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アダーシャン伯爵夫妻の日常  作者: 々 千早
Ⅲ 伯爵夫妻の日常~年明け編~
15/30

伯爵の気まぐれ

セクハラ描写あり。今日も無駄に甘ったるめです(^^)

 ――赤い幕がおりて役者の靴が見えなくなると、観客の拍手を持って芝居は本当の意味で終わりを迎えた。


 劇場から出て帰りの馬車に乗ってからも、まだ夢見心地の気分が抜けないイリスは、観劇の前にもらった小冊子を手に満足感から発した吐息をもらす。


 芝居は予想以上に素晴らしいものだった。


 好きな作家が脚本を書いているためにそう感じられたのかもしれないが、心から楽しめて、イリスは大満足だった。


 そんなイリスの機嫌を感じ取ったのか、レオルネはイリスの顔を見上げた。


「そんなによかったか?」


「はい! とても素晴らしかったです!」


 見ているこっちの心が澄み渡るような満面の笑みで、イリスは大きく頷いた。


 いつもは一定の穏やかさで話すイリスが子供のようにはしゃいでいることが伝わってきて、侯爵夫妻の表情も自然と柔らかくなってくる。


「こんなに喜んでもらえるとこっちも連れてきた甲斐がありますね」


「そうだな。また来年も行こう。……まさか、芝居に連れて行っただけでこの喜びようとはな。ウェンデルは一体、いままでどんな扱いを……」


 イリスとレオルネが芝居のことで話しこんでいるのをいいことにイザベラは怒ったように腕を組みなおし、落ち着きなく指を動かす。


「……ベラ。眉間にシワが寄っていますよ」


 手袋で覆われた指先でイザベラの眉間をなぞると表情を和らげる。しかし、完全にシワが抜けたかというと、そうでもない。


「怒らないで下さい。折角いい雰囲気なのに。怒ったあなたもとても可愛らしいのですが……」


「……三十過ぎたおばさんに可愛いとか言っても全然説得力がないぞ。恥ずかしくないのか」


「だってベラはいつでも可愛らしいですから」


「……もういい。聞くだけ無駄だったな」


 手を振って恥ずかしい話を切り上げながら、やれやれと溜息を吐く。この男はいつもこの調子だ。少しは飽きろと思う。かといって、浮気をされたらされたで複雑だが。


 イリスとレオルネが芝居のことで話し込んでいるのを聞いているうちに、馬車は別荘へと到着した。


 完全に停車したあと外に出ると、ひんやりとした空気が頬に当たる。冷たいが、アダーシャンほどではない。雪も降っていないし、ここが北の地方に位置しているとは。とても信じられない。


「イリス」


 呼ばれて振り返ると、シャーメインが扉を開けて待ってくれていた。女子供が先という、紳士らしい動作をありがたく思いながら、邸に足を踏み入れた。


 帰宅の気配を感じ取ってあらかじめ準備をしていたらしい執事が計算しつくされた完璧な角度で腰を折った。


「奥様。おかえりなさいませ」


「ただいまかえりました」


「お夕食の準備は整っております。お着替えが済んだら使用人に一言おかけください。すぐに支度が出来ますので」


「ありがとうございます」


 ぬかりなく準備していたらしい執事に微笑を返し、イリスは階段を上がって自室へ戻った。


 なるべく早く帰ったつもりだが、劇場を出たのが七時半頃だったから、伯爵たちはすでに食事を済ませてしまったかもしれない。


 案の定、部屋の中には長椅子でくつろぐ伯爵がいた。


 食後のデザートだろうか。テーブルには何故か、山ほど盛られた苺の皿がある。


「……ただいまかえりました」


 伯爵の美貌とあまりにも不釣合いな可愛らしい食べ物に、思わず脱力しきった声が出た。


 苺のヘタを丁寧に取り除いた伯爵は、やっとイリスに視線を流す。


 わたしの価値は苺のヘタ以下か。と自嘲しながら、入り口付近で脱いだケープを長椅子に置く。


 帽子を取ろうとしたところで、伯爵はようやく口をきいた。


「遅い」


 開口一番それか、とまずは呆れるだけにしておく。


「すみません。……なにか問題でもありましたか? ないなら着替えてもいいでしょうか?」


 ややあって、「ああ」と答えが返ってくる。


 寝室に入り、衝立の裏に回ったところで、イリスは溜息を吐いた。


 さっきまで芝居のことで浮かれていたことが、ずっと遠くに感じられる。夢見心地の気分は、伯爵の顔を見た瞬間に抜けてしまっていた。彼の顔は夢のような造作をしているというのに、何故だろう。


