それは高貴なお客様
第Ⅲ章完結時点で、評価が7500突破、お気に入りが3000近くになってて目が点になりました。皆様、本当にありがとうございます。
第Ⅳ章、始動でございます。
北の地方でも少しずつ雪解け水が見え始める。
その解けた雪の隙間から小さな花が咲き始め、いままで寒々しかった人々の心を暖かくしてくれた。
そんな春うららかなある日、アダーシャン伯爵邸に一通の手紙が舞い込んだのだった。
伯爵夫人は時折、仕事机に陣取る夫に物珍しそうな視線を送っていた。
いつも以上に時間をかけてじっくりと手紙を黙読する伯爵は珍しい。いつもは読んでいるというよりも眺めているというほうが正しく、余程重要なことではない限り、手紙の返信はイリスに一任するのが常だ。一任というよりも、放任という言い方のほうが正しい気もするが、主人の不機嫌を買うと怖いので、いわないことにしておく。
無言で十分ほど、便箋を眺める伯爵は、静か過ぎて気味が悪いほどだ。その彫刻のような顔は本当の彫刻のように眉一つ動かず、何度も何度も、それこそ諳んじることができるのではないかというくらい凝視していた。
いつもは穏やかな執事が、慌てて持ってきた手紙である。伯爵の真剣な顔つきから、余程高貴なお方からのものなのだと読みとることは容易い。
話しかけてもいい雰囲気ではなさそうだったので、自分の仕事をこなしながら時折様子を窺っていると、伯爵が珍しく神妙な面持ちで口を開いた。
「……王女殿下が視察の帰りにここへ寄りたいそうだ」
「……え? 王女殿下ですか?」
どうやら手紙を出した主は、伯爵夫人が思っていたよりも高貴なお方だったらしい。
何故王女殿下がわざわざこの邸へ……と動揺を目に走らせ、驚きで息が詰まりそうになるのを耐えながら伯爵に尋ねる。
「王女殿下というと……第一王女殿下ですか?」
「君は馬鹿かね」
イリスの質問は冷ややかに両断されて、それと同時に否定を表していた。
あまりにあっさりと切り捨てられ、イリスは少しドキッとした。
「第一王女がこんな遠方に赴くわけがなかろう。君は王都の大学に通っていたくせに、王室の系譜もしらないのかね」
呆れながら伯爵は続ける。イリスはちょっとムッとしたように眉に力を込めた。
(だって仕方ないじゃない)
大学ではそんなこと教えてもくれなかったし、国王の家族以外は、知っていてもなんの特にもならない。そういう知識は、政治に野心がある人のみが身につけるべきである。それがイリスの持論だ。イリスが知っているのは、せいぜい一般常識、この国――ファルディア王国を統治する国王ユスティニスの家族構成くらいである。
ファルディア国王ユスティニスの家族は、クローディア王妃の他、王太子、第一王女、第二王子の順で構成されている。
勿論、王の家族以外に王女殿下の称号を許されている王族の姫は数人存在しているが、そんな雲の上の方々とほとんど落ちぶれた男爵家出身のイリスに血縁があるわけがなく、覚えていなくても無理はない。はずなのだが――……仮にも伯爵夫人として、情けないとは思う。伯爵の言い分が正しいような気がしてきた。
急速に怒りが萎えてきて、イリスは幾分か落ち着いた声でまたたずねる。
「第一王女殿下でないなら、一体どの王女殿下です?」
「君は本当に無知なのだね。いっそ感心する」
嫌味はいいから早く吐け。それに匹敵する言葉が浮かんだが、イリスは思いっきりねじ伏せてやった。
伯爵は呆れの吐息を交えてイリスの質問に答えた。
「レネー王女殿下だ。本当に知らないのかね? では、お父上のキャルヴィン殿下は知っているだろうね?」
「キャルヴィン殿下」
イリスは伯爵の言葉を繰り返す。伯爵がまた呆れたような息を吐いたが、イリスはその名前に聞き覚えがあった。
キャルヴィン・ファルディア=ベルンカストル殿下。ユスティニス王の父王の年の離れた異母弟であり、ユスティニス王とは比較的、歳の近い叔父にあたる。
父を亡くしてすぐに即位した幼い甥を公正な目でみて教育した人である。国王が親政を始めるまで摂政となり政治を牛耳り、王が親政を始めた頃には潔く摂政の座を引き、それでも引き止める国王に大臣の地位を与えられた人でもある。
その後、政治抗争に巻き込まれ、かろうじて失脚は逃れたが、もうこりごりだとでもいいたげに隠居生活に入った――と、風の噂で聞いたことがある。それ以外にも、学生時代に授業で何度かその名を耳にした。
