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伯爵夫人と執事のなんてことない会話

放置&お待たせして申し訳ありませんでした。

新章の序章っぽいものを。本当は第五章の序章にしようと思ったんですが、幕間にすることにしました。この次から新章開始ってことで。

 北方にもやや湿り気のある風が吹き始めた六月のことである。


 相も変わらず秘書仕事をこなす伯爵夫人は、慌ただしい日々を送っていた。


「あ、そうだ、閣下」


 椅子に座ったままで軽く伸びをする伯爵を横目に、この先の予定を手帳に記していたイリスは、ふと動きを止めた。


 まもなく三十になるというのに損なわれることのない美を持つ夫は、欠伸をかみ殺した後、イリスに気のない返事をした。


「なんだね」


「ちょっと早いですけど、ついでなので明日の予定を言っておきますね」


 明日の予定は、いつもなら夕食の時間に告げるところだが、手帳を開いたついでだ。それに、先に告げておくに越したことはないだろう。


 伯爵は文句も何もないようで、瞬きだけで先を促し、イリスはそれを了承の返事だととって頁を捲った。


「えっと……午前に来客の予定はございませんね。いまのところ、晩もなにもありません……と、いいたいところですが」


「なんだね」


 変なところで区切る優秀な秘書に首を傾けると、イリスはちょっとの間躊躇した。


「さっき……ダルトー公爵夫人から、夜会のお誘いが来て」


「ダルトー夫人から?」


「はい」


 返事をしている間に引き出しを探り、「招待状です」と薄青で花の浮彫がしてある封筒から、招待状だけを抜き出して手渡す。紫地に(オレンジ)というなんとも目がチカチカしそうな組み合わせで形成されており、見ているだけで目が悪くなりそうだ。


 夫人ではなく恐らく彼女の夫、派手好きな公爵が指示してつくったのだろう。下品な色合いの招待状に眉を顰めつつも、ウェンデルは招待状を眺めた。


 手に便箋だけが残ったイリスは、招待状を読み込んでいる伯爵に尋ねた。


「読み上げましょうか?」


 残った一枚きりの便箋をちらつかせると、伯爵は静かに「ああ」と頷いた。許可が出たので、イリスは便箋を開いて中身を読み上げる。


「えっと……『アダーシャン卿、お久しぶりですね。お元気ですか。しばらく会っておりませんね。最後に会ったのはいつだったかしら。いい加減、夜会にでも顔を見せにおいでなさい。じゃないと呪うわよ。わたくし、最近呪術に凝っているんですからね。   アンネ・ダルトー』……以上です」


「また随分と陰湿な文面だな」


 伯爵はくっ、と喉で笑う。イリスも苦笑を禁じ得なかった。教養が高いことで知られる公爵夫人にしては、また随分と幼稚で直情的な手紙を送ってきたものだ。招待状をわざわざ前日に送ってきたところから見て、こちらに拒否権がないのは明らかだ。


「明日の晩、七時からだな。わかった。準備しておこう」


 珍しく伯爵は文句の一つも言わず、苦笑をこぼすだけだった。


 理由は、ダルトー公爵夫人アンネにある。彼女は、ウェンデルが生まれる前から前アダーシャン伯爵夫人――つまり伯爵の実母と知己の仲だった。彼のことは生まれたときから存じており、息子のように可愛がっていたらしい。夫人主催のお茶会やサロンなどに招かれることも稀ではない。


 イリスは彼女に気に入られているようで、よく芝居を見に誘われることがある。北方の学芸、芸術を支援する彼女は、上流階級に属しているにも関わらずイリスを見下さない、好ましい性格の持ち主だった。だが最近は、イリスの予定が合わないこともあり(弟妹の大学進学があった)、久しく彼女の顔を見ていなかった。


「では出席の旨をお伝えしても?」


「いや、返事は私が書こう」


 あっさりと、ごく自然な動作で便箋を渡すように手を伸ばされて、イリスはびっくりしたように目を丸くする。筆不精、出不精で私的な手紙でさえ月に数度送るか送らないかの彼が自ら進んで手紙を書こうとしたことが驚きだったのだ。


 考えていることがあからさまな表情にムッときたのか、伯爵はちょっと眉を顰める。


「彼女の機嫌が少しはよくなるかもしれないだろう? ほら、さっさと貸したまえ」


「あ、はい、そうですね。わかりました」


 途切れ途切れになりながらもなんとか返事をして、伯爵に便箋と封筒を渡す。伯爵はそれを受け取りながら、開いている手で自分の仕事机の中から封筒と便箋の一式を取り出し、羽根ペンの先にインクを浸した。


「……なにか?」


「いえ、なんでも」


 いつまでも珍獣のように見つめる妻に嫌気がさしたのか、恨みがましい目で見上げられて、イリスは即座にサッと顔を反らした。いそいそと使用済みの書類をかき集め、腕に抱え込む。


「資料を片付けてまいります」


 万が一のため、一応行き先を告げておくと「ああ」と上の空な返事が返ってくる。ちらりとそちらに目をやると、彼は手紙に相当のめりこんでいるらしく、ペンを揺らしながら文面を考えていた。


 ……ここまで真剣に手紙に取り組んでいる伯爵を、初めて見た気がする。


 イリスも知らない幼少期を知られているせいか、妙に伯爵はダルトー夫人に対して従順だ。そんなわけだから、普段伯爵の扱いに苦労しているイリスは伯爵と夫人の絆をとても羨ましく思うことがある。


 そんなどうしようもならないことを考えながら、資料室で資料を整理する。ここにきたばかりの一年半前、イリスが寝食の時間を惜しみ、時間をかけて整理した、ほとんど機能していなかった資料室は、見違えるほどすっきりと整えられている。


