鏡台の前の椅子に腰かけて待機していた。出来る範囲でなにか手伝おうとすれば、「奥様は座っていてくださいませっ!」とお叱りを受けるのだ。それもギラギラした目で。
突然、夜会のお誘いを受け、了承してしまった二人にきっとみんな怒っているのだろう。……イリスはそう思っていたのだが、使用人たちは公爵主催の夜会で、いつも以上に伯爵夫人を飾りたてる口実が出来て、喜び勇んでいただけである。目がギラギラしていたのは、他の女の使用人たちと徹夜で意見を交わしあっていたせいだ。
イリスは流行などさっぱりなので、夜会の装いは使用人たちに任せている。今日は公爵主催の夜会でもあり、ドレス選びに皆殺気立っているようだ。
「この間は青のドレスを着たから今度は緑にするべきよ」「いいえ。奥様はお若い顔立ちなんだから絶対に橙色よ!」「いやいやそれは若すぎでしょう」「あらそうかしら。だったら桃色?」「なんでまた若くなるのよ」「桃色は無理でも薄紅ならいいんじゃない?」「あら素敵」などなど、意見を交わしあっている。
いつになっても意見がまとまらないので、傍らでほとんど聞き役に徹していた四十過ぎの女中長が柏手を打った。
「あなたたち! ドレスを決める時間は二十分と決めたはずでしょう! もう三十分ですよ! 閣下が時間に細かい方だというのは承知しているはずでしょう!? 時間に遅れたら、まずお叱りを受けるのは我々ではなく、奥様なんですからね!!」
さすが、エドウィンと肩を並べるだけの年数を、この邸で過ごしているだけある。なかなかの勢いがある怒声に、使用人一同、しゅんとしたように頭を下げる。
「纏まらないなら私がいま決めます。今季の新色で仕立てたドレスがいくつかあったでしょう。全部ここへ持って来なさい!」
エイブリルが怒鳴りつけると同時に指示すると、すぐさま「はいっ!」と慌てふためいたようにしてドレス談義に花を咲かせていた女中たちは皆、蜘蛛の子を散らしたように衣裳部屋へ駆け込む。
エイブリルはハァ、と悩ましげな溜息を吐いた。
「本当に申し訳ありません、奥様。あの子たちは……」
「構いませんよ。時間はまだまだありますもの」
優雅にオーレリーの淹れてくれたお茶を楽しむイリスは極めてにこやかだ。
のんきな伯爵夫人に、女中長は嘆息した。呆れているのではなく、心配しているのである。あの(・・)主人に嫁ぐにしてはあまりにおっとりとした平和主義なイリスには、毎度毎度他の方にいじめられないだろうかと心配になる。このような公爵主催の夜会になると尚のことである。
使用人の持ってきたドレスを見て、どれにするかを決める。もちろん、先ほど熱く議論しあった使用人たちは部屋の隅に追いやり、選んだのは女中長だ。先ほどお叱りを受けたせいか、異論を唱える者は一人としていなかった。
女中長の選んだドレスは紫や藍色というより、青紫と表現するが似合いのドレスだ。肘丈ほどの袖に繊細なレースがあしらわれ、下半身の布の弛み(ドレープ)はダイヤモンドなどの宝石で飾り立てられている。
お約束だが、この布はすべてイリスの実家の工場で生産されているものである。新色が出るたびにトバイアスとケイティにより新たなドレスが仕立てられるので、イリスのドレスは季節ごとに数を増やしている。
本音を言わせてもらうとドレスなど数着あれば十分なのだが、伯爵の言う通りこれは宣伝にもなっているようで、夜会に出かけるたびに新色のドレスを着ていくと、ケミストラの工場の需要は格段に増えた。
少し自分に派手すぎる気がしないでもなかったが、夜会の喧騒に紛れてしまうだろう。決心して、イリスは使用人に手伝ってもらいながらドレスに袖を通した。
ドレスを着ると、髪や化粧、装飾品を含む支度が待っている。化粧はいつも女中長が施してくれる。イリスは幼い顔立ちなので、濃い化粧よりも薄い化粧のほうがよいだろうとのことで、そのようにしてくれる。
さすがの手際のよさで驚くほど速く化粧が終わると、次は装飾品選びである。
「迷いましたけど、やっぱり奥様にはこれが一番お似合いですね」
首、腕に続き耳飾りを吟味していたオーレリーがクスクス笑っているのが鏡越しにわかる。しかしいつまで経っても耳に手がかかる気配はない。それどころか、片付けまで始めてしまう始末。
「え、あの……」
「はい」
笑顔で返事をされて、イリスはどもった。そんな女主人の様子に合点がいったのか、オーレリーは説明する。