 考えていても仕方ないか、と思いながら、手袋と指輪を外して置き、背中の釦を外して服を脱いでいく。着るときは手伝いが必要だが、脱ぐときは簡単だ。釦を引っ張りすぎて布を傷めないようにだけ気をつけて、慎重に脱いでいく。


 髪を解してブラシで梳き、さっき使用人に用意してもらった水を吸ったタオルで顔をぬぐっていき、化粧を落とす。白粉と口紅だけで、おまけに薄くしかしていないので、すぐに落ちてしまった。あとは普段着として使っているブラウスを着てスカートをはくだけだ。


 胸元でリボンを結ぼうと鏡台と睨めっこしていると、ふとさっき外した指輪のことを思い出した。

 レオルネからもらったトパーズの指輪は依然として変わらず、イリスの瞳と同じ輝きを放っている。


(……。……仕事をしているときはつけられないけど、別荘にいる間だけなら……)


 リボンを結び終えたその手で指輪を取り、右の薬指にはめる。右の薬指は光沢を放ち、少しだけ幸せな気分にしてくれた。


 指輪をはめたまま部屋を出ると、扉を開ける音を気にして伯爵がこちらを向いた。機嫌を敏感に読み取った伯爵は苺のヘタを取るのをやめ、濡れた布巾で指先を拭いつつ、イリスに問う。


「芝居は楽しかったかね?」


「はい。とても素晴らしかったです」


「そうか」


 それ以上は深く掘り下げずに、伯爵は本に目を落とす。すべてヘタを取り終えた苺を食べながら、優雅に組んだ足に本を置いている。


 主人は読書中なのでなにもすることがない。使用人に食事の準備をしてもらうよう頼みに行こうとしたとき、伯爵のティーカップが空になっていることに気付いて足を止める。


「空ですけど、淹れましょうか?」


 尋ねると、本に集中していた伯爵は「ああ」と視線をこちらにやらないまま生返事をする。


 ティーポットカバーにより寒風から守られたポットはまだ熱く、中身はまだ湯気を立てていた。


 水音が聞こえてふと目を上げたとき、イリスの手に指輪がはまっていることに気付く。銀の輪に小粒のトパーズがはまっているだけの簡素な意匠の指輪だったが、仕事の邪魔になるからといって自身を飾り立てないイリスには珍しい。


「その指輪はどうした?」


「え……? あ、これですか? レオルネ様にいただきました」


 指摘されて薬指に目を落とし、イリスは心なしか嬉しそうにする。


 穏やかな笑顔を見せたイリスに、思わず左右の眉が寄る。素っ気なく「そうか」といって読書を再開すればいいだけの話なのに、昼にレオルネと共にいたときに感じた不愉快さが再発した。イリスの幸福感で満たされた顔と、自分の不愉快そうな顔は対照的だろう。


 喉の熱さを冷ますように、酸素を取り込む。心ない言葉が漏れてしまったのは、自制がきかなかったのだから仕方がない。


「小さい子にねだったのかね。そんなに貧窮しているとは聞いていなかったが?」


「……え」


 幸福そうな笑顔が凍りつき、呆然としたところでイリスの目に動揺が走る。


 思ったよりも冷たい言葉と声に、イリスの浮き足立った心は急速に萎んでいった。


「……。……そう思われても仕方がないのはわかりますけど」


 嫌味にはなれているけれど、今の言葉は少し傷ついた。気のせいかもしれないが、さっきの伯爵の言葉には、イリスのみならず贈り主のレオルネにまで悪意を感じる響きがあった。


