王女と伯爵の攻防
伯爵に伴われて玄関へ連れて行かれたイリスは、そこではじめて、今年十七歳になるという王女殿下を目にした。
花も恥らう年頃の王女殿下の髪色は、純白の雪を思わせる白だった。長く伸びたその髪を、これまた長い三つ編みにしている。目深に被った帽子の隙間から見えた顔は無表情だったけれど、イリスと伯爵に気付くと、紫の瞳は興味深げな目付きに変わった。鼻筋はほっそりとしていて、まさに蝶よ花よと育てられた姫君を思わせる。王女の白銀の髪と紫の瞳の組み合わせは解けた雪から姿を見せる花のようで、北方の春を感じさせた。
髪が白いせいか、小柄なせいか。まるで雪の妖精のようだとイリスは喉から感嘆の溜息が出そうだった。――彼女の柔な唇から、その儚げな容姿とかみ合わない言葉が転がり出てくるまでは。
「まあ、伯爵。お久しぶりね。お変わりがないようで安心したわ。そのお顔だけは麗しいこと。勿論、褒めているのは顔だけよ?」
そういって、王女は柔らかく微笑み、その微笑に伯爵は慣れた様子で微笑み返す。イリスも遅れて微笑んでみたものの、鏡がないから上手く笑えたか不安だ。
外見はなんとか取り繕ったものの、イリスの心は瞬時に凍り付いていた。王女殿下の、薔薇の花弁を思わせる可愛らしい唇から出た言葉が、何度反芻してみても伯爵に対して悪意のあるものにしか思えなかった。
会って早々、毒づいた王女と伯爵を交互に見上げる。王女は平然としており、彼は一分の隙もない笑顔で武装して王女殿下の言葉を微笑みで受け止めた。イリスがすべての言葉を受け入れた頃には、王女の手をとって口付けを落としていた。
「光栄です。王女殿下は相変わらずの毒舌でいらっしゃる。少しはお口を慎まれるがよいと、私は何度もお教えしたおつもりですが?」
「あなたと私の仲じゃない。元からこういう性格だし、もう直らないわよ。そちらが奥様? お優しそうな方。あなたにはもったい人ね。悪い男に捕まってしまって、おかわいそうに」
「最後はともかく、自慢の妻だと申しておきましょう」
伯爵の切り返しを、本来なら喜ぶべきなのだろうが、あんまりにも白々しすぎて、イリスのほうが失笑してしまった。いつもは人前に出せないくらい無能だとでもいいたげな言葉をぶつけられているというのに。王女殿下の前だとはいえ、複雑な気持ちになった。
王女は一旦、伯爵から目を離してイリスのほうに向き直った。
「私としたことが、自己紹介が遅れてしまったわ。ご夫君とお会いすること自体が久しぶりだったもので。お気を悪くされたかしら?」
「い、いえ。滅相もありません」
「その顔は本当ね。嘘がつけない人って本当に素晴らしい。そういう人は好きだわ。宮廷人はどうも、人を打算的な目で見てしまうから。あなたの夫のように」
満面の笑みで何故か嬉しがる王女殿下に、イリスはなんと返していいかわからない。先程の伯爵とのやり取りを聞いていると、褒められているのか貶されているのかわからなくなってくる。
困惑しつつも、イリスははじめて出会う雲の上の人に、ドレスつまんで腰を折る礼を取る。
「はじめまして、王女殿下。イリスと申します」
「こちらこそ、はじめまして。お初にお目にかかりますわ、伯爵夫人。アルヴィ公爵キャルヴィンが子女、レネー・アルヴィ=ベルンカストルです。失礼は承知の上で、お名前でお呼びしてもよろしいかしら」
最近では名乗るときに名前+領地名の略式を名乗る人がほとんどだが、正式には、名前+領地名+姓で組み合わせて名乗る。アルヴィというのが王女殿下の父キャルヴィン殿下が国王より戴いた領地の名であり、ベルンカストルというのは国王の四親等までの王族が、名乗ることを許される王家の姓である。
レネー姫の父上は国王の叔父であるので、王女殿下は国王の年の離れた従妹姫にあたる。
「光栄です、王女殿下。好きにおよびください」
「わたしのことも名前でいいわ。その呼び方は嫌いなの。言葉遣いもできればいつも通りでお願い。お忍びできているから、目立つわけにはいかないでしょう。……一緒にお世話になる騎士を紹介するわね」