「閣下は本当によく奥様のことを知っていらっしゃるんですね。奥様にはそれが一番お似合いです。他の耳飾りなんて必要ありませんわ」
でも、とイリスは口を動かした。
いま耳に着けているのは以前、伯爵自ら選んだ耳飾り。彼自身の手でイリスに贈られたものだ。
彼の言いつけ通り、毎日身に着けているものである。だからこそ、とイリスは考えてしまう。
「毎日身に着けているようなものを公爵主催の夜会につけていっても大丈夫かしら?」
「いいんですよ。奥様にはそれがお似合いですもの。ドレスにもぴったりですし、帽子をしていても見劣りすることはないでしょうし」
「さ、もうすぐ閣下がいらっしゃいますよ」そう急かされて、イリスは何も言えなくなる。そのあともなんとか意見しようとするのだが、皆後片付けに忙しいようで、そうこうしているうちに伯爵が来て邸を出ることになったのである。
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「ウェンデル。まあまあ、イリスさんまで! 二人揃って本当に久しぶりだこと。今日は楽しんでいらしてね」
到着早々、挨拶に伺うと、冷静に落ち着いて招待客に挨拶を返していた公爵夫人は、二人を見つけると扇を振り回さん勢いで喜んだ。
息子同然に成長を見守ってきた伯爵と会えたというなら尚更だろう。普段の落ち着いた品の良い様子から妙にかけ離れたダルトー夫人に、伯爵は若干引き気味だった。
これだけ人が多ければ、流石に人目が気になる。すでに集まりかけている人目を気付かせるように、伯爵はゴホンと大きく咳払いをした。
「……アンネ。少しは回りを見てください。あなた目当てで来ている方も大勢いるのですからね」
「あら、ごめんあそばせ。久しぶりに会えたせいで、つい」
今年で五十か四十後半になるというのに若々しい公爵夫人はぷぅと膨らませた頬を扇の裏に隠す。
それよりも。
敬語の伯爵。非常に不自然で、新鮮だ。座ってもいないのに隣に立つだけでお尻がウズウズする。
「イリス様もお元気そうでなによりよ。突然招待状を贈っちゃったでしょう? 今日来るのはウェンデルだけだと思ってたから、私とっても嬉しいわ。……あら、イリス様のドレス、新色じゃない? 青紫ね。これからの季節涼しそうだわ~」
「いつも通り、商連でご注文くださればすぐにお届けしますよ。……それよりも、アンネ。そろそろ他の方がお待ちのようだ。いつまでも独り占めしていると要らぬ嫉妬を買います」
「まっ! 口と顔だけは達者だこと。まあ一理あるわね」
『顔だけは』のあたりで一瞬、眉が動いたような気がするのは、イリスの気のせいだろうか。なにはともあれ周りには気づかれなかったようで、なによりだ。
「あっ、忘れるところだったわ! 今日はうちの末の娘も参加しているの。あなたも知っているでしょう? 末の娘の……」
「カタリーナ嬢ですか?」
「そう。よく覚えていらしたわね。もう十年近く会っていないというのに」
サッと扇で顔半分を隠す公爵夫人。しかしその奥の顔は、忍んで笑っているのだろう。
「覚えておりますよ。昔は随分とやんちゃな……カタリーナ嬢がなにか?」
「ええ。この間、社交に出したばかりなの。あなたと踊りたいそうよ。もし会ったらダンスのお相手をしてやってくれる?」
笑顔で無言の圧力すら感じさせるダルトー夫人に、ウェンデルは一瞬間を置いた後、頷いた。
「そういうことなら、喜んで」
「お願いね」
公爵夫人が頷いた直後、
「これはこれは、公爵夫人! 本日はお招きありがとうございます」
空気も読まずに入り込んできた貴族がいた。
もしかすると、故意にこのように振る舞ったのかもしれない。公爵夫人と伯爵の話は、貴族同士の挨拶にしては長すぎるものだったからだ。周りで公爵夫人とまみえる機会を待つ貴族たちはさぞ、やきもきしていたに違いない。
ニコニコしていかにもというように公爵夫人に媚びる貴族を一瞥して、伯爵はフッと鼻で密かに嘆息したように見えた。
「……イリス、行くぞ」
「え、あ、はい」
グッと手を引かれて、体が傾ぐ。
特に人混みの多くなってきたダルトー夫人の周りからかなり離れた人の少ない会場の隅っこで、ウェンデルはようやく振り返った。
いきなりのことで、イリスが「へ」と声を上げる前に顔に両手が伸ばされる。
(まさか、キスする気? こんなところで!?)
