舶来品の耳飾りが運んだもの
今日も侯爵夫妻に連れられて、一時の娯楽を楽しんだイリスは大満足だった。
昨日は歌唱が入らない芝居のみのものだったが、今日は侯爵夫妻の希望で歌劇になった。イザベラが好きな男装ものではなかったけれど、劇と名がつくものなら何でも好きなイリスには、幸せな時間であったことに変わりはない。
現代を舞台にした歌劇も捨てがたいが、古代の神話を原作とした歌劇が一番好きだ。大学では歴史や古代神話を得意としていたので、そのせいかもしれない。
隣に座っていたレオルネは台詞の意味はわかっていなかったようだが、歌と演技に圧倒されたらしく、歳相応の行動は慎んで、大人しく歌劇に見入っていた。
芝居や歌劇の鑑賞が好きなイリスにとっては、夢のような一時だった。いつまでもこの気分に浸っていたい。
だが邸に近づくにつれ、そう言っていられなくなる。公私を分けて考えなくてはいけない時間は、馬車の車輪が回るのと同時に刻々と近づいてきていた。
邸に近づくにつれ、イリスの胸の弾むような吐息は徐々に溜息に変わっていく。
「もうすぐ邸についてしまいますね……」
恐らく、明日の昼にはこの別荘をたつことになるだろう。夢の時間はもう終わり。その事実は、なんとなくだがイリスの肩を重くさせた。明日はともかく、明後日からは仕事が舞い込む手筈になっている。そうなるよう整えたのは自分だが、やはり体が重い。
「明日にはもう帰らなくてはいけないなんて……考えたくないです」
憂鬱な声でもらすと、イザベラが相槌を打つ。
「また一緒に行こう。レオルネも喜ぶから……なあ、レオルネ」
母に意味ありげな視線を向けられたレオルネは、グッと押し黙って目を逸らした。もごもごと動く小さな口から発せられた言葉は、
「……まあ、予定が合えば行ってやらなくもない」
という、尊大なものだった。だが、もごもごと口を動かしているのが歳相応で、それもまた可愛らしいとイリスは思うのだった。
またこの子は……と頭を抱える両親から守るように、イリスは言葉を重ねる
「そう言っていただけると嬉しいですね。またお付き合いをお願いします、レオルネ様」
「……うん」
イリスの申し出を少しでも嬉しいと思ってくれたのだろうか? 心なしか、まだ高く幼い声に、期待と喜びが入り混じった。
顔を上げ、生意気な灰色の目にイリスの姿を映すと、レオルネはキュッとイリスのドレスの袖を握った。
「約束だぞ、イリス」
いい返事を期待して目を輝かせる少年に、イリスは「はい」と穏やかな声で返した。
邸の前で馬車が停まると、とうとう、イリスも泣き言をいっていられなくなった。
夢の世界から抜けきらずに不平不満がボロボロとこぼれそうだったが、キュッと口を引き結んで耐える。
邸中の燭台に火が灯され、夜の帳に慣れた目に眩しい。目を眇めつつも、やってきた使用人に外套を預ける。
侯爵夫妻とレオルネが階段を上がったあと、少し遅れてイリスも階段を上がる。大分慣れたが、裾の長いドレスはなかなか不便だ。他の貴婦人たちと同じよう、長い裾を踏まないように気をつけながら階段を上がり、部屋に戻った。
「ただいま帰りました」
軽い音を立てて扉を叩くと、そっと押し開く。かなり時間が経っているので、当然ながら宝石商は帰ったあとだった。
最後に見たときと同じく長椅子に腰掛けたウェンデルは、肘掛に頬杖をついて目を伏せている。
足を組んだ上に本がおいてあったので起きているのだろうと思ったが、手はピクリとも動かず一向に頁をめくる気配がない。そこまできてようやく、彼が眠っているのだと気付いた。
暖かい空気にまどろんでしまったのかもしれない。暖かい部屋での読書は、居眠りの危険と隣りあわせだ。
暖炉か燭台か、区別のつかない光に照り返された白く眩しい肌に、イリスは手袋を脱いだだけで着替えるのも忘れてしばしの間見惚れた。
(ほんとに綺麗な人)