ちら、と王女は自分の背後を見やる。そこには、黙って付き従う背の高い男がいた。軍服ではなくレネー姫と同じ普段着づくりの服を着ていたけれど、気配の殺し方が凄腕の騎士なのだということを語っていた。なかなか端正な面立ちであり、襟足にかかる程度に切られた黒髪と、赤みが強い瞳の色は、なんとなく猛獣を連想させた。
「クインリー・イビンルード公爵。元は王太子殿下の近衛なのだけど、いまは私の護衛もしているの。連れて行かないと王太子殿下がうるさくて。イリス様はともかく、伯爵は名前をご存知なのではないかしら?」
王女がそういうからには、なにか知っているのだろうか? 疑問をこめて伯爵を見上げるが、彼は頷くばかりで説明などしてくれなかった。自分で調べろ、ということだろうか。
イビンルード公爵は頭を下げ、伯爵に挨拶する。が、伯爵は自分より爵位が上であるにもかかわらず、無遠慮に公爵を見ているのだった。いいのか、これで。
注意しようかと思ったが、言い出す前に王女が口を開く。
「さて、早速で申し訳ないけれど……部屋にご案内していただけるかしら。荷物を置かせてもらいたいの」
王女の控えめな催促に、イリスはハッとなって答える。
「申し訳ございません。ご案内させていただきます。騎士様も近くに客室を用意させていただいております」
「彼に部屋は必要ないわ」
まるでイリスの言葉を全否定するかのような絶妙の間で入ってきたレネー姫の言葉に、イリスは首を傾ける。
え? と問い返す前に、にこやかな王女はその可愛らしい唇を開く。
「私と同じ部屋でいいの。長椅子があるでしょう? 彼にはそれさえあれば充分だから。なんなら床でも結構よ」
最後は冗談だろうか。しかし、彼女の声には妙な迫力があって、イリスの耳には結構本気に聞こえた。
イリスは苦笑いにならないよう、必死に表情を取り繕い、王女と騎士の二人を部屋へ案内するため背を翻した。決して、苦笑いを隠すためではない。
「こちらへ」と声をかけ、二人の視線がこっちに向いたのを確認して歩き出す。
レネーは長い廊下の窓から外を眺めながら口ずさむ。
「ここはまだ寒いのね……。王都はもう暖かいくらいなのに」
「今日はまだ暖かいほうですが、公爵閣下のご領地はこの国の南に位置しておりますから、殿下には肌寒く感じられるかもしれませんね。暖炉の火を絶やさないようにと使用人に伝えます」
「イリス様。何度も言わせて貰うけれど、私の名前はレネーよ。敬称は駄目」
「れ……レネー様」
王女の気迫におされて反芻すると、王女殿下は頷く。
「それでいいの。この季節だと、いまはどんな花が咲いているのかしら?」
「カメリアなどが見ごろだと、庭師がいっておりました」
「まあ、素敵。いい油がとれるわね」
油? 花を愛でるではなく油といわなかったか、この人は。いささかずれたところに目をおく王女殿下を思わず凝視してしまったイリスだが、当の本人は不思議に思っていないらしい。
どうも、この王女殿下はおかしいらしいということに、イリスは遅れて気付いた。
角を何度も曲がると、ようやく例の開かずの間の扉が見えてきた。
まだ鍵がかかっているのではないかと思ったが、意外にも扉はあっさりと開いた。押し開くと、中はイリスが思っていたよりも広々としていて、落ち着いた調度で整えられていた。
邸中のほとんどの部屋に張られたクリフォード様式特有の、白地に透かし彫りの簡素な美を追求した壁紙。
壁につけられた燭台。カーテンも花瓶にいけられた花の色も、イリスが指示したとおりだったが、指示した覚えのないものも置いてある。
例えば、壁際に並ぶ本棚。上等な棚が並び、本がぎっしりとつまっている。壁には動物の絵画がかけられていた。
日当たりの悪い窓際の机の上には、様々な器具が置いてある。顕微鏡もあれば、イリスがまったく知らないような器具もあった。どれも高そうだ。聞いた途端、耳を両手で塞いでしまうくらい高価な気がする。
開かずの間と呼ばれた部屋の案外あっさりとした内装に、なんだか拍子抜けしてしまった。日当たりが悪い部屋であるため、もっと根暗な感じだと信じて疑わなかったこともある。