 大切な資料を鍵付きの引き出しに入れ、施錠する。余った書類をアルファベット順に並べていると、静かに扉が開いた。


 扉を開けたのは、執事のエドウィンだった。中に人がいると思わなかったのだろう。少し驚いたようにしていたが、イリスを視界に入れると、遠慮がちに身を引く。


「失礼しました。人がいるとは思わず……出直しましょう」


 手には鍵の束が握られていた。


 いくら重要書類を鍵付きの引き出しや金庫に入れて厳重に保管していても、万が一ということがあるので、伯爵夫妻の仕事が終わってしばらくすると、こうしてエドウィンが施錠しにくるのだ。


「大丈夫です。すぐに終わらせますから、そこで待っててもらえますか?」


 少し速度を上げて、イリスは書類を片付けにかかった。アルファベット順に並べていく。


 白い手がせわしなく動き、何度も棚をいったりきたりしている。

 本当は使用人がするべき仕事なのに、と思うと、律儀で人の良い執事は唐突に申し訳なくなってきた。


「奥様……資料整理くらい、私や他の使用人にお任せくださってもよろしいのですよ?」


 イリスはピタっと手をとめた。

 まじまじと黄色の瞳がこちらに向くと、エドウィンは恐縮した。


「奥様がどうしてもと仰るなら構いませんが……使用人一同の想いとしては、一刻も早く奥様にお休みいただきたいのです」


「ありがとうございます。でも最近はご心配いただくほど疲れてはいませんよ?」


 伯爵の意向で規則的に休憩をとっているし、仕事にも大分慣れてきて、要領よくこなせるようになっている。今日は仕事も早めに切り上げられたし、比較的楽に過ごせたのだが。


「ですが、仕事をしない日でも奥様は閣下のお世話をなさっているでしょう? 本当に、お疲れにならないのですか? 不満はありませんか? もしあれば使用人として、全力でお助けいたしますが……」


「……ううん」


 イリスは返答に困ってしまった。今更そんなことをいわれても、という感じだ。これが当たり前だと日常を甘受しているので、最初こそ不満を抱いたことはあれど、今ではそんな感情も消え去っていた。エドウィンに言われて、「そういえば不満を抱いたこともあった」と、すでに過去のこととして受け入れている。


 ああ、そういえば。イリスはふと一つ不満が浮かんできた。といっても、口に出すのも憚られるほどしょうもないものだったが。


「……不満ではありませんけど、一つだけならありますよ」


「なんですか?」


「私にできることならできる限り尽力いたします」そんな風に張り切るエドウィンに、ちょっと申し訳なさそうな間をおいてから、イリスはポツリと呟いた。


「その……お休みの日に、劇を見にいきたいんです」


「え? 観劇、ですか?」


 意外そうな顔で問い返すエドウィンに、イリスは恥ずかしながら頷く。彼にはどうしようもできないものだった。


 イリスは黄色い瞳を、悩ましげなものにかえた。自分でも、どうして彼にこんなことを言い出したのか、自分がわからなかった。


「閣下は劇がお嫌いなようで……一度くらい、二人で行ってみたいな、と」


 そこで一度言葉を切ってから、イリスは続ける。


「シュールーズの街に……大きな劇場があるでしょう? あそこで七月から、私の大好きな作家の作品が劇になるんです。……それと、意地汚いと思われるかもしれませんが。劇場に向かいに貴族に人気のお菓子のお店があるんです。イザベラ様が連れて行ってくださるといってくださったんですけど、お互いの予定が合わなくていかずじまいで……。ふふ、エドウィンさんに言っても仕方ないですね」


 最後の資料を棚にしまったイリスは、苦いものを含めた笑い声をあげた。


 だが、曲がりなりにも夫婦なのだから、たまには堅苦しい仕事の話ではなくお互いの趣味の話でもしたいものだとイリスは常々思っていた。たまには息抜きをしたい。


 エドウィンの顔を見ると、彼は目をぱちくりさせている。そしてややあって、恐る恐る口を開いた。


「あの……失礼ですが、そんなことでよろしいのですか?」


「はい?」


 質問の趣旨がわからず思わず問い返すと、彼はゴホンと咳払いをして、居心地がわるそうにした。


 普段から主にてこずらされている伯爵夫人である。てっきり、『実家に帰りたい』とか、『もっと休日が欲しい』とか、『秘書を辞めたい』だとか、そういったことを言われると覚悟していたエドウィンは拍子抜けだった。


(うちの伯爵夫人はなんと欲が浅いのか……)


 子供が流れ星に「お菓子が食べたい」とお願いするのとあまり変わらない気がする。


 貴族の基準から大幅に離れたお願いに、呆れを通り越して感心すらする。エドウィンは、主の奥方の可愛らしいその願いは、割とすぐに叶えられるのではと確信した。


「その、出過ぎたことと思われるかもしれませんが……それくらいなら、閣下におねだりしてみてはどうでしょう。その程度のお願いなら聞いてくださると思いますよ。閣下は人々が思うほど狭量な方ではありませんから」


 次はイリスが目をパチクリさせる番だ。一瞬、何を言われたかわからず、一字一字、エドウィンの言葉を拾って噛み砕き、理解していくにつれて、さっきの苦いものとは違う笑いがこみ上げた。


「あはは、無理ですよ。閣下は私の言うことなんて聞いてくれませんもの。『嫌だ』の一言で即座に会話を終了させられると思います。閣下は人混みが嫌いですもの。……さ、資料整理も終わりましたし、そろそろ出ましょうか。お待たせしてすみません」


 エドウィンの提案は、奥方の眩しすぎる笑顔を前にあえなく消え去ったのだった。

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