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アダーシャン伯爵夫妻の日常  作者: 々 千早
Ⅳ 伯爵夫妻の日常~来客編~
21/30

伯爵夫人の〝価値〟

試験と用事が重なり、ばたばたしておりました。

長いことお休みしていて申し訳ありません……。

今日も伯爵夫妻にお付き合いくださいませ。


 実験器具やら貴重な書物やら、伯爵の私物を借り受けて思わず愛の言葉を口にするほど喜んでいた王女殿下は、案の定、食事の時間になるまで部屋に籠りっぱなしだった。


 視察の疲れがたたるのでは、と使用人が心配していたのはつい先程のことだ。お茶を持って行ったときには(むさぼ)る勢いで本を読んでいたという話だったので、夕食の席にも表れないのではないかとイリスも不安であったが、使用人に呼びにいかせると、呆気ないほどさっさと部屋から出てきたという。


 最初見たときの旅装の風があるドレスではなく、ゆったりとした水色の普段着ドレスに着替えており、水の妖精のようだ。今日イリスが来ている紫の普段着ドレスとよく似た形状で、体の線に沿って布が流れている。


 ドレス以外は何処にも変わりはなく、顔色も悪くなかった。使用人が心配していたような疲れはないようだ。むしろ満ち足りたような表情を浮かべている。


 広間にやってきて、姫君がはじめて口にしたのは、伯爵に対して今日はじめて聞くお褒めの言葉だった。


「伯爵。あなたの蔵書は素晴らしいものばかりだったわ」


 使用人に椅子を引いてもらいながら、心なしかうっとりとした声でいう。


 今日は客人が一緒なので、普段は部屋の外で待機させられている使用人がいる。初めて見る王女殿下に緊張しているのか、空気はいつもより少しピリピリしている。


 王女殿下の花弁(はなびら)のような唇をしばらく見つめたあと伯爵は口の端をあげた。


「それはようございました」


「明日は、雪が降ったらあの器具を使わせてもらうわね。それからお昼には町に出てここの産業も視察しておきたいの。いいかしら?」


「殿下のお心のままになさいませ」


 微笑みで促せば、王女は紫の瞳を細める。


「ありがとう。そうさせてもらうわね……ところで、クインリーは?」


 ぐるりと細い首を回して落ち着いた調度で整えられている室内を見渡すが、当人がいないとみるや、ムッとした顔につきになる。


「公爵なら、まだ来ていませんが」


 伯爵が言えば、姫君は言葉に呆れたような吐息を交える。


「呆れた人だこと。あれほど夜歩きは控えなさいと申し付けておいたのにね……わたしが呼んでくるわ。少しお待ちくださる?」


 不在の騎士を呼びに行こうと、ごく自然な動作で立ち上がろうとする王女を抑えるように、イリスは慌てて言葉を重ねる。


「お待ちください、レネー様」


「え?」


「どうか椅子にかけてゆっくりなさってください。わたしが代わりに探して参りますので」


「大丈夫よ? あの馬鹿の行動は読めているから。ものの数分で戻るわ」


 馬鹿。いま、この王女は馬鹿といわなかったか?


 多分、この王女殿下に関しては己の耳を疑う余地はないだろう。


 王女殿下の語調は強気だが、名前を呼ぶことを許されたとはいえ、彼女は小領主の娘であるイリスとは天と地ほどの開きがある身分のお方である。三月とは名ばかりの寒い邸内に高貴な人を放り出すわけにはいかない。


「長い旅路でお疲れでしょう? それに、お二人とも久方ぶりの再会に積もる話もおありでしょう? 騎士様を呼んで帰ってくるまでお二人でお話でも」


「……!?」


 隣で伯爵が息をつめた音が聞こえた気がした。不思議に思って振り返れば、唇を引き結んだ伯爵と目があう。


 深緑の瞳がイリスを離さない。そのままゆっくりと、首を横に振った。――行くな。使用人に任せろ。そういった含みを持つように思えた。いつになく真剣な伯爵に目を丸くする。


