伯爵夫妻の考えること
翌朝。
執事の予想通りに雪が降り、昨日より雪の観察を予定していたレネー姫は庭の四阿に顕微鏡を運びこんだ。
顕微鏡のほか、頭が痛くなりそうな理系の文字が並ぶ書物に、ノート、鉛筆などのスケッチに使う文房具が置かれ、四阿の質素なテーブルは賑わっていた。
冷えたガラス板に雪を受けて顕微鏡を覗き込む――それを、朝から延々と繰り返している。
もう二時間も経つ。さすがに王女の体が心配だ。降雪の少ない王都育ちの華奢な体が、一日やそこらで北方の気候に順応するわけがない。
「レネー様……寒くはありませんか?」
温かい飲み物を持っていく使用人についてきたイリスは、邸内との差に思わず身震いした。
そしてそれを外套一枚で凌ぐ王女には別の意味で鳥肌が立ってくる。イリスですら厚着した上に毛糸のショールを羽織っているというのに、王女ときたらなんの加工もしていない上着一枚の姿なのである。
「そうね。少し冷えてきたかもね」
よほど集中しているのか、伯爵夫人に対しても生返事のように返し、顕微鏡を調整している。
片手では顕微鏡を抑え、もう片方の手ではまっさらなノートに鉛筆を走らせ、慎重に絵を描いている。
スケッチ、というには雑であったけれども、ちゃんとした形で雪の結晶が描かれていた。一つ一つ、形状が違い、味がある。
使用人がお茶の準備を終え、体を震わせながら四阿を下がっていき、まだ冷めないうちにとイリスは粘り強く王女に語り掛けた。
「レネー様。お茶が入りましたよ。一旦、手を休めて休憩なさってはいかがですか?」
「後でいただくわ」
「どうか、今すぐ召し上がってください。こんなに冷えたお体では、すぐにお風邪を召しますよ?」
ジッと蜂蜜色の目で王女の真赤な指先を見つめる。と、そのとき、レネー姫の近くに座っていたイビンルードが「くしゅっ!」とくしゃみをし、レネー姫は諦めたように苦笑した。
「そうね……クインリーも寒がっているし、いただこうかしら」
「はい。公爵閣下も是非」
「助かる」
それだけいって、イビンルードはありがたそうに熱いティーカップを取った。白手袋をしていても随分と冷えていたようで、しばらくはカップに移った熱で手を温めていた。
レネー姫も同じようにしながら、先程まで鉛筆を動かしていたノートを捲る。
「一括りに雪の結晶といっても、一つ一つ形が違うのですね」
「そうなの。面白いでしょう? 私も一度この目で見てみたかったのよね。王都は年に三、四回しか雪が降らないから、図鑑を眺めるしかできなくて。お父様とお母様にもいいお土産が出来たわ」
「……へ?」
思わず間抜けな顔で問い返すと、「あの二人はこういうもののほうが喜ぶのよ」と笑って王女はお茶を啜った。
白い喉を上下させたとき、紫の瞳が心地よさそうに細められる。満足げな溜息が吐き出されて、しばらくの間、満たされた表情を浮かべた王女は、何かの拍子にイリスに目を向けた。
「ところでイリス様。ご夫君から宮仕えのお話はお聞きくださったかしら? 彼、なんていってた?」
「えっ!?」
突然、別の話を出されてイリスは仰天した。
今まで封印して、なるべく気にしないようにしていたやけに素直な伯爵の言い分と、間近にやってきた夫の顔を思い出し、イリスはそこに穴があるなら埋まりたいと心の底から思った。いま、間違いなく自分の顔は赤い。
「出来れば答えてほしいわ」
真顔で強制する王女から反射的に赤い顔をそらす。
「えっと……」
「ん?」
王女は眉を上げて半分面白そうに先を促す。
「私を選べ」という、捉えようによっては意味深な言葉がグルグルと脳内を回るが、そのあとに「秘書探しが面倒だ」という言葉が続いたのを思い出し、イリスは二度目の落胆を味わった。
