伯爵夫妻のお仕事風景
いつの間にかお気に入り件数&評価がすごいことになっててビビリました。皆様、応援ありがとうございます。
学業優先なので土日祝日くらいにしか更新ができないのがすごく申し訳ないです……。
この一週間の間に書き溜めたものを投稿します。
秘書の仕事は自室で出来なくもないが、資料を取りに行くのが手間なので、イリスは伯爵の書斎に自分用の机を貰っている。
引き出しから上等な便箋を三、四枚ほど取り出して置くと、インクの蓋を開け、羽根ペンの先を浸し、まずは質の悪い紙に文面を考えながら文字を綴る。
秘書業務の内容自体は、他家の秘書とそう変わらないと思う。
朝は伯爵よりも一足先に部屋を訪れ、部屋の空調整備、インクや羽根ペンの補充をして、用意しておいた書類をしっかりと読み込んであらましを暗記しておく。
伯爵が外出する日は馬車か馬の手配をする。家で仕事をしているときはこまめに飲み物を出したりして仕事のしやすい環境を整え、贈答品の手配や挨拶状などの雑務を行い、取引先、相手方への手紙の作成、及び管理。たまに訪れる客のもてなし。時折、伯爵が求める情報を仕入れ、見やすく文面に纏めるという作業も加わる。貴族同士の会談、滅多にないが社交を目的としたお茶会の準備。他に伯爵が個人的に使った金銭――主に娼館の御代――の領収書を見て、月一回経理をする。そして最後に、手紙を見ながら伯爵の返事を聞いて予定を管理する。
秘書業務だけで気が遠くなるほどだというのに、それに伯爵の身の回りの世話が加算される。大分慣れてきて要領よく出来るようになったが、はじめの頃は毎日クタクタで、体調を崩してしまったこともある。
はじめは娼館への予約の文。それが済むと、次は愛人たちへ文を書く。伯爵――もといウェンデルは、イリスが嫁ぐ前から三人の愛人をこの邸の敷地内に住まわせている。
この邸を建てた数代前の当主が部類の女好きで、一番寵愛した女性の他にも大勢の女を囲っていた。そのときに建てられた家に、愛人たちは住んでいる。
同じ建物に住まう愛人たちはウェンデルの寵愛を得ようと内心では競い合っているが、部屋が別々なため、普段は静かなものだ。元々、無駄な抗争を避けるため滅多に顔を合わさないような構造になっている。
伯爵……ではなくウェンデルは好みというものがないらしく、自分につりあう程度に美人ならどんな容姿の者でもよいようだった。彼の愛人の中には、浅黒い肌の異国風の娘や、金髪に白い肌という国内でもてはやされるような美女もいる。昔はイリスのような麦色の髪をした者もいたようだ。
彼に愛人がいるということを知ったのは、偶然会った愛人の一人に建前だけの挨拶をされたときだった。しかし、愛人を抱えるのは古今東西、貴族にはありがちなことである。――よって、イリスは黙認した。
結婚してもいまだに女遊びを辞めないところを見ると、伯爵自身、この結婚に愛情がないらしい。だから結婚から一年近く経っても、彼とは夫婦ではなく仕事仲間というほうが近い。
実家への資金援助をしてもらっているし、裕福な貴族に属する彼が貧乏小領主の娘を娶ったのはきっと、自分の愛人問題に口を出さない従順かつ仕事の出来る、妻としてよりも部下として優秀な女が欲しかったからだ。だからイリスは彼に配偶者としての関心を持たないことにしている。
伯爵の希望にこたえ、イリスは口出ししないことにしている。第一、貴族の令嬢たちがキャアキャアと騒ぎ立てる意味がわからない。ウェンデルの容貌は確かに見栄えはするが、イリスが彼に抱く感想はそこまでだった。イリスは顔よりも、『人間、中身が大事』の先人の言葉どおり、性格で好きな人を選ぶ。
書き上げた文章を読み返し、綴りの間違いや誤字を直して下書きを完成させ、清書に移る。
手早く手紙を四つ仕上げると、ベルを鳴らして使用人を呼び出した。一つは娼館へもって行くように、あとの三つはそれぞれ別の種類の花を一輪添えて愛人たちに持っていくようにと伝えた。これで少しは愛人たちの機嫌が取れればいいのだが。