 そのとき、噴出したような、ささやかな笑い声が聞こえた。


「そうね。確かに疲れているし、イリス様にお願いしようかしら。……ご夫人にお任せしてもいいかしら、伯爵? いいわよね?」


 紫の目を細めたまま無邪気に首を傾ける王女。――無邪気な動作だというのに、顔に張り付けられた笑みになにやら含みがあるように思うのは、気のせいだろうか。


 しばらく伯爵の反応を窺う。いくら気心が知れた仲だとしても王女殿下の願いを無下にするわけにはいかなかったのか、伯爵は諦めた様子で溜息を吐いた。


「……ええ。殿下のお心のままにいたしましょう」


「そう? じゃあ、イリス様。お願いできるかしら? 外に出ていると思うの。でもそう遠くは行っていないだろうから」


 ウェンデルの返事を聞いた途端、レネーは欲しかった玩具がやすやすと手に入った赤子のような至極満足そうな笑顔になる。


 ウェンデルの願いも虚しく、「はい」と無情なほどのキラキラした笑顔で返事をしてイリスは部屋を出てしまう。


 途端、部屋の空気が曇り空のようにどんよりと重たくなった。


「………」


 この状況をどうすればいいのかわからなくなって、結果ウェンデルは押し黙る。


 何もせずにただ黙していると、伯爵と違って余裕の表情を浮かべるレネー姫のほうから語りかけてきた。


「伯爵」


「……はい。なんでしょう、王女殿下」


「他の人には外してもらっても構わないかしら」


 この王女は何を考えているのだろう――。彼女と付き合いをはじめて十年以上経ってもいまだに疑問に思う。


 いくら気心の知れた仲だとしてもウェンデルより彼女のほうが階級は上である。異論を唱える理由が見当たらない。――たとえ、彼女と二人きりになりたくないという願望があったとしても、王女に私情を伝える必要はないのだ。


「……ええ、殿下。お好きなようになさいませ」


「ありがとう。……じゃあ、悪いけれど」


 紫の瞳を背後に向けると、心得た優秀な使用人たちは無言で頭を下げて下がっていく。


 パタンと世にも悲しい音を立てて扉が閉まると、食堂は完全に二人きりとなり、また重い沈黙が満ちていく。――次はそうなる前に、王女が口火を切った。


「伯爵。わたしと二人きりになるのはそんなに嫌?」


 ちょっと気分を害したように唇を曲げている。


 ばれていたか、という思いもあったが、本心を口にするわけにもいかず、苦笑交じりに溜息を吐く。


「いえ。緊張しているだけです。お会いするのは久しぶりだったもので。……大きくなられましたね」


「そうね。前会ったのは二、三年前だったかしら。あなたは変わらないわね。顔も性格も」


 サラリと嫌味なのかご挨拶なのかよくわからない言葉が流れてくる。


 嫌味も本音もなにもかも、川の流れのようにスラスラ流す喋り方。ウェンデルが王女を苦手としている理由の一つでもある。


 ウェンデルは思わず額を覆って、苦い思いを吐く。


「殿下。あなたも変わりませんね。その口の利き方はおやめなさいと教育係を担当していた頃にも再三言いつけておりましたが……。確か、以前お訪ねになった時にも申し上げましたね?」


「世間一般に、子供は親の背中を見て育つというらしいけど、わたしは違うと思うわね。子供はまず教師の背中を見て育つのよ」


 輝かんばかりの清々しい笑顔で嫌味を返してくる王女殿下。この言い合いは不毛どころか自分の形勢が悪くなるだけだとそう遠くない未来を予測した伯爵は、嫌味たっぷりの溜息を吐いてささやかな攻撃をしかける。


「どこで教育を間違ったのやら」


「あなたの教育は完璧だったわよ、伯爵。わたしが元々こういう性格だった。それだけの話でしょう。あなたは悪くないわよ。……ところで、伯爵。イリス様とはいつ離婚なさるの?」


