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アダーシャン伯爵夫妻の日常  作者: 々 千早
Ⅳ 伯爵夫妻の日常~来客編~
24/30

してはいけない〝期待〟をする

 翌朝、予定していた時刻に朝食をとっていた最中、王女と騎士は伯爵に暇乞(いとまご)いをして、早々に帰り支度を始めた。


 どうやら、昼前には帰るつもりらしい。視察の帰りだからそう時間を割けないことはわかっていたが、「もう少しゆっくりしていかれては」と引き止める。が、王女は「気持ちだけもらっておくわ」と返して、意思に揺らぎはなかった。


 レネー姫に使ってもらっている日当たりの悪い北の部屋を訪れたイリスは、その前で呆然と立ち尽くしていた。


 昨日、湯浴みしながら、考えを纏めた。結果、華やかな宮廷生活が自分の身にあうはずがないからと、大変心苦しいが王女の申し出は断ることにした。伯爵が「離婚する気はない」と発言したのも少なからず影響している。


 しかしそれをどう伝えるかが問題だった。伯爵は「断っても気を悪くしない人だ」と言っていたが、全くそうではないとは限らない。


 疼く胃を抱え、部屋の前で右往左往しているうちに、向こうから扉が開いて、中から王女が顔をのぞかせた。


「あら、イリス様」


 当然、続く言葉は「こんなところでなにを?」である。


「あ……お、………お茶を一緒にいかがかと思いまして」


 ただ一言、「お返事に参りました」といえばいいだけなのに、出てきた言葉は全く別のものだった。


 ……なにをいっているのかしら、わたしは。だが今更後悔しても遅い。変な言い方になってしまうが、仕方なく王女と最後のお茶を共にすることにした。


 王女も伯爵と同じで私物に極力人の手を触れさせたくない性質のようで、招き入れられた室内に使用人は一人も見当たらなかった。ベルを鳴らせば誰か来るようになっていたので、二、三日過ごす分には不自由はなかっただろうが。


 ベルを鳴らして使用人にお茶の用意を頼む。しばらくして熱いお茶の入ったポットと二人分のティーカップ、そして砂糖入れとミルク、ちょっとしたお菓子なんかも持ってきて、下がっていった。


 使用人に代わって給仕をしながら、部屋に入ったはいいが、次はどう話を切り出すか考えた。


 ちらりと顔を上げて王女を窺うが、彼女の目は何を考えているのか全く分からない。伯爵と同じで、給仕をするイリスの手をほとんど無表情で見下ろしていた。


 お茶の入ったカップを差し出すと、「ありがとう」とお礼をいって受け取る。そのお茶に角砂糖とミルクを入れてスプーンで混ぜながら、王女はごくごく自然な流れで口を開いた。


「それで、イリス様。私に何の御用かしら? なんとなく予想はついているけれど、まさか本当にお茶しにきたわけじゃないわよね?」


 相変わらず鋭いというか、見逃してくれない王女にイリスは檸檬(レモン)を丸呑みしたようななんともいえない気分に陥った。


「……ハイ。宮仕えのお返事に参りました」


「そう。返事は?」


「……誠に心苦しいのですが、お断りさせていただきます」


 言った直後、すかさず王女の顔色をうかがう。気を悪くされただろうか、と恐々としていたが、王女の顔はさっきと変わらずすっきりとしたものであった。ちょっと残念そうな顔はしているが、心底というわけではなさそうだ。