一通りの仕事が済むと、イリスは肩の力を抜き、窓の外を見やった。窓には夕日が差しはじめている。
イリスは書類を読むウェンデルのほうを向いた。ウェンデルはイリスが『目を通すように』という意味をこめて置いた書類を読み込んでいた。邪魔をするのは気が引けるが、それでは仕事が進まないので口を開く。
「閣下。失礼ですが」
余程集中しているらしく、書類から目を離さずに「なんだね」とあまり感情のこもっていない返事をする。
「そろそろ夕食の支度をする時間ですが、いかがなさいますか? 娼館でおとりになりますか? それとも、愛人の誰かと一緒に?」
スパスパと、まるで仕事のように私生活の話をする妻。
ウェンデルは書類からようやく目を上げ、イリスを呆れたような目で見て溜息を吐いた。
「一緒に食べるという選択肢は君の中にはないのかね……いつも通り君と一緒でいいよ」
「今から食堂に運ばせてもよろしいですか?」
「あと少し」
「では三十分後に」
伯爵の持っている書類の量から大体の時間をはじき出したイリスは、早歩きで部屋を出た。――と、そこに目的の人物が通りかかる。
「これはこれは、奥様」
「いいところに。エドウィンさん」
「奥様。エドウィンとお呼びくださってもよろしいのですよ」
穏やかに微笑する初老の男性。先代のときから伯爵家に仕えている執事のエドウィンである。
学生生活のせいもあり、年上に敬語を使わずにいられないイリスは、年嵩の使用人ににはつい『さん』を付けてしまう。けれど、使用人たちは進んで訂正しようとはせず、いつの間にか伯爵夫人の個性として受け入れられてしまっていた。
エドウィンに三十分後に食事をするとの旨を伝え、部屋に戻る。扉を閉めると、イリスは与えられた仕事机の上に置いてある手紙を束ねている紐をナイフで切った。
手紙は軽い雪崩を起こし、机の上に散らばる。
とりあえず仕事用の手紙と伯爵宛の私的な手紙を分ける。ペーパーナイフで便箋の上を切り、手紙の中身をざっと確認すると、書類に目を落としたままの伯爵を振り返りもせずに言い放った。
「閣下。二週間後、子爵のもとで夜会があるようです。予定に入れますか?」
「資金集めだろう。くだらない娯楽施設のために省く金も暇もない。断りたまえ」
「エラード伯爵夫人」
「しつこい。断る」
顔の筋肉をピクリとも動かさず、嫌悪をあらわにした声で吐き捨てるのを見て、イリスは夫人が気の毒に思えてきた。
エラード夫人は彼と俗に言う『一夜の過ち』とやらを犯してしまったらしく、そのことをほじくり返してはウェンデルを呼び出すのだ。
さすがのウェンデルもしつこいと思ったのか、それとも彼女に興味が失せたのか――彼女からの誘いはすべて断ることにしている。
「イゾルデ男爵。事業のお話だそうです」
「予定に」
「わかりました……。次、ゴルゴダ侯……」
「却下」
「……はい。では次……」
伯爵が返事をするにつれ、お断り予定の手紙がだんだん嵩を増してくる。
一度覚えればすぐに標準を上回る量の仕事が出来るイリスに対し、ウェンデルのほうも仕事が早い人なので、二人の相性は確かにピッタリだった。
ウェンデルはほとんどの『誘い』を却下していた。忙しい人であるため、時間を割くわけにはいかないのだ。……まあ、単に面倒くさいという可能性も否めないが。
自分の丸い字に目を落とし、イリスは溜息を吐く。使用人の中には何人か筆記係を兼任する者がいるので仕事は楽だが、手紙の文章を考えるのは間違いなくイリスである。
ウェンデルは筆不精であるため、大切なものでない限りは滅多に手紙を出さない。それが私的なものであってもだ。結局、細々(こまごま)としたものはすべて夫人であるイリスに回ってくる。
二週間先の仕事の予定を組み立てると、暖炉の上においてある置時計に目をやる。時計の針は、約束の三十分に刻々と近づいていた。
「閣下、もうすぐお夕食の支度が出来ます。読み終えられましたか?」
「終わったよ」
ウェンデルは見せ付けるように、バサッとイリスがつくった書類冊子を机にばら撒く。