他の部屋に比べて光の取り込み量が少なくはあるが、暗いというほどでもない。微弱な光を受けてフラスコがきらめくのをみながら、目を瞬かせつつ考える。
「お気に召しましたか」
いつのまにか戸口に立っていた伯爵が王女にたずねる。……さっきまでいなかったというのに、本当に神出鬼没な人だ。
「執事によると、明日は雪が降るそうです。兼ねてより、雪の結晶の観察をしたいと仰せでしたでしょう? 元は私のものですので多少の不足はあるでしょうが、貴重な書物もありますので、二日程度なら殿下の暇を潰すことが出来るでしょう」
そう説明して、思わずイリスまで王女の反応をうかがってしまった。
王女は研究者の書斎を思わせる部屋を眺めてフルフルと肩を震わせていた。「もしかして機嫌を損ねたか」と不安になる。王女は震える声を発した。
「――完璧よ」
イリスの不安は王女の唇から出たお褒めの言葉によって、杞憂に終わる。
ほとんど気配を消している寡黙な騎士――確か、イビンルード公爵だったか――は、僅かだが苦笑していた。
「完璧よ、伯爵! 視察で体がなまってたところなの! 実験器具にはもう半月以上も触ってないのよ。手が疼いて疼いて……ありがとう、あなたを心の底から愛してるわ」
感極まりのあまり全身で喜びを表現する王女殿下に、伯爵は苦笑した。
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「……なんだか、少し不思議な方ですねぇ」
空になったティーカップに手ずからお茶を満たしながら、しみじみと呟く。
伯爵の「王女の印象を覆すような気質の持ち主」という言葉に一瞬、疑念を抱いたものだが、彼の言葉は実に的を射ていた。
イリスが想像する、すなわち万民が想像する王女は、室内で本を読み、優雅にお茶を飲んだり、刺繍をしているような大人しくも高貴なお方だ。彼女にその想像は似合わない。可愛らしい唇から出る毒のある言葉といい、実験器具を前にして喜ぶ子供のような姿といい。
伯爵が用意させた実験器具を「一生のうちで一番嬉しい贈り物」とでもいうように狂喜乱舞して見せた王女を思い浮かべる。勢い余って伯爵に愛の言葉まで叫んでいた。
率直な感想を咎められるかと思えば、伯爵は椅子に座ったまま苦い顔をする。
お茶の入ったティーカップを伯爵のほうに差し出すと、彼は無言で受け取り、一口啜ってから言葉を口にした。
「変わった性格にさらに磨きがかかっていたな。……あそこまできていると、流石に引いた」
前々から思っていたが、唯我独尊の限りを尽くす伯爵にここまでいわせるとは、件の王女はすごい人である。いつもは相手のことを気にかけすらしないのだ。相手の顔を覚えているかどうか怪しいときさえある。
「王女殿下がお嫌いですか?」
自分も紅茶を啜りながら尋ねると、伯爵はまた渋面した。その顔は言葉を選んでいるようでもあった。
伯爵は数十秒黙って、ようやく口を開く。しかし、その口から出たのは期待していた言葉ではなく、大きな溜息で、イリスはガクッと前のめりになりそうになる。
「……嫌いじゃない。少し苦手なだけだ」
それは嫌いと紙一重だと思うのだが……あまりその話には触れて欲しくないようなので、イリスは別の話に切り替えた。
「閣下は殿下になにをお教えしていたんですか?」
「医学、薬学。化学や生物もお遊び程度には教えていたかな」
これにはすぐに答えてくれた。
医学や薬学を教えるとは、珍しいな、とイリスは内心で唸る。
「珍しいですね。高貴なお方が医学や薬学を学ばれるとは」
高貴な家柄――すなわち貴族で、医者になりたいと願う人は少ない。場合によっては、人の血に触れる仕事だからだ。最近では貴族でも医者になる人が増えてきたが、大概は机上の空論で実践した人は少ない。それでも、医者や薬剤師はいい稼ぎになるので、自分で金を稼がなくてはならない、家を継げない貴族の子息、平民などがなることが多い。
「君も知っていようが、レネー殿下のお父上であるキャルヴィン殿下が力を尽くしたおかげで、我が国は大陸で一、二を争うほど医学と医療制度が進んでいるといわれている」