「なるほど。キャルヴィン殿下のご息女がそのレネー姫なのですね」
「そう。いまはアルヴィ公爵令嬢だな。去年の夏ぐらいからだったか。その身柄を王城に預けられ、王室の公務を手伝っている。
今回の視察も恐らく国王陛下か王太子殿下の代理だろうな。……よくもまあ、あの殿下が遠方への視察を許可なさったものだ。あれほど蝶よ花よと育てておられたというのに」
「お知り合いなのですか?」
冗談半分で聞くと、伯爵は深緑の目を瞬いた。
なにか驚かせるようなことを言っただろうかとイリスは戸惑う。そこへ、伯爵の怪訝な声が入った。
「……前にいわなかったかね? 私は王女殿下の教育係をしたことがあると。だからこうして王女殿下が頼ってこられる。月に何度か文も通わせている。気付かなかったかね」
めちゃくちゃ初耳なんですが。
驚きすぎてか、手から力が抜けて、持っていた書類を派手に床にぶちまけてしまった。
真っ青な顔の妻から問いただされるのを予想してか、伯爵の目は明後日の方向を向いた。
「キャルヴィン殿下と利害が一致してね……ま、若気の至りの一つだよ」
若気の至り。伯爵の若い頃というのが一瞬で想像できなくて、イリスは少しの間混乱した。彼と結婚してすでに一年半が経過したが、外見や雰囲気が変わらないので忘れかけていた。
彼は来年、三十になる。事業を拡大し、若くして成功を手に入れたにしては充分に若いとは思うが、イリスと出会った頃にはすでに成人していたから、想像できなかったのだ。
「閣下にもお若い頃があったんですね。あ、もちろん、いまでも充分お若いとは思いますが」
いらぬ嫌味が降りかかる前に付け加えると、形のよい眉がピクリと波打った。
「私も人の子だ。母の腕の中で揺られていたこともあれば、大学で勉強していたこともある」
「そうですか……ところで、滞在はいつからいつまでのご予定で?」
「二日後にヒルデガルド子爵領に到着予定だそうだ。そこで一日目は接待を受け、二日目に宿を取ったあと、夕方に人目を忍んでお見えになる」
ヒルデガルドというと、アダーシャンのすぐ隣に接する領地である。なるほど。すぐそばだ。恐らく、この邸まで馬車で数十分もあれば着けるだろう。
そこまでいって説明が面倒になったのか、読み終えた手紙を渡す。王女直々の手紙を他人に見せていいのかと疑ったが、そこは置き。手紙を読み進めながら、イリスは微笑んだ。
「ちょっと意外でした。閣下も文通をするお相手がいらっしゃったんですね」
「遠回しに友人が少ないといいたいのかね」
伯爵はイリスを非難する。
伯爵の友人は特筆するほど多くはない。なので、あえていうこともないかと聞こえないふりをしてごまかす。
「てっきり、文通はお嫌いなのかと思っていました」
「そんなことは一言も言っていない」
ウェンデルは滅多に手紙を出さない。ほとんどイリスに任せている。私事の手紙も月に数枚出す程度である。その中に、王女殿下への文が混ざっていたのだろう。
手紙には、自分を含めて護衛の騎士を一人連れて行くので、二人で二泊させてほしいとの旨が記されていた。
「二泊ですね。とすると……お部屋は日当たりが一番良好な客室を整えるだけでいいでしょうか? ……ああ。でも、使い勝手のよい簡素なクリフォード様式のお部屋は女性にはあまり受けないかもしれませんね。……王女殿下はなにをお好みでしょうか? 三日あれば、壁紙を張りなおして家具をかえるぐらいなら出来ますが。カーテンも確か、淡い色のものが……」
「あの方は部屋の内装にはさほど頓着しない。金の無駄だ」
いくらここにいないとしても、王女殿下に対する口の利き方とは思えない。不敬だ。
「閣下。不敬にもほどがありますよ……。じゃあ、他になにがご入用でしょうか? もし夜着などご入用なら、既製品になってしまいますけれど」
「そんなものは必要ない。客室もあけなくていい。あの方の性格からすると……北の部屋のほうがお気に召されるだろう。使用人に隅々まで掃除をさせて物を運び出し、生活できるよう環境を整えるように」
「北? どの北の部屋ですか? 多すぎてわかりません」
平屋だが――いや、平屋だからか。伯爵邸はとてつもなく広い。住みだして一年が経つが、そのイリスでさえ迷ってしまうときがある。