――伯爵にとって、自分はその程度なのだ。「私を選べ」という言葉にも、深い意味はない。
まだ胸はドキドキしていたし、動揺もしていたが、そう考えるとさっきよりも幾分か落ち着いた口調で答えられた。
「わ……私を選べと言われました」
「あら、そう。あなた、愛されているのね」
いつもの調子でサラサラと水が流れるように衝撃的な言葉を口にされ、イリスは一瞬、何を言われたかわからなかった。
「ご、誤解です!」
「そうかしら」
「絶対にありえません! 閣下はわたしのことなんてどうとも思っていませんよ。秘書仕事が出来る人ならだれでもよかったんです」
仕事が出来るのならば犬でも猫でもよいのでは、というのがイリスの推測である。
どうとも思っていないというのは、許可なく攫われるように連れてこられたのがその証拠である。自分の気に入った商品を取り置きしておいてもらうくらいの気持ちだったに違いない。
言っていて悲しいが、事実はしっかり述べておかなくてはいけない。変な誤解を抱いたまま王都に帰られては遅いのだ。
慌てて誤解を解こうとするイリスに、王女は首を傾げた。
「でも仕事が出来るだけの人が欲しいなら、結婚する必要はなかったはずだわ。そう思わない?」
それは……結婚当初からイリスが抱き続けてきた疑問だ。当の本人でさえそう思うのだから、この聡明な王女殿下が疑問に思わないはずがない。
だが伯爵自身、イリスを誘拐……ではなく邸に連れてくるとき、兄の代わりに秘書が出来る人が欲しいと発言していた。それ以外に何か? とも返された。他に理由はないと本人が言っていたのだから、イリスはそれを信じるしかない。
「ですが、閣下自身がそのように仰っていましたし」
「……伯爵の言い方が悪いのね。あの人、私と同じで口下手だから」
溜息を交えつつ、王女殿下は空に向けて呟く。それから、くすりと笑った。
「伯爵はあなたをかなり気にしているように思えるけど……ねえ、公爵?」
「……そうかもな」
昨晩のことを思い出させるように冗談めかした口調でいったあと、伯爵を真似して騎士にねっとりと絡むような視線を送る。
お茶を啜っていた公爵はかなり微妙な顔をし、その隣に座るイリスは別の意味でもっと微妙な顔をしている。
こうも鈍感だと伯爵も報われないわね……自業自得だけど。そんなことを考えながら、王女はお茶を啜る。
「……話を戻らせてもよろしいでしょうか」
「どうぞ?」
「宮仕えのお話は本気なのですか?」
「もちろんよ」
王女は強く頷く。乗り気になったと思われたのか、心なしか嬉しそうな目に、イリスは表情を曇らせた。
「その、直々のお招きはとても光栄に思っているのですが、どうしてわたしなのかお聞きしてもよろしいでしょうか? いまの仕事は書類整理にお茶くみ、時候のお手紙を書いたりと大変地味なもので、宮廷などという華々しい場には合わないかと……。社交も苦手ですし……」
「話し相手にしかならない洗練された貴族の女官が欲しいわけじゃないの。働くことに理解を持った、自分に与えられた仕事に真剣に向き合うあなたみたいな女性がいいわ」
確かに、自賛するわけではないけれど、イリスは任された仕事には真剣に向き合う性質だ。むしろお菓子を食べてお茶を飲みながら洗練された会話をするのは苦手で、滅多に表に出ない秘書仕事は天職だった。
「侍女長の職務内容も結構似たものよ。私の代わりに時候の手紙を書いてくれたり、公務の予定の管理とか……あ、そうそう。侍女長は見習いを育成することが義務付けられているの。だから常に二人は傍にいるわね。もしもの人手不足の心配はなし。案外、ここの仕事よりも楽なんじゃないかしら?」
楽なんじゃないかしら? ではなく、明らかに楽である。特に、人手不足の心配がないというところが羨ましい。