 丁度その頃、グラスに口をつけていたウェンデルは、危うく飲み水を噴出すところだった。あと一秒、王女殿下の言葉が遅ければ、間違いなく噴き出していただろう。


 まだ口に入れる前で助かった。醜態をさらさずに済んだことに安堵している一方で、心は少し動揺していた。


「や、藪から棒になんですか」


「だって、今年の十月で二年じゃない?」


 レネー姫は目をパチパチさせている。

 二年と今年の十月……その単語でにイリスを結び付けて浮かび上がるのは、一つしかない。


「秘書契約の更新ですか。……それと離婚に何の関係が?」


「え。だってあなた、手紙で言ってたじゃない。〝彼女と結婚したのは秘書として使えるからだ〟と。秘書契約が切れたら離婚するつもりだと思っていたけれど、違う?」


 なにをいっているんだと言いたげな王女の顔を視界に入れたまま、ウェンデルは一年半前の記憶を手繰る。


 まず、実家の待遇のことを盾にして脅迫まがいの方法でイリスを秘書として雇った。

脅迫まがいの雇用には彼女自身、早々に諦めて異論はなかったようだが、結婚には簡単に首を振らなかった。両親にもろくな挨拶をしていないのだから、当然といえば当然だ。


 そこで焦れたウェンデルは、二年の秘書契約を持ち掛けたのだ。二年後の今、働く意思があるならその先も雇う。しかし、二年経っても仕事を続ける意思がないのなら離婚してもらっても大いに構わないと。


 白い結婚とよばれる性交渉のない夫婦関係も、元はといえばそのためである。秘書契約更新をイリスが決意するまで、二年は彼女に手を出さないように極力気を使ってきた。ろくに異性の経験のないイリスより割り切った愛人たちのほうが、扱いが楽でいいという理由もあるが、根底にはその理由もあったのだ。


 あまりに平穏にイリスとの日々が過ぎていくので、すっかりそのことを忘れていた。


「あなたからのお手紙を拝見したときから常々思っていたけれど、今日本人に会って、覚悟を決めたわ。……彼女がもし、あなたの元をお辞めになったら、わたしつきの女官にお迎えしたいの。あなたに付き合えるなら、わたしにも付き合えるはずだわ。丁度、今年いっぱいで王太子殿下からつけてもらった侍女長が結婚退職する予定なの。あなたとの秘書契約は十月を持って終了。時期的にもよいと思わない?」


 にこ…と微笑を向けられて、ウェンデルは動揺を押し込めて即座に反論する。


「殿下には、あの騎士がいるでしょう。秘書の真似事をさせればよろしい。騎士の仕事には机仕事も含まれているはずですし、あの騎士は王太子殿下の側近でもある。多少の不足はあるでしょうが、ある程度は補えるはずです。他ならぬレネー様のお願いとあらば、殿下もお聞き届けくださるでしょう」


 国王が家族ぐるみで従妹のレネー姫を可愛がっているのは、昔からよく聞く話である。特に王太子の猫かわいがりようは尋常ではないという噂だ。


「あるにはあるけど、せいぜい判子を押すくらいでしょう。確かに、わたしが頼めば王太子は首を縦に振るでしょうけど……クインリーが王太子に下された命令は、わたしの護衛のみよ」


 彼は職務に忠実なの、と本当かウソなのかよくわからない言葉を口にした後、王女は少し物憂げな顔になった。


「いま注目の出世頭であるクインリーには周囲の反発も厳しいしね。先の内乱の戦功でいきなり公爵位を賜ったものだから。その上、いきなり王太子の側近でしょう。これ以上の昇進は彼の肩身をさらに狭くさせる結果になるわ」


 気になる言葉がなかったわけではないが、レネー姫の言い分はもっともだ。


 クインリー・イビンルードは五、六年前、東部で起こった内乱によって戦功を立てた男である。多くの勲章を持ち、これ以上の褒美を与えることはできないからと、国王と王太子により爵位を授けられた。本人も王太子自身も口にしないため、元の生まれは平民であるというのが世間の通説である。初めて見たとき、王太子は彼をいたく気に入り、また武勇に優れるため、一代限りという約束で公爵位を授けられた。