「そう。残念ね。あなたには是非わたしの側で存分に力を発揮してもらいたかったのに」


「申し訳ございません」


「あなたの意思を尊重するといったのは私よ。だから、謝罪はいらないわ」


 こうなることを予測していたのか、王女の対応は早い。むしろイリスのほうがあっさりとした態度に唖然としたくらいだった。


 大きな目をパチパチさせるイリスの顔を見て、王女はプッと噴出したような笑い声を漏らした。


「そんなに驚かなくても。事前に伯爵に聞いていたから、答えを予想していただけよ」


「……へ? 閣下に、ですか?」


「ええ。離婚はしないって、はっきりと言っていたわよ」


「まあ……」


 思わず口に手を当てる。事前に二人で決めていたこととはいえ、王女相手に堂々と断言するということは、彼はよっぽどイリスを秘書として引き止めたかったらしい。


「あなた、必要とされているのね。これからも是非、彼のことを支えてあげて頂戴」


「えっ……と、ハイ」


 伯爵に〝助け〟は必要でも〝支え〟は別だろう。王女の言葉に対して皮肉な考えが浮かんで、イリスは密かに苦笑をかみ殺した。


 イリスの返答に王女なりの解釈を見出したのか、彼女は唇に微笑を刻んだ。


「来年もまた視察に来る予定なの。そのときには、ここに新しい命が誕生していることを期待しているわ」


「えっ……!?」


 暗に子づくりを(ほの)めかす内容に、イリスはうっすら顔を赤くさせた。


 だが、王女の言う通りだ。離婚しないとなれば、当然、子づくりが前提となってついてくる。


 街で見かける女性のように、自分もいつか子を腹に宿すのか。そう考えると、なんだかむず痒くなる。その直後、口元に微かな苦笑が浮かんだ。


 その前に、妊娠とはイリス一人の力でなしえることではない。伯爵に協力をお願いするよりほかに方法はない。


 仮に子供が出来ても、伯爵がその子を可愛がってくれるか……イリスは想像に苦しむ。甥姪に対する目に悪意はないから子供が嫌いなわけではないのだろう。が、あまり関心を示していないように見える。甥姪とはいえ余所(よそ)の子だし、多少の他人行儀は目を瞑るべきだろうが、その点を差し引いてみても伯爵の態度は無関心に映る。それに彼の性格を加えれば、自分の時間を家庭のために割いてくれるとは思えない。


 王女にどう返答するか、悩んでいるのが明白な伯爵夫人に、レネー姫は笑みを浮かべて


「……どうやら、困らせてしまったようね。他人が囃し立てるのはよくないわ」


「でも楽しみにしているわ」とさっきよりも控えめな言い方をして、王女はまた微笑みを顔に浮かべた。


 この小さなお茶会から一時間程度で、王女と騎士は邸を立つことになった。


「お世話になりました。二人とも、また次にお会いできる日を楽しみにしているわ」


「殿下も。次はもっと時間のある時においでください」


 お別れの挨拶を口にした王女に、伯爵はまだ愛想のある声音で返した。が、愛想があるといっても〝まだ〟愛想がある、という意味であって、他の人の目には無礼に映るに違いない。


 見事なまでに最初から最後まで同じ態度を貫き通した彼である。動じない王女もタダモノではないと、イリスは今更ながら再確認した。


「イリス様も元気でね。王都についたら手紙を書くわ」


「ありがとうございます。レネー様も、公爵様も、お体を大事になさってくださいね。次においでになる日を心待ちにしております」


「ええ、ありがとう。……じゃあ、そろそろ行こうかしら。クインリー、行きましょう」


 話しかけられなければ言葉を話さない性質の公爵はさっきから黙ってばかりだったが、レネー姫の話しかけられると「ああ」とやっと一言もらし、王女の分の荷物も持って背中を返した。


「殿下」


 思い出したように騎士に倣って背を向けた姫を呼び止める。隣に立つ使用人に目配せし、なにやら紙袋のようなものを受け取ると、それをそのまま王女に渡した。


 王女は受け取った後、怪訝そうにその袋を見ていたが、ちらりと中をのぞいて目を真ん丸にさせた。

 絶句する王女に数歩歩み寄り、伯爵は少し声を潜める。


「……お取り扱いにはご注意を」


「ええ、ええ、ありがとう! これがあればしばらく、退屈せずに済むわ! ああ、伯爵。やっぱりあなたを愛しているわ」


 これ以上ないほどキラキラした目で愛の言葉を叫ぶ王女に面喰うイリスだが、伯爵のほうは見慣れている様子で王女の反応を涼しい顔で受けている。


 一体中に何が入っていたのか……。とても気になったが、王女が帰ったあとも仕事が立て込んでおり、質問する暇がなく、結局、伯爵とまともに会話できるのは夜の時間になってしまった。