ここは人気のない会場の隅。考えられなくもない。
内心冷や冷やドキドキしていると、伯爵の両手はイリスの予想を外れ、顔、それどころか両脇を逸れ、帽子のつばをつまんで小声で話しかけるではないか。
「あの男のことを、覚えているか?」
「え?」
「早く」
急かされて、イリスは伯爵の言葉を理解することに数秒を費やした。……つまり、お仕事の話かと。
夜会でこのように、伯爵に相手の名前を尋ねられることは珍しくない。相手の顔と名前、爵位、職業その他もろもろを覚えるのも、秘書の仕事だからである。
早合点した自分があまりにも恥ずかしく、イリスは顔を真っ赤にした。同時に公衆の面前で恥をかく必要がなくなったことに対する安堵に溜息まで出た。……今日、被ってきた帽子がベールつきで助かった。
「……はぁ~」
「イリス?」
「キャヴェンディッシュ子爵です。ずっと前、閣下が開かれた夜会にいらっしゃった方ですよ。それに、確か一週間前、商品の宣伝にもいらっしゃいましたよね? ……まさか、忘れていたとは仰いませんよね?」
ジロリと下からねめつけるようにすると、伯爵は少しの間沈黙した。
キャヴェンディッシュ子爵。先代から商売で爵位をいただいた名誉貴族である。確か南の地方――レネー姫の父君が治めるアルヴィの近くにお住まいだった、と記憶している。
当時はまだ上流階級に位置する市民だった子爵の父君は、未開発だったキャヴェンディッシュで鉱山を買い取り、そこの一つがダイヤモンドを出し大当たりしたらしい。――と、事前に集めた情報で聞いていた。
「それで、国を大きく発展させた功労で公爵閣下から子爵位を与えられたと……ちょっと閣下、聞いてますか? ご自分のことですよ」
あまりにも伯爵の目が上の空なので、今まで真剣に説明していたイリスは言葉が少し砕けたものになる。
注意されてようやく、伯爵はちょっと怒った風に文句を言う妻にやっと視線を戻す。
「ちゃんと聞いてる。……そうか、なるほどな」
一人納得したように頷く伯爵。これだからこの人は、と呆れた溜息をついていると、帽子のつばが緩く位置を変える。
どうやら本当にずれていたらしい。大人しく直してくれるのを待っていると、伯爵の顔が近づく。
またなにかあるのかと内心うんざりしながら思っていると、伯爵の顔はイリスの顔の右側をそれた。
突如、耳に生温いものが触れた。
「なっ!?」
未知の感覚に、イリスは恐れおののいたように肩を跳ねさせる。隣の伯爵がニィと笑ったのが気配でわかった。
生温いもの――舌先が耳たぶを這い、耳の裏をつぅ、と撫で、帽子があたらない位置ぎりぎりまで生え際を辿った。
「私があの男のことを嫌いなことは知っているな?」
「し、知ってます……」
商談の間中、いまいち乗り気でない顔をしていたのはよく覚えている。欠伸こそしなかったものの、目は何処か上の空で――絶っっ対、彼のことは嫌いになったなと察したものだ。
一週間前の仕事風景を思い出していると、舌とはまた違った感じの柔らかいものが耳の裏に押し付けられる。
「だから、あの男とは誘われても踊ってくれるなよ」
「わかりましたってば! もうっ! いい加減にしてください! しかもこんなところで!」
べりっと引きはがすように力づくで伯爵の胸を押すと、イリスはベールの奥からウェンデルを睨み付けた。
「い、言いたいことはそれだけですか」
「それだけだが、なにか?」
それだけか!