 いわゆる成り上がり貴族というやつだ。彼が死ねば公爵の称号は返上されるというにも関わらず、成り上がりという理由で彼をよく思わない人間は多い。……地方領主で普段、宮廷に出入りしないウェンデルが彼について知るのはここまでだが、この噂が本当ならレネー姫がイリスを側付きに雇いたがっている理由にも合点がいく。


「彼女は国立の大学を出ている、それだけで他の女官たちとは価値が違うわ。学歴だけではなく実際に優秀だし、なによりあなたに付き合える器の広さがある。イリス様の価値を知っているのは、なにもあなただけではないのよ」


 わかった? と言い聞かせるような口調でいうレネー姫に、ウェンデルは思わず息をつめた。


「……本気でイリスを引き抜くおつもりですか」


「私は本気だけど、判断は本人に任せるわ。彼女が希望してくれたら、来年の一月から職務が再開できるように整える。この話、あなたから彼女にしておいてくれる? 返事は帰るときに聞くからとお願い」


 これで話は終わりだといわんばかりに水の入ったグラスを傾ける。


 これは、いわば宣戦布告。ウェンデルは複雑な心境に陥った。


 混乱しているのを顔に出さないようにと無表情に努める。


 大学を卒業しているイリスの社会価値は、王女の言う通り高い。普段の仕事ぶりを見れば優秀なのがすぐに見て取れるし、いついかなるときも頭を切り換えられる臨機応変さもある。おまけに、どんな理不尽な要求にも可能な限り応えることが出来る。ウェンデルのもとを離れても、職にあぶれることはないだろう。それだけの実力も実績もある。


 よりにもよって、この苦手な王女に目をつけられるとは。


 厄介なことになった、とウェンデルは密かに頭を抱えた。



 ***************



 最後は王女に頼まれて騎士を探しに出たイリスは、邸内の寒さに思わず身震いした。


 執事の言う通り、明日は本当に雪が降るかもしれない。ここ一週間は特に暖かくなったり寒くなったりと寒暖の差が激しくなってきているから、明日降る雪は今年の冬最後の雪になるかもしれない。


 寒さを紛らわすためそんなことを考えながら歩いていると、庭に人影があることに気付く。


 黒い雲が立ち込めた空を見上げ、月に赤い瞳を向けている。黒い髪が夜闇に溶け込んでいるので、存在は感じていたものの何処にいるのか一瞬わからなかった。


 レネー姫の言う通り、外をうろついていたらしい。


 あたりがあまりに静かなので声をかけることに躊躇いを感じたものの、近くのガラス扉を開けて声をかけた。


「……公爵閣下?」


 なんと呼べばいいのかわからなかったので、伯爵に対するものと同じように敬称で呼んでみると、騎士の睫毛が震えた。そのまま、赤い瞳がこちらを向く。


 ぼーっとしていたのだろうか。勢いよく振り返られて面食らったが、イリスはすぐに笑顔になる。


「外は冷えますので、どうか中へ」


 そう促せば、イビンルードは従った。中に入ってきて、イリスの隣を通り過ぎる。それを確認してから、扉を閉め、元の通りに施錠した。


 扉はぴったりと閉まったというのに、いつまでも肌寒く感じるのは、騎士の服に冷気が纏わりついているからだ。それがイリスの肌をチクチクと刺してきて、苦笑してしまう。


「随分、お冷えになりましたね。寒くはありませんか?」


「……いや」


 騎士の唇から漏れた溜息のような声は、淡白で思っていたよりも聞きやすい声だった。


 一瞬、誰が彼の否の返事を返したのかわからなかったくらいだ。騎士らしく体格がよく、寡黙だったせいか、もっと低く荘厳な声を想像していたので、少し拍子抜けしてしまった。