(さすがは侯爵の息子だな。余計なことをしてくれる)


 可愛い甥にムカムカしながら心の中で唸る。レオルネの行動を大体予想しながら、ウェンデルは不愉快そうにイリスの手を見つめた。


 指輪がはめられているのは右の薬指。左手の薬指にはめていないのは、ただ単に考えが回らなかったからか、一応既婚者としての誠実さを持ち合わせていたからか。


 指輪を見つめれば見つめるほど不愉快になってきて、ウェンデルは指輪をした手をとった。


「閣下?」


 不思議そうに問いかける声を無視して右手を取ると、指輪を取り外す。


 怒りに任せて叩きつけてやろうかと思ったが、そうするとイリスが泣き出しそうな気がしたのでやめた。彼女が泣いているところは一度しか見たことがないが、そのときに感じたやりきれなさをもう一度感じたいとは思わなかった。


 当然ながら、自分のものよりも細い薬指に唇を押し付ける。何度か触れると、昨晩と同じように大きな瞳が揺れた。


「え? ……え?」


 ウェンデルの謎の行動に頭が上手く回らない。


 頭の動きを正常なものに戻そうとしているうちに、腰に腕が回って引き寄せられる。呆然としていたイリスは抵抗するも虚しく、伯爵に引き寄せられた。


 腰に回っていた手が徐々に上に上がり、背中を撫でて力を抜けさせていく。「屈むように」という含みを持った手つきで促され、背中を前に曲げると、美しい顔が近づいた。


 こんなに美しい顔だ。間近で目を合わせれば、誰だって困るのではないだろうか。


「……。……んむ」


 昨日のように唇を押し付けられて、肩が跳ね上がる。反射的に仰け反ろうとすると腰に回っていた手が一変して腰を掴むに変わる。


 唇の押し付け方は昨日と変わらなかったが、口付けの形式は違っていた。昨日の触れ合うだけのものではなく、唇を食べるように(つい)ばんでくる。


 口唇(こうしん)を甘噛みされるたびに力が抜けていき、微かに開いた口から淵をゆっくりと撫でた舌は、微かに苺の甘い味がした。


(……て、学生でもあるまいし!)


 口付けが果物の味、だなんて非常に文学的なことを考えた自分を、慌てて叱りつける。なにを馬鹿なことを考えているのだろう。


 口付けが終わったのとほぼ同時に落胆の溜息を吐いたとき――脇腹を撫でられ、何の準備もしていなかったイリスはビクリと大袈裟に反応した。


「やぁっ……」


 無意識に出した声に、イリスは顔を真っ赤にして両手で口を覆った。


 恐る恐る伯爵を窺うと、唇を吊り上げて笑っていた。いつもと変わらぬ笑みのはずなのに意地悪く見えてくる。


 悪魔だ。


(こ、これはまずい……)


 自分に分が悪いとわかりなんとか距離を取ろうとするが、腰を掴まれているため、彼から逃れるのは容易ではない。


 自分がみっともなくもがいている間も脇腹から腰を往復する手は止まらない。


 これって猥褻罪(わいせつざい)になるんじゃ…と冷静に考えたところで、また脇腹を撫でられて顔が熱くなり、自分の貞操が危ないと悟ったイリスはどもりながら叫ぶ。


「ウェ、ウェンデル様!」


 腰のくびれを撫でる手にゾワゾワしたものを感じながら、震える声を張り上げる。


 注意するのではなく、珍しくイリスの口から自分の名前が出てきて思わず手が止まった。


 暗い色の目と目が合い、イリスは顔を真っ赤にして、慌てて口を動かした。


「こ、こういうのは……困ります!」


「何故? 君は私の妻だろう。私とこういうことをするのに何の問題もない」


 悪魔のような甘美な笑みを浮べて首を傾ける伯爵。この微笑みがイリスにだけ向けられているのが勿体無くて仕方がない。間違いなく、お金を取れる笑みだ。もし彼が男娼だったら、一晩でいくら稼げたのだろうか、と現実逃避よろしく考えてしまう。