伯爵には現在、イリスしか秘書がおらず、常に人手不足である。イリスが一度、体調を崩したときはそれは大変だったと聞いている。
彼にはイリス以外に秘書を務められるような人がいないのだ。だから彼も焦っている。多分、そういう意味での「私を選べ」である。
だがそういわれて少し嬉しかったのもまた、事実である。ほんの少しだけ、今までの苦労が報われたような気がした。
突然、静かになったイリスに気付き、王女はあえて何も言わず飲み干したカップを受け皿の上に置いた。
「あなたも色々考えるところがあるでしょうから、昨日いったとおり返事は明日でいいわ。でも、よく考えて頂戴。宮仕えをするからには伯爵との離婚も検討してもらわなくちゃいけないから」
「……あ」
イリスはいま気づいたように声を漏らした。どうして気づかなかったのだろう。
王宮というと当然、場所は王都にある。北方の伯爵領から毎日通うことは不可能だ。夫の仕事に同行して首都に移り住む貴族の話はよく聞くが、イリス一人だけ宮仕えするとなると、別居という形を取らざるを得ない。そうなると、誰もが離縁を考える。伯爵が考えなくても、伯爵の親類が彼に離婚をすすめるだろう。元々、イリスとの結婚にもいい顔をされなかったし、これ幸いと詰めかけるに違いない。
「………」
ふと、離婚した時のことを想像して、心が重たく沈んだ。離婚すれば伯爵からも解放され、自由の身で以前の生活に戻れるというのに、どうしてか、以前の生活を懐かしくは思うが、その生活に〝戻りたい〟とは思えなかった。
物悲しさを含んだ複雑な感情が渦巻き、朝食を食べてから数時間が経過しているというのに、鉛が入ったかのように胃が重たい。喉のあたりでグルグルと重たい感情が渦巻いているかのような暗い気持ちになった。
伯爵と離婚して自分がどうなるのかは、安易に予想がついた。実家に戻って実家の工場を手伝うことになるだろう。一度、離婚を経験したうえでの結婚はこのご時世、相手方も受け入れがたいだろうから、自分の再婚はまだ考えられそうもなかった。
伯爵はどうするのだろう?
あれほど「もうやりたくな」と花嫁の前で愚痴っていたが、なにか思うところ――たとえば政略などで――結婚することは、あるかもしれない。
イリスとは比べ物にならないほど高貴な家柄の令嬢を妻とするのだろうか。それもとびきり若くて美しい、可憐という表現が似合いの淑女――例えば、マリーシュカのような。
愛人とはいえ、彼女は伯爵家の出身だ。ドラーヴス伯爵は伯爵を名乗っているが、元々は鉱山投資で財を成した富豪で、借金を肩代わりする代わりに伯爵家に婿入りしたという。貴族なのに成金だらけの商連に出入りしているのは、彼が元々商人だからだ。
父親は成り上がりとはいえ、マリーシュカの体にはちゃんと、由緒正しい伯爵家の血が流れている。没落した成り上がりの血を引くイリスよりも、彼女のほうの家格が高いのは明白である。それに、「心配はない」と伯爵は断言しているが、愛人という立場上、いつ子供が出来てもおかしくない。
もし子供が出来たら、もしそうなったら、イリスはお払い箱と言わんばかりに離縁されるだろう。それは……考えるだけでも、胸が痛むことだった――と、そこまで考えてハッとなる。
なにを考えているのだろうと、イリスは酷く動揺してしまった。ありもしない未来を想像して、どうしてこんなに傷ついているのか。
原因を探そうと頭痛がしそうな思考の中を駆け回っていると、ガタンという音がして顔を上げる。
「体が冷えてきたし、今日はもうお開きにしましょうか。クインリー、これ運んで」
「はいはい」
