王女と伯爵の雑談
レネー姫と騎士が伯爵邸から一番近い街を見に出て帰ってきたのは、あたりが暗くなってきた頃のことで、イリスと伯爵がようやく仕事を片付けて一息ついた頃だった。
二人を待ってから夕食をとる。今日の夕食も料理長が腕によりをかけた逸品であるようで、王女の滞在が最後の日だからか、いつもよりもひと手間かけてあるように見える。
いまはやんでいるが、雪が降ってたため夜は暖かい料理が主で、パン、潰したジャガイモに炒めたベーコンとハーブを和えたサラダ、丹念に裏ごしされたカボチャのスープ、肉の煮込み、チーズ、最後に口直しとして果物が用意された。
それらにナイフとフォークを入れながら、レネー姫は昨日と同じく街に出たときのことを語ってくれた。
時間的にも、王女に紹介できる大きな街はベルセローナしかなかったのだが、一日過ごすには十分だったらしく、王女も話題が尽きないのか自然と饒舌になる。
「やっぱり一番は、町はずれの市場ね。とてもよかったわ。珍しい薬品や専門書を扱っていて、飽きなくて。近くに歓楽街があるのも便利でいいわね」
恐らく、大量に買い込んだのだろう。といっても、この王女の場合、宝石や置物などではなく専門書とか薬品とか、そういったものなのだろうが。荷物持ちにさせられたのか、公爵はこっそり苦い顔をしている。
伯爵は葡萄酒の入ったグラスをゆるゆると揺らしながら、相槌を打った。
「そうですか」
「ええ。あなた、商人からの人気がすこぶるいいのね。どの商人もあなたのことを褒めちぎっていたわよ」
「……ほう」
「商人だけじゃないわ。領民にも慕われているのね。悪く言う人がなかなかいないの。視察結果は贔屓目なしに満点よ。王太子殿下にもそう報告しておくわ」
王太子に報告する。それはつまり、次の王に名を覚えてもらういい機会である。地方領主でもいい評判が立てば、宮廷に呼び出される可能性もなくはない。少しでも野心のある地方領主なら、満点の評価をもらうためにレネー姫に賄賂を贈っているところだ。もちろん、この明け透けな王女は、受け取るどころか手に取ることも嫌がるだろうが。
伯爵も結構な野心家であるように思うのだが、政治には関わらない主義のようで、王太子殿下への報告に関してはほとんど無関心だろう。だが、領地をよりよくすることを目標に投資したりする人だから、レネー姫が伝えた領民や商人の評価は彼にとって嬉しいことであったようで、
「身に余る光栄です。ありがとうございます、王女殿下」
感謝の意を口にした唇が心持ち吊り上がり、声が嬉しさを抑えたようだったのは、イリスの気のせいではあるまい。
食事を終え、食後に休憩を兼ねてお茶を飲み、本を読む集中力が切れると、あとは湯浴みをして寝るだけとなる。
イリスは風呂に入る前、食後のお茶とは別にミルクをたっぷり淹れた甘いお茶を飲むことがある。
たっぷり、というかほとんどミルクにしかみえないのだが、本人がおいしそうに飲んでいるので口を出す気にはなれない。けれど気にはなるので視線を流しつつ自分もお茶を啜っていると、そのうち視線に気づいたのか目があう。
実を言うとウェンデルの視線の先は小さな唇だったのだが、本人は気づかない。
「あの、あまり見ないでください。照れます」
ほとんど棒読みで言われて、心の中で苦笑する。自分が視野に入っていないような言い方をされると、からかって自分に目を向けさせたくなる。
髪を触ろうと手を伸ばすと、ウェンデルの不穏な空気を感じ取ったのか、イリスは慌ててティーカップを置いて立ち上がった。
「そろそろお湯の用意が出来たかもしれないので失礼します」
「………」
さっと距離を取られて、心の中で舌打ちを打つ。イリスも馬鹿ではなく、最近ではこういう風に避けることも覚えてきた。