 伯爵の言い分はもっともであり、イリスはまたもどもってしまう。困窮したイリスを見てさらに笑みを深くし、また腰のくびれを撫でるのを再開されたそのとき、


「秘書の仕事にそういうのは入ってません! 閣下の前で署名した契約書にそんなことは書いてありませんでした!」


 ピタリと脇腹をなぞっていた指が止まる。とどめに「商連に訴えますよ!」と精一杯の虚勢を張り上げて喚くイリスを、ウェンデルは呆れた目で見上げた。


 呆れ果てた伯爵は、渋々といった風に手の動きを止めて腰を掴むだけにする。いま、イリスに秘書を辞められるのは打撃だ。


 困っているイリスを見ているのが面白かった伯爵は、当然不機嫌になる。果敢(かかん)にも睨みつけながら真一文字に引き結ばれたイリスの唇を見て膝に頬杖をつくと「生意気な唇だな」とウェンデルは心の中でぼやく。


 脇腹をなぞる不埒な手つきが止まってホッとしたところで、イリスは常々思っていたことを早口にまくし立てた。


「閣下は昨日から変です。秘書にまで手を出すなんて……何かあったんですか?」


「………」


 返答はない。


「……今晩は近くの高級娼館を予約しておきます。今日はそこにいって普通に性欲処理を……んぐ」


 昨日に引き続きやたらと『娼館』を進めてくる生意気な唇に、皿から取った苺を押し付ける。そのまま唇を割って、強引に苺をねじこんだ。


 苺をねじ込まれて、イリスの小さな口は一杯になり、言葉を続けることが出来なくなる。吐き出してしまうのはあまりにも勿体無いし、さすがに汚いので断念し、イリスは口を動かした。苺を噛み砕いた瞬間、悔しそうに眉を曲げる。


(ううっ、悔しい……)


 さすがは伯爵の口にはいる苺だ。めちゃくちゃ美味しい。いまが旬ではないにもかかわらず、甘い。

 何も言わなかったが顔だけは悔しそうにして咀嚼しているのを見て、ウェンデルは口角を上げて笑った。


「……やっぱり、閣下は変ですわ」


「変?」


 問い返すと、イリスは力強く頷く。


(……変か)


 確かにそうなのかもしれない。


 熱で朦朧としていたようなので、一年前は数に入れないとしても、自分からイリスに口付けたことはないような気がする。


 自分でもどんな心境の変化があったのかわからないが、突然、イリスに構いだした自分は確かに変だ。


「……気が向いたら構ってやる。結婚前、私はそういわなかったか?」


「……それは……」


 もっともらしい言葉を探して口にすると、イリスは困惑したようにまた瞳を揺らす。

 聞き覚えがあった。たしか、一年前に似たような言葉を言っていたような気がする。

 あのとき、どんな話をしていただろうか……と、詳細を思い出そうと唸っていると、髪を撫でられる。気付くと、いつの間にか伯爵が目の前に立っていた。


「なんでもいいから、さっさと食事を済ませてきたまえ」


 伯爵にそう指摘されたとき、キューと胃が控えめな音を立てた。


 伯爵の言葉に従って食事をとりに部屋を出て行ったイリスの足音が完全に聞こえなくなるまで待つと、ウェンデルはベルを鳴らして使用人を呼んだ。


 その使用人にさらに執事を呼ばせにいくと、エドウィンよりも真面目そうな堅物の執事がやってくる。


「閣下。なにか御用でしょうか?」


「用がなければ呼んでいない」


 本心を隠しもせずにいうと、ウェンデルはそのままの勢いで口を動かす。


「明日、宝石商をここへ」


「は……は? 宝石商、ですか?」


 迂闊(うかつ)に返事をしそうになった執事は、伯爵に似合わない単語が聞こえて思わず問い返した。


 だが彼は優秀な男だった。主人に対して深く追及せず、疑問は残ったもののしっかりと「はい。かしこまりました」と頷いたのだった。

イリスを見ていると主人公の悪運の強さを感じてしまいます笑


年明け編はあと二、三話は続く予定です。それまでよろしくお願いしますm(_ _)m

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