「そうですか……お食事の用意が整っているのですが、ご案内してもよろしいですか?」


「レネーが探しに来いと?」


 イビンルードは少し意外そうに眉をあげる。


 レネーと名前で呼んでいるあたり、騎士と王女の仲が友人程度ではあるらしいことがわかった。


「はい。今日はよく冷える日ですので、代わりにわたしが探しに来ましたが」


「いや。……直々に呼びに来てもらって申し訳ない。感謝する、伯爵夫人」


 少しぶっきらぼうな響きがあったが、嫌な感じではなかったのでイリスは見過ごす。伯爵夫人のイリスよりも公爵の彼のほうが、爵位が上で多少の無礼は大目に見るべきという思いもあった。


 彼は、話しかけられればよく話すが、なければ話さない。そういった性格らしい。イリスは心のうちに書き留める。


「とんでもございません。……食堂にご案内してもよろしいですか?」


「ああ」


 微笑んで問えば、伯爵とは違って微かに微笑みが返ってきた。伯爵の場合は視線すら寄越さず、返事だけの場合が非常に多い。何気ないその微笑が嬉しくて、イリスはますます笑みを深くした。


「伯爵とレネーはもう?」


「はい。もう集まっていらっしゃいます」


「……またレネーにどやされるな」


 ちょっと苦い表情を浮かべる騎士。それとは別に、イリスは首をかしげた。騎士をどやす王女殿下……一度でいいから、見てみたいものだ。そしてあのレネー姫ならありえそうというのが奇妙だ。


 そんなことを考えながら角を曲がると、何を思ってか、公爵が口を開いた。


「ここはまだ冷えるのだな」


「はい。でも最近では随分と気温が高くなってきて……あともう一度雪が降れば、徐々に暖かくなってくるでしょう。わたしは山に囲まれた田舎の出身ですし、ここにきて間もないのではかりかねますが……」


「伯爵夫人は何処のご出身で?」


「ここから少し離れたケミストラという地です。父がそこの領主で……といってもまあ、大したものではありませんが。領地も村と山がある程度で、馬がないと生活出来ないほど辺鄙(へんぴ)なところです」


 こともなげにサラサラと実家のことを話す伯爵夫人に、恥ずかしがっている様子は一片もみられない。


 レネーから引き抜きの話をぼんやりと聞いていたイビンルードは、少し考えた後、質問した。


「伯爵との結婚も、やはり政略で?」


「その範囲に入るとは思いますよ。そんなに綺麗なものでもありませんが。……あの、何故いきなりそのようなことを?」


「……いや。人の馴れ初めを聞くのが趣味なもので」


 適当な言い訳をつけて話を切り上げると、前を歩く伯爵夫人はクスクスと声をあげた。誰もいない廊下なので、彼女の高い声はよく響く。


「すみません。……公爵閣下は、意外と面白い方なのですね」


「……そうだろうか」


 首を傾げたとき、伯爵夫人が「こちらです」と柔らかな笑顔で扉を叩き、取っ手を捻る。


「失礼します。公爵閣下をお連れしました」


「お帰りなさい。ごめんなさいね、そこの馬鹿のために皆さんの貴重なお時間を割いてしまって」


 人前で堂々と〝騎士・馬鹿宣言〟をしたレネー姫は、銀色の睫毛を和ませて眩しい笑顔を作った。

幾分か和やかな関係なったイビンルードとイリスだが、王女と伯爵のほうは少し重たくなったように感じる。……まあ、イリスの気のせいかもしれないが。


「すまなかったね、お嬢さん」


 人前であるというのに王女に向かって砕けた態度で謝りながら、公爵は椅子につく。〝お嬢さん〟呼ばわりされたレネー姫は気を悪くしたように顔を歪めたが、普段からそう呼ばれているのか、嫌味は返さず騎士を睨むにとどめた。