口は悪いが、気を抜けば引き込まれる美貌にはうっとりする。イリスとて普通の女子である。美しいものを愛でるのは好きだ。まあ、彼の場合は性格を知ればすぐに熱もさめようものだが。
なびくに任せた黒髪の巻き毛は暖炉の火にあたって暗緑色に見え、長く重たそうな睫毛には影が下りている。仕事の間、眉間に寄せられることの多い細眉は、穏やかに緩んでいた。微動だにしないその姿は、腕利きの彫刻家がこしらえた神に愛されし男そのもので。
「……う」
整った目鼻立ちの一つ一つに見入っていたイリスは、呻き声である欲求を押し込める。〝伯爵の髪に触れてみたい〟という欲求だ。
他意は、ないのだと思う。性的な意味はなく、イリスの感じた欲求は芸術品を愛で、出来れば触りたいというものによく似ていた。というか、間違いなくそれなのだろう。よくよく見れば、伯爵の髪は本当に手触りがよさそうだ。波打つ髪は光沢があり、指に絡めればどんな気持ちになるのだろう……と考える。
伯爵が本当に眠っているのかを確認してから、少し屈んでそっと手を伸ばす。眠っている間なら……という、甘美なる悪魔の囁きに従って。
「……あっ?」
毛先に触れようとしたとき、手首を掴まれて、イリスはパチパチと瞬きをする。
手首に感じる圧迫感……脳が潔くそれを受け入れた瞬間、イリスの体は硬直する。
「主人の睡眠の邪魔をするとは、いいご身分だね、イリス」
げっ、と声を上げる間もなく、腰を掴まれて逃げられない。イリスはしどろもどろになりながら、目の前の天使の顔の悪魔から目を逸らした。寝起きの伯爵はたちが悪い。しかし、目を合わせないと「生意気だ」とまた気を悪くされたことがあったので、恐る恐る目を合わせた。
「……なんだね、その嫌そうな顔は」
「嫌そうな顔なんてしてません。閣下の気のせいです。……長い睫毛が邪魔をしているのでは?」
「……どんな理由だね、それは」
話を逸らしたいのか、意味不明な理由を述べ始めたイリスに、伯爵は呆れたような息を吐く。確かに自分の睫毛は長いのかもしれないが、日常生活に支障をきたしたことは一度もない。
なにも言わないイリスに、ウェンデルは優雅に唇を吊り上げた。
「それで? 私の奥さんは夫を放って芝居を見に行ったそうだが、楽しかったかね」
「はい。楽しかったですよ?」
やっとまともに伯爵と目を合わせることが出来た。嘘偽りない言葉だったからだ。しかし、嫌味はいうものの笑うだけでなにも反応しない伯爵に、イリスは怪訝そうな視線を返す。笑顔なのに、後ろに背負う空気は心なしか重い。
「……閣下。怒っていらっしゃいますよね?」
「怒って? いいや、まったく? 君の目は節穴かね。……少しでも申し訳なく思っているなら、申し訳なさを最大限に押し出して謝ってみてはどうかね」
さらりと早口で流されたが、声の調子は冷ややかだった。
やっぱり怒っていたのか……。イリスはちょっと苦い顔になった。謝罪文を考え出すと、水が流れるのと同じ速度で、句読点も入れずに一気にまくし立てる。
「……それはそれはすみませんでした主人を放って出て行ってしまって申し訳ありませんでしたどうかお許しください閣下」
「棒読みにも程があるだろう。……まあいい。渡すものがある。座って、少し待っていろ」
「渡すもの?」
思わず問い返すが、ウェンデルは何も語らず、黒の巻き毛を翻して寝室へと消えてしまった。ご丁寧に、パタンと扉まで閉めてくれる。
渡すものとは、一体なんだろう? ケミストラの工場で生産する新たな布地の契約書だろうか? ……いや、年明けに仕事はしないと彼はイリスに公言していた。その可能性は薄いだろう。
伯爵自ら〝渡す〟ものが契約書でないとすればなにか? を考えるが、契約書以外、伯爵に渡される覚えがあるものはない。答えは出てこなかった。
伯爵の命令どおり長椅子に腰かけて怖さ半分、興味半分で伯爵を待っていると、彼は数分して戻ってきた。
彼はそのままの足で、真っ直ぐにこちらにやってくる。そしてイリスの隣に腰を落とした。