イリスは怒りと恥が入り混じった複雑な感情をかみしめる。
しかもこの男、しれっとした顔で、客たちに酒を配って回っている使用人を呼び止めて飲み物を受け取っている。
こんな屈辱初めてだ、とでもいいたげな潤んだ目を見ていると、なんだか可笑しくなってきてウェンデルはこみ上げてくる笑みを必死でこらえながらイリスに二つとったうちの一つのグラスを手渡した。
会場のほとんどの客が同じグラスを手にしているので、そろそろ公爵の挨拶が行われるだろうと予測した。
「なにも怒ることはないだろう」
「怒りますよ! 人前ですよ!? 誰が見てるかもわからないのにこんな……っ」
グラスを受け取りながら考えて、イリスは顔が蒼くなりそうだった。イリスと結婚しても、伯爵の女性遍歴を知ってまだしつこく狙っている女は多い。こんな場面、見られたとなれば手酷い嫌味と視線がチクチク痛いに違いない。
対する伯爵は他人事だからか余裕の態度だ。
「見せつけておけばいい。我々が損得勘定しかしない非常にさっぱりとした体の関係もない夫婦だと知れれば、世の方々は非常につまらなく感じるだろうからね」
「え」
〝ただの仕事の関係〟。その程度の関係だと承知していたが、彼にも夫婦だからか、直に聞かされると以外と胸に来るらしく、イリスの胸は一瞬海の底に沈んだ。
(ほんとにその程度なんだ……)
胸をさすりさすり、イリスは内心で呟いた。自分が死んでも、きっとウェンデルはその程度なのだろうと思った。イリスが辞めたら、きっとさっきのキャヴェンディッシュ子爵のように名前を忘れられるのだろう。
なんだか悲しいな。そこで疑問がわいた。
「あの」
失礼ながら、イリスは伯爵の言葉を遮った。一つ、疑問がわいたからだ。知識欲に旺盛なイリスは疑問が一つでもわくと本人の意思とは関係なしにすぐに口に出してしまう。
「なにか質問でも? 君も承知していると思っていたが」
伯爵は少し驚いたようにする。いや、そこは承知していましたとも。伯爵の中で、イリスは所詮その程度だということは、さっきのことでよくわかった。
「……別に特別な理由を求めているわけではありませんけど。閣下が私と結婚したのって、本当に損得勘定だけですか?」
「そうだといったらどうする?」
「どうするって……どうもしませんけど。悲しみましょうか?」
それはその時になってからじゃないとわからない。だからそう答えたのだが、その瞬間、伯爵の機嫌はみるみるうちに悪くなった。
「つまらん」
「つまらんと仰られましても……愛の言葉でも囁きましょうか?」
「いらない。そろそろ行くぞ。もうすぐ演奏が始まる」
「閣下……」
腕を引いて中央に戻ろうとする伯爵の背に、イリスは気休めにしかならないかもしれないがと声をかけた。
「〝愛してますよ、ウェンデル様〟」
もっとも一般的な愛の言葉を囁くと、伯爵の背中がピタリと止まった。
「……は? まさか、本気で言ってるのか」
「え、本気にしたんですか。恐縮です」
振り返った伯爵の顔はまさかと言いたげな驚いた顔だった。まさかとこちらも驚いた風に返して、イリスは後悔した。
元々悪かった伯爵の機嫌がさらに悪くなったからである。イリスはひぃっ、内心で顔を蒼くさせた。
「うるさい。心のこもっていない言葉なんかいらん」
「え……あの、でも、それなりにこめたのですけど」
恐る恐る顔を窺いながら言葉を述べる。真実、一応こめたつもりだ。二年間、ほとんど毎日伯爵の顔を見ていると、当然多少の情は沸くし、それがたとえ恋人に抱くようなものでなくても、愛着は芽生えるものである。
しかし、フンと鼻で笑われたあたり、伯爵にはそこまで理解できないらしい。
「何処がだ。馬鹿馬鹿しい。愛しているだのどうのと、女が好みそうな言葉を使うな」
「でも、女は確かにそういわれると確かに嬉しいのですよ」
劇で愛を告白する場面がある。そのとき、イリスは確かに嬉しいと思ったものだ。たとえそれが自分に対するものではなくてもだ。
伯爵は盛大な溜息を吐く。そのとき伯爵の背後から誰かが歩み寄ってくるのがわかった。
「あら! ウェンデル様!」
――伯爵がもう一つ盛大に溜息を吐きたそうな顔をしたのを、イリスはしっかりと目にした。