自分も書物の山を両手いっぱいに抱えながら、一番の壊れ物である顕微鏡を運ぶようイビンルードに命じる王女殿下。騎士は面倒くさそうな返事をしながらも明らかに優しい手つきで顕微鏡を抱える。
そのときになってようやくイリスも頭を切りかえ、王女の重荷を減らすために慌てて立ち上がったのだった。
レネー姫を手伝って部屋まで荷物を持っていくと、イリスは残った仕事を済ませるべく伯爵のいる部屋へと戻っていった。
扉を叩き、遠慮がちに扉を開けると、書類越しにこちらに視線が流される。
――……離婚するとこういうこともなくなるのか……。
なんだか物悲しい気分で自分の椅子に戻ると、一つ溜息を吐いて小山になった手紙の束を片付け始める。
「殿下になにかいわれたのかね?」
よほど元気がなく見えたのか、珍しく気遣うような口調で伯爵が語り掛ける。
いわれたのか、と聞かれるといわれたとしか答えようがないのだけれど、王女殿下に悪意はない。そういうことも考えておくようにといわれただけで、レネー姫に罪はない。イリスが勝手に一人で落ち込んでいるだけだ。
伯爵に言われれ先程のありもしない想像がしゃしゃり出てきて、慌てて「特に何も」と答える。すると、「そうは見えない」と言われて、答えるように命じられた。
王女殿下のこととなるとやけに食い下がるな、と内心で呟き、イリスは口を動かした。
「……考えておくように、といわれただけです」
「引き抜きの話かね?」
「はい」
それだけではないのだが、今は、聞かれてもいないことを言う気にはなれなかった。
再び沈黙が走り始めると、伯爵は書類をずらして、その奥からイリスを見つめた。
「他になにをいわれた?」
「なにも」というため口を開け――少しの間、躊躇した。離婚とは、自分だけの問題ではない。彼に伝える義務もあるのではないか?
躊躇した理由は、他にもある。自分で離婚という言葉を口にするのに勇気が足りなかったし、その言葉自体をいまは口にしたくないという気持ちもあった。――だが、伯爵の反応も気になる。
少し考えた後、なるべく普段通りに見えるように装って声を発した。
「宮仕えの話を受けるなら、閣下との離婚も考えるようにと。そう申されました」
言い切ると、伯爵の反応を窺う。
伯爵は特に驚いた風もなく、手に持っていた書類を机に置くと、頬杖をついた。
「君は離婚したいのかね?」
「そういう閣下のほうこそ。離婚なさりたいんですか?」
即座に同じ質問を切り返す。質問で質問に返すことが褒められたことではないのはわかっているが、反射的に返してしまった。
彼にも考えるところがあるのだろうか。いつもならムッとした顔つきになるのに、今回は考えるような表情に変わり、
「私には、いまのところその意思はないが」
と、他人事のように返した。
要約すると「離婚しない」という答えにホッとして、イリスは胸を撫でおろし、無意識に「よかった」と心の内で呟いていた。
一年以上も一緒にいれば冷徹な伯爵でも多少の情は芽生えてくれるものなのか。イリスは過ぎ去った年月に感謝し、まったく無駄ではなかったのだと気分が少し浮上した。
「そうですか。私も離婚は……悲しいです」
少し掘り下げて考えただけで憂鬱な気持ちになるのだから、これは『悲しい』という感情に分類してよいのだろう。と、言い訳よろしくイリスは考えた。
「そうか」
それに対する伯爵の声の調子が少し安心したようだったのは、イリスの気のせいだろうか? とにかく、彼も考えることは同じだったのだと、イリスは報われた気分で満足した。
「閣下。昼食前にこの書類を読んで署名と判をお願いします」
届いた書類の中から決済の必要がある書類を数枚出すと、イリスはそれを掴んで伯爵に手渡し、改めて自分の仕事に臨んだのだった。
納得いかなかったので加筆いたしました。毎度毎度すみません;;