このように何も言わず自然な流れで隣に座られたことがないので、イリスは蜂蜜色の瞳を見開く。イリスが「隣に座ってもいいですか」と伺って座ることはあるが、伯爵は基本、イリスと距離を置いて座っていた。よく気紛れに足の間に座れと要求してくるが、あれは命令なので範囲外とする。
「……なんだね? 人を化け物でも見るような顔で」
「いえ、なんでも……閣下こそ、渡すものって、なんですか?」
無垢な蜂蜜色の瞳は、伯爵に両手に向いている。右手、左手。ためつすがめつ眺めるが、書類らしきものは見つからない。
「契約書じゃないんですか?」
「契約書?」
念のために聞くと、ウェンデルは思いっきり眉をしかめる。
「年明けに仕事はしないと言ったはずだが?」
イリスの唯一の推測は、呆気なく墜落させられた。
「……ですよね。すみません。それで、渡すものとは?」
「いくら観劇に夢中だったとしても、宝石商が来たことくらいは覚えているだろうね?」
唐突に質問されて驚くが、いつものことなのですぐに状況を把握して頷く。
「はい。確か、ディノス様でしたね。……あ! もしかして、愛人の方々に買ったお土産の確認ですか? でしたら喜んで!」
「君は馬鹿かね」
聞いた瞬間から傷つくくらい冷ややかな声で、イリスの即座に浮かんだ推測その二は一刀両断される。
フッと顔から表情が消えた。代わりに彼の感情を映すのは、濃いエメラルドのような藻色の瞳で、そこには不機嫌さが滲み溢れている。
女性のほとんどは宝石が好きだ。美しいものを愛でられると思って意気込んでいたイリスは、失望したような顔をする。
イリスが鈍感なのか、それとも今まで何もしなかった自分が悪いのか。心の中で舌打ちをすると、イリスの顎を掴んで強引に前を向かせる。
蜂蜜色の瞳を、深緑の瞳が射抜く。今までおさまっていた怒りが一気に爆発したような、そんな不穏さを称えた雰囲気に、イリスは狼狽した。掴まれた顎が痛い。
「ち、違うんです、か?」
なにか機嫌を損ねるようなことを言っただろうか。愛人に贈るお土産の確認をさせてくれるのか? と聞きはしたが、見せろといった覚えはない。先程の自分の発言を思い返してみても、失言と思える単語は見つからないのだ。
そういう意味でも狼狽するイリスを、ウェンデルは不機嫌さのこもった目で観察している。観察対象の瞳は確かに蜂蜜色で、ヴァルザーの選んだトパーズの石の色によく似ていた。
ヴァルザーの選んだトパーズを思い浮かべた途端、ウェンデルは不愉快な気持ちになった。他人に自分の所有物を汚されたようなムカムカした気分がまた胸に渦巻く。ヴァルザーはよく観察している。友人に対して、そんな皮肉な考えが浮かんだ。
まだ狼狽しているイリスの顎を強引に自分の元に近づけると、自分の唇を押し付ける。
「んむっ、……!?」
不愉快な気持ちをイリスに押し付けて、角度を変えて口付ける。
逃れようとする生意気な顔が離れないよう、両手で挟むように後頭部を押さえる。イリスはくぐもった声を上げて僅かな抵抗を見せたが、構わず唇を割って、舌を差し入れた。舌を噛むようなことはしなかった。彼女の性格から考えて、傷がつかないようにと良心が気遣っているのだろう。
自分自身が柔らかな唇への愛撫に夢中になっているうちに、イリス以外にこんな風に口付けたのはいつぶりだろうと考える。商売女にこのように口付けたことは一度もないし、愛人たちと舌を絡ませあうほど激しい口付けをしたのは年単位で数えるほどずっと前だ。第一、人の口に舌をねじ込むという方法を、ウェンデルは好まない。柔らかい唇を味わうのは好ましいが、他人の唾液に触れるというだけで嫌悪感がある。だが不思議なことに、いま自分の舌が愛撫する小さな舌に、嫌悪感はなかった。
仕事の上で、イリスはハッキリと自分の意見を述べる。嫌味をいうとさり気なく嫌味で返してくることもある。しかし、今だけはウェンデルに抗うことが出来ない。そうさせているのは間違いなく自分自身だが、大人しくされるがままになっているイリスも「たまにはいい」と思う自分がいる。変態的な思考があるわけではないが、大人しくしているイリスの頭を褒めるようにゆっくりと撫でてやった。