 元々、王女の滞在で多少、仕事の時間を割いていたので、そのしわ寄せがきている。そのため、今日はいつもより遅い終業となった。


 食事を終え、休息をとる。別に日常生活に支障をきたしていたわけではないけれど、高貴なお方が帰ったことでなんとなくホッとして、いつも以上に集中して読書をすることが出来た。


 湯で体を温めた後に寝台に入って続きの本を読んでいると、寝室の扉が開いた。


 まだ少し濡れた髪を持て余した伯爵は、イリスが本を読んでいるのを見るや否や、口を開いた。


「起きていたのかね」


「はい。なにかお飲みになりますか?」


「水を」


「はい」


 寝台から降り、簡単にガウンを着付けて水差しからグラスに水を注ぐ。


 それを伯爵のところに持っていき、手渡す瞬間、イリスはギョッとして、伸ばされた伯爵の手を空いているほうの手で掴んで凝視してしまった。


 なんせ、いまの伯爵の手といったら悲惨なものだった。手の甲にはいくつか赤い発疹が出来、それが指先にまで広がっている。触ってみないとわからないが、手のひらはざらざらとして、なにかの薬品で焼いたような感じを覚えた。手の薄皮が剥け、乾いて硬くなっている。


 王女が来る直前、手を重ねたときにもなにか乾いたようなザラザラした感触を覚えたが、それがますますひどくなった感じだった。


 ところによっては、虫刺されか火ぶくれを思わせる広範囲の発疹もある。


「あ、の……この手はいったい……?」


 当然の質問であるはずなのに、伯爵は迷惑そうな、大きい溜息を吐き出した。


「そう気にするほどのことでもないだろう」


「なりますよ! こんな酷い発疹! 何処で作ってきたんですか!」


 七つも年上の人を叱りつけながら、久しぶりに妻らしい発言をしたことに気付き、「久々だなあ」と妙に清々しい気持ちで考えた。


 イリスの叱咤に対して、伯爵は何も言わず、ただ無表情でイリスの手に包まれた自分の手を見ていた。そんなに興味があるのかな、と不思議に思いながら、イリスは伯爵の寝台のすぐそばにある箪笥に手を伸ばした。


「かぶれかな……いま、軟膏を塗りますから」


 二日前からずっとさりげなく置いておいた軟膏を手に取る。事前に告知していたのだが、忘れていたのか、それとも気づかなかったのか、よくわからないが軟膏に使われた形跡がないのは明らかだった。


 一言断ってから寝台の端に腰かけて、蓋をあけてガラス瓶に指を突っ込む。適量取ってから手に塗り付け、それを伯爵の手の甲から指先へと、優しく擦りこんでいく。


 湯浴みの直後なので、伯爵の手はほんのり暖かい。そのせいか、軟膏がすぐに肌になじんでいった。


「明日は夜会なのに……さすがになおりませんよ」


「そうだったかな」


 言われていま夜会のことを思い出したらしい。伯爵が人前に出ることをあまり好まないのは知っていたが、貴族に大切な社交に対する無関心さもここまでくれば、イリスも呆れの溜息を吐く。だが、本人は『明日は明日の風が吹く』といった風情で涼しい顔だ。


「まあ、手袋をすれば目立たないだろう。心配はない」


「そういう問題じゃありません。痒みはありますか?」


 尋ねると、「少し」と返す。イリスは苦い顔をした。


「それ、明日はもっと痒くなりますよ。定期的に薬をぬらないと」


 またガラス瓶に指を突っ込み、肌に擦りこむ。さっきと同じく、イリスの指先は、忙しく円を描いた。


 ウェンデルは、やけに甲斐甲斐しく手当してくれるイリスをまるで他人事のように見つめていた。

小さいころから父に土産として、本だけでなく珍しい薬品や植物、研究器具を与えられてきたウェンデルは、当然それらで実験することを好み、自分で薬を作ったりもしていた。元々、敏感肌だったようで、その際に触った薬品や薬草でこんな風に手を荒らすことも多かった。いまの状態は、あのころに比べればまだ許容範囲だ。