生意気な、と憤慨すると共に、これで他の男も不用意に近づかせなくなるだろうと妙な安心感が生まれる。もとより鈍感なのか、自分が平凡で地味だから誰も寄ってこないとたかをくくっているのかは不明だが、今までは自分目当てで近づいてきた男とそうでない者の区別がついていなかったのだ。
「待ちましょうか?」
黙ったことを不思議に思ってか、そんなことを聞き出す。
別に同じ湯を使っているわけではないし、ウェンデルは「いや」と首を振る。
「構わない。好きにするといい」
「は……はい」
簡単に引き下がったことに面喰ったのか、虚を突かれたような顔で頷き、よろよろと部屋を出ていく。
パタン、と空虚な音を立てて扉が閉まり、一人きりになると、人知れず息を吐く。
イリスがいると確かに落ち着いた感じはするのだが、今まで一人でいた時間が長かった分、密室に一人のほうが気兼ねしなくてよいのでよいと感じることも多い。
燭台の緩やかな光が短い安息の時をもたらしてくれる。
いまは手元に本がないからだろうか。自分はいま、どんな顔をしているのだろうとどうでもいいことを考える。とてもくつろいだ顔をしているに違いない。なんとなく子供の頃、顔を見に訪れてくれた父が子供に見せた顔を思い浮かべた。母に似て愛嬌のある顔をした弟に比べて、父寄りの顔をしているからだろう。
多忙の合間をぬって別邸を訪れ、定期的に土産をくれたことを思い出す。そこで、レネー姫に貸した図鑑や本や実験器具のほとんどが、父に与えられたものだということに気付いた。
「さて……」
独り言をつぶやいて、外を見る。雪がまだ解けず残っているので、今日は寒い。人肌が恋しいと思うのは、仕方がないことだろう。
機嫌取りもこめて愛人のところへ行くか、と検討していると、扉が叩かれた。
イリスだろうか? なにか忘れ物でもしたのかと、ウェンデルは扉を開けて――思わず条件反射で扉を閉めた。
閉まりきる前にすかさず足が滑りこんでくる。ガッと鈍い音がして、相手の足の甲が扉に挟まる形になり、状況を飲み込んだウェンデルは溜息を吐いて再度、扉を開けた。
「王女殿下……」
「どうも、伯爵。おやすみのご挨拶をしにきたのだけど……イリス様は?」
ウェンデルの肩越しに室内を見ようとする王女に、「湯浴みに」と答える。すると、王女殿下はニッコリと天使のような笑みを浮かべた。――この顔は、後に続く言葉が怖い。
「だったら遠慮しなくていいわね。中にいれなさい」
「何年も前からしつこく申し上げておりますが、王女殿下。淑女が夜に男の部屋を訪ねるものではありません」
なんとなく予想していたので、瞬時に用意した言葉で追い返そうと試みる。が、こんなことで引き下がるようなお方ではない。
「冗談がお上手ね、伯爵。この私が寝込みを襲うような図太い女に見える? いいからとっとと中に入れなさい。明日には帰るんだからいいじゃないの」
普通、逆だろう、と突っ込みたい。元教育係の叱責をものともせず、レネー姫は心なしか胸を張っている。
まったくこの人は。ウェンデルは溜息を禁じ得なかった。こうくるとこの王女の首を縦に振らせるのは至難の業だ。
「一歩間違えば私の世間体にも関わるのですがね……」
ブツブツいいつつ、風邪をひかれると困るので、中に入れてやる。
男一人の部屋へ無防備に足を踏み入れたレネー姫に、ウェンデルはますます溜息を深くする。王女の今の恰好は、一目で夜着とわかるネグリジェにガウンという出で立ちである。いますぐ襲ってくださいと公言しているようなものだ。
信頼されていると考えればいいのに、皮肉屋気質が抜けず、ウェンデルは疲れた溜息を吐いた。
「どうぞ、おかけください」
「ありがとう」
「なにか飲みますか」
「いいえ。ちょっと話がしたいだけだから」
一番上座にあたる一人掛けの椅子をすすめ、座るのを見届けてから、自分も長椅子に腰かける。
……何故だろう。早くも胃が疼いてきた。嫌な予感しかしない。