唇を離すと、イリスは力が抜けた様子で俯き加減になる。
酸欠なのか、ぼんやりしている潤んだ瞳に暗い愉悦が浮かんで自然と唇がつりあがった。
「かっ……か」
酸素を吸うために咳き込みながら、しばらくして閣下、とたどたどしく呼ぶ声に反応する。ウェンデルはイリスの唇に残った紅を舌で舐め取りながら返事をした。
「ウェンデル」
「……ウェンデル様」
いつものように注意して、それに応答すると、気だるげな動きで、イリスの手が伯爵の顔に伸びる。驚いた顔のまま先を待っていると、イリスの指は遠慮がちに、伯爵の唇に触れた。形を強く、なぞるようにゆっくりと動くと、少しだけ離れて指先を見せつける。
「口紅が……」
酸欠状態から脱しつつあるのか、幾分かハッキリとした口調でイリスはいう。
ウェンデルはしばらく時が止まったように動かなかったが、やがてイリスの指先にうっすら残る口紅のあとに目を留め、少し微笑むとその伸びた手に自分の手を重ねた。
(あ……いまの夢伯爵っぽいかも)
夢の中の伯爵。略して夢伯爵。酸欠だからこんな安易な短縮形を作ってしまったのだろうか。
イリスの視線が伯爵の微笑みに向かっていた一方で、ウェンデルは掴んだ手に視線を落としていた。指先についた紅は薄くのばされ、指先が色づいている。細く、それでいて肉付きのある女の手を見つめていると、ウェンデルはそっと手の甲に唇を押し付けた。
口付けに引き続き、まるで恋人にするような仕草にうろたえ、イリスは顔を赤くさせた。
「か、閣下っ? なんですかっ? どうしたんですか!?」
問いただすが、伯爵はなにも答えず、唇をイリスの手の甲につけたままだ。視線すらこちらにくれない。
一体、その深いエメラルドの瞳は何を考えているの? ――イリスはいまだけでいいから、読心術を使ってみたいと思った。
手を振り払うか振り払うまいか。うろたえるイリスを、上から下まで感情の読めない瞳で眺めると、ウェンデルは唇だけを吊り上げた。
「……フン」
一瞬、その笑い声を嘲笑なのかと疑ったが、よく聞くと満たされたような響きがあった。何に満たされたかわからないが、ウェンデルはイリスの手を下ろすと、掴んでいたその手でイリスの左耳に触れる。
くすぐったいのを我慢して怪訝そうな顔を作るが、その手はすぐ下ろされ、彼のポケットに突っ込まれた。しばらくして、赤い布張りの箱が出てくる。
手品の練習か、と思いジロジロ見ていると、伯爵は小箱の中を改めて、そしてなにかを摘み上げた。
指先に摘み上げられた細工物に、イリスは目を瞠る。光沢のあるすべすべとした質感を思わせる雫型の白い石をあしらった耳飾りである。少し異国的な雰囲気があった。
その耳飾りをどうするのか、と思っていると、伯爵はまたイリスの左耳に手を伸ばす。目をパチパチさせているとまた伯爵の顔――の側面――が間近にあって、さっきのことを思い出して妙にあわててしまった。
「あ、あの……閣下? ――あ、痛っ!」
突然、左耳に感じたチクリとした衝撃に、イリスは反射で悲鳴を上げた。
一体、なにが起きているのかわからない。しかし、伯爵に針で人を攻めるような嗜虐思考はないだろうから、先程の耳飾りをイリスの耳に通そうとしているのは想像に難くない。
耳朶に空けられた穴に針を通そうとしているらしいが、本人はなれていないのか、変なところに針があたって、さっきまで熱かった顔は急速に冷えていく。
「閣下! 変なところに入って……!」
「自業自得だ。大人しくしていろ。優しくするから……」
傍から聞けばかなり色っぽい話になるはずなのだが、残念ながらこの二人にそういう意味はまったくない。