 慣れっこのウェンデルにはイリスの反応が、少し迷惑なほど大袈裟に感じられた。


「そんなに気になるかね」


「ここまで酷いと誰でも気になります。……あ。もしかして、触られるのは迷惑ですか? ご自分でぬりますか?」


 イリスはピタリと手を止める。そういえば、伯爵はあまり人にベタベタ触られることを好まない。社交にでかけたとき、美しい令嬢にぴったりと身を寄せられても顔には作り笑いを浮かべてばかりで嬉しがっているようには見えなかった。


 そのことを思い出して手を離そうとすると、手首を掴んで引き止められた。まだ擦りこんでいる最中なので、ベタベタした軟膏の感触が残っていた。


 思わずといった風に制止するよう掴まれた手と伯爵の顔を交互に見つめる。「続けろということか」と納得して、また軟膏を擦りこんだ。


 やがて手のべたつきも消えていき、初めに比べて肌が滑らかになると、ゆっくりと手を離す。


「明日から定期的にぬってください。完全に治るまで薬品に触ることは禁止です」


 なんだか医者のような口調になってしまった。ジッと下から挑むように伯爵を見上げると、彼は面倒くさそうな微妙な顔つきになった。イリスに指図されたのが気に入らなかったということはすぐにわかったが、あなたを思ってのことなんですが、とイリスは少しムッときた。


 ムッときた気持ちをこめて睨み付けるようにすると、ややあって目力に負けた伯爵が溜息を吐いた。


「薬品はもうない。使えそうなものは全部殿下に差し上げた。あとは廃棄した。安心しろ」


「そんな危険なものを殿下に差し上げたんですかっ!?」


 あの袋の中身はそれだったのか! 確かに、あの王女なら喜ぶような品だ。……いやいや、そうではなく。


 やっと謎が解けてすっきりしたのもつかの間、イリスはゾッとして顔を青ざめさせた。そんな危険な薬品を王女が使えば、どうなるか、子供でも分かる。あの細く手入れの行き届いた繊細な指が真っ赤に腫れ上がるところを想像しただけで……ゾッとする。


「いますぐ、殿下に手紙を書きます。ていうか、そんな危険なものを殿下に渡すなんて! どういうつもりですか!?」


「……うるさいな。少し落ち着きたまえ」


 伯爵はうるさそうな顔をして喚くイリスを見ている。


 まだなにか言ってやりたい気持であったが、確かにイリス一人が喚いていても解決しない。一旦、黙ることにし言葉の代わりに深呼吸をした。


「あの人はそういうことに手慣れている。これは私が誤って瓶の中身を手にぶちまけただけだ。しかも水で流さず放置しておいたからこうなっただけで、すぐ水で洗い落して軟膏をぬっていれば、こんなことにはならなかった」


 そうはいうが、要は危険なものには変わりはない。だが堂々としている伯爵になんだか毒気を抜かれた気分で、イリスはジトッとした目で伯爵を睨んだ。


「……どうなっても知りませんからね」


 さりげなく脅しをかけるが、伯爵はよくある皮肉気な笑みを口元に浮かべただけだった。その笑みがやけに余裕があるように見えて、イリスはいつもながら悔しい気持ちをかみしめるのであった。


 拗ねた顔のイリスは元の童顔も相成ってさらに子供っぽく見える。ただでさえ幼顔なのに、拗ねると学生のように見える。


 物言いたげな蜂蜜色の瞳を覗きながら、そこに映る自分の顔がはっきりとして、吸い込まれていくのを、頭の隅で不思議に思っていた。


 深緑に波打つ黒髪。男にしては少し線の細い顎。切れ長の目にはめこまれた自分でも表情の読めない緑の瞳には普段から愛想というものがまるでない。


 本当に父に似ているのだな、と吸い込まれていく自分の姿をみながら、唇に柔らかな感触を覚える。


 イリスに口付けたのだとぼんやり認識した時には、柔らかな唇の感触に魅了されていた。


 反射で逃げる腰を腕で囲い引き寄せ、近くなったイリスの顔を覗き込むと、上を向いた睫毛が静かに伏せられて、恥じらうような表情になった。


 ――伯爵に対して、どうしてこんなにも動揺しているのか。


 伯爵の口づけは、いつも彼の気が向いたときにされる。毎日のときもあれば、三日ご無沙汰のときもある。


 はじめドキドキしたときは、慣れない異性に触れられたせいだと思っていた。最近になって伯爵と過ごす時間が増えていくと、次は慣れない口づけのせいだと思い込んだ。だが、その口付けを覚え、慣れてきたここ最近でもまだ動悸が止まらない。何故まだ胸がドキドキするのか、次の理由を見つけることが出来ない。