それを机から拾い上げ、折れているところがないか…と気にしながら、せっせと片付けていく。せめて重ねて置いてくれればイリスの負担も減るのだが、彼はそんなこと考えもしないのだろう。そんなこんなで、イリスの負担は日に日に増えるばかりである。
ウェンデルは背もたれにもたれかかって軽く伸びをすると、ゆっくりと立ち上がった。肩や背骨の関節を鳴らしているのを見て、イリスは一旦片付けをやめ、ガウンを掴み、素早く伯爵の肩にかけて冷えないようにした。この部屋は暖かいが、十一月の夜は冷え切っており、風邪を引かないか心配だ。
ウェンデルは黒の服を好む。仕事のときの服装も、黒絹のシャツと黒いズボンの上下である。ガウンも黒だから、葬式かと思わず突っ込みたくなってしまう。しかし、彼の長い巻き毛と端整な顔立ちにはそれがよく似合っているので、文句が言えない。
真冬の霜が降りている寒い日に上半身裸にガウンだけを羽織って庭に出ようとしていたときはさすがに注意したが、健康に問題がない以上、お互いのことに必要以上に口を出さないことにしている。
ウェンデルが部屋から出ると、イリスも手早くきりのいいところで仕事を終わらせてその後に続く。そばを通りかかった使用人に火の始末だけ頼んで、離れた距離を埋めるように小走りで伯爵に追いついた。
彼はイリスに合わせてゆっくり歩く、ということをしない。イリスが彼に合わせて歩いている。
もうすっかり慣れてしまったのでなんとも思わず、伯爵の歩幅に合わせるのに苦労しながら夫妻は食堂に入った。
まだ使用人が用意をしている最中だったが気にせず、伯爵は椅子に腰を下ろす。
予定よりも少し早く主人が現れたことに慌てた使用人は急いで肉や野菜の乗った皿をテーブルに並べ、すべてがすむと静かに去っていった。
彼は静かに食べることを好むようで、必要なとき以外、使用人を食堂に入れない。給仕はもっぱら、イリスの役目である。
彼がイリスと一緒に食事を取るのも、単に『自分で給仕するのが面倒だから』という理由に他ならない気がする。本心から一緒に食事したいとは思っていないに違いない。
座るよりも先に台車に歩み寄り、逆さになっているグラスを取る。
「お酒は召し上がりますか? ブランデーと葡萄酒がありますけど。白と赤です」
「白を」
イリスは無言で肯定し、デカンタから酒杯に葡萄酒を注ぐ。芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、お酒を好まないイリスでも高級だということはわかった。売ればいくらになるんだろうと、抜け目なく考えながら杯が満たされるのを待つ。
「どうぞ」
「ああ」
……他に、何かいえないのかな。
相変わらず、酒杯を傾けるウェンデルの横顔は、文句なしに美しい。どれだけ観察していても飽きないのだ。外も内も三十間近の貫禄を持ってはいるのだが、それでも彼は美しい。衰えがない。歳を重ねるごとに、また違った美しさを見せる。不思議な顔だなぁと思いながら、じっと見つめていた。
自分の横顔を観察しているイリスに気付き、伯爵は酒杯から口を離すと、思いっきり眉をしかめた。
「君はいつまでまじまじ見ているんだね。さっさと座って食べればいいだろう。食べないなら、下げさせるが?」
……ただ、綺麗なのはお顔だけでお口のほうはそうでもないみたいだけれど。
外面と内面のあまりの差に落胆の溜息を吐きつつ、イリスは無言で椅子に座った。
喉が渇いていたので、あらかじめ使用人が入れてくれていた水を口に含む。山から流れてくる水は喉に心地がよく、後味がすっきりしている。
喉と頭をすっきりさせると、イリスはナイフとフォークを取って食事を始めた。
「イリス、明日の予定は?」
食べている間も、伯爵夫妻の間で仕事の話が絶えることはない。
はじめからこの調子だったため、イリスに動じた様子は見当たらない。口の中のものを噛んで飲み込んで、突然の質問にも冷静な声で答えた
「午前は特にありません。晩にジキス子爵が開く夜会への出席があるくらいで」
「子爵、ね」
音を確かめるように呟き、ウェンデルは興味なさげに酒杯を揺らした。