 すぐに食事を始めるので、イリスも卓につく。今日は伯爵の隣である。いつもは向かい側に座ることが多いので、妙に緊張する。


 伯爵は小刻みに飲み水の入ったグラスを揺らしており、それに透かして騎士を見つめた。


「妻のお相手をしてくださって感謝する、公爵。随分と楽し気なご様子で」


 皮肉と恨みをたっぷりと込めた視線がグラス越しにねっとりと騎士に絡む。


 伯爵の無礼な目つきに騎士は苦笑いを浮かべ、レネー姫は珍しいものを見たように瞬きしていた。


 全員が全員、異なる表情を浮かべているというのに、一番近くに座る伯爵夫人だけは夫の表情と言葉に込められた皮肉に一切気付いていなかった。



 ***************



 食事の最中、王女殿下と騎士は色んな話をしてくれた。


 王都で品種改良が進んでいる植物の事だとか、より多く生産量を増やすための機械の製造だとか、いま流行りの茶器、布など――北方においても商業効果が狙える情報をくれた。


 稼いだ金で領地をよりよくしようと常に画策する伯爵は興味深げにその話を聞いていた。他領ではいかな方法で工場の生産量を上げているのだ、などなど、イリスにもためになる情報が満載だった。


 久しぶりに大勢で食べた食事の時間は呆気なく過ぎ去り、二時間もするとお開きになった。


 王女はまた部屋に籠り、今度は騎士も一緒に籠るらしく、一緒についていっていた。イリスと伯爵も部屋に戻り、各々に本を読むなりして自由な時間を過ごしていた。


 食後のお茶のおかわりを注ぎ、裸のポットにティーポットカバーをかけると、イリスは澄ました顔で読書をはじめる。


 その姿を傍から見つめながら、ウェンデルはどういう風に王女の引き抜き話をイリスに話すかを考えていた。


 『王女が引き抜きたいそうだ』と率直にいうか、それとも王女の名前を出さずに例えとして引き抜きの話を暗に仄めかすか……。


 しばらくそういったことを考えていたのだが、珍しく物思いに耽る自分には一切気付かず、ひたすら読書に集中しているイリスを視界にいれると無性にイライラした。


 イリスの事なのに自分がイライラしていることが、ひどく理不尽に思えたのだ。


 少しは自分のことを見ろ、と呆れるぐらい子供みたいな理由で本を取り上げる。


 突然、手から本が消えてイリスは、いきなり背後からはたかれたように目を丸くする。しばらく思考自体が止まっていたようだが、手を伸ばして取り返そうとした。――が、この程度で簡単に返すほど彼の怒りはまだ収まっていなかった。


「あの……返してください……いいところなんです……」


 既読の本なので結果はわかっているが、それでも先が気になる。


 どこまで読んだか忘れてしまうという焦燥感ばかりが募り、焦れていると、伯爵はこれみよがしに溜息を吐いた。


「……私と本とどっちが大事なんだ? まったく……」


 愚痴るようにいうと、伯爵は本を置く。ご丁寧に、イリスが手を伸ばしても届かないところに。


 息をつき、気を落ち着かせると、いま、イリスが座っている一人掛けの椅子の、一番近くの椅子に移動した。


「……君に話がある」


「はい?」


 仕方なさそうな、面倒くさそうな声ではあったが、居住まいを正して拝聴の姿勢をとる。


 それを確認してから、ウェンデルはまた口を開いた。


「まだ先の話になるが……今年の十月になにか心当たりは?」


「十月ですか? ……なにかありましたか?」


 伯爵の誕生日ではない。イリスの誕生日でもない。……悪いが、まったく覚えがない。


「………」


 やっぱりいわなきゃよかった。ウェンデルは後悔する。自分の言い方も悪いのだろうが、本人は少しも気にしていなかった様子だ。


 だが口にしてしまった手前、戻れない。


「秘書契約の更新だ」


「……ああ! そんなものもありましたね!」


「………」


 やはり、忘れていたようだ。


「その秘書契約更新がなにか?」


「王女殿下が、君を雇いたいそうだ」


「……は?」


 途端にイリスはポカンとした顔になる。


 その顔をわざと無視して、ウェンデルはスラスラと話を進める。


「十月をもって私の元を辞めたら、の話だが。来るかどうかは君次第だと殿下は仰っている。自分つきの女官にしたいそうだ。侍女長が今年いっぱいで結婚退職するそうで、その後釜に据えるつもりらしい。出仕は来年の一月からで、業務内容は……」