体をよじって抵抗を見せていたイリスは一度黙り、伯爵に言われたとおり大人しくする。さっきは左耳だったが、痛い思いをさせたという後ろめたさからか、一旦左耳を休ませて、右耳からつけてくれる。その最中、黒髪の巻き毛が耳と頬にしきりに当たって、くすぐったかった。
右につけると、次は左だ。想像通り、伯爵の指先はイリスの左の耳朶に触れる――が、心なしか目の前にある伯爵の体に緊張が走った。
「少し、血が出たな」
ポツリと憂鬱な響きを持って呟き、状況を報告してくれる。
痛いと思っていたが、まさか血が出ていたとは……大事な神経が切れていたらと思うと、ゾッとする。もうこんなことは一回限りでお願いしたい。クラクラする頭でそんなことを考える。
恨めしげな顔で伯爵の顔を睨むと、伯爵は口の端に微笑を浮べる。それを目に留めて呆気に取られると、伯爵の顔が近づいてくる――と思えば、それは耳にそれていった。
伯爵の吐息がやけに近く聞こえた。
「か、閣下……? ……ひゃっ」
左の耳たぶに、ピタリと何かが当たる。湿り気を帯びたそれがなんなのか、と考えて、伯爵の舌なのだと思ってゾッとした。口付けに引き続き、なにを考えているのだろう。
「きゃっ……な、なに? なに!? なんなの!?」
耳朶を生ぬるいものに挟まれる。なにが起こっているのか見たくても、伯爵の髪が邪魔して見えない。いま起こっている状況がわからないという焦燥感と不安感で、心臓がドクドクと音を立てた。
挟まれた耳朶が生暖かいものの先端で撫でられる。まるで蛇の舌のような動きのそれに、イリスは動揺を隠しきれなかった。驚いたときに出そうになった鼻にかかったような声を、必死に両手で押さえつける。
蛇の舌の動きを想像して、恐らく舐められているのだと考えた。
傷口を食んで舐る。処置方法は間違っていないのだろう。自分も紙で指を切ったときは舐めて治していた覚えがある。しかし、それとは状況が違うような気がするのだ。耳など、人間の敏感な部分の一つである。
イリスはもう二十二歳の大人である上、他の貴族の令嬢のように箱に入れるように大事に育てられてきたわけではないので、男女の営みは細部まで熟知している。変な意味でしか考えられない自分に、嫌気がさした。
「も……くすぐったい、です……」
とうとう堪えきれずに弱音を漏らすと、傷口を舐めていた舌の動きが止まった。黒の巻き毛が離れていくたびに風が舞って、左耳にひんやりとした感覚が戻ってきた。
深すぎる色の瞳は何処を見ているのかわからない。けれど、なにか考えてはいるらしく、濡れた左耳をシャツの袖口で拭ってくれた。それから改めて、耳飾りをつけてくれる。さっきよりも慎重な手の動きに、「少しでも申し訳ないと思ってくれているのか」と考えたが、伯爵に似合わなくて笑いそうになってしまった。実際、笑ってしまったのだが、くすぐったいのだと勘違いしているらしく、ウェンデルはなにも言わなかった。
両耳に耳飾りをつけて、ウェンデルはその顔を見分する。
結い上げたままの麦色の髪の隙間から見える宝石は燭台の光で光沢を放っている。見分している間、イリスが気にしたように耳をいじるので、ウェンデルはその手を軽く叩いて牽制した。
「悪くはないな」
じっくりと数分かけて見分すると、ウェンデルは口の端を吊り上げて笑みをつくった。
イリスはわけがわからないというような顔をする。悪くはないとはどういう意味だろう? いまだに愛人への贈り物だと思い込んでいるイリスは、不可解な顔をして伯爵に問う。
「愛人の方々へのお土産では……?」
まだいうかと、ここまで来れば苛立ちも呆れか感嘆に変わる。満足感が胸に満ちて機嫌がいいというのもある。だからウェンデルは、怒りはしなかった。
「私がわざわざ三人それぞれに土産を選ぶような性格に見えるのかね?」
「見えませんね」
そうあっさりいわれると些か傷つきもするが、ウェンデルは苦い顔をしただけだった。代わりにイリスの頬に手を伸ばして、耳飾りに触れる。
「言っておくが、私が自ら選んで女に贈り物をしたのはベラ以外初めてだ。あっさり失くしてくれるなよ。大切に持っていろ」