漠然とした言葉に惑っていると、伯爵が面倒くさそうな視線を寄越す。
「鍵のかかった部屋だ。まだあるだろう?」
「鍵……もしかして、開かずの間ですか」
鍵のかかった部屋といわれてまず思いつくのは邸の北側にある部屋である。何故か鍵をかけて封鎖されており、掃除がなされた気配もない。新入りの使用人の噂の的になる部屋である。まあ、伯爵がいままで囲ってきた愛人や女の使用人を殺してそこに放置しているというのはいささか過ぎた噂話だったので、執事に頼んで注意させておいたが。
イリスが問うた途端、伯爵の口元に皮肉げな笑みが浮かんだ。
「そういわれているのか、いまは。……まあ、なんでもいい。そこをあけておくように」
王女殿下に日当たりの悪い部屋をすすめるのは気が引けたが、イリスには彼の方の好みがわからないので、伯爵を頼るしかない。口出ししても一蹴されるだけだろうからと、イリスは黙って伯爵の言葉に頷き、自分が落とした書類を拾い集め始めた。
王女殿下が訪れるまでの三日間、邸内は慌しかった。
当然ながら、使用人たちは王女殿下の来訪を聞いて顔を真っ青にした。使用人は邸内や部屋の内装、果てにはカーテンの色にまで気を配る始末だし、庭師に至っては庭の造りまで考え直す始末だ。料理長に至っては、食事の内容から食材の仕入先まで考え直していたという。
それを落ち着かせたのは、他ならない伯爵だ。「王女は質素を好む」と本当なのか嘘なのかよくわからないことを伝え、使用人一同はようやっと強迫観念にも似た気持ちが落ち着いたようだった。
イリスもこの三日間は――といっても微弱なものだが――忙しかった。北の部屋を整理し掃除し終えた使用人たちが、「カーテンの色は何色か」とか、「部屋に飾る花はピンクか、それともオレンジか」とか、そういったことを聞きにきたからだった。
部屋の準備を命じられた使用人たちはまだ強迫観念が抜けていないのか、と苦笑しつつ、少しでも気持ちを楽にしてやるため指示した。
伯爵は質素な内装がよいといったから、白い壁にあわせて、カーテンは女性らしく薄ピンクに、花はカーテンの色と被らないよう、オレンジにし、匂いはきつくないものを用意するようにと指示した。それと、家具は変えず、寝台のマットだけ変えて、風通しをよくするようにと命じた。
そうして迎えた三日後の夕方である。イリスは使用人たちにより、衣装部屋に閉じ込められていた。
普段は着ないような普段着づくりのドレスを着せられ、髪を結い上げられていた。肩が冷えるような意匠ではなく襟がついており、上半身はイリスが仕事着として愛用するブラウスに似た形をしていた。それでも、夜会ほどではないとはいえ、裾が長くレースがあしらわれているのが、「いかにもドレス」といった感じだった。
主は薄紫の生地で、釦のついた袖口や襟、フリルに濃い紫を使っている。これも、伯爵御用達の仕立て屋、トバイアスとケイティが送ってきたものである。普段着では腰まわりを膨らませず、こういう体の線がはっきりとわかる意匠が流行りなのだという。
下半身ががっしりとした人は、むしろこういう型のドレスは着ないほうがよいそうだが、イリスは補正下着を着た姿が意外と細かったため、このドレスをすすめられていた。
いくらフリルがついて豪勢だとはいえ、本当に普段着で王女殿下に会って大丈夫なのかと不安になる。普通はもっとめかしこみ、白手袋をはめて礼装で待っているべきだ。しかし、当の伯爵本人が「普段着でいい」といったのだから、それに従うしかない。
髪も、編まずに髪留めでうなじに纏めただけの簡単な型だった。鏡を見ながらイリスは溜息を吐く。
やっぱり童顔だ。
「……妹と間違われたりとか、しないかしら」
よく考えれば義姉イザベラと、イリスの髪色は似ていなくもない。大きなトパーズ色の瞳に悩ましげな色が浮かぶ。
「大丈夫ですよ。このドレスは奥様にとてもお似合いです。ご自分が思っているよりも若くは見えてはいませんよ。いつもそれでお悩みなので、お化粧の紅の色も大人っぽく見える色に変えましたし、髪形も少し変えました。完璧です!」
「ありがとう、オーレリー。心遣いが嬉しいです……」
そこまでしなければいけないほど自分は幼顔だったのか、と鏡の前で苦笑し、しばらく手伝ってくれた女の使用人たち数人とお喋りを楽しんでいると、扉が叩かれた。