「仕事上の付き合いとはいえ、面倒なことだ」
「……予定に組み込んだのは閣下じゃないですか」
「なにかいったかね?」
伯爵の鋭い眼光が突き刺さる。イリスは「なんでも」といって、何事もなかったかのようにナプキンで口を拭うふりをしてから、また食事を続けた。
面倒だ、と言いたいのはイリスのほうだ。夜会というと、既婚者は配偶者を連れてくるのが普通である。自らの富を見せ付けるために着飾らせた愛人を連れてくる者もいるが、ほとんどが配偶者だ。
「君も行くんだろうね、当然」
酒杯を透かしているから、藻色の瞳が若干歪んで見える。
イリスはぐっとつまったが、仕方がないといわんばかりに溜息を吐いた。
「華々しい場は苦手なのですが……お仕事ですから」
一口大に肉を切り分け、口に入れるイリス。その薄い色の唇が動くのを面白そうに見ながら、伯爵はいつも通りの嫌味を繰り出した。
「平気なのかね。相変わらずの運動音痴のくせに。……まあ、期待はしておく」
「………」
思わず口の動きが止まった。
そして、言い返せないのが悲しい。
なんせ、自分の運動神経といったら田舎暮らしで必須だった乗馬でさえも十五歳になるまで初心者並みに危うかったほどだ。大学卒業に必須だった剣の単位は別の教科の単位を倍にしてまで免除してもらっていた。貴族の子女に必須の社交ダンスだって、伯爵がいないと上手く踊れない。このいまひとつな運動神経のおかげで、学生時代はさんざんなものだった。
文句が言えない。悔しかったが、イリスは口の中のものを飲み込んでしまうと、ゴホンと咳払いをした。
「……私ではお相手が不足だというなら、私の代わりにマリーシュカ様かナディア様を同伴させますが。いかがでしょう?」
愛人を同伴させることを提案した途端、伯爵の整った黒い眉がピクリと波打った。
「……どうしてそうなるんだね」
夫人を見て笑っていた目がふいに、氷のように凍てつく。
ああ、ややこしい。イリスは溜息を吐いた。どうしてもなにも、それに近い発言をしたのはあなたでしょうが。
「わたしが同伴者に相応しくないと発言をしたのは、閣下でしょう?」
「私はそんなこと、一言も言った覚えはないが?」
「そうですか。では、いつも通りわたしが同伴します。他に目立った報告はありません。以上。仕事の話は終わりです。お疲れ様でした」
締めくくりの言葉を口にし、イリスは黙った。しかし、ウェンデルは黙らない。
「君はどうしてそういう物言いしか出来ないんだろうね、イリス」
「どうしてって」
「もっと妻らしい言葉遣いは出来ないのかね」
「……ウェンデル様。もう七時です。お食事を終えられたのなら、そろそろお支度をなさった方がよろしいのでは?」
自分に不利な話題が出たため、イリスはすぐさま話を逸らした。その視線に先には、空になった二人分の皿がある。
ウェンデルは微かに苦い表情を顔に浮べていたが、イリスの言い分がもっともだと思ったのか、無言で立ち上がった。
ウェンデルの身支度を整えるのは使用人……ではなく、これも何故かイリスの仕事だ。
普通、これは使用人の仕事だろうと思うのだが、何故かウェンデルはイリスに支度を手伝わせる。迷惑なことこの上ないのだが、「妻だから」といわれれば否定できない。
ウェンデルは自室に入ると、疲れたような息を吐いて窓際の長椅子に腰掛ける。伯爵が長椅子に腰掛けた意味を、「早くしろ」と言っているのだと悟って、イリスは箪笥の引き出しを開けて夜色のタイを取った。
どうせついたらすぐに脱ぐんだからいらないんじゃないかと思い、数ヶ月前から無駄な宝石選びはやめた。一度失くして帰ってきたことがあったので、娼館に行くときに金目のものを身につけさせないよう、なるべく気をつけている。
「閣下。手袋はどうしますか?」
「君の好きなようにしてくれ」
「では、寒いのでこれを……」
基本的に黒で固めることが多い伯爵にあわせ、無難に何の飾り気もない白の手袋を持っていく。
ベストを着せて、ある程度しわを直す。そして、前を向くように指示した。
「失礼します」