「え……は?」
いま、とんでもないことを聞いたような気がする。
「閣下……それでは、この耳飾りはわたしへの贈り物のように聞こえます」
「気に入らなかったのかね?」
「え、本当にそうなんですか」
質問に質問で返すと、ウェンデルはムッとした顔を作る。そして、耳飾りから手を離すと、人差し指をイリスの眉間に押し付けた。
「うっ」
「真性の馬鹿がこうも堂に入っていると、いっそ呆れを通り越して感心する。……今日は気が向いただけだ。明日もそうとは限らない」
気紛れを起こすたびにいう言葉。彼の気紛れは山ほど見てきたが、こんな高価な気紛れを起こされたことは初めてで、イリスは動揺を隠せない。
最初から最後まで忙しなく動揺を走らせる蜂蜜色の瞳に目を落とし、唇を緩ませる。
その笑みはいつものように不遜で棘がある、皮肉なもので。
「私は大切にしろとは言ったが、使わなくてもいいとはいっていない」
船に乗ってやってきた、異国の風を感じさせる耳飾りは、思いのほかイリスの髪の色に映えた。
「毎日使っていれば失くさないだろう? 仕事の間も身につけて、失くさないように」
「はぁ。わかりました……」
イリスはまだこの耳飾りが自分のものだという実感がわかないようで、詐欺師に騙されたときのような顔でしきりに舶来品をいじっていた。
それでも一度は自分を納得させて、まだ動揺が残ってはいるが、幾分か穏やかになった蜂蜜色の瞳で真正面からウェンデルを見つめる。
「……ありがとうございます。あまり人に物を貰わないので嬉しいです。大切にしますね」
それはレオルネに指輪を貰ったときの気持ちと同じだったけれど、素直に自分の気持ちを伝えた。
イリスが自分のことで笑うのを見ると、まるで幼いころからの癖のように無意識に微笑み返してしまう。心理学などまともに勉強したことは一度もなかったが、『誰かが笑うと自分も笑う』というのは、意外に本当なのかもしれない。少なくとも、泣き顔を見るよりは笑っているほうがずっといい。そう思うのだった。
幸せそうに緩む唇を見て、先程の柔らかな感触を思い出して、顎に手をかける。そのまま顔を近づけると、蜂蜜色の目が丸くなったが――小さな口がいつもの癖で問い返す前に、扉が叩かれる。
「お夕食の準備が整いました。食堂においでください」
女の使用人の声だった。
「……チッ。空気を読め」
ボソッと呟かれた言葉が、普段の一見穏やかな雰囲気を見せる伯爵と違っていて、イリスはギョッとした。
よくヴァルザーが「変わったよなぁ」と再三伯爵に言う意味が、なんとなくわかった気がした。意外に、これが伯爵の本性なのかもしれない。
ヴァルザーの言っていた通り、本来なら伯爵はもっと喧嘩っ早いたちなのでは……と考えたとき、適当に言って使用人を追いやった伯爵がニヤリと笑う。
「悪運が強くて助かったな」
え、なにその悪役丸出しな発言? イリスは目をパチパチさせた。その間に鼻先まで近づいていた顔がスッと離れ、顎を上げていた手も離れていく。
(もしかして、いま、キスされそうだった……?)
もしかして、伯爵が顔を近づけてきたのは、また唇をあわすためではないのか――と鈍い思考で考え、胸に集まる熱で焼死しそうになる。胸の熱を鎮火させるため、イリスは「ないないない」と自分に言い聞かせるのだった。
伯爵がお預けをくらわされて、イリスがときめく回です(^q^)
結構頑張ったつもりなんですが……皆さんがどう感じられたか、聞かせてくださるとすっっごく幸せです!\(^ω^)/
多分次で第三章最終回かと思われます。
今日も題名いまいちですみません……(´Д`|||)
相変わらずじれったくてこっちが焦りました(^-^)
*補記*
作者の表記ミスで次が最終回と勘違いされた方が多いようです!本当にごめんなさい!
確かにタイトルが最終回の一歩手前みたいです……(´Д`;)
次が”三章”の最終回です!お騒がせしました(´Д`;)