 わけがわからなくなって気持ちを落ち着かせるため、ほうと溜息を吐くと、伯爵は笑いを含んだ声でからかった。


「私の口付けはそんなによかったか?」


「なっ……!?」


 あまりに自信過剰な発言に、イリスは絶句した。


 絶句して思わず半開きになった口に熱い口付けを与えられ、するりと舌が滑りこんでくる。伯爵の熱い舌が自分のそれに絡み、温度が分け与えられるのを感じながら、イリスはどうしたらいいかわからなくなる。


 伯爵によって――こういういい方は不愉快だが――伯爵好みに教えられた口付けが苦痛であるはずがなく、すでに心地の良いものだと認識している。だが、その口付けに応えてよいのか、イリスは口付けのたびに困惑するのだ。


 何故かというと、まず、伯爵の口づけには〝愛〟がないということを述べておこう。イリスはあやふやなものは自分の目で見て、自分の耳で聞いたことしか信じないことにしている。だからいくら甘い口付けを与えられても、言葉で気持ちを教えてくれないと決断できないのだ。ましてや、愛など。


 困惑を極めているうちに、より深くなり、より絡むようになった舌先は徐々にほぐれ、最後に短い音を立てて離れていった。


 口付けをやめると、伯爵はふいと目をそらしてベッドカバーごと毛布をめくった。


 もう寝るのか、と思いまだ酸欠の頭だがのろのろと寝台から立つと、背後から呼び止められた。

「何処へ行く?」


「何処って……自分の寝台ですが……」


「寒いから、今日は私の寝台で寝ろ」


「……えっ」


 久々の要求に、声をもらした。今年も寒かったが、まだ一度も添い寝をしろとはいわれなかったので、今年はないものとばかり思っていたのだが……。


 しかし、ここで逆らうとあとが厄介である。イリスは黙って伯爵の元へ戻り、毛布の端を捲って中に入った。


 一人用とはいえ、貴族と庶民の一人用とはやはり規模が違う。大人二人は余裕で寝れる大きさだ。


 状態を起こした状態でベッドカバーなどを整えている間に、隣の伯爵は柔らかな枕に頭を沈ませる。


「灯りを」


 消せ、と言外に言われて、イリスはふっと燭台に向けて息を吹きかける。二、三度繰り返して、ようやく燭台の火は消えた。


 部屋は真っ暗だ。カーテンも閉め切られ、向こう側にあるイリスの寝台は人気がなくなんとなく不気味に見え、すぐに寝台に身を沈めた。


「おやすみなさい」


 伯爵から背を向けることも忘れない。いくら暗闇でも、さっきのいまで顔を合わせられるような神経を、イリスは持ち合わせていなかった。


 背を向けると、衣擦れの音が聞こえて、伯爵の片腕がイリスの腰を探り、自分の体にぴったりと合わせるように引き寄せる。もう片方の手はベッドカバーの上を移動して、イリスの髪に触れた。


「……ああ。おやすみ、イリス」


 夜の挨拶は自分の仰々しいものに比べると砕けたもので、代わりに髪に通す手は大胆だった。す、す、と手で髪を梳かれているのに気づいていたが、イリスはあえて振り向いたりしなかった。


 こういう、恋人に対するような優しい手つきは、イリスにしてはいけない〝期待〟をもたらす。いくら期待してもそれが実を結ばないことを知っているから、胸がずどん…と深く沈んで陥没した。


 イリスははじめて痛みを訴える胸をごまかすように大きな溜息を吐いて見せたのだった。

第四章、最終話です。感想なんかいただけると幸いです(^―^)

イリスの伯爵に対してモヤモヤするというちょっとした感情の変化……この二人、次の章ではどうなるのでしょう……。

続きは第五章で。お楽しみに!!

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