断ってから伯爵の胸元に手を伸ばし、外された釦を留めていく。そしてベストの釦。次に手に持っているタイを首に巻いて、丁寧に結び始めた。花嫁教育で一番先に習うのは、旦那サマのタイを結ぶことだ。どうやら、タイを結ぶというのは新婚に必要不可欠なことらしい。イリスはまったくそう思わないのだが。むしろ自分でやれと思う。
綺麗に結んで形が崩れないように小じわを伸ばし、上着を摘み上げる。イリスの意図を察した伯爵は素早く黒い上着に袖を通し、襟元を正した。しかし、上手く正せていなかったので、代わってイリスが直す。ウェンデルは素直に手を下ろした。
「閣下。お帰りは夜遅くですか?」
「当然のことながら、早くても深夜になるだろうね」
「……そうですか。わかりました」
……つまり、娼館ですることは一回や二回では終わらないと。
頭のいいイリスは別に知りたくないところまで察しがよかった。
いつものように目を伏せた夫人の口から出るのが呆れた溜息でも、伯爵は遊び心を忘れないようで、最近お約束のようになっている言葉を口にした。
「寂しいか? 君が望むなら早く帰ってくるが」
「違います。どうぞ、存分に楽しんできてくださいませ」
イリスも負けていない。ズバンと氷の彫像にも負けぬ無表情で言い放ち、胸元から手を離した。
「馬の手配は執事のエドウィンがしておりますので、いつお出かけになっても大丈夫です。もうお出かけに?」
「ああ」
「では玄関までお見送りします。……ああ、そうでした。外套がありませんね。いま、取ってきます」
むしろ外気にあたって喉がいかれて声が出なくなればいいのにと思う。そうなればイリスが嫌味を被ることもなくなる。しかし、彼はイリスの夫である。夫の体調管理は妻の役目であるため、放っておくわけにはいかない。
慌しく仕事部屋に引き返し、衣装かけにかけておいた防寒着を掴んでウェンデルの元に戻り、肩にかける。
外出の準備が整った伯爵は、真正面に立って見上げてくるイリスに微笑みかけた。
「……では、行ってくるよ、イリス」
「はい。一刻も早くのお帰りをお待ちしておりますわ。……ウェンデル様」
夫人がぎこちないながらも幸せさを滲ませて微笑んだ瞬間、その場に薔薇色の風が吹いた。
――断っておくが、普段の二人の間にこんな甘ったるい空気は流れない。むしろ、山の水のように軽やかな色気もクソもない雰囲気が流れていることを忘れてはいけない。
これはいわば、『他人に見せ付ける演技』である。客人や使用人たちに夫婦仲で余計な心配をさせてはいけないので、夫妻は表向きだけでも円満であることを見せ付けているのだ。
古参の使用人たちはとうの昔に二人の関係に気付いているのだが、そんなことなど知らぬ存ぜぬの伯爵夫妻である。ばれているにもかかわらずほとんど毎日律儀にこの演技を続けているのだから、いっそ微笑ましいくらいである。
伯爵は微笑んだまま、イリスの前髪をかきあげ、額に口付けた。主人を見送ろうと出てきた使用人たちはこの日常茶飯事の出来事に、いつも顔を赤くさせて背ける。
恐らく、伯爵の後ろ姿が美しすぎるからだろう。そうじゃないとやってられない。
唇で軽く触れたあと、指先で前髪を元の通りに分けて口付けた部分を指でなぞった。
「おやすみ、イリス」
伯爵は藻色の瞳を和ませて笑った。それは一切の隙のない、古代の神々の彫刻のような冷たさと柔らかさを持つ笑みだった。
思いっっきり、作り笑いである。別名、よそ行き用の笑顔。
市井の女が蕩けるような甘い顔立ちの色男だが、イリスにとって顔の美醜は関係ない。何事も性格からである。その点でいけば伯爵に勝ち目はない。
彼の本性を知っているイリスはこれといった感慨がわかず、彼の笑顔に応じた。
「いってらっしゃいませ、ウェンデル様」
伯爵夫妻は揃って、何気に性格が悪いのであった。
伯爵は見てのとおりですが、伯爵夫人は隠れた性格悪女だと思います。
次で『Ⅰ 伯爵夫妻の日常』が終わります。
※三月より文字数削減や調整のため、加筆修正はじめました。どうかご協力ください。<(_ _)>