その唇から一体どんな言葉が出るのか――警戒しているうちに、口を開く。
「離婚の決心はついた?」
嫌な予感、的中。だがこれくらいは予想していたので、すぐに答えられた。
「いいえ。離婚はしません」
「別居? だったらイリス様には王城に部屋を用意させてもらうわ」
「殿下。離婚しないというのは二人で決めたことです」
「……つまり、わたしは振られたということね」
深く言わずとも意を解したらしく、ちょっと残念そうに唇を歪めてみせる。だが、とてもではないが残念がっているようには思えなかった。
「あまり残念そうではありませんね」
「わかる? あまり期待はしていなかったから」
「……。あなたという人は……」
期待していないのなら口に出すな、迷惑だ。とはさすがに失礼なので口に出さない。だが顔には出ていたのか、レネー姫は軽やかに笑った。
その態度にますます呆れながら、ウェンデルは息を吐く。
「もしイリスが宮仕えをすると言ったらどうする気だったんですか」
「もちろん、雇ったわ。優秀な人が欲しいというのは事実だもの。これからの私の立場には、必然的に政治が付きまとうことになるでしょうから」
面倒くさそうな息を交えつついう王女殿下に、ウェンデルは少し驚いたようにする。
「結婚ですか。次の相手は誰です。確か、ジラ侯爵の三男とは破談になったと聞きましたが……」
「……あんなやつはクズよ。頼まれても結婚しないわ。修道女になったほうがマシよ」
唾棄するようにいって、王女殿下は嫌悪を顔に刻む。
ジラ侯爵とは宮廷に出入りする力を持ち加えて金持ちの貴族だが、三男の素行の悪さは北にも届くほどだった。そんな男と結婚なんて殿下もお可哀相に、というのは、どうやら余計なお世話だったらしい。
レネー姫の縁談話は出生の直後から数多く上がっていた。父は先王の弟であるキャルヴィン殿下で、母はいまだ歴史も力もあるアンドラーシュ侯爵家の出身、国王の従妹姫で王太子たちの覚えもめでたいとなれば、誰もが彼女との縁談を望んでいた。
だが不思議なことに、その数多くの縁談話がきちんと纏まったという話を、聞いたことがなかった。王族の娘なら若くして婚約し、今頃結婚でもおかしくないのだが、レネー姫は七度も破談となっている。
十四歳の時、六つ年上の従兄にあたる西の領主と婚約し、かなりいいところまで行ったと聞いて安堵したのだが、それすらも纏まる直前で破談になった。元教師としては、早く身を固めてもらいたいものだが、どうもこの姫には結婚願望がないらしく、今まで長い目で見守ってきたのだが。
「選り好みも程々にしませんと。本当に嫁き遅れますよ」
「構わないわ。そうなれば一生独身でいるだけよ」
「殿下。我儘はいけません」
「……その台詞、そのままあなたに返すわ」
冷ややかな視線つきで痛いところを突かれ、ウェンデルはぐっと言葉を飲み込む。「我儘はいけません」など、自分が一番人に言えないと自覚があっただけに、言い返せないのが少し悔しくもある。
言葉を飲み込んだウェンデルを見て、レネー姫は嘆息した。
「わたしだって、自分の立場くらい理解しているつもりよ。どんな年上の男でも嫁いでやるわよ。ただ、不誠実な男は無理。絶対いや」
貴族の男に誠実を求めている時点で、姫の婿探しはこの世で最大の難関であるように思えてくる。
「……では、イビンルードはどうです。爵位は公爵、一代限りの貴族ですから爵位を子供に継がせることは不可能ですが、婿入りは可能です。手続きさえすれば、子に殿下が受け継いだアルヴィ領を継がせることが出来ます」
「……ああ、確かに。そういう話も出ているらしいわね」
半分冗談の駄目元でいってみただけなのだが、意外なことに肯定された。少し驚いたものの、自分が考えることを政治中枢にいる要人たちが考えないわけがないと思った。
「悪くない縁談だと思われますが」
「そうね……あの人は浮いた噂もないし」