「ちょ、ちょっと待ってください」


 頭が混乱してきたらしく、イリスは待ったをかける。


「つまり……あの、どういうことなんでしょう」


「王女殿下からの引き抜き要請だ。判断は君に任せると本人は言っている。断っても気を悪くしないと」


 残念がるだろうが、彼女は逆恨みしたりするような人柄ではない。断っても生死にかかわることはまずないだろう。


 突然のことで、イリスは「どうしてわたしなんかを殿下が……」と不可解そうな顔をしていた。


「君が優秀だからだよ、イリス。君の価値を知るのは私だけではなかったということだ。……で、君はどうするんだね」


「……はい?」


「引き抜きに応じるのかね、応じないのかね? 返事は帰りのときでよいと仰せだが、なるべく早いほうがよいだろう」


「ま、待って。頭が破裂しそうです……」


 慌てるイリスに、当然か、とウェンデルは納得して口を閉じた。貧しい男爵、それも宮廷への出入りを許されていない下級貴族の娘である彼女は、王女と話すことさえ本来なら憚られる身分なのだ。


 王女と会うことさえ考えたこともないのに、次は引き抜きときた。……いくら優秀でも年頃の女性であるイリスを混乱させるには十分な要因だ。


 困惑した瞳をジッと観察しながら髪に触れると、頭がてんやわんやになりすぎてかこれといった反応をしない。けれど僅かに身じろぎするのが面白かった。


 指で擦るようにいじりながら、気が付けば口を開いていた。


「イリス。私を選べ」


「……へ?」


 惑っていた瞳がキョトンとしたように止まる。

 返事が遅いことに焦れて、ウェンデルはムッとした顔をつくって再度、繰り返した。


「王女ではなく私を選べと言っている。あの方も私も性格の面では何も変わらん」


「あ、の……」


「なんだね」


 二転、三転する話についていけないのだろう。眉を上げてしばらく待ってやると、ところどころ噛みながらではあったが言葉を紡いだ。


「何なんですか、急に。怖いです」


「怖い? 何を怖がる必要がある。私は素直になっただけだ」


 自分で言って笑う。素直? そんなもの、幼少期に捨てたものだ。


 まごついたイリスの髪を引き寄せて、唇同士が掠めるような、ほんの一瞬だけ触れるような口付けをする。


 あの年明け旅行以来、こうしてイリスに触れることが心地いいことに気付き、毎日ではないが気が向けば唇を触れ合わせている。普段は穏やかなイリスの顔がうっすら赤くなるのを見るのは観察していて楽しいし、困ったような顔も興味がある。


 普段、あまり本心をさらけ出さない彼女の一面に触れることが出来た、そんな気がする。人の知らない一面を知るのは実に楽しいものだ。


 いますぐ唇に触れることが出来る位置に顔を離してジッと見つめると、気丈にも黄色の瞳が見つめ返してくる。至近距離に顔を寄せているせいか、少し困ったような顔をしている。