それは、イリスも大学で学んだことである。
「しかし、我が国の医学がどれだけ進んでいようが、それが各地に浸透していなくては意味がない。第一、キャルヴィン殿下が医学に力を注いだのは、医者の人手不足を解消するためだ。
王族は天災や内乱などが起こると、打撃を受けた地域に施しをする。ほとんどが金銭だな。しかし、金銭や食料の寄付、家を建ててやるのも大事だが、人々がそのときに一番ほしいものは薬と医者だ。
これは、地方に医者や施設が不足しているということを示している。金や食料や家があっても、医者と施設が不足していると適切な治療が受けられない。これが一番困る。
そこで、殿下のご家族は災害地や内乱災害地の視察をして、当地の医療水準をはかった後、王都の大学で医学をおさめた医者を派遣して、地元で医者を育成する方法を取っている。
医療水準をはかるには、殿下ご自身もかなり医学に精通していなくてはいけないわけだ」
「その中で選ばれたのが閣下だったと」
「殿下ご自身もそれ以来、医学に興味をもたれてね。ご夫人も共に勉学に励み、どれだけ医学が必要かを改めてご理解された。そして殿下とご夫人の判断で、跡継ぎの姫君も教育することになった。その家庭教師に選ばれたのが私だった」
「なるほど。……では、閣下は医学を修めた経験がおありで?」
単純な興味で尋ねた瞬間、自分は伯爵のことを何も知らないのだということに気付いて驚いた。伯爵はイリスの学歴から家庭状況まで熟知しているというのに、自分は伯爵のことを何も知らないのだ。彼の通っていた大学の名前さえも知らない。
「……いや。大学に入学してから一年して、父が倒れてね。爵位を継ぐことになった。卒業間際に試験を受けようかと思ったが、母はともかく親戚連中が許さなかったから断念せざるをえなかった。
自分で言うのもなんだが、独学ではかなりの域までいっていた。三年分の論文を入学当初すでに書き上げていたからな。そこに目をつけた殿下が私を家庭教師として雇った。王女殿下に自分の得意なものを教えることで、煩わしい親戚連中に口出しされず、趣味に熱中できた」
伯爵について知っていることは少ないが、彼の父君が亡くなったことは知っている。伯爵が十九歳の冬に亡くなったと聞いているから、随分と早いお亡くなりだ。
この国は長子相続を主としている。爵位を継ぐと、その責任も一緒に引き継がれる。大学を途中退学させられなかっただけ、伯爵はまだ幸せだったのかもしれない。
だが心なしか、彼の知的な横顔が、そのことを〝悔しく思っている〟と語っていた。
「だからこそ、あのとき無理を言ってでも免許を取ればなにか変わるのだろうかと……。そう考えたが、試験を受けていたとしてもなにも変わらないだろう。免許を取ったところで、私が医者の真似事をするのを親戚連中はよく思わない。結果は同じだ」
皮肉げな笑みを浮かべて伯爵は一息にお茶を飲み干すと、ソーサーの上にティーカップを置いて、黙りこくったままのイリスを見上げた。
「私は自分で言うのもなんだが、打算的な人間だ。悪い結果が変わらないなら、それは最善ではなかった。……この話はよそう。君の目が気になる」
「……は?」
「同情するような目はするな。私はそれが一番嫌いだ。過去は悔やんでも仕方がない。自分のことを優先して考えてはどうだね?」
毒を吐く唇も表情もいつもの伯爵で、安心したのと同時にイリスは急激にこみあげてくる笑いを腹筋に力を入れて堪えた。
「そうですね。……仕事をなさいますか?」
「そうしよう」
伯爵の望む言葉を選び出すと、伯爵は椅子の肘掛けに力を入れて立ち上がった。
新キャラ、理系毒舌王女でした。騎士さんまだ一言も話してませんね……。
ところで、伯爵とイリスの住む国は健康マニア……という認識でいいんだろうか。(←いいわけない
第Ⅳ章は甘さ控えめですが、夫婦が成長するお話になりそうです。
伯爵は理系ですが、作者は完全なる文系ですので、彼とは根本から噛合わないようです……。早く苦手な理系の話を終わらせたい……(;ω;)ハウゥ
また加筆修正しようと思います。