ジラ侯爵の息子を「クズ野郎」と罵ったことを考え見ると、イビンルードとの縁談にはまだ希望が見える。姫の年齢も考えると、この話はウェンデルが思うよりも早くに纏まる気がした。
「わたしに比べて、あなたの結婚は思ったよりも早かったわね。あなたは結婚願望がないというか、結婚したくないって感じだったからもっと遅いと思っていたわ」
「……別に、そういうわけではないのですがね」
苦笑する。比較的自由なレネー姫とは違って、ウェンデルは直系長子で家がそれなりに大事だと思っていたし、政略結婚にも寛容だった。だが、親戚連中が張り切って勝手にお見合いを設けたりしたため、父が怒って若いうちの結婚はなくなったのだ。とりあえず大学を卒業してから結婚させる、と父は宣言していたが、その父も息子の卒業を見届けることなく鬼籍に入ってしまった。
爵位を継いでまもなくは学業で忙しかったし、正式に当主として動くようになったときはそれはそれで忙しくて結婚どころの話ではなかった。その間にもしつこく縁談をすすめられていたので、疲れていたこともあり結婚する気が完全に失せてしまったのだ。
イリスと結婚しようと思ったのは、ちょっとした奇跡だ。家格なら愛人のマリーシュカのほうが上で親戚も妥協しただろうが、ウェンデルはどうもああいう類の女を妻にする気が起きなかった。
結婚するなら、夫の気を引こうとうるさく囀る小鳥のような妻より、いるだけで落ち着くような、知性溢れる女性がいい。加えて気遣いが出来、穏やかで、貞淑だとなおいい。
「思ったよりもうまくいっているようでよかったわ。ところで、離婚しないってことは、子供をつくるってことよね。子づくりはいつの予定?」
ここにお茶があるなら思いっきり噴出しているところだ。いまなくてよかった、とウェンデルは柄にもなく安堵したことを咳払いでごまかした。
……どうしてこうも話が飛躍するのか。
「……いいですか、殿下。淑女が明け透けに夫婦の営みについて聞くものではありません」
思わず説教口調になってしまった。この人には守秘義務という言葉はないのかと目を向けると、レネー姫はポカンとしたような顔をしていた。
「もしかしてそっち方面に自信がないとか? 王都からいい薬草を届けるけど」
「……違います。子供はまだ考えていないのです」
「あら、そうなの」
先程のポカンとした顔は何処へやら。ケロッとしたように前言を撤回する。
王女だからか。それとも、元の性格なのか。ズレた感性は相変わらずである。
「じゃあ、わたしはそろそろお暇するわ。お昼間にはお暇する予定だから」
雑談が終わるや否や椅子から立ち上がり、王女は明日の予定を話し出す。
扉口まで送りながら、ウェンデルは目を瞬かせた。
「もっとゆっくりなさればよろしいのに」
「宿に置いてきた侍女に明日の夕方には帰るといってしまったの」
「だから気持ちだけもらっておくわ」という微笑む王女に、ウェンデルは息をつく。
「もう二日ですか。賑やかだと時が経つのも早い」
「そうね。また来年、視察に来る予定なの。そのときもまたお世話になっていいかしら」
「ええ。お待ちしております」
この王女といると胃が疼くような気がするが、別に彼女本人が嫌いなわけではない。
それに、視察帰りの王女がもたらしてくれる情報はウェンデルにとって価値のあるものばかりだ。領地をより良くしようと画策するウェンデルには、王女の来訪は喜ぶべきことなのだ。
扉を開けたところで、暖かい部屋に冷たい空気が入り、頬を打つ。
「部屋まで送りましょうか」
「いいえ、大丈夫」
「では、お休みなさいませ、殿下」
最後に就寝前の挨拶をして、ウェンデルは王女の後姿を見送ったのだった。
文字通り雑談でした(^^;)
ちょっとラブが書きかけなので、平日中には愛のある話を上げようと思います。……と自分にプレッシャーをかけてみたり。無理だったらごめんなさい。