「仮に、ですが。……わたしが殿下のお誘いに応じたら、閣下はどうなさるんですか?」


「困るから辞めてほしくないんだが」


「……わたしが辞めても代わりはたくさんいますでしょう?」


「いないから言ってる。君以外は嫌だ」


「……え?」


「長続きしない。また私にあう秘書を探すのが面倒だ」


 いつになく素直になって思いとどまらせようとする伯爵になにか感動できる理由を期待したが、返ってきたのは〝面倒くさい〟の一言だった。


 自分の価値はその程度なのか……。悲しい溜息がこぼれでた。


「はぁ……」


「あと二日ある。よく考えるといい。……で、まだ聞きたいことは山積みだが」


「はい?」


「クインリー・イビンルードと何を話していた?」


「……はい?」


 長ったらしい名前をわざわざ口にしてやったのに不可解な顔をするので、「公爵だ」と言い直す。


「特別なお話はしておりません。それにごく短時間で……」


「いいから言ってみたまえ」


「えっと、ここはまだ寒いと仰せでした」


「……年寄りかね、君たちは」


 呆れたような吐息を交え、「もういい」と話を遮る。


 後れ毛を撫でつけるように撫でてやりながら、ウェンデルは溜息を吐く。その溜息に愚痴を載せた。


「君たちが年寄りじみた話をしている間、私はレネー殿下と一対一で額を突き合わせて胃が痛む思いだったというのに……まったく、何故私がこんなに緊張せねばならんのだ。君の話を聞いていると馬鹿らしくなってくる。私の時間を返せ」


「あ、あの?」


「私は確かに〝行くな〟と目で伝えたはずだ。だというのに、夫を敵地に放置して……そのせいで私の胃の健康が損なわれた。なにもかもすべて君のせいだ、薄情者」


「薄情者って」


 逆恨みも甚だしい伯爵の愚痴に、イリスは呆れて言葉も出なかったが、これだけは言い返したかった。イリスはただ、気を利かせただけである。


 言葉を続けようとすると、口答えされたことに気を悪くしたのか、ジロリと蛇のような目で睨まれた。


 機嫌を損ねたか、と案じていると、頬を包むように強く掴まれる。頬に感じたひんやりとした感触に面喰っていると、不機嫌そうな顔が近づいた。


 深緑の瞳に映る自分の姿が近づくたびに唇に息が吹きかかり、ついに柔らかいものが押し当てられる。しばらくして、唇の隙間から這い出た舌が差し込まれ、口内で暴れだす。


「は、んっん、むっ……?」


 深い口付けであるため、息苦しさを覚悟したものの、すぐに離れていく。口づけをした後はいつもやけにご機嫌な伯爵だが、今日はいつもと違ってまだ機嫌が悪かった。


 まだ潤みの少ない瞳で彼の顔を見つめ返すと、また顔が近づいて唇が重なる。くすぐったさを避けるように舌を逃がそうとするのだが、そうするとより一層伯爵の舌がきつく絡むことに気付き、以来、体から力を抜くようにしている。


 深い、といってもはじめはお遊び程度だったものが日を増すごとに濃くなっていき、そうなるとイリスはすぐに伸びてしまう。


 最初の頃に比べれば口内に残った酸素の使い方が上手くなったと思う。口付けを苦に思うことは少なくなってきた。


 顔が離れると、はぁ…と艶っぽい息が唇に当たる。唇が離れても、酸素が追い付かない頭はまだ現実に戻らない。


 伯爵の息を受け流すようにうつむいたとき――現実を知らせる軽い音が室内に響いた。


「お二人とも、いらっしゃるかしら?」


 涼やかな水の流れを思わせる声が聞こえる――レネー姫の声だ。


「は、はい! いま開けます!」


 さっきの今だから、脳を即座に切り替えるのは至難の業だったが、イリスはやり遂げて見せた。


 顔が赤いことに気づかれなければいいのだがと心から願いながら扉を開けて招き入れると、姫君は驚いたように目をぱちくりさせていた。食事の時に着ていた水色の普段着ドレスは脱ぎ、華奢な体はもう夜着に包まれている。


 もう十時だ。夜着姿でもおかしくない。


 やけに顔が赤い伯爵夫人と、脱力したように額を覆う伯爵を交互に見詰めた後――三割方状況を把握した聡明な姫君は慎ましく目を伏せた。


「お休みの挨拶をしようと思って……お邪魔、だったかしら?」


「……いえ、全然。問題ありません」


 今更遅い。空気を読め。だがこの王女に向かってその言葉を口にできる度胸を、ウェンデルは持ち合わせていなかった。

久々に無駄に甘ったるい感じに……イチャイチャしてるときだけこの二人夫婦だなぁって思う今日この頃です。

成り上がり公爵の騎士さん。一応、喋らせはしたものの、たったの二、三言でしたね……。

ちょっと急いだところがあるのでまた加筆修正します。

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