「はい」
「入っても構わないかな」
「どうぞ」
入室を促すと、扉が開く。伯爵は珍しく、ちゃんと衣服を着ていた。いつものシャツ一枚の姿とは違う。ちゃんとその上にベストを着て、上着を着て、タイを締めている。夜会ではないのでフリルはついていなかったけれど、首元にはちゃんと宝石が輝いていた。髪も一つに纏めている。衣服はイリスと同じ普段着の型だった。
黒絹のシャツに合わせて深い青の上着に袖を通し、居住まいを正した伯爵は、普段彼の顔になれている使用人たちでさえ見とれるほど様になっていた。
だが彼はそんな使用人には気付かず、見慣れているといわんばかりに平然としているイリスの前に歩み寄る。
「用意は出来たのか?」
「はい。整いました。……あの、なにか?」
さっきから自分の顔を見て険しい顔をしているのでなんだと思ったら、ウェンデルはまだ色めきたつ使用人を睨む。
「ずっと前に、紫は嫌だといったはずだが?」
「も、申し訳ございません」
「え、駄目ですか」
恐縮して謝る使用人を追うように、イリスは首をかしげて自分の姿をもう一度、鏡に映した。
いつもより少し年相応に見える以外、おかしいところはない。
鏡に映る自分を見て、また視線を元に戻したとき、ウェンデルは少し不満そうにいった。
「紫は似合わないといったはずだ」
「でも、もう整えなおす時間もありませんし……今日だけ、駄目ですか?」
折角ここまで整えてくれた使用人たちの手前もある。これから伯爵の我侭に従って着替えなおせば、髪型から化粧から、なにからなにまで変えなくてはいけない。それまで、イリスは待てる気がしなかった。
伯爵はしばらく考えるような間をおいたが、自分もそんなに待てる気がしなかったのか、結局は溜息を吐いて諦めた。
「……もうすぐ王女殿下がおつきになる。用意しなおす時間もないし、仕方ない」
色々理由をつけてはいたが、要するに折れた。
イリスはニッコリ笑って喜び、その顔を見て伯爵はまた溜息をはく。
「忠告はした。恥をかくのは君だ。もういいから、手を」
「はい」
普段着でお互い手袋をしていなかったから、じかに体温を感じた。
伯爵の手はイリスの手に比べて温度が低く、大きく、そして筋張っている。男なら当然だが、指先にザラザラとした手触りがあるのは、気のせいだろうか。イリスは歩きながら、チラチラと伯爵の手を気にする。
「閣下。少し手が荒れていらっしゃいますね?」
五日前に出席した夜会の帰りに手袋を脱いだとき、彼の手が荒れていた記憶はない。恐らく、それまでについたのだろう。貴族が水仕事など考えられないから、きっと別のことだ。
伯爵はイリスの鋭さに驚いたように空白を置いてから、口を開いた。
「……少し、薬品を触っていてね。ここ三日触っていたから、そのせいか」
「寝る前に保湿効果のある軟膏を用意しておきますから」
「そんなものは必要ない」
「駄目です。譲れません」
「……もう好きにしたまえ」
伯爵はまた溜息を一つ吐いて、イリスへの反論を諦めた。なんだか今日はよく、伯爵に勝てる日だ。イリスは不思議に思いながらも、勝利に対する小さな喜びを噛み締める。
廊下を歩いている間、話が途切れたので、イリスは口を開く。
「あの、質問してもいいでしょうか?」
「なんだね」
「レネー王女殿下とは、どのような方ですか?」
「………」
「閣下?」
立ち止まり、口を開かない伯爵の顔を見上げると、彼は筆舌に尽くしがたい、というような顔をしていた。
「どんな……といわれると、狂研究者と答えるしかないな。悪い方ではないが」
最初に奇妙な単語があったような気もするが、イリスは無視して前向きに考える。
「悪い方でないなら、それでいいです」
「……イリス。あまり期待はするな。あの方は、王女の印象を大きく覆す少々個性的な……気質をお持ちの方だから」
あの伯爵にここまで言わせる王女殿下とはどんな人だ。イリスはますます王女殿下の顔を、早く拝みたくなってきた。
高揚する気分を抑えていると、執事が走ってやってくる。
「ああ、閣下。ここにいらっしゃいましたか。王女殿下がおつきになりました。いま、玄関のほうに」
伯爵の肩に僅かな緊張が走ったのを、イリスは見逃さなかった。
さりげなく国名をいれておいたり。
伯爵をここまでびびらせる王女殿下ってどんな人なんだろう……